故人の供養

スリ・ダンマーナンダ長老

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 人間は、複雑な問題をたくさん抱えています。
 ある神がお釈迦様のところへ行き、どうすれば問題を乗り越えられるのか、ということについて次のように尋ねました。

 「世尊よ、内なる混乱と外の混乱についてお説きください。人間は混乱に絡まれています。混乱のもつれを解くのは誰でしょうか、お聞かせください」


心の混乱

 「混乱」とは、人間が日常生活の中で直面する心身に生じるあらゆる動揺や乱れのことです。私たちはさまざまな問題に絡まっています。誕生したときから最後のひと息まで、いろいろな問題に直面します。世の中で問題にぶつからずに生きることは、誰にもできないのです。

 お釈迦様はこのように教えられました。
「この世の中で穏やかに生きていきたいなら、問題の本質を理解してください。生きることの目的を深く観察し、また、なぜ人生に満足していないのかということを見いだすようにしてください」と。

 このことが理解できるなら、不必要な恐怖で苦しんだり、敵意や恨み、悩みを抱いたりする理由はなくなるでしょう。

 誰もがみんな幸せで、穏やかで、充実した生活をおくることを望んでいます。でも、どのくらいの方がその幸福を得ているのでしょうか?

 私たちは満足を得るためなら、できるかぎりあらゆる方法を使って何でもしようとします。でも、心から満足することは決してありません。
 なぜ、満足できないのでしょうか? 

 それは、世の中の本質を理解していないからです。世の中の本質を完全に理解することによってのみ、問題を最小限にとどめたり、乗り越えたりすることができるのです。
 私たちが欲しいと思っているものは、単なる幻想にすぎません。また、欲しいものを得たとしても、次に別のものが欲しい、といま得たものよりさらに大きな欲望をつくるだけなのです。


問題に向き合う

 私たちはたいてい今ある問題を解決しようとするあいだに、別の新しい問題もつくりだしているものです。その新しい問題が、今の痛みを軽減させるために必要なものなら、その新しい痛みをがまんしてでも受け入れます。

 たとえば、胃潰瘍で激しい痛みにさいなまれているとき、医者に診てもらいます。もし医者に、手術が必要だと言われ、治したいと思うなら、手術というさらなる苦しみを受けなければなりません。でも、手術以外に治療法がないとわかっているのですから、治すために手術をするという新たな問題を受けいれることを決意します。手術をしているあいだは、あの激痛がこれでやっとなくなるだろうと期待して、痛みや不安に耐えるのです。

 同様に、私たちは今ある大きな問題を乗り越えるために、別の痛みや問題を受けるということをしています。ときには喜びをもって新たな苦しみに向き合うこともしています。新たな問題に向き合うことや何かを犠牲にすることをしないでいて、今ある問題を乗り越えることはできないのです。

 問題を乗り越えるのに、一つ明らかなことがあります。それは、わがままで、頑固で、暴力的な態度では、問題を根本的に解決することができないということです。

 お釈迦様は、この問題を解決するために、実践的で現実的な方法を説かれました。問題をただ一時的にとりつくろって短期間だけ幸せを得る方法はすすめていません。そうではなく、問題の根本にまで入り込み、その主要な原因を発見することを教えられたのです。

 医者の中には、病気そのものを治すのではなく、症状だけを治す方もいます。お釈迦様が教えられた方法は、問題そのものを治す方法です。症状を、ただ一時的に軽減させるだけではないのです。


感覚は変化する

 お腹や頭が激しく痛むとき、医者は鎮痛剤をくれます。それを飲むと、しばらくのあいだは痛みを感じなくなるでしょう。でも、それは完全に治ったということではありません。くすりの効き目が切れたとき、痛みはまた戻ってくるのです。

 たとえば、身体に非常に大きな傷を負ったとしましょう。いろいろなくすりを塗って、痛みがどうにかおさまったとします。医者か誰かに「今、どうですか?」と聞かれると、「よくなりました」と言うでしょう。

 でも、この「よくなった」とはどのような意味でしょうか? どのような感覚でしょうか? 何か証明できるものはあるのでしょうか? 

