仏教と政治

本文へジャンプ
K.スリダンマーナンダ長老
Ven. K. Sri Dhammananda Thero 


Buddhism and Politics
仏教と政治

 仏教は、世俗的な事柄をすべて超越しています。それでも政治に関しては、よい政治を行なうためのアドバイスをしています。
 お釈迦様は王族のカーストの生まれであり、自ずと王や王子、大臣たちとかかわりを持つ環境におかれていました。
 しかし、このような出生や人間関係があるにもかかわらず、お釈迦様は政治的な権力を仏教を広めるために使いませんでした。また、仏教を不正に利用して政治の力を得ようとすることも認めませんでした。
 ところが今日では、多くの政治家がお釈迦様のことを共産主義者だとか資本主義者、帝国主義者などと言い、政治にお釈迦様の名前を持ち込んで、利用しようとしています。彼らは、現代の政治思想はお釈迦様の時代の相当後になってから西洋でつくられたものであるということを忘れているのです。
 私利私欲で、お釈迦様の偉大なる名前を利用しようとする人たちは、「お釈迦様は世俗的な事柄をすべて超越し、究極の覚りを開いた正自覚者である」ということを思い起こさなければなりません。

 宗教を政治に混ぜ込もうとする特有の問題があります。
 宗教の基盤となるものは道徳、信、清らかさであり、一方、政治の基盤は権力です。これまで長い歴史の中で、宗教はしばしば政権を握る人々や、権力行使の正当性を確保するために利用されてきました。戦争、征服、迫害、非道、暴動、文化や芸術品の破壊を正当化するために、宗教が利用されてきたのです。
 政治的な意図に利用されるとき、宗教はその高尚な道徳観を捨てなければならず、世俗的な政治の要求のために道徳の価値を貶めることになるのです。


仏教の政治観

 仏教は、新しい政治機関や政治体制を創ることについて指示することはしません。基本的には、社会を構成する個人を改善することにより、また社会が国民の福祉を改善し、資源を公平に分配し、人間の尊厳や理性を重視するよう、教えを示すことによって、社会の諸問題にアプローチするのです。

 政治が国民の幸福や繁栄を保護することには限界があります。
 どんなに理想的な政治に見えたとしても、国民が欲や怒り、無知に支配されている限り、政治が平和や幸福をもたらすことはできません。
 さらに、たとえどんなによい政治体制があったとしても、人々が必ず経験しなければならない普遍的な要素があります。それは、
 ・善悪の業(kamma)の影響、そして
 ・世の中は無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta)に特徴づけられているのだから、真の満足も永続する楽もない
という二つのことです。仏教は「天界にも梵天界にも、輪廻の中にはどこにも本物の自由はない」とみなしています。

 基本的人権を保障し、権力の利用に抑制と均衡が保たれている正しい政治体制があることは、社会の幸福には重要な条件でしょう。だからといって国民は、自由を完全に保障してくれる絶対的な政治を探し求めることに時間を浪費すべきではありません。
 完全な自由というものは、どんな制度の中にも見出せるものではなく、「自由な心」の中にしか見出せないのだから。
 真の自由が得られるのは、自分の心を観察し、無知と渇愛の鎖から解き放たれるほうへ努力するときです。善い言葉と善い行動を通して人格を育て、心を鍛え、心の可能性を引き出し、覚りという究極の目的に達するために仏教を用いるときにのみ、真の自由が得られるのです。

 これまでのことから、「政治から宗教を切り離すことは重要である」こと、また「政治が国民に平和や幸福をもたらすには限界がある」ことが理解できると思います。


それから、現代の政治体制とよく類似するお釈迦様の教えがいくつかあります。

○すべての人間は平等である

 まず、エイブラハム・リンカーンよりもずっと前に、お釈迦様は「すべての人間は平等であり、人間の社会階級やカーストは社会が作った人工的な壁である」と説かれました。お釈迦様によれば、人間を分類するなら﹁道徳の質﹂に基づいてするように、と言われています。

○社会協力と社会参加

 第二に、仏教は、社会に協調することや活発に参加することを促しています。これは現代社会の政治でも積極的に進めていることです。

○法と律を守る

 第三に、お釈迦様の後継者として任命された者はいないのだから、仏教僧団は法と律、いわゆる「法の秩序」に導かれています。今日(こんにち)でも僧団は比丘(僧)の行為を定め導く「法の秩序」を守っているのです。

