仏教の道 How to Practice Buddhism  本文へジャンプ



法(Dhamma)という言葉は、お釈迦さまが教えを説かれたときに使われた非常に重要な言葉です。

法とは究極の真理のことであり、また、私たちが尊厳と理性を保ち、立派に正しく生きるために従うべき道のことです。仏教は、一般的に定義されている「宗教」religion とは性質がまったく異なります。誰でも自由に仏教を学ぶことができますし、仏教徒になるために強制的に守らなければならない儀式や儀礼もありません。一方、宗教(religion)とは、精神の発展や魂の救済を求めて祈りや厳しい儀式儀礼をおこなったり、外部の存在に依存することを意味します。

仏教では、苦しみの世界が四つあると説いています。苦しみの世界に堕ちるのは誰のせいでもなく、自分がやった悪行為の結果なのです。普遍的な「道徳の法則」に逆らった者は、四つの苦しみの世界、すなわち地獄界、畜生界、餓鬼界、修羅界のいずれかに転生します。これら四つの苦界は、どこか特別の場所にあるのではありません。生命が住(じゅう)することのできる宇宙の至るところにあるのです。他方、道徳を守っている人は、仏教(法)を実践して善い人間として生きていますから、四つの苦界に転生することはありません。ですから私たちにとって最も重要なことは、お釈迦さまが説かれた法に従って生きることです。仏法僧の三宝を信頼し、その意味も理解しなければなりません。三宝に対する理解と確信を持ったとき初めて、祝福や功徳、導きが得られるのです。口先でいくら「自分は仏教徒だ」と言っていても、三宝の知識や理解がなければ善い結果は得られないでしょう。

生命はすべて、自分がつくる業(kamma)に従って、繰り返し繰り返し輪廻のなかを転生する運命にあります。業とは何でしょうか? これは非常にシンプルな言葉で説明することができます。

  生死輪廻のなかで
  善いことをすれば
  今生でも来世でも善い結果を受け
  悪いことをすれば
  今生でも来世でも悪い結果を受ける

私たちは生存するために、この世の中で絶えず苦しんでいます。「我がある」「私がいる」という間違った概念を持っているために、怒りや嫉妬、欲、敵意などの悪い感情を抱いて苦しんでいるのです。自分を害する人たちをことごとく打ち負かせば自分は生き残れる、世の中は適者生存の世界だ、と考えています。また、たくさんの欲望を持っているにもかかわらず、それらすべてを手に入れることができないために、悩んだり悲しんだりしています。さらには、嘘をつき、詐欺を働き、浮気をし、他人の幸福を邪魔することによって自分の人生を楽しんでいるという面もあります。このように、私たちは善い行為よりも悪い行為をする傾向があります。「私がいる」という概念のせいで、他人を犠牲にしてまで自分を守ろうとし、悪行為に陥りやすくなっているのです。

自分がやった悪行為や善行為に従って、死後、異なる形態に輪廻転生します。お釈迦さまが説かれた法に従うなら、悪行為を避けて、幸福を得ることができます。天界や人間界のような善の世界に転生することができるのです。宇宙の法則(自然法則、真理)を理解して、人間としての価値を向上させ、他の生命と調和することによって、私たちは素晴らしい、思いやりのある人間になれるのです。死後も、四つの苦しみの世界に転生することはありません。

しかし仏教では、喜びの多い世界に転生することが究極の目的ではない、と説いています。善行為を積めば、天界や人間界などの幸せな世界に生まれ変われるでしょうが、これらの世界でも、心が満足することはないのです。そうした幸せは束の間のものであり、自分が積んだ善業が尽きたときには死を迎え、残っている業に従って次の世界に転生しなければならないのです。ですから、賢い仏教徒は世俗的な喜びを得ることぐらいで満足しません。懸命に努力して、心を清らかにし、智慧を育てるのです。智慧を育てることによってのみ、私たちは最終的に輪廻転生もない、業もない、苦しみもない、涅槃に至ることができるのです。智慧を育てれば、体の苦しみも心の苦しみも、すべての苦しみが終焉します。ですから、苦しみを終わらせることを人生の究極的な目標にすべきです。しかし、私たちがやっているのは、苦しみを避けるために必死に楽しみを追い求めていることです。間違った道に進んでいるかぎり、苦しみを終わらせることはできません。もし本当に永久的に苦しみを終わらせたいなら、正しい道に進まなければなりません。この正しい道を、お釈迦さまは明確に教えられたのです。


