生きた仏教
Living Dhamma

実 践
アチャン・チャー(Ajhan Chah)










hosi
☆書籍化されました  


 
ここにお集まりになった善を求める皆さん、心を落ち着けて法話を聞いてください。「心を落ち着けて法話を聞く」ということは、法話に集中して注意深く聞き、それから実践するということです。法話を聞くことには、大きな徳があります。法話を聞いているあいだ、心も身体も統一する(samaadhi)ようにしてください。というのも、法話を聞くことは一つの仏教の実践だからです。お釈迦様の時代、人々は正しい見解(正見)が得られるよう、法話を一心に聞きました。実際、法話を聞いているあいだに覚りを開いた人もいます。

 この場所は、瞑想するのによく適しています。数日間こちらに滞在しましたが、ここは大切な場所だということがわかりました。外はすでに静かです。あとは内、つまり皆さんの心です。ですから、これからよく注意して法話を聞いてください。


 皆さんは異なる場所で、異なる先生から、異なる瞑想方法を教わっています。こちらにいらっしゃったということは、瞑想に関して非常に混乱しているのだと思いますし、いろんな疑いに悩まされているのだと思います。ある先生は、この方法で瞑想しなさいと言い、別の先生は、別の方法で瞑想すべきだと言います。皆さんは、どの方法を実践すべきかと迷うでしょう。結果として、自信をもって実践することができなくなります。それで、混乱するのです。非常に多くの先生と、非常に多くの実践に関する教えがあり、そのせいで誰も落ち着いて実践することができません。その結果、疑いと不確かさでいっぱいになるのです。
 ですから、皆さんはあまり考えないでください。考えるときは、気づきをもってください。これまで皆さんが考えるときには、気づきがありませんでした。
 そこで、まず心を落ち着かせます。落ち着いて観察しているとき、考える必要はありません。観察していると、気づきが現れます。この気づきが、智慧(pañña)になるのです。
 他方、考えることは智慧ではありません。考えるということは、心が当てもなく、何も知らずに、とりとめもなく回転しているということです。当然の結果、心は混乱します。考えることは、智慧ではないのです。
 こちらでは考える必要はありません。皆さんはご自宅でいろんなことを限りなく考えていますね。考えることは、心をかき乱すだけです。気づきを、少しでも持つようにしてください。考えること、とくに異常な妄想は、涙をもたらすこともあります。思考の渦に嵌まり込むことは、真理への道ではありません。思考は、智慧ではないのです。お釈迦様はこの上ない智慧のあるお方で、思考を止める方法を修得していました。同様に、皆さんも思考を止めて、心が落ち着くよう、こちらで実践しています。考える必要のない落ち着きがあるなら、智慧はその場で現れるでしょう。

 瞑想するにあたって、「今は心を訓練するときである」と決意する以外、何も考える必要はありません。心を右や左、前や後ろ、上や下などあちこちに飛ばさないようにしてください。皆さんが今やるべきことはただ一つ、呼吸に気づくだけです。
 まず、頭部に気づきます。それから身体、足の先へと下がっていきます。今度は、逆方向に足の先から頭のてっぺんまで戻ります。智慧をもって観察しながら、身体に気づいてください。このようにするのは、始めに、身体を認識するためです。
 それから、瞑想を始めます。このときすべきことは、息が出たり入ったりすることを観察するだけです。それ以外は何もありません。呼吸を、通常の呼吸よりもわざと長くしたり短くしたりせず、楽に呼吸をしてください。緊張するのではなく、むしろ息を吸って吐く、その一つ一つを静かに流れさせるのです。