○民主主義

 第四に、お釈迦様は会議と民主主義を薦められました。これは比丘の社会で見られ、比丘全員に、一般的な問題について決定する権利があるのです。
 注意を要する深刻な問題が起こったとき、その問題は比丘サンガの前に出され、今日(こんにち)おこなわれている議会制民主主義体制と同じようなやり方で議論がされました。二千五百年以上も前の、インドにおける仏教の集会のおこなわれ方が、現代の議会制度の基盤になっているのです。これには多くの方が驚くのではないでしょうか。

 仏教は政治家にたいし、「道徳を守ること、そして責任を持って政権を利用すること」を教えています。
 お釈迦様は普遍的なメッセージとして非暴力と平和を説かれました。暴力を振るったり生命を殺したりすることは認めません。「正当な戦争などはない」と断言しています。
 次のように教えられました。

 勝者は怨みを生み、
 敗者は苦しみに臥す。
 勝利と敗北を捨棄した者だけが、
 安楽に臥す。
               

 お釈迦様は非暴力と平和を教えましたが、それだけではありません。戦争を防ぐために自ら戦場へ行った、最初で唯一の宗教指導者なのです。ローヒニー河を挟んで戦争しようとしていた釈迦族とコーリヤ族とのあいだの緊張を緩和されました。国王を説得し、相手国を攻撃することを思いとどまらせたのです 。

 お釈迦様は、「政府が善であることは重要である」と示され、こう教えられました。
 「政府の主導者が不正をし、不当な場合、その国は腐敗し、衰退し、不幸になる」と。また「政府は腐敗を防ぎ、人々の尊厳や理性を重視する立場に基づいて行動すべき」ということについても話されました。

 お釈迦様は『増支部経典』で次のように説かれています。
 「国の統治者が正しく善良なとき、大臣は正しく善良になる。大臣が正しく善良なとき、高官は正しく善良になる。高官が正しく善良なとき、役人は正しく善良になる。役人が正しく善良なとき、国民は正しく善良になる」

 『チャッカワッティ・シーハナンダ経』では、このようにおっしゃっています。
 「不道徳、犯罪、盗み、嘘、暴力、憎悪、残酷さなどは、貧困から生じることもある」
 王や政府は、貧困による犯罪を、罰を与えることによって抑えようとするかもしれません。でも、力で犯罪を取り除くことはできないのです。

 『クータダンタ経』では、「強引なやり方で犯罪を減らそうとするのではなく、経済を成長させること」を薦めています。政府は、国の資源を経済状況を向上させるために使うべきなのです。

 『ジャータカ物語』では、『ダサ・ラージャ・ダンマ』として知られる「善い統治者の十の徳」が説かれています。この十の項目は、今日になっても、国を平和に統治しようとする統治者に当てはまります。十の項目は次のとおりです。

 ①寛大で、自己中心的ではないこと
 ②高い道徳性を保っていること
 ③国民の幸福のために自らの楽しみを進んで犠牲にすること
 ④正直で、誠実であること
 ⑤親切で、やさしくあること
 ⑥国民の模範となるべく質素な生活を送ること
 ⑦憎しみを持たないこと
 ⑧暴力を振るわないこと
 ⑨忍耐があること
 ⑩世論を尊重し、平和と繁栄を促進すること 
 
 さらに、お釈迦様は統治者について次のように教えられています。
 ・善き統治者は、公平に行動し、偏見を抱かず、国民を差別しない。
 ・善き統治者は、国民にたいし、いかなる憎しみも抱かない。
 ・善き統治者は、正当なことであるなら、恐れずに法を執行する。
 ・善き統治者は、執行する法について明確な理解を有していること。統治者に権限があるからという理由で法を執行してはならない。良識を持ち、理に適う方法で執行すべきである。
   (チャッカワッティ・シーハナンダ経)

 『ミリンダ王の問い』では、次のように述べられています。
 「(統治者として)不適格であり、能力がなく、道徳を守らず、不正をし、無力で、王位に就くに値しない人が、王位に就くか権力を握る統治者になるなら、その人は苦しみを受けるだろう。(統治者として)不適格で、相応しくないのに、主権の座に不正に就いたからである。
 統治者が道徳を守らず、社会の法律を破り、罪を犯したなら、他の人々と同様に罰を受ける。
 また、国民から財を奪う統治者は、非難される」