 ここで、「よくなった」というのは、「痛みがない」という意味です。とりあえず痛みがないとき、周りの人に「よくなった」とか「気分がいい」などと言うのです。
 それから「よくなった」と言うとき、私たちは「この感覚は永続するものではない」ということを知っているものです。それはまた痛みや他の感覚に置き換わります。これが「生」の本質なのです。

 お釈迦様が教えられた「永続する幸せを得る方法」とは、問題や苦しみの主要な原因を根元から取り除くことです。一時的に抑えることではありません。

 ときどき、お釈迦様の教えを実践するのはむずかしいと言う人もいます。それは苦しみをすぐに取り除くことができないからです。

 お釈迦様は、「苦しみの原因は心の非常に深いところにまで根付いているため、強力な手段を使って苦しみの原因をしっかり根絶することが必要である。根絶したなら、苦しみは二度と起こらない」と教えています。


混乱のもつれをほどく人

 混乱のもつれをほどくにはどうすればよいのでしょうか、という問いにたいし、お釈迦様はこのように答えられました。

 「戒律(s]la)をよく確立した賢者は、心と智慧(pannaa)を育てる。そのように精進し、智慧のある人が、混乱のもつれをほどくのである」

 精進と智慧のある人は、存在の本質を理解して、道徳や戒律(siila)を育てます。戒律(siila)とは、道徳規範にもとづいて感覚や言葉、行動を制御するという意味です。精進と智慧のある人は、どのように問題に向き合い、どのように問題を乗り越えるのか、ということを知っているのです。

 自分の問題を解決したいなら、善良になり、精進し、理性をもって行動するように、とお釈迦様は教えられました。問題を根本的に解決できる方法は、他にないのです。                         


迷 信

 問題を抱えているとき、私たちはたいてい他人のところへ行って、あれこれ相談したりするものです。相談相手の中には、このようなことを言う人もいるでしょう。「神社や寺院、礼拝所へ行き、神にお祈りしたり、呪文やマントラを唱えなさい」と。

 お釈迦様は、これとは正反対ことを薦められました。
 「問題が起こったとき、自分で直接問題にアプローチし、問題を分析して、原因がどこにあるのかを発見してください」と。

 ここで厄介なのは、私たちが問題にぶつかったときにはいつでも、恐怖に襲われるか、無知になるか、妄想するか、迷いに陥ってしまうということです。それで、自分では問題を解決することができず、他人のところへ行くのです。

 たとえば、ビジネスで失敗したとしましょう。そうすると、幸運をつかんで成功できるよう、何か霊的な力に頼ろうとするのです。
 でも、そうした行為はほとんどが迷信です。いわゆる預言者や占い師と呼ばれる人の多くは、弱い人の無知を悪用して、「あなたに邪悪な霊が憑いてますよ。だから運が悪いんです」などと言って騙すのです。

 お釈迦様はこのように教えられています。
 「もし成功したいなら、迷信に頼らず、忍耐と理解を育ててください。無意味なことに時間やお金を浪費することなく、理性的に生きてください」


無 知

 問題が起こったとき、問題の原因がわからないことが多いものです。それは、頭の中が自己中心的な欲望や妄想でいっぱいになり、世俗の闇で暗く覆われているからです。

 何か不幸なことに遭うと、私たちは無知のせいで、間違った原因を考え、間違ったやり方で問題を解決しようとします。

 自分が不幸になったのは、神など外の力によるものだと考え、祈ったり、捧げものをしたりして、問題を解決しようとするのです。

 でも、そんなことをしても問題は解決しません。自分の不幸の原因は、自分にあるのですから。

 多くの人は、「道徳や精神を育てることを通して自分の生き方を改善する努力」をしようとしません。何か問題が起こったときには、祈ったり、宗教家に特別な儀式をしてもらえばいい、と間違った考えを持っているのです。

 このような根拠のないことを信じているかぎり、「正しい見方でものごとを理解する知識」を身につけることはできないでしょう。


満足を知らない現代人

 現代人は、忙しい生活をおくっているため、心を善いほうへ訓練したり、やすらぎを育てたりするための時間がありません。

 食べものや住居、衣服など、必要なものは十分得ているにもかかわらず、そのあいだもずっと、心の幸福を犠牲にしながら、どうすればお金がもっと儲かるか、どうすればもっと楽しみが得られるか、などということを追い求めているのです。

 そして、何か問題にぶつかったときには、不平不満をこぼし、機嫌を悪くし、苦しみをつくって、さらには自分の問題はあなたのせいだと言い、問題を他人のせいにするのです。




 現代では、先進諸国の人々は開発途上国の人々よりも多くの問題や不満、精神障害を抱えているようです。なぜでしょうか? 