 呼吸を観察しているとき、「手放している」と理解することが大切です。また、気づきもしっかり保つべきです。気づきを保ちながら、自然に息を入らせ、心地よく出て行かせます。強引に呼吸をする必要はありません。リラックスして、自然に流れさせるようにしてください。このとき「呼吸に気づく以外、すべきことや義務、責任などは何もない」と決意を持ってください。瞑想中、これから何が起こるのだろうかとか、何を知るのだろうかとか、何が見えるのだろうかなど、いろんな考えが浮かんでくるかもしれません。そのときは、ただそれに気づき、手放してください。思考に執着しないことが大切です。

 瞑想中、感覚の対象に注目する必要はありません。私たちの眼耳鼻舌身意が外の対象(色声香味触法)に触れるときはいつでも、また、心に感情や感覚が生まれるときはいつでも、ただそれらを手放すようにします。感覚がいいものかいやなものかということは重要ではありません。感覚から諸々の感情を生じさせる必要はなく、ただ感覚に気づいて手放し、気づきを呼吸に戻すのです。そして、息が出たり入ったりすることに気づきます。呼吸をわざと浅くしたり深くしたりして、苦しみをつくらないように。わずかでも呼吸をコントロールしたり抑圧しようとせず、ただ呼吸を観察するのです。言い換えれば、執着しないということです。呼吸を自然に流れさせ、観察してください。そうすれば、心は落ち着くでしょう。観察を続けるにつれ、心はしだいに現象を手放し、落ち着いていくでしょう。呼吸はだんだん軽くなり、呼吸がまったくないかのようになるまで微細になるでしょう。身体も心も軽くなり、活性化します。残るものは、対象にたいする気づきだけです。心は善い方向に変化し、平穏になるでしょう。

 心が混乱したとき、呼吸に気づきながら、もうこれ以上吸えないというところまで息を深く吸い、それから、これ以上吐くことができないというところまで息を完全に吐いてください。もう一度、いっぱいになるまで息を深く吸い、それから吐き切ってください。これを二、三回おこない、集中力を取り戻します。心は、より落ち着くでしょう。もし、また別の感情が生じてきて、それが心をかき乱すなら、そのたびにこのプロセスをくり返してください。
 歩く瞑想のときも同じです。歩いているとき、心が感情で混乱したら、いちど立ち止まり、心を落ち着かせ、瞑想の対象(歩くこと)に気づきを集中させ、そして歩く瞑想を続けるのです。
 坐る瞑想も歩く瞑想も、本質的には同じです。異なるのは、身体の姿勢だけなのです。

