生きた仏教の教え
Living Dhamma

静止しつつ流れつづける水

アチャン・チャー











 心をあちこちにさ迷わせることなく、注意深く耳を傾けてください。今ひとりで、どこか山の上か森の中で座っているかのように感じてみてください。今ここで座っているとき、何を持っているでしょうか? 心と身体、この二つだけです。今ここに座っているこの物体に含まれるものはすべて、「身体」と呼ばれます。そして、今まさにこの瞬間に認識したり考えたりしているものが「心」なのです。この心と身体は、名(nāma)・色(ruupa)とも呼ばれます。「名」(nāma)とは「色」(ruupa)ではないもの、つまり物体ではないもののことです。思考や感覚のすべて、いわゆる受(感受作用)・想(表象作用)・行(意志作用)・識(認識作用)の四つの集まりが「名」であり、これら四つにはどれも形がありません。たとえば目で形を見るとき、形は「色」と呼ばれ、認識することは「名」と呼ばれます。この二つを合わせて、名色(nāma・ruupa)または心と身体と呼ばれるのです。
     
今ここで座っているものは心と身体のみである、ということを理解してください。でも、私たちはこの二つをごちゃ混ぜにしています。「心の落ち着き」を望むなら、心と身体の真理を知る必要があります。今の私たちの心は、まだ育てられていません。汚れていますし、明晰ではありませんし、清らかではありません。この心を、瞑想を実践することによって育てていかなければならないのです。
   
瞑想をする人の中には、瞑想とはある特別な姿勢で坐ることだと考えている人もいるようですが、実際のところ、立つ・坐る・歩く・横になることのすべてが、瞑想実践の姿勢になります。私たちはいつでも瞑想できるということです。サマーディ(samādhi)とは仏教用語で「定」といい、意味は「しっかりと定まった心」です。サマーディを育てるために、心を押さえ込む必要はありません。ときどき、何にも邪魔されないようにして静かに坐ることによってサマーディを得ようとする人もいますが、それは死んでいるのも同然です。サマーディは、智慧と理解力を育てるための実践なのです。

サマーディとは、心がしっかりと一点に定まっていることです。どの点に定まっているのでしょうか? 「心の落ち着き」という点に定まっているのです。心の落ち着きが、その点なのです。しかし人は心を静める瞑想をし、そしてこう言います。「瞑想しようと坐るのですが、心は瞬間も静止してくれません。今の瞬間はあるところに飛び散り、次の瞬間には他のところへ飛び散ります……。どうやって心を静止させることができるのでしょうか?」と。心を静止させる必要はありませんし、それは重要なことではありません。なぜなら、「動き」があるところに「理解」が生じることができるからです。人は不満を言います。「心は逃げまわる。逃げると引き戻し、またどこかへ行くと、また引き戻す……」と。このように、坐って心が逃げるたびに引き戻しているのです。

彼らは、心はあらゆるところに走りまわると考えているようですが、実際は心が走りまわっているように見えるだけです。たとえば、この本堂を見てください。「すごく広い!」と言います……。でも実際は、別に広くないのです。広いかどうかは、人の見方によります。事実この本堂は広くも狭くもありません。ただこの広さ、それだけです。でも人はいつでも自分の感情で見て、広いとか狭いなどと言うのです。

心の落ち着きを得るために、私たちは瞑想します。まず、心の落ち着きとは何かということを理解しなければなりません。理解しなければ、落ち着きは得られないでしょう。たとえば仮に、今日とても高価なペンをお寺に持って来たとしましょう。そこで、ここに来るとき前のポケットにペンを入れておきました。でも後で、それを取り出してどこかに入れ替えました。後ろのポケットです。しばらくたって前のポケットを探してみると……ペンがありません! ヒヤリとします。ヒヤリとしたのは、誤って理解したからです。ペンを入れ替えたという事実を見ていないのです。その結果、苦しみが生まれました。それで、立っているときも、歩いているときも、行ったり来たりしているときも、いつでも失くしたペンのことが心配でたまりません。誤った理解が、自分を苦しませています。誤って理解したことから、苦しみが生じているのです……。「なんてことか! 数日前に買ったばかりなのに、もう失くしてしまった」と。