仏教の基盤「戒・定・慧」

お釈迦さまは正しい道を教えられました。これは、戒(道徳・Sila) 定(落ち着き・Samadhi) 慧(智慧・Panna)の三つの段階に分けることができます。戒・定・慧は仏教の基本であり、三本柱です。幾生涯にもわたって精進し、この三つを育てることによって、私たちはこの上ない幸福に至ることができるのです。

まず、「戒」 Sila (シーラ)について説明いたしましょう。これは、「戒律を守ることによって道徳を育てる」という意味です。私たちは、他の生命に害を与えず、穏やかに生きることを学ばなければなりません。簡単に言うなら、他の生命の安全や幸福を妨げないように生きることです。このような生き方は真に偉大な生き方です。戒律、善行、規律、道徳はどれも「Sila」の意味になります。Silaは、正しい道に進むための基盤であり、最初にやるべきことです。家を建てるとき、基盤がしっかりしていなければ、その建物は非常に不安定でぐらぐらするでしょう。これと同じように、心もまず、戒(道徳)という基盤を築くことが大切なのです。現代人は「道徳的に生きる」ということの重要性をなかなか理解することができません。道徳とは、他人の生きる権利を尊重することです。世界は自分の利益のためだけにあると考えている人は、自分が欲しいものは何でも見境なく、世界から奪い取っています。他の生命のことを考えることもありませんし、植物や川、大気などの自然環境のことを気づかうこともありません。しかし最終的には、このような現代人の生き方が、自然のバランスを大きく崩し、結果として人類を破壊しているのです。他方、道徳を守る善良な仏教徒は、他のすべての生命の幸福をよく考慮し、尊重しています。これが「戒」なのです。

しかし、戒だけでは完全ではありません。定 Samadhi (サマディ)と慧 Panna パンニャー)も育てなければなりません。これから順に説明していきましょう。




道徳を育てたなら、次に集中すべきことは「心を統一する」ことです。人間はこの宇宙において究極の智慧、つまり「悟り」を開くところまで心を育てることのできる唯一の生命です。人間以外の生命には、智慧を開発することが難しいのです。ですから究極の悟りを開きたいなら、人間でなければなりません。神々でさえ、悟るためには、まず人間として生まれなければならないのです。というのも、神々は過去に積んだ善い行為の結果としてたくさんの喜びを享受することだけに留まるだけで、智慧を開発しようとしないからです。人間だけが自発的に新しく善い業をつくり、瞑想を実践することによって心を完全に清らかにする努力をすることができるのです。
              
人間の心には巨大な潜在的可能性が備わっています。しかしそれは、怒りや妄想、無知、欲望、わがままなど、多くの煩悩によって失われているのです。瞬間瞬間、無意味な行為をして心のエネルギーを浪費し、間違ったやり方で使用しています。私たちは、この巨大な心のエネルギーを、役に立つ善い目的のために使用することを知りません。お釈迦さまは、心のエネルギーをどのように使えばよいのか、また、苦しみから脱出するためにどのように使用すべきか、ということを教えられました。正自覚者である釈迦牟尼お釈迦様は、輪廻転生の最後の生において、王子としての生き方も、王国も、すべて断念して出家し、厳しい修行に耐えたのち、心の汚れを完全に落として自由を得、究極の悟りを開かれました。そして、お釈迦さまは確信をもって説かれました。どんな人でも心を育て、心を清らかにすることによって、お釈迦さまと同じ道をたどり、究極の幸福に至れると。

心のエネルギーをどれだけ浪費しているか、皆さんご存知でしょうか? 私たちは感覚器官を通して入ってくる外部のさまざまな情報について、無意味に妄想したり、怒ったり、欲張ったりして、膨大なエネルギーを浪費しています。お釈迦さまは人類に、この巨大な心のエネルギーを制御する、すでに実証された方法を教えられました。これがすなわち「瞑想(ヴィパッサナー)」です。瞑想とは集中力によって心のエネルギーを制御し、そこから心を訓練して管理することです。いくら信仰深く神々にお祈りをし、崇拝しても、あるいは儀式儀礼や祭事を執り行っても、心を育てることはできません。儀式儀礼や祈りでは、理性や智慧の開発、心の清らかさ、悟りに達することは望み得ないのです。お釈迦さまは「四念住経 (Sati Patthana Sutta)」で次のように説かれました。