 ときどき迷いが生じるかもしれませんが、そのときはその迷いに気づいてください。知っている人とは、心がどこへ行こうとも常に心の動きを見続け、観察し続ける人のことです。これが、気づいているということです。
 気づきは心を見張り、管理します。私たちは、どんな状況でも、心の動きを見続けなければなりません。不注意にならないよう、そしてあれこれ妄想しないようにしなければならないのです。
 心を制御して管理する「気づき」を持つことが大切です。気づきによって、いったん心が落ち着き、統一されたなら、別のレベルの認識が現れるでしょう。落ち着きを育てた心は、落ち着きによって制御されています。これは、ちょうどニワトリを小屋で飼うようなものです。小屋の中のニワトリは、外を走るまわることはできません。小屋の中で歩くことはできますが、小屋の中で行ったり来たりしても、小屋は制限されていますから問題は起こりません。
 これと同様に、気づきがあり、落ち着いているときに生じる認識は、問題を起こしません。心が落ち着いているなら、思考や感覚が生じても、それらは害や混乱を起こさないのです。
 ときどき、思考や感情をいっさい経験したがらない人もいますが、これはあまりにも非現実的なことです。心が落ち着いているとき、諸々の感情が現れるのが見えるでしょう。心は、何にも妨げられることなく、感情と落ち着きの両方を同時に経験するのです。でも、心は落ち着いていますから、感情が生じても悪い結果にはなりません。
 問題が起こるのは、ニワトリが小屋から出たときです。(心が落ち着きを失ったときです)。たとえば、息が出たり入ったりするのを観察しているとき、ふと気づきを忘れてしまい、心が基本の観察対象の呼吸から離れてしまうことがあります。頭のなかで心がどこかのお店へ行ったり、いろいろな場所へ行ってしまうかもしれないのです。それで「今、本当は瞑想していたはずだ」と気づくのに、三十分も経っているかもしれません。そして「気づきがなかった」と自分を責めるのです。
 これは、いちばん気をつけなければならないところです。ニワトリが小屋から出るときです。——心は落ち着きの基盤から離れてしまうのです。
 気づきをもって心を観察し続けるよう気をつけ、心が観察の対象から離れたときには、心を引き戻すようにしなければなりません。いま私は「心を引き戻す」と言いましたが、実際、心はどこにも行っていません。認識の対象が変わっただけです。心を「今ここ」に留めておくことが大切です。気づきがあるなら、心は「今ここ」に留まるでしょう。「心を引き戻す」と思われますが、心はどこかへ行ったわけではなく、ただ少し変化しているだけです。心はあちこちにさまよったかのようですが、実際、変化は一つの場所で起こっています。気づきを取り戻したら、その瞬間、心は物理的にどこから移動するわけでもなく、「今ここ」に戻るでしょう。
 完全に知っているとき、つまり瞬間瞬間途切れることなく継続的に気づいているとき、心は落ち着きます。でも、心が他のことにさまよってしまったら、気づきは崩れています。呼吸に気づいているときは常に、心は呼吸にいます。途切れることなく継続して気づくことで、心は落ち着くのです。
 そこにはsati(サティ)とsampajanna(サンパジャンナ)があるはずです。sati は「気づき」で、
sampajanna は「明確に理解すること」です。いま皆さんは明確に呼吸に気づいています。呼吸を観察することによって、「気づき」と「明確な理解」がいっしょに育つのです。
 「気づき」と「明確な理解」はそれぞれ仕事をします。この両方があるということは、二人の労働者がいっしょに働くようなものです。たとえば二人の労働者が、分厚くて大きな木の板を持ち上げているとしましょう。でも、あまりにも重すぎて、もうこらえきれない状態です。そのとき、その様子を見ていた親切な人が、さっと二人を助けるのです。
 「気づき」と「明確な理解」の二つがいっしょに働いているとき、そこに「智慧」(panna)が現れます。そして「気づき」と「明確な理解」と「智慧」は、互いに支え合うのです。

 智慧は、感覚の対象を次のように理解します。瞑想中、感情や気分を引き起こす感覚の対象がいろいろ現れてくるでしょう。たとえば、友だちのことを考え始めるかもしれません。そのとき、智慧は「関係ない」「やめよう」「気にしない」と、すぐその思考に対処します。また、「明日どこへ行こうか」などの考えが浮かんだときには、智慧は「そんなことはどうでもいい、関心がない」と反応するでしょう。あるいは、他人のことを考え始めるかもしれません。そのときは「そんなものに引き込まれたくない、やめよう。すべてのものは一時的で、確実ではない」と反応するでしょう。これが瞑想中、もろもろの現象に対処すべき方法です。
 智慧を使って現象を「一時的である、確実なものではない」と理解すること、そしてこの理解を持ち続けることで、現象に対処するのです。 

 考えること、頭のなかでおしゃべりすること、迷うことを、完全にやめなければなりません。瞑想中、こうしたことに巻き込まれてはなりません。最終的に心に最も純粋に残すべきものは、「気づき」と「明確な理解」と「智慧」のみです。これらが弱くなると迷いが生じますが、迷いはすぐに捨てるようにし、これらだけを残すようにするのです。