 それは、道徳を守ったり心を育てたりしようとせず、世の中の楽しみや欲の奴隷になっているからです。

 そして、そこから生まれてくる緊張や恐怖、心配、不安などが、心を煩わせています。この精神的な不安定感が、心をかき乱しているのです。

 こうした状況は、多くの国々で大きな問題になっています。産業社会では、人々は「生活に満足する」ことを学んでいませんから、人生にたいして不満を抱くのです。


競争社会が生みだす不安

 それから、自信を失い、人生で何をすればよいのか決められない若者たちが大勢います。

 この問題の最大の原因は、競争や嫉妬、恐怖から引き起こされる過剰な野望と不安感です。

 そして言うまでもありませんが、このような問題は、穏やかな生活をおくることを望んでいる他の人々にも非常に悪い影響を与えるのです。だれか一人の個人が問題を起こすと、それは周りの人々の幸せに悪い影響を与えます。どんな社会でも、「善は善をもたらし、悪は悪をもたらす」ものなのです。

 問題を取り除くための近道はありません。ですから、起こっている問題の原因を見いだし、自らの生き方を改善していく必要があるのです。

 問題がまったくないという人はいません。もし本当に心を解放させたいなら、自分の問題を調べて、「問題に悩まされているのはなぜか」ということを理解することが大切なのです。
               
 未開発の保守的な国々では、何か問題が起こったとき、人々はすぐ「誰かや何かが魔力や黒魔術のようなものをかけて、自分たちの平和な生活を壊しているのではないか」と疑ったりします。

 このような人々は、自分の弱さを認める準備ができていません。不幸の原因は自分にあるかもしれないとか、自分が起こした問題の責任は自分でとらなければならない、などと考えることができないのです。無知に覆われているため、霊能者や誰かにお願いし、(ありもしない)目に見えない存在の力を呼び起こしてもらい、問題を解決してくれるように頼むのです。(しかし、このような行為は無知が増大するばかりで、問題を解決することはできません)


家族の問題

 人がいつでも不満に思っている共通の問題のひとつに、結婚生活や家族についての問題があります。

 結婚している人だけでなく、未婚の人も、「ひとりではさびしい」「結婚相手がいない人生はつまらない」などと言って、不満をこぼしています。でも結婚して、何か問題にぶつかったときには、別の不平を言い始めるのです。

 たとえば家庭を持っている人は、「家族をどう養っていくか、守っていくか」など、家族に関するさまざまな問題を抱えています。一生懸命はたらいて、家族を養わなければなりません。子供がいる夫婦は、子供の教育について心配し、導いていかなければならないのです。

 こうした家族の問題に対処することができなければ、悩みはさらに増えていくでしょう。家族の中で誤解や行き違いが起こったりすると、人生はさらにみじめになります。ときどき暴力や流血、自殺なども起こるほどです。

 子供が多い家庭では、たくさんの責任と悩みに直面するでしょうし、一方、子供のいない人も別の悩みを抱えているのです。

 そこで、この世の中のどこに「満足」というものがあるのでしょうか?

 今日、人々はより多くの収入を必要としています。それは、生活のためや義務を果たすためだけではなく、さまざまな娯楽が増え、欲望を満たすのにお金を必要としているのです。(これは一種の競争になっています)


悩 み

 私たちは、義務や責任を果たすことよりも、楽しみを得るほうに気をとられています。また、自分の将来のことを考えて悩み、その悩むことを楽しみにしている人もいます。

 病気や老い、死を心配し、葬式のことについても心配しています。さらには、天国にいくか地獄にいくかと死後のことについても心配しているのです。

 日常生活の中ではいつでも不満を経験しています。そして、あちらこちらに走りまわり、不満を解決する方法を探し求めているのです。生涯をとおして幸福ややすらぎを探し続けています。これが死ぬまで続いていくのです。でも、本当の解決策は決して見つかりません。

 私たちは、「年をとった」と考えて悩みます。「欲しいものが得られない」と言って悩みます。持っているものをなくしたり、親しい人が離れていったりすると、悩みます。いらだったり、悲しんだりし、心が混乱して苦しむのです。

 私たちは存在(生きること)の本質である「苦」や「無常」を、知ることも経験することもなく、ただ生き続けています。でも、「生きること」は常に変化しているのです。「生きる」とは諸要素とエネルギーの集まりであり、常に変化し続けているものです。ですから、状況はいつでも私たちが満足するようにはいかないのです。