でも、しばらくして思い出します。「あ、そうだ! さっき後ろのポケットにペンを入れ替えたんだった」と。このことを思い出すとすぐ、まだペンを見ていないにもかかわらず、すでに気分が良くなっています。わかりますか? ペンへの心配はもうありません。ペンがある、と安心しているのです。そこで、ポケットの後ろに手をやると、そこにペンがありました。私たちは最初からずっと心に騙されていたのです。心配は、無知から生じます。そして今ペンを見たとき、疑いや心配は消えました。心は落ち着いています。この落ち着きは、問題や苦しみの原因(samudaya)を見ることから生じています。ペンが後ろのポケットにある、ということを思い出した瞬間で、苦しみが消える(nirodha)のです。

そこで、私たちは心の落ち着きを得るために瞑想しなければなりません。しかし私たちが通常、心の落ち着きと考えているものは、単に心を静かにすることであって、煩悩を静めようとはしていません。これは、岩で覆われている草のように、煩悩が一時的に抑えられているにすぎないのです。三、四日後にその岩を動かすと、草はまた伸び始めます。草は枯れることなく、ただ抑えられているだけなのです。瞑想も、これと同じです。心は静かになっても、煩悩は完全に静まっていません。ですから、その心の落ち着き(サマーディ)は確実なものとはいえないのです。真に心の落ち着きを得るためには、智慧を育てなければなりません。サマーディは心の落ち着きの一種ですが、岩に覆われた草のように、数日後に岩をどけると、草はまた伸び始めるのです……。この種の落ち着きは、単なる一時的な静けさにすぎません。他方、智慧から生まれた静けさは、草の上に覆った岩を二度と動かさず、そのままずっと置いておくようなもので、その草はもう二度と伸びません。これが本物の落ち着きであり、煩悩を静めることであり、智慧から生まれてくる確実な落ち着き(定)なのです。

いま智慧(paññā)と定(samādhi)は別のものであるとお話いたしましたが、本質的にはまったく同一のものです。智慧は定の動的な働きであり、定は智慧の受動的な側面です。この二つは同じ場所から生じますが、異なる方向で、異なる働きをするのです。これはちょうど、ここにあるマンゴーの実のようなもので、まだ小さくて熟していない青いマンゴーは、やがて大きくなって、熟します。青いマンゴーも、大きなマンゴーも、熟したマンゴーも、どれも同じマンゴーです。でも、その状態は異なるのです。法(dhamma)の実践においても、ある状態は定(samādhi)と呼ばれ、後の状態は慧(paññā)と呼ばれますが、実際には、マンゴーの実のように、戒(siila)・定(samādhi)・慧(paññā)は、すべて同じなのです。

実践においては、戒・定・慧のどの面に注意を向けようとも、常に心から始めなければなりません。皆さんは、心とは何かご存知でしょうか? 心とはどのようなものでしょうか? 心とは何でしょうか? 心はどこにあるのでしょうか? 誰も知りません。私たちが知っているのは、これが欲しい、あれが欲しい、こっちへ行きたい、あっちへ行きたい、気分がいい、気分が悪い……などといったことだけです。でも、心そのものを知ることはできないようです。心とはなんでしょうか? 心には形がありません。善と悪の両方の印象を受けとります。これを「心」と言います。心は、家の主人のようなものです。お客さんが来たとき、お客さんが家にいるあいだは、主人は家にいなければなりません。主人は「お客さんを迎え受ける人」です。そこで、感覚の対象を受ける人は誰でしょうか? 感覚の対象を手放す人は誰でしょうか? それは、「心」と呼ばれるものです。しかし、人は心を目で見ることができませんし、どんなものなのかはっきりわかりません……。「心とは何か? 脳とは何か……」と、このような問題で混乱しないようにしてください。何が感覚の対象を受けるのでしょうか? ある感覚の対象は好きで、ある感覚の対象は嫌い……。このように判断するのは誰でしょうか? 好き・嫌いと言っているものはいるのでしょうか? そのものを見ることはできません。それが「心」と呼ばれるものなのです。
      