 そこで、途切れることなく気づくことができるようになるまで、気づきを育ててください。そうすれば、気づき(sati)と明確な理解(sampajanna)、落ち着き(samaadhi)、智慧(panna)が完全に理解できるでしょう。
 「今ここ」に注目することによって、気づき・明確な理解・落ち着き・智慧がいっしょに理解できるでしょう。私たちが外の対象に執着するか、あるいは反発するかにかかわらず、現象を「一時的なもの」として見ることができます。執着も反発も、取り除くべき煩悩です。取り除いたとき、心は清らかになるでしょう。
 残すべきものは、気づき(sati) と明確な理解(sampajanna)、しっかりとした落ち着き(samaadhi)、そして完璧なる智慧(panna)のみなのです。
 今のところ、瞑想に関する話はこのくらいにしておきたいと思います。

 さて、瞑想実践を助けるものとして、心に慈しみ(metta)があるべきです。慈しみは、言い換えれば、寛大さ(施し)や、やさしさ、思いやりのことです。これらは心の清らかさの基盤としてずっと保たなければならないものです。
 たとえば、施すことによって貪欲(loba)を捨てることから始めます。貪欲な人は、幸福ではありません。貪欲は不満を引き起こします。でも私たちは、貪欲がいかに自分に悪い影響を与えるかということに気づかずに、ものすごく貪欲でいる傾向があります。
 不満は、お腹がすいているときなど、いつでも経験することができます。
 仮に、リンゴをいくつか持っていて、そばに友だちがいるとしましょう。そこで、少し考えます。友だちにリンゴを分けてあげようと思いますが、小さいほうをあげようと考えています。大きいほうをあげるのは、うーん、もったいない……。まっすぐ考えるのがむずかしくなっています。それで友だちに「一つどうぞ」と言いますが、その後すぐ「はい、これどうぞ」と言って、小さいほうをあげるのです!
 これは貪欲の一つの形です。人はたいていこのことに気づいていません。皆さんはこのような経験があるでしょうか? 

 与えるとき、自分の気持ち(大きいほうをあげたくないという気持ち)に逆らうようにしなければなりません。たとえ小さいほうをあげたいと思っても、強引に大きいほうをあげるようにしなければならないのです。もちろん、いったん大きいほうをあげたなら、喜びを感じるでしょう。
 このように自分の感情に逆らって心を育てるには、自己管理が必要です。――「与え方」と「あきらめ方」を理解し、貪欲に囚われないことが大切なのです。
 与え方を学んだにもかかわらず、それでも「どっちのリンゴをあげようか」と迷ってしまったら、その迷っているあいだ、心は混乱します。迷った末、たとえ大きいほうをあげたとしても、あげた後に少し未練が残るでしょう。
 そうではなく、はっきり決めて、すぐに大きいリンゴをあげるなら、行為はさっと終わります。これは「少ししかあげない」ことに正しく対処する方法なのです。

 このように実践することで、皆さんはご自分を上手に管理したことになりますし、もし実践しないなら、自分の被害者になり、貪欲が続くでしょう。私たちは誰でも、これまでずっと貪欲でした。貪欲は、取り除くべき煩悩です。パーリ語で「与えること」を「daanaダーナ」と言います。意味は「他者に幸福をもたらす」です。「与えること」は、煩悩の汚れから心を清らかにする一つの必要条件です。このことを観察して、「与えること」を実践し、育ててください。

 このように実践することは、自分を苦しめていることではないか、と思うかもしれません。でも、そうではありません。実際には、欲望や煩悩を追い詰めているのです。
 煩悩が生じたとき、私たちは煩悩に対処するために、何かしなければなりません。煩悩はノラネコのようなものです。もしノラネコが欲しがるだけエサをあげるなら、ノラネコはいつでも家のまわりをうろつき、エサを欲しがるでしょう。でも、エサをあげるのをやめると、数日後にはエサをもらいに来るのをやめるのです。
 煩悩も同じです。煩悩にエサをあげなければ、煩悩は邪魔しませんし、心を静かなままにしておくでしょう。ですから煩悩を怖がるよりはむしろ、煩悩にあなたを怖がらせるようにしてください。そうするには、心で真理を観ていなければならないのです。