 『ジャータカ物語』では、「罪のない者を罰し、罪を犯した者を罰しない統治者は、国を統治するのに相応しくない」と述べています。
 
 王は常に自己を成長させ、身・口・意の行為を注意深く調べ、国の統治にあやまちがないかどうか、国民の意見に耳を傾ける。もし正しく統治していないなら、国民は「不適切な扱い、罰、徴税、抑圧、腐敗などで悪い統治者に破壊される」と考えて不平をぶつけるだろう。そして、さまざまなやり方で反発するだろう。
 反対に、正しく統治するなら、国民は王にたいして「長生きしますように」と感謝するだろう。 (中部経典より)

 お釈迦様は、このように強調されました。
 「統治者は道徳を守り、公の権力を国民の幸福を向上させるために使ってください」と。

 紀元前三世紀、アショーカ王は、お釈迦様のこの教えに強く心を打たれました。そして、模範的な政治を実践をされたのです。法に基づいて生き、法を説き、国民と、他のすべての生命にたいして慈悲をもって役立つことを決意しました。隣国にたいしては「慈悲を実践して、侵略することはない」と告げ、遠方の国王たちにたいしては、特使を派遣して「平和と不侵略のメッセージ」を伝えました。
 アショーカ王は、正直で誠実、慈悲があり、善行をし、非暴力を実践し、すべての生命にたいする思いやりある行為を行ない、浪費せず、欲張らず、動物を傷つけないなど、社会的な道徳を積極的に実践しました。
 王は、宗教の自由を認め、互いの信条を尊敬することを薦めました。
 定期的に農村へ行き、法を説きました。
 人と動物のために病院を建て、薬を提供し、道路沿いに樹木を植え、井戸を掘り、休憩所や水飲み場などを整えるなど社会事業にも力を入れました。
 動物にたいする虐待行為を厳しく禁じました。

 お釈迦様は、「社会の改革者」と呼ばれることもあります。さまざまなことを改革されましたが、その中でも「人はみな平等である」ことを理解して、カースト制度を認めませんでした。

 それから、
 ・社会の経済を向上させることの重要性、
 ・富裕者と貧困者のあいだで財を公平に分配することの必要性、
 ・女性の地位向上、
 ・政府や行政において人間の尊厳・理性を重視する立場を取り入れること、
 ・欲ではなく、人々を慈しみ思いやることで社会を築くこと、
を教えられました。

 これ以外にも、お釈迦様は人類にたいして偉大な貢献をされています。後にも先にも他の社会改革者たちが考えつかなかったことを発見し、実践されたのです。いわゆる、人々の心に巣くう病の最も深い根本部を治すことによって、改革されたのです。

 真の改革ができるのは、人の心だけです。外の世界(社会)を強引に改革しても、それは長続きしません。根がないからです。
 他方、人の心を改善し、そこから生じる改革には、根があります。一つ一つの根が、樹の枝葉に栄養を与えるのだから。改革が起こるのは、人々の心が整い、真理と道徳、仲間を大切にし、心が明るく活動しているときなのです。

 お釈迦様が説かれた教えは、政治哲学に基づくものでも、世俗的な快楽を薦める教えでもありません。涅槃に達するために、涅槃へ至る道を教えられているのです。つまり、この世に縛り付けている心の渇愛(Tanha)を滅することが、仏教の究極の目的なのです。お釈迦様は 『ダンマパダ』でこのように説かれています。
 「一つは利得に導く道、一つは涅槃へ至る道がある」

 これまで政治について述べてきましたが、仏教徒は政治に関与することができない、あるいは関与すべきではない、という意味ではありません。政治は、社会の現実です。国民の生活は、それぞれの国の政治制度で決められている法令と経済システムで形づくられています。
 そこで、もし仏教徒が政治活動に関わろうとするなら、そのときは政治的な権力を得る目的で仏教を誤用してはなりません。一方、清らかな生活をするために世俗を離れた出家者は、政治活動には積極的に関わらないほうがよいでしょう。(了)
-----------------------------------


翻訳:出村佳子

生きとし生けるものが幸せでありますように









   © yoshiko.demura