瞑想に関して、サマタ(samatha・止)とかヴィパッサナー(vipassanā・観)と言う必要がなければ、ただ単に「法(ダンマ)の実践」とだけ言えば十分でしょう。そしてこの実践を、自分の「心」からおこなうのです。 心とは何でしょうか? 心とは、諸々の感覚の対象を受けるもの、あるいは感覚の対象を認識するものです。感覚の対象から、好き・嫌いの反応が起こります。感覚の対象を受けることによって、楽しい・苦しい・いい・悪い、などの反応が起こるのです。でも、これらのものには形がありません。私たちはこれらを「私」だと思っていますが、本当は単なる名法(nāmadhamma)にすぎないのです。「善」ということに形があるでしょうか? 「悪」ということには? 楽や苦には形があるでしょうか? 見つけることはできません。丸いですか、四角いですか、短いですか、長いですか? 見ることができるでしょうか? 善や悪、楽、苦などは名法(nāmadhamma)であって、物質と比較することはできないのです。名法には形がありません……。でも、私たちは「知っている」のです。

そこで、まず「心を落ち着かせる」ことから実践を始めてくださいといわれるのです。それから、心に「気づき」ます。心に気づいているなら、心は穏やかになるでしょう。瞑想を実践する人の中には、「気づき」まで行かずに、ただ「心の穏やかさ」だけ得ることを望む人もいますが、これはある意味で、心をぼんやり空白にさせているにすぎません。そこからは何も学ぶことができません。実践において大事なことは、「気づき」なのです。

長いということがなければ、短いということもありませんし、善いということがなければ、悪いということもありません。最近、人は善と悪について勉強し、それらを探し求めていますが、「善と悪を超えたもの」については全く探究していません。知っているのは、善と悪のみです――。そして「善だけ、欲しい。悪のことは知らなくてもいい。知る必要なんかない」と言うのです。もし善だけを得るなら、しばらく経つと、また悪に戻ってしまいます。善は悪をもたらすのです。人は善と悪を探し続け、善でも悪でもないもの(善と悪を超えたもの)は見出そうとしません。善悪や道徳については勉強しますが、善悪を超えたものについては何も知りません。長い・短いということについては勉強しますが、長くも短くもないことについては何も知らないのです。

ナイフには「刃」と「縁」と「握るところ」があります。皆さんは「刃」だけを持つことができるでしょうか?「刃の縁」だけを持つことはできるでしょうか?「握るところ」だけを持つことはできるでしょうか? 「刃」と「縁」と「握るところ」は同じナイフの、それぞれの部分にすぎません。ナイフを持つと、三つの部分もいっしょに持つことになるのです。

同様に、善をとると悪も付いてきます。人は善を探して悪を拒絶しようとしますが、善と悪を超えたものについては学ぼうとしません。もし善と悪を超えたものを学ばなければ、たとえ善をおこなっていても、完成することはできないでしょう。善をとれば悪が付いてきますし、楽をとれば苦が付いてくるのです。「善に執着し、悪を拒絶する」という実践は、子供がやるような遊びのようなものです。もちろん問題はありませんし、実践すべきです。でも、善にしがみついて執着するなら、悪も付いてくるのです。その結果、混乱が起きます。それは善いことではありません。

簡単な例を挙げますと、たとえばあなたに子供がいるとしましょう――。その子をひたすら愛すのみで、怒ることは経験したくないとします。でもこれは人間の心の本質を知らない人の思考です。もし愛にしがみつくなら、怒り(憎しみ)も付いてくるのです。これと同様に、人は智慧を育てるために法(dhamma)を勉強することにします。善と悪について、できる限り詳細に学びます。そこで、善と悪を知った人は何をするのでしょうか?  善に執着し、その結果、悪が付いてくるのです。彼らは善悪を超えたものについて学びません。しかし、善悪を超えたものこそ、私たちが学ぶべきものなのです。

人は「私はこのようになりたい、あのようになりたい……」と言います。でも決して「何にもなりたくない。なぜなら本来『私』というものなど無いのだから……」とは言いません。このことについては勉強しないのです。彼らが欲しがっているものは、善だけです。そして善に達したときには善に夢中になり、その中に自分を見失ってしまうのです。あまりにも善に執着しすぎると、やがて悪に傾き始めます。結局、人はこのようにして善になったり悪になったり、その間を揺れることになるのです。