 「人生がうまくいっていない」と感じるときもあるでしょう。諸要素やエネルギーのバランスがとれていないと、不安や病気、痛み、さまざまな問題が生じてきます。心のエネルギーが妨げられると、精神的に問題が起こるのです。その後、身体の臓器や腺が通常のようにうまく機能しなくなり、血液の循環、心臓、脳細胞にも影響を及ぼすのです。

 そこで、私たちが「自然」に逆らわず、この身体をつくっている「自然」と調和を保ちながら生活するならば、こうした問題の多くを避けることができるでしょう。


現実に向き合う

 今日、多くの人々は「自然な生活」ではなく、「人工的な生活」を送っています。そして、それが危険なものであることに気づいていません。私たちがつくっている問題の多くは、無知から生じています。快楽(欲)ばかりを追い求めることが原因になっているのです。

 それから、問題や重荷というものは、人生の中年以降に生じることが多いものです。

 たとえば、三十メートル深さの穴があるとしましょう。その穴の底に、燃えている炭を置きます。そこに、はしごを降ろし、数人の人にひとりずつ降りるように言います。十メートルぐらいまでは誰も何も不満を言いません。十五メートルぐらいまで降りると、いくらか熱さを感じます。さらに深く二十メートルから二十五メートルぐらいまで降り、燃えている炭に近づくと、焼けるような熱さを感じるでしょう。

 同様に、若者たちにはお釈迦様が教える「生きることは苦である」ということの意味がまだわかりません。年とともに、経験を重ねれば重ねるほど、「苦の真理」がより明確に見えるようになるのです。


年配者のアドバイスを聞く


 あることが「よいか、悪いか」ということを理解するために、自分で実際に経験する必要は必ずしもありません。このような例え話があります。

 海の中で魚たちが泳いでいます。そこに、いつもは見かけない口のあいた小さな箱に出くわしました。実はそれ、漁師が仕掛けたわななのです。
 若い魚たちはその箱の中に入り、それが何なのかを知りたがっています。一方、年配の魚は若い魚たちに「中に入らないように。それはわなだから」と忠告をしました。
 若い魚たちは、「危険かどうかって、なんでわかるのですか? 中に入ってみなければわかりません。実際に入ってみたとき、それがどういうものかがわかるのではないですか」と言いました。
 そして、何匹かの魚は箱の中に入っていき、結局わなに嵌まってしまったのです。

 私たちは、限りない智慧のあるお釈迦様のアドバイスを聞くことが必要です。もちろんお釈迦様は「教えを闇雲に信じてはならない」と人々に説かれていますが、その一方で、私たちは賢者の話しに耳をかたむけなければなりません。なぜでしょうか?

 それは、「賢者の経験」というものは、私たちの世俗的な知識よりも遥かに深遠だからです。
 親はよく、息子や娘にたいして「○○をしなさい、△△をしてはならない」と言っています。

 親の言うことだけでなく、年上の方々のアドバイスを聞かない子供たちは、自分勝手に考えたやり方でいろいろなことをやります。やがて何か重大な問題が起こったとき、年配者や先生たちの助言を思い出し、助けを求めるようになります。このとき、ようやくアドバイスや指導に耳をかたむけるのです。

 仏教は、私たちが「理性的な教え」を実践し、問題にぶつかる前に問題が起こらないよう、さまざまなアドバイスをしているのです。            


年齢と経験

 私たちは勉強したことを実際に経験することなく、知識だけを身につけることができます。若者たちの中には、「知識を武器にすれば、世界の問題をすべて解決することができる」と考えている人もいます。
 科学は、問題を解決するためにさまざまなものを開発してきました。でもそれは「物質の問題」だけであって、「心の問題」を解決することはできないのです。世の中のことを実際に経験した賢者以外に、心の問題を解決できる人はいないのでしょう。
 このようなことわざがあります。
 「私が18才のとき、父のことを、なんて愚かな人なのだろうと思っていた。いま私は28才だが、父がこの10年間でどれだけ学んだかということに驚いている!」
 学んだのは父親ではなく、息子のほうです。息子が、ものごとを大人の見方で見ることを学んだのです。

 2000年以上も前、お釈迦様をはじめ、孔子や老子、多くの優れた指導者たちが、人々にすばらしい教えを説かれました。こうした真理に基づく教えは、廃れることが決してありません。永遠に新しいままなのです。
 古代の人々の智慧を無視して、人間の「生の問題」を解決することは困難なものです。この智慧は、人間の尊厳や理性、平穏、幸福を育ててくれるのです。