 真理はどこで現れるのでしょうか? 真理は「気づき」と「理解」があるとき、このように現れます。
 真理は、誰でも知り、理解することができます。真理を観るために多くの勉強をする必要はありません。本の中に見つけられるものでもないのです。ただ、「今」を観るだけです。「今」を観るなら、私が話していることの意味が理解できるでしょう。
 誰でも真理を観ることができます。なぜなら、真理は私たちの心にあるのだから。どんな人にも煩悩があります。そうではないでしょうか? 煩悩を観ることができれば、そのとき理解できるでしょう。
 これまで皆さんは煩悩を大事にかわいがり、煩悩の好きなようにさせてきました。でも、これからは煩悩に気づき、煩悩が生まれないようにし、煩悩に邪魔されないようにしなければなりません。

さて、実践の次の要素は、戒律(s]la)です。親が子供の面倒を見るのと同じように、戒律は実践を見守り、育てます。戒律を守るということは、生き物を害さないということだけでなく、生き物を助け、励ますことでもあります。少なくとも、次の五つだけは守るべきでしょう。

1.生き物を殺したり故意に害さないだけでなく、すべての生き物を慈しむこと。

2.正直になり、他者の権利を侵害しないこと。つまり、盗まないこと。

3.性的関係において節度を知ること。

 家庭では夫婦を基本にした家族構成があります。自分の妻/夫は誰かということを知り、節度を知って、性行為において適切な範囲を知ることです。皆さんのなかには限度を知らない人もいます。一人の妻/夫だけでは満足できず、二人、三人と関係を持つのです。私に言わせれば、一人の配偶者さえともうまくつきあえないのに、相手を二人、三人も持つということは、ただ愚かとしか言いようがありません。
 心を清らかにし、訓練して、節度を知らなければなりません。節度を知るということは、純粋で清らかであるということですし、反対に節度を知らなければ、あなたの行為はとどまるところを知らないでしょう。
 たとえば、おいしいものを食べるときは、味にあまり執着しすぎずに、自分の身体を考えて、身体に必要なのはどのくらいの量かということを考えるべきです。食べ過ぎれば問題を起こすでしょうから、適度な量を知ることが大切なのです。
 適度ということが一番です。相手は一人で十分です。二人、三人と関係を持つことは「適度を知らない」ということであり、これはさまざまな問題を引き起こすでしょう。

4.正直に話すこと。
 これも煩悩を取り除くための一つの条件です。正直で誠実、真実を語り、まっすぐであることが大切です。

5.人を酔わせるもの(酒や麻薬など)をとらないこと。 
 自制を知り、できれば完全にやめなければなりません。私たちはすでに自分の家族、親戚、友人、モノ、財産などあらゆるものに十分酔って、依存しています。わざわざ酔わせるものをとって悪化させなくても、すでに十分酔っているのです。酔わせるものは、私たちの心に暗闇をつくります。ですから、酔わせるものを多量にとっている人は、その量を徐々に減らしていき、最終的には完全にやめなければなりません。

 もしかすると、私の言い方がきついかもしれません。でも、それは皆さんの幸福を心配する気持ちからであり、そのようにきつく言えば、皆さんはどちらが善いことか、が理解できると思います。 
 何が正しいことか、を知る必要があります。日常生活においてあなたを苦しめているものは何でしょうか? 苦しみを引き起こしている行為は何でしょうか? 善い行為は善い結果をもたらし、悪い行為は悪い結果をもたらします。行為が、原因なのです。

 戒律が清らかになると、他の生命にたいしてやさしくなり、正直になります。これによって悩みや後悔から解放され、充実感が得られるのです。そこには攻撃的で害のある行為が引き起こす後悔はありません。これは幸福の一種で、天界にいるような状態です。やすらぎがあります。戒律を守ることがもたらす幸福とともに、食べるときも寝るときも、やすらかです。この「やすらかさ」が結果で、その原因は「戒律を守ること」です。戒律を守ることが、真理の実践の基本なのです。――悪行為をやめること。これによって幸福が現れます。戒律を守り、保つなら、悪が消え、そこに善が現れるでしょう。これが正しい実践の結果なのです。