心を落ち着かせて、「感覚の対象を受けるもの」に気づくには、心を観察しなければなりません。「気づき」を持ってください。そして心を訓練し、清らかにするのです。どのくらいまで心を清らかにすべきでしょうか? 心が真に清らかなら、善悪の両方を超えていなければなりませんし、清らかということさえも超えていなければなりません。それで終了です。このとき、実践が終了するのです。

多くの人が「坐る瞑想」と考えているものは、単なる一時的なやすらぎを得ることにすぎません。しかし、そのようなものでも、やすらぎは経験します。経験したなら、それを知ったり、調べたり、疑問を持ったり、観察したりする誰か(何か)がいなければなりません。もし坐る瞑想をして、心がただぼんやりと空白になっているだけなら、それはそれほど役に立たないでしょう。皆さんはその人のことを見て「心をよく抑制し、やすらかにしている」などと思うかもしれません。でも本物のやすらぎというものは、単に心がやすらか、ということだけではありません。また、「私が幸せでありますように。いかなる苦しみもありませんように」などと唱えることだけでは本物のやすらぎは得られません。この種のやすらぎは、たとえ幸せを得たとしても、やがて不満に陥るでしょう。苦しみが生じるのです。幸せと苦しみの両方を超えた心を育てるときにのみ、本物のやすらぎが見出せるのです。これが本物のやすらぎです。このことについては誰も決して学ぼうとしませんし、見ようともしないのです。  

*
心を訓練する正しい方法は、心を明るくすること、智慧を育てることです。心を訓練するために、ただ静かに坐っていればいい、などと思わないでください。それは、草の上に一時的にのせた岩のようなもので、岩をどけるとまた草が伸び始めます。人はこの静かに坐る状態(サマーディ)に酔ってしまいます。彼らは、サマーディとは静かに坐ることだ、と考えていますが、静かに坐ることは単にサマーディを表す言葉の一つにすぎません。実際には心にサマーディがあるなら、坐っている状態でも、歩いている状態でも、立っている状態でも、横になっている状態でも、サマーディをつくることができます。どの姿勢でも実践することができるのです。

ときどき、このように不平を言う人もいます。「私には瞑想できません。心がまったく落ち着きません。いくら坐っても、すぐにあれこれ考えてしまいます……。瞑想できません。私には悪い業(kamma)がたくさんのありすぎるのでしょう。だから瞑想する前に悪い業を使い切り、それからまた瞑想すべきではないでしょうか」と。いいですよ。では、やってみてください。悪い業をすべて使い切るように頑張ってみてください……。

このようなことを考える人がいます。なぜ、こんなことを考えるのでしょうか? 私たちは、何が心の落ち着きを妨げているのか、ということを学ぶべきです。瞑想しようと坐ったときはいつでも、心はすぐに走りまわります。その走りまわる心を観察し、引き戻して、もう一度観察します……。が、心はまた逃げまわります。この心の性質を学んでください。多くの方は心の性質そのものから学ぼうとしません……。これはちょうど、いたずら好きの少年が宿題をやりたがらないようなものです。私たちは、心が変化しているのを見たくないのです。でも、見ないでいてどうやって智慧を育てるつもりでしょうか? 私たちは、変化とともに生きていかなければなりません。心は絶えず変化しているということに気づき、絶えず変化することが心の性質である、ということに気づくと、そこに理解(智慧)が現れます。善いことを考えているときにはそれに気づき、悪いことを考えているときにはそれに気づき、このようにして、思考は常に変化している、ということに気づくことが大切なのです。このポイントが理解できたなら、考えているあいだでも心は落ち着いていられるでしょう。

たとえば、仮に皆さんが家でサルを飼っているとしましょう。サルは長い間じっとしていません。あちこち跳びまわり、いろんなものを掴むのが好きです。これがサルの性質です。いま皆さんはお寺に来て、こちらで心というサルを見ています。このサルもじっとしていません。家のサルと同じように、跳びまわっています。でも、いま皆さんは心のサルに悩まされることはありません。そうではありませんか? なぜ悩まされないのでしょうか? それは前に一度、家でサルを育てたことがあり、サルがどのような性質かをよく知っているからです。一匹でもサルの性質をよく知っているなら、どこへ行こうとも、どんなに多くのサルに出会おうとも、サルに悩まされることはないでしょう。悩まされるはずがないのです。これが、サルを理解している人です。