家族・隣人との関係

 家族の問題について考えてみましょう。互いに協力しあい、調和や慈しみをもって生活している家族はどのくらいいるでしょうか?
 血のつながった家族だけでなく、まわりの人たちとの関係はどうでしょうか。私たちはテレビやインターネットを通じて世界中の人々を自分の部屋に招くことができます。でも、となりの家に住んでいる人を部屋によんで、親しく話しをしようとすることはしません。

 家族の顔を見る時間もありません。でも、テレビやパソコンの画面で、知らない人たちを見ながら何時間も過ごしています。同じ家に住んでいるにもかかわらず、家族でさえいっしょに笑顔で会話をする時間がないのです。このような家族関係のなかで、どうやって調和や幸せが得られるのでしょうか。悲しいことに、この利己的で冷ややかなふるまいが、今日の現代社会の特徴となっているのです。

 結婚したあと、実の親や兄弟に見向きもしなくなる人もいます。これは分別のある人間らしい生き方ではありません。獣けもののような生き方なのです。
 私たちは互いに助け合い、必要とする人にたいしては心の支えになることでコミュニティを保っていかなければなりません。動物は人間ほど互いに助け合うことをしないものですが、それでもいっしょに生活しています。仲間や仲間の子供が敵に襲わせそうなとき、敵から守ることもするのです。

 私たちは分別のある人間らしい生き方をしていないように思われます。自然な生き方から遥かに遠ざかってしまいました。それで多くの問題を抱えているのです。孤独を感じています。
 実際、問題というものは一生涯起こってくるものです。私たちはそれに一つひとつ対処していく必要があるのです。
 問題には、「自然が引き起こす問題」があり、これに関しては人間はどうすることもできません。でも、中には「人間がつくった問題」や「心が引き起こす問題」もあります。こうした問題は、人間の妄想と無知から生じているのです。


不安定な心

 精神不安定も、もうひとつの大きな問題です。道徳を守らずに生きていると、自分の心のやすらぎや幸せだけでなく、他者の心のやすらぎや幸せも妨げてしまいます。それで内にも外にもいろいろな問題を引き起こし、さらには多くの不満、苦しみ、興奮、恐れ、不安定を引き起こすのです。
 多くの人が、不満や失望、神経衰弱などの問題を抱えて苦しんでいるようです。それは、心に「満足すること」を育てていないからです。育てているのは、楽しみたいという「欲望」です。このような人たちは、「育てる」とは(心を育てるのではなく)「楽しみを追求することを育てる」ことだと思っています。その結果、不健全な競争や嫉妬、敵意、憎しみなどを育てているのです。互いに戦い、殺し始めます。このようにして、世界中が戦場に変わってしまったのです。
 いま、誰もが平和を強く求めています。
 人々は、神や悪魔が苦しみをもたらしたと考えて、自分の不幸を神や悪魔のせいにしています。それから、祈ったり崇拝したりもするのです。私たちは問題から逃げるためにありとあらゆることをしていますが、もとはと言えば、自分が問題(妄想)をつくっているのです。
 ここで「諸々の問題をつくっているのは誰か」ということ、そして「その問題を乗り越えることができるのは誰か」ということがおわかりになるでしょう。
 お釈迦様は、「自分の内に世界がある」とおっしゃいました。私たち一人ひとりが自己を制御することによって、世界が制御され、平和が保たれるのです。世の中が平和なら、もう平和を追い求める必要はありません。
 善いことも悪いことも、平和も暴力も、「心」がつくり出しているのです。


諸要素とエネルギー

 お釈迦様は、このようにおっしゃいました。「世界の起源がいつかということを考えて、心を悩ませてはならない」と。
 そのようなことを考えても、人間の問題を解決することはできません。いまでも世界の始まりと終わりを知りたがっている人が結構いるようです。中には、世界について非常に皮相な見方を持っている人もいます。彼らは、この世界が本来どのようなものかということを知らないのでしょう。
 お釈迦様が、世界の始めや終わりはいつかということについて考えるべきではない、とおっしゃったとき、人々はその意味を理解することができませんでした。それは、お釈迦様の教えが、彼らが持っている、世界の起源についての信仰に反していたからです。
 世界を観察してみてください。そして「世界」と「自分の身体」とを比較してみてください。そうすると、身体には外部の世界と同じ(地水火風などの)諸要素やエネルギー、条件がはたらいているということが理解できるでしょう。唯一の違いは、人間には思考することができ、存在の本質を理解することができる、ということです。
 一方、世界(人間が認識している対象)のほうは、単に諸要素とエネルギーのはたらきだけから成っているのです。