 しかし、これで話は終わりません。私たちはいったんいくらかの幸福に達すると、不注意になり、それ以上実践しなくなる傾向があります。幸福に引っかかってしまうのです。それ以上進歩しようとせず、天界にいるような幸福の状態を好みます。それは心地よいでしょうが、そこには真の理解はありません。
 幸福に騙されないよう、くり返し観察を続けることが大切です。何を観察するのかと言いますと、幸福のマイナス面を何度もくり返し観察するのです。幸福は一時的なものであり、永遠に続くものではありません。まもなく幸福から離されるでしょう。幸福は確実なものではなく、消えてしまいます。幸福が消えたら、そこに苦しみが生じ、また涙が出るでしょう。天界にいる神々でさえ、幸福が消えたときには涙を流し、苦しみを味わうことになるのです。
 そこでお釈迦様は私たちに「幸福のマイナス面」、いわゆる「幸福は不完全なものである」という側面を観察するようにと教えられました。
 私たちはこの種の幸福を味わうと、たいてい幸福を正しく理解することができません。真に確実で永続する幸福は、この当てにならない見せかけの幸福に覆い隠されているのです。見せかけの幸福は、確かなものではありませんし、永続する穏やかさではありません。むしろ煩悩です。人が執着する洗練された煩悩の一種なのです。
 誰でも幸福が好きです。幸福は、何かが好き、ということから生じます。しかし「好き」が「嫌い」に変わるやいなや、苦しみが生じます。ですから、私たちは「幸福は一時的なもので、限界がある」ということを観察しなければならないのです。
 現象が変化すると、苦しみが現れます。この苦しみも、永続するものではありません。苦しみは絶対に変わらないもの、などと思わないでください。
 このことを「adinaavakathaa」〔アディナーワカター〕と言います。意味は、条件づけられて成り立っている世の中は不完全で限界がある、と観ることです。つまり、幸福なとき、それをそのまま受け入れるのではなく、幸福を観察するのです。「幸福は永遠に続くものではない」ということをよく観察し、幸福に執着すべきではありません。幸福は手に入れるべきものですが、幸福の善いところと悪いところの両方を理解して、その後、手放すべきなのです。
 智慧を使って巧みに瞑想するには、幸福の別の側面であるマイナス面を観察しなければなりません。そこで、このように観察してください。幸福が現れたとき、幸福のマイナス面(不完全性)が明確になるまで徹底的に観察するのです。
 ものごとは苦(不完全)である、ということを理解すると、心はnekkhammakathaa〔ネッカンマカター〕(放棄・離れること)を理解するでしょう。心は平静になり、苦を解決する道を求めるようになります。平静さは、ものごとをありのままに見、ありのままに味わい、好きや嫌いということをありのままに見ることなどから生じます。平静さとは、ものごとにもはや執着したり固執したりする欲望がないということです。心には執着がありません。執着のない平静な落ち着きで、ものごとを観察します。そうすることによって、私たちは楽に生きることができるのです。これが実践から生じるやすらぎなのです。   

 (この章終わり)

Living Dhamma by Venerable Ajahn Chah
Copyright ©1992 The Sangha, Bung Wai Forest Monastery.
For free distribution only. The Abbot, Wat Pah Nanachat, Bahn Bung Wai Warinchamrab, Ubol Rajathani 34310, Thailand. First Impression 1992. Transcribed from the print edition in 1994 by David Savage under the auspices of the DharmaNet Dharma Book Transcription Project, with the kind permission of the copyright holder.


出村佳子 訳







sabbe satta bhavantu sukhitatta

 

©yoshiko.demura