サルの性質が理解できたなら、私たちがサルになることはありません。もし理解しなければ、私たち自身がサルのようになるかもしれません! わかりますか? サルがあれこれいろんなものに手を伸ばしているのを見たとき、私たちはそれにつられて「おい、コラッ!」と叫び、「とんでもないサルだ!」と怒鳴ります……。これが「サルの性質を知らない人」です。他方、サルの性質を知っている人は、家のサルも心のサルもまったく同じであると見て、サルに悩まされる必要はない、と見ます。サルの性質を理解すること、それだけで充分なのです。理解することによって、心が落ち着くのですから。

心の落ち着きとは、このようなものです。私たちは感覚を知らなければなりません。感覚には快いものと不快なものがありますが、それは重要なことではありません。快や不快は、感覚それ自体の性質です。感覚は、ちょうどサルのようなもので、サルはどんなサルでも同じ性質があるように、感覚にはどんな感覚でも、ある性質があります。私たちは、楽しいと感じるときもあり、楽しくないと感じるときもあります――。が、これはどちらも単なる感覚の性質にすぎないのです。 そこで私たちは、感覚を理解して手放すということを理解しなければなりません。感覚は不確かなものです。一時的であり、不完全で、実体はありません。私たちが認識するものはすべて一時的で、不完全で、実体がないのです。そこでサルを知るように、眼耳鼻舌身意が感覚の対象を受けとって感覚が生じたとき、それらの感覚に気づいて理解するなら、心は落ち着くことでしょう。

感覚が生じたとき、それに気づいてください。なぜ、感覚を追いかけるのでしょうか? 感覚は、不確かで一時的なものです。今の瞬間に感じるものは、次の瞬間には別のものに変化します。感覚は変化に依存しています。そして、ここにいる私たちも皆、変化に依存して生きているのです。私たちは絶えず呼吸しています。息を吐いたら、吸わなければなりません。息には、変化がなければならないのです。では皆さん、息を吸うことだけをやってみてください。できるでしょうか? あるいは息を吸わずに吐くことだけをやってみてください……。できるでしょうか? もし息を吸ったり吐いたりという変化がなかったら、私たちはどのくらい生きられるのでしょうか? 生命には、息を吸うことと吐くことの両方がなければ生きていられないのです。

感覚も同じです。変化がなければなりません。もし何か特定の感覚に執着するなら、智慧は育たないでしょう。悪がなければ、善もあることはできません。何が悪かということを見ることができるのは、私たちに善があるときです。また善になるためには、悪を理解する必要があるのです。これが、もののあり様です。

真剣に修行する方にとっては、感覚は多ければ多いほど、より学ぶことも多いでしょうが、多くの方は、諸々の感覚から逃げて、感覚に向き合おうとしません。これはちょうど、いたずら好きの少年が学校へ行きたがらず、また先生の話も聞かないようなものです。感覚はいろいろなことを教えてくれます。私たちが感覚に気づいているときは、法(Dhamma)の実践をしているのです。感覚を理解するとき、心は落ち着き、もはや感覚に悩まされることはないでしょう。

法は遠く離れたところにあるのではありません。私たちと共にあります。法は天界など高いところの神々についてのことではなく、まさに私たちについてのこと、たった今私たちがやっていることについてのことです。 自分を観察してみてください。幸せなときもあれば苦しいときもあり、楽しみがあれば痛みもあり、愛情があれば憎しみもあるでしょう……。こうしたことが法です。おわかりになるでしょうか? この法を理解すること、そして自分が経験している諸々の感覚を理解することが大切なのです。
       