心のエネルギー

 人間の心は並外れたエネルギーを持っています。それと同じエネルギーを他に見つけることはできません。
 しかし、この心は気ままで野生的です。ですから心を訓練し、育て、役立つようにコントロールすることが大切なのです。訓練しなければ、野生の心はさまざまな問題を引き起こすでしょう。
 心を厳しく訓練して、適切に使うなら、心に調和や理解、平和が拡がっていくでしょう。それは自分だけでなく、他の生命のためにも、多大な善い行為をすることができるのです。


ものごとの本質は「無常」

 人間の心は並外れたエネルギーを持っています。それと同じエネルギーを、ほかに見つけることはできません。しかし、その心は気ままで野生的です。ですから、心を訓練し、育て、役立つようにコントロールすることが大切なのです。訓練しなければ、野生の心はさまざまな問題を引き起こすでしょう。

 心を厳しく訓練し、適切に使うなら、心に調和や理解、平和が拡がっていきます。その心は自分だけでなく、他の生命のためにも、多大な善い行為をすることができるのです。

 例を挙げて考えてみましょう。巨大な滝があります。何百メートルもの高い崖の上から、水が巨大な滝となって流れ落ちています。でも、このエネルギーは無駄になっています。そこで、人間がこのエネルギーをコントロールして、電気に変換するなら、エネルギーは非常に役立つものとなるでしょう。
 ただ忘れないでいただきたいのは、いくら心をコントロールしようとも、あるいは、日々の苦しみを避けるために前もってどんな対策を講じようとも、「無常」の法則がこの世界のあらゆることを変化させていきます。「無常」が、一切のものごとの本質なのです。

 存在しているものは、世の中の諸々の条件によって変化し、消えていきます。諸々の条件(諸要素やエネルギー)が組み合わさることによって、さまざまな対象が成り立っているのです。

 私たちは対象を見たり、聞いたり、触れたりすることができます。そのため、「対象は固定しているもので、永続的なものである」という錯覚が生まれるのです。
 しかし、どんな対象も変化し、消えていくものです。「目に見える対象が時間とともに変化したり消えていく」ということは、「その対象を構成している諸要素とエネルギーが変化し、消えている」ということです。無常である諸要素とエネルギーが接触することによって、対象も変化するのです。
 でも、エネルギーが消えることはありません。新しい別の形になって続いていきます。エネルギーの流れは、終わることなく延々と続いていくのです。これが、自然の現象です。そして、あらゆる構成要素はこのように構成されているのです。


問題を引き起こすものは?

 「無常」ということは、何か特別な精神的存在が引き起こしているのではありません。また、私たちが原罪の罰を受けているのでもありません。
 仏教徒は、無常を「自然の現象」とみなしています。でも多くの人々は、「問題」だと考えているようです。なぜでしょうか? 
 それは、変化や無常は彼らの「永遠に生きていきたい」という願望を壊し、失望させるからです。心に不満が生じます。天国や地獄など何処かに永遠の境地がある、と信じたときから、人生に不満が生じるのです。
 また、自然のエネルギーの影響を受けて私たちに問題が起こることもあります。
 私たちの身体は、自然の諸要素の一部です。自然のエネルギーは、身体の諸要素に影響を与えています。その影響のために、身体と心に問題が生じている場合もあるのです。
 目に見えない何らかの未知の力も、私たちの生活を妨げていることがあります。それを、悪霊が引き起こしているのではないかと考える人もいます。そのような邪見(間違った考え)のせいで、恐怖や妄想、疑惑、迷信などが増大していきます。心が不安になると、身体に痛みを感じるのです。


心が「善・悪」をつくる

 しかし、心をよく訓練し、理解を持って心を育てるなら、問題が起こらないように予防することもできます。お釈迦様は次のようにおっしゃっています。
 
 心はあらゆる善と悪の先駆者である。
 心が、善と悪をつくるのである。


 私たちはさまざまな問題を抱えて苦しんでいます。問題の原因は、妄想です。そしてこの妄想、恐怖、無明を取り除くことができるのは、お釈迦様が説かれた真理の教えを実践することしかないのです。それ以外、ほかにはありません。


なぜ問題を解決できないのか?

○自分の行為の責任は自分にあることを知らない

 迷信的な宗教に関わると、人は自分が受けてきた教育(理性)を賢く使わなくなってしまいます。このことをよく理解して、心を強くし、確信を育て、何かに縋りたくなるような弱い心を取り除くように努力することが大切です。
 この弱い心を取り除くなら、多くの問題を乗り越えることができるでしょう。たいていの場合、迷信を信じるなどの妄想の問題は消えていくでしょう。
 狂信家の中には、「人に起こるよいことはすべて神が行なっている。うまくいっていないことがあれば、悪魔のせいだ」と考えて現実から逃げようとする人もいます。
 仏教徒は、このような信仰には意味がないと考えています。世の中のほとんどの人は、自分が幸せでないのはなぜか、なぜ生きることに満足していないのか、問題の責任は誰にあるのか、ということを理解しようとしません。
 お釈迦様はこのようにおっしゃいました。

 自分が行なうすべての行為の責任は、自分にある。
 自分の行為が、自分の満足と不満をつくるのである
。 


○外界がつくる問題

 「自分に責任があり、直接自分に影響をもたらす問題」以外にも、「人種、宗教、文化、経済などの問題」もあります。後者の問題のほうは、人類を分離させ、差別を引き起こします。この間接的な問題も、私たちの不満や問題の一因となっているのです。

○信仰の問題

 宗教の本来の目的は、「人々が和合し、調和した生き方を育て、人間性を養い、人々を正しい方向へ導くこと」にあります。しかし、現実は他の宗教や宗派を差別したり嫉妬したりするために利用しているところもあるのです。
 実際のところ、人類は宗教を平和を保つために使っていません。他宗教を妨害し、憎むために使っているところがあります。この他宗教を敵視する態度と、堕落した宗教競争が、世界の多くの地域で流血を引き起こしているのです。
 同時に、自分たちの迷信的な信仰を貴重な文化や伝統の一部とみなして大事に扱っている一方、他の文化や伝統をばかにしている宗教家もいます。「我が宗教こそ唯一絶対である」と、証拠もないのに主張する宗教家がいるのです。そのような人たちは政治権力や物品、優越感を獲得するために、自我を増大させているのでしょう。

○財の問題

 財を多く蓄えれば蓄えるほど問題を解決することができると考えて、億万長者になろうと懸命に働いている人もいます。
 でもたとえ億万長者になったとしても、それからは予想もしていなかったさまざまな問題︱︱心の不安や動揺、財を盗まれないように敵から守ること、維持することの困難︱︱などに直面することになるでしょう。これは「財をいくら蓄えたとしても、心の問題を解決することはできない」ということを明確に示しています。
 財があれば、一部の問題を解決することはできるでしょう。でも、世の中の幸せをすべて獲得することはできません。財をいくら持っていたとしても、自然や心の問題を取り除くことはできないのです。

○知識の誤用の問題

 偉大な哲学者や思想家、合理主義者たちは、人間の心の弱さと、その克服法を示しました。しかし一般の人たちは、それは単なる理論であって自分たちの問題を解決することはできない、と考えているところがあります。ときどき、知識のある人は知識のない人よりも多くの問題を引き起こすことがあります。それは、エゴで利己的な意見を拡大させるため、知識がさらなる問題を引き起こすのです。

○善い行為をしても問題が起こる

 思いやりや忍耐、寛容、正直、施しなどのような善い行為をしていても、問題が起こる場合もあります。世の中にはずるい人がいて、善行為をする親切な人を不当に利用しようとする人がいるのです。したがって、善い性格も賢く使わなければならないのです。

○社会福祉

 社会福祉の活動家たちは、人々の問題をなくそうと頑張っています。でもいくら貢献したとしても、ある限られた問題を軽減することができるにすぎないのです。

○国の政策の問題

 国の財産や収益を国民に等しく分配することによって国民の問題を解決しようとする社会もあります。しかし、その方法も人間の問題を解決するためにはあまり効果的ではありません。なぜなら、その方法は利己的で、狡猾なところがあり、怠惰やさまざまな欠点が、状況を混乱させるからです。