*
「このガラスのコップを割らないで!」と、人は言います。でも、割れる性質があるものを、割れないようにすることはできるでしょうか? たとえ今割れなくても、後で割れるでしょうし、あなたが割らなくても、ほかの誰かが割るでしょう。ほかの誰かが割らなくても、ニワトリか何かが割るでしょう! お釈迦様は、このことを理解してください、と教えられました。お釈迦様は、ものごとの本質を鋭く洞察して、「コップはすでに割れている」と見ていたのです。私たちもコップを使うときはいつでも、コップはすでに割れている、と考察すべきです。おわかりになりますか? お釈迦様の理解は、このようなものでした。お釈迦様は、割れる性質があるコップに、割れたコップを見ていたのです。時がたてば、コップは割れます。この種の理解を育てることが大切なのです。私たちは日常生活の中でコップを使い、丁寧に扱っているでしょう。しかし、いつか時が来たとき手から滑り落ちて……「ガチャン!」と粉々になります……。でも、問題はありません。なぜ問題がないのでしょうか? それはコップが割れる前に、「コップは割れるものである」ということを理解していたからです。

しかし、人はたいていこのように考えています。「このガラスのコップ、すごく気に入っている。だから絶対割れないように」と。でも、ある日、イヌが割ります……。そのときあなたは「あのバカなイヌめ、殺してやる!」と、コップを割ったイヌを憎みます。もし子供が割ったなら、その子供を嫌うでしょう。なぜでしょうか? それは、あなたは自分自身の流れをせき止めたからです。それで流れることができなくなったからです。あなたは余水路(余分な水を流下させるためにダム本体に設ける水路口)をつくらずに、ダムをつくりました。余水路の無いダムがすることは、水が溢れ出すことです。そうではないでしょうか。ダムをつくるときには余水路もつくらなければなりません。水位が上昇して水が縁まで満杯になったとき、水路口を開けます。そうすると、水は溢れることなく水路口から安全に流れ出ることができるのです。私たちも、このような安全弁を持つことが大切です。「無常」ということが、賢者にとっての安全弁です。この安全弁を持っているなら、心にやすらぎがあるでしょう。

立っているときも、歩いているときも、坐っているときも、横になっているときも、気づき(サティ)を絶えず用いて観察し、心を守ってください。このとき、心の落ち着き(サマーディ)と智慧があります。サマーディと智慧は同じようなものですが、その側面は異なるのです。

不確実ということを明確に見るなら、何が確実なことかということが分かるでしょう。確実とは、ものごとが必ずこのようであり、それ以外はありえないということです。おわかりになりますか? 私たちは、不確実ということだけを知ることで、仏陀を知ることができ、また正しく仏陀を尊敬することができるのです。

仏陀を拒否しないかぎり、苦しむことはないでしょう。仏陀を拒否するやいなや、苦しみを経験します。無常・苦・無我についての観察を拒絶するとすぐに苦しみが生まれるのです。無常・苦・無我、たったこれだけのことを実践することができれば、それで十分です。苦しみは生まれないでしょうし、生まれたとしても簡単に解決することができるでしょう。さらには、将来において苦しみを引き起こさない原因にもなるでしょう。苦しみが完全に生まれなくなったところ、そこで実践は終了するのです。では、なぜ苦しみが生まれなくなるのでしょうか? それは苦しみを引き起こしている原因(samudaya)が解決されたからです。

たとえば、このガラスのコップが割れたとすると、だいたい私たちには苦しみが生まれます。そこで、このコップが苦しみの原因だと知り、その原因を解決するのです。あらゆる現象(dhamma)は、原因があって生まれます。そしてまた、原因があって消えます。もし今このガラスのコップが原因で苦しみが生まれているなら、その原因を取り除くべきです。しかし、あらかじめ「このガラスのコップはすでに割れている」と考察しているなら、たとえコップが割れなかったとしても、原因はすでにありません。原因が無いなら、苦しみはもはや生じませんし、苦しみは終わるのです。これが、苦しみの滅という状態です。

無常・苦・無我を観る、このポイントを超える必要はありません。たったこのことを観るだけで充分なのです。ご自身の心で、このことをよく考察してください。基本的に、人はどんな人でも行為の基盤となる「五戒」(*註21)を守るべきです。三蔵経(Tipitaka・ティピタカ)まで勉強する必要はありません。まず、五戒を守ってください。最初は間違えて戒を破ってしまうこともあるでしょう。そのときはそれに気づき、その行為をやめ、また新たに五戒を守るのです。もしかするとまた何か間違いをして、戒を破ってしまうかもしれません。そのときも破ったことに気づき、新たに立て直して、五戒を守ってください。