○科学教育の問題

 現代の科学教育は、世の中に平和や幸福、安全を促進させているというよりはむしろ、多くの問題を引き起こしてきました。

○法律の問題

 政府は、法律に従わない人々を罰し、社会の平和と秩序を保とうとしています。にもかかわらず、世界中から悪と不正がなくなることはありません。逆に、急速に拡がっているのです。

○無知な人

 無知な人は、問題に対処するために魔術や超能力、マントラ、呪まじないなどに頼っています。でも、そのような迷信が実際どのくらい問題を解決するのか、知る人はいません。

○他人を害する人

 自分の問題に対処するために、他者を殺したり、破壊したり、災難を引き起こしたりする人もいます。でもそれは、さらなる問題を引き起こすだけなのです。

○財政援助

 財政的な援助を行なうことによって、人々の生活様式を改善し、問題を解決しようとする人もいます。

○宗教家の問題

 宗教家のなかには、天国の話をして人々を誘惑したり、悪いことをすると地獄に落ちると言って人々を脅す人もいます。


問題の原因はエゴ

 このように、問題を避けるためにどんな方法を使ったとしても、日々の生活の中でより多くの新しい問題にぶつかるものです。なぜでしょうか? それは、ほとんどの問題の主要な原因は「心が未熟であり、利己的である」ということを理解していないからです。

 原始人の生活を研究してみると、彼らには比較的問題が少なかったということがわかります。それは、問題の大部分が生存するために必要なものだけに関連していたからです。

 一方、現代の、いわゆる文化的な社会にみられる問題は、人が生存するためではなく、あまりにも多くの快楽を求め過ぎているがために起こっていることがほとんどです。大勢の人が「生きる目的は欲望を満たすことである」と思っているのです。


現代の教育システム

 現代の教育システムは、よい仕事に就くことを目的にして行なわれています。それは学生たちに、より学問的な知識を身につけさせ、利己的な人間に育てています。道徳を育てることをせず、巧妙な人問を育てているのです。そのように育てられた人のなかには、自分だけが利益を得るならば、他人や世界で何が起ころうとも気にしない、という人もいます。
 狡猾で、自分の欲望を満たすために科学的方法を用い、それによって自分の不安だけでなく、他の生命の不安も増大させているのです。


欲 望

 人間は他のどの生きものよりも利己的であり、快楽を貪っています。他の生命の幸せを考えることをせず、種(しゅ)の生存をまったく考えことをしないで、世俗の生活と欲望を楽しんでいます。欲望の強い人は、楽しむために長生きしたいと考えているのです。

 これまで蓄えてきた財産に執着し、死ぬときに自分の財産を置いて逝くのを嫌がり、死にたくないと考えています。

 他の生きものには、このような利己的な考えをすることはありません。自分が「生きる」ためだけに、五感を使い、他の生命を故意に傷つけることなく、自然に生きているのです。

 人間だけが、自分が食べられる以上のものを貯蔵する、と言われています。他の動物たちは、自分が必要とするものだけを自然からとって食べています。必要としないものは、他の生きもののために残しておくのです。
 現代社会では、人間は健康をないがしろにし、欲望の奴隷になるまで欲望に耽っているのです。


死に向き合う

 この地球上で、人間は「自分はいつか必ず死ぬ」ということを理解することのできる唯一の生命です。だからこそ、死について不必要に悩むこともするのです。
 しかし、死をいくら心配しても、死がなくなることはありません。それならば、落ち着きをもって死を受け入れてはいかがでしょうか。
 シェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』の劇のなかでこのような言葉を述べています。
 「私がこれまで見たり聞いたりしたことのなかで最も不思議なのは、人が死を恐れているということだ。死は誰も避けられない。死ぬときは、死ぬのだ」
 死や死後のことについて、まったく気にしない人もいますが、大多数の人は存在の問題や来世のことを恐れています。動物や鳥、魚たちには、死や死後のことについて悩むという問題はありません。


結 論


 問題を解決するために私たちがどんな方法を用いたとしても、「自分の心を育て、利己性と欲望を減らすまでは、心が満たされることはない」ということを理解することが大切です。
 お釈迦様は、「人間の問題の性質を理解する方法」と「問題を乗り越える方法」を非常に明確に教えられているのです。            

(了)

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"Who creates problems?" by Ven. K. Sri Dhammananda Thero.
Buddhist Missionary Society, Buddhist Maha Vihara, Malaysia.

翻訳 : 出村佳子


生きとし生けるものが幸せでありますように








 
 
© yoshiko.demura