このように実践することで、気づきが育ち、より持続的に気づけるようになるのです。これはちょうどヤカンから水の滴が落ちるようなものです。ヤカンをほんの少し傾けると、滴はゆっくりと落ちます。ポトン……ポトン……ポトン……。ヤカンをもう少し傾けると、滴が落ちるのが速くなります。ポトン、ポトン、ポトン……。もっと傾けると、「ポトン」と落ちることはなくなり、水が流れます。では「ポトン」と落ちていた滴はどこで行ったのでしょうか? どこにも行きません。滴から流れに変化しただけなのです。

ダンマ(法)は、このように譬えを使って話したほうがよいのです。なぜなら、ダンマには形がないからです。ダンマは四角いですか、丸いですか? 何も言うことはできません。ダンマを話すことができる方法は、唯一、譬えを使って話すことなのです。ダンマは自分から遠いところにあるなどと思わないでください。自分と共にあり、また至るところにあるのです。観察してみてください。今の瞬間は幸せで、次の瞬間は悲しくて、また次の瞬間は怒っています……すべてがダンマです。見て、理解するようにしてください。苦しみを引き起こすものはなんであろうと、対処すべきです。苦しみがまだあるなら、もう一度よく見てください。明確に見ていないから、苦しみが生まれているのです。明確に見たとき、原因はもはやそこにありませんから、苦しむことはないでしょう。それでもまだ苦しみがあって、それに耐えている状態なら、それは正しい方向に実践していないということです。行き詰まったり、あまりにも苦しみがあるときはいつでも、その時点で何かが間違っているのです。反対に、ものすごく幸せだったり、雲の上に浮かんでいるような気分のときはいつでも……そのときも何かが間違っているのです!

このように実践するなら、どんな姿勢のときでも常に気づきがあるでしょう。気づき(sati)と明晰な理解(sampajañña)があれば、善や悪、幸せや苦しみを知ることができます。知ることによって、それらに対処する方法も分かるのです。

私は瞑想を教えるとき、このように教えます。坐って瞑想する時間には坐って瞑想する、これは間違いではありません。坐る瞑想はすべきです。しかし、脚を組んで坐ることだけが、瞑想ではありません。もろもろの現象を完全に経験し、経験したものに執着せずに流れさせ、現象の本質を考察することが大切なのです。では、どのように現象の本質を考察するのでしょうか?「ものごとは一時的で、不完全で、実体がない」と見るのです。すべてのものは不確実です。たとえば「これ、すごくきれい。どうしても欲しい」と思っても、それは確実なことではありません。変化するのだから。また、「すごくいやだ」と思ったとき……すぐ自分にこう言ってください。「これは確実ではない!」と。でも、本当に確実ではないのでしょうか? 皆さんは「そんなことありえない。確実だ」と言うかもしれません。しかし、ものごとをあるがままに見てみてください……。「これ、永遠にずっと私のもの……」と考えるとき、すでに正しい道から外れているのです。確実なものと見ないことが大切です。何かにたいして、どんなに好きであっても、それは不確実なものと観察すべきです。

食べ物の中には、とても美味しいものがあります。でも、美味しいというのは確実なことではない、と考えるべきです。とても美味しくて、それがずっと美味しいかのように見えるかもしれません。でも、自分にこう言い聞かせなければなりません。「確実ではない!」と。そこで、それが美味しいということが確実なことかどうかを自分で調べてみたいなら、ためしに大好物の食べ物を、毎日一日も欠かさずに食べてみてください。だんだん嫌になってきて、やがて「美味しくない、もう飽きた」と不満を言うようになるでしょう。そして次にこう考えるのです。「やっぱり、あっち食べ物のほうが好きだ」と、別の食べ物が好きになるのです。しかし、その食べ物も確実にずっと美味しいということはありません! 呼吸のように、ものごとを流れさせなければなりません。呼吸には、息を吸うことと吐くことの両方が必要です。呼吸は変化しています。一切のものが、呼吸のように変化しているのです。

変化は私たちと共にあるのであり、自分以外のところにあるのではありません。坐っているときも、立っているときも、歩いているときも、横になっているときも、心に疑がないなら、心は落ち着いているでしょう。サマーディとは、ただ脚を組んで坐っていることではありません。ときどき、坐った状態で眠り込んでしまう人もいます。これは死んでいるのと同然で、彼らは北と南の区別も付かなくなるほど眠り込んでしまうのです。そのようなひどい状態になるまで坐っていないでください。眠気を感じたときには、姿勢を変えて歩いてください。智慧を育てるのです。ものすごく疲れたときには、休んでください。そして、目が覚めた瞬間から実践を続けるのです。ずるずる居眠りすることがないようにしてください。実践はこのようにすべきです。理性と智慧、注意深さを持つことが大切です。

瞑想実践を、自分の心と身体は無常であると見るところから始めてください。他のどんなものも、無常です。無常ということを心に留めておくようにしてください。たとえば、ある食べ物がすごく美味しいと思ったとき、自分にこのように言ってください。「美味しいというのは確実ではなく、ずっと続くものではない!」と。まず、このことを叩き込まなければなりません。しかし、たいてい私たちはいつでも現象に叩きのめされて苦しんでいるのではないでしょうか。また、好きなものが何もないときも苦しんでいます。このようにして私たちは諸々の現象に叩きのめされているのです。「彼女は私のことが好きだし、私も彼女のことが好きだ」。私たちは現象をこのように見て、現象にやられています。そうではなく、次のように見なければなりません。「好きなものはなんであろうと、確実なことではない!」と。真理を本当に見るためには、いくらか感情に逆らわなければならないのです。

どんな姿勢のときでも、瞑想を実践してください。坐っているときも、立っているときも、歩いているとも、横になっているときも……。なぜなら、どんな姿勢のときでも、怒ることがあるのではないでしょうか。歩いているときも、坐っているときも、横になっているときも、怒りが出る可能性があります。欲が出る可能性もあります。ですから、立っているときも、歩いているときも、横になっているときも、いかなる姿勢のときでも、実践しなければならないのです。継続することが大切です。人に見せびらかそうとするのではなく、真剣に実践してください。

坐る瞑想をしているとき、何らかの出来事が起こるかもしれません。その出来事が解決する前に、別の出来事が入り込んできます。そこで、諸々の現象(出来事)が現れるたびに、自分にこのように言うようにしてください。「これは確実なことではない、確実ではないんだ」と。現象に叩きのめされる前に、現象を叩くのです。

ここは重要なポイントです。すべてのものは確実ではなく無常である、ということを理解すると、私たちの思考は徐々に解放されていきます。すべてのものは過ぎ去るものであり確実ではない、と考察するとき、一切の現象は同じである、ということが分かるでしょう。何かが現れたとき、私たちが言うべきことはいつでも「無常!」ということのみなのです。

皆さんは、流れている水を見たことがあるでしょうか……? 静止している水を見たことがあるでしょうか……? 心が穏やかなら、その心は静止しつつ流れつづける水のようなものです。皆さんはこれまでに、静止しつつ流れつづける水を見たことがあるでしょうか? そう! 流れている水と静止している水はそれぞれ見ているでしょう。しかし、静止しつつ流れつづける水はこれまで見たことがないのです。まさにそこで、思考の無いところで、静かで落ち着きのあるところで、智慧が育つのです。心は、流れている水のようなものですが、静止しています。あるいは、静止している水のようなものですが、流れています。ですから私はそれを「静止しつつ流れつづける水」と呼んでいます。智慧は、ここで現れるのです。

〔20〕the Five Precepts… 五戒…基本的な五つの道徳。生き物を殺さないこと、盗みをしないこと、邪淫をしないこと、嘘をつかないこと、酒・麻薬など酔わせるものを摂らないこと。

(この章、終わり)


******************************
Living Dhamma by Venerable Ajahn Chah
Copyright ©1992 The Sangha, Bung Wai Forest Monastery.
For free distribution only. The Abbot, Wat Pah Nanachat, Bahn Bung Wai Warinchamrab, Ubol Rajathani 34310, Thailand. First Impression 1992. Transcribed from the print edition in 1994 by David Savage under the auspices of the DharmaNet Dharma Book Transcription Project, with the kind permission of the copyright holder.

******************************


Translated by Yoshiko Demura







 
Sabbe satta bhavantu sukhitatta


© yoshiko.demura