 瞑想は、心を清浄にし
 涅槃を体得するための唯一の道である


ここで、仏教と瞑想とを混同しないように気をつけてください。仏教とは、お釈迦さまの教えの総合的な実践方法であり、これは日常生活のなかで実践できるものです。他方、瞑想とは心から汚れを取り除くための特別な実践方法です。戒律を守って身体の行為を制御できれば、瞑想をして心を育て、智慧を開発する準備が整います。存在の苦しみから確実に解放される唯一の道は、ヴィパッサナー瞑想なのです。お釈迦さまは「心を訓練し、心を清らかにすることに専念して、最終解脱を得なさい」とおっしゃいました。私たちの心は汚れていますが、ヴィパッサナーを実践することによって、悩みや苦しみなど、あらゆる煩悩が取り除かれるのです。でも、私たちがたいていやっていることというのは、悩みや苦しみを取り除いてもらおうと神仏に崇拝することです。しかし自分の心を訓練して「存在の本質」と「自己の本質」を理解しないかぎり、悩みや苦しみから解放されることはありません。

お釈迦さまが教えられたヴィパッサナーを実践することによって、悟りを開き、四つの聖者の位(くらい)、すなわち預流果(Sotapanna)、一来果(Sakadagami)、不還果(Anagami)、阿羅漢果(Arahat)に達することができます。お釈迦さまが教えられた法を理解し、法に基づいて実際どのような行為をすべきかということを知ったときにのみ、不幸をもたらす「悪行為」と、苦しみや無知から確実に解放される「善行為」とを区別できるようになるのです。


人間の行為

自分の性格を理解することが大切です。輪廻のなかの無始なる過去からずっと行(おこな)ってきたさまざまな行為が、今生での自分の性格を形成しています。ですから、私たちは性格がそれぞれ異なるのです。同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、考え方や性格、好み、行動の仕方はそれぞれ違います。この違いは、幾生涯にもわたって一人ひとりが行ってきた行為の癖なのです。たとえば一番上の子は凶暴な性格で、二番目の子は非常に信心深く宗教的な性格かもしれません。三番目の子は知性に富み、四番目の子は怠け者、五番目の子は正直で、六番目の子は狡賢(ずるがしこ)いかもしれません。こうした性格というのは、一人ひとりの心の癖なのです。

心の機能の一つに「識」(認識作用)と呼ばれるものがあります。この「識」という貯蔵庫に、輪廻における幾生涯のあいだの癖を溜め込んでいるのです。「識」は、非常に巨大な心の機能です。五つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身)を通して入ってくるさまざまな外部の情報(色・声・香・味・触・法)は、「識」に影響を与えます。そして認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)が生じるのです。また、識以外の三つの心の機能、受(感受機能)・想(表象機能)・行(形成機能)も、識をつくります。それから、死の瞬間には、識が肉体から離れ、新しい地水火風(宇宙の物質的エネルギー)と結合して、次の存在をつくります。生命はこのようにして現れるのであり、壊れてはつくり、壊れてはつくりを繰り返しているのです。

ですから、死後、確実に幸福になりたいという人は、今生の今から、真剣に善い心を育てる努力をしなければなりません。いったん心を清らかにする流れのなかに入り、注意深く心を育てるなら、来世においても、さらに心を育て続けることができるのです。このように心を清らかにするために心を訓練し、心の落ち着き(定)を育てることが、仏教徒として清らかな生き方をするための二番目のレベル、サマディ(Samadhi)なのです。


異なる性格

仏教を学ぶことによって、自分の性格が理解できるようになります。自分の心を理解して心の弱さを知るなら、心を訓練しやすくなるでしょう。心を訓練することが平和と幸福に至る唯一の道なのです。お釈迦さまは私たちに、心を観察し、分析する方法を教えられました。これを実践すれば、自分にはどんな汚れがあるのか、なぜ心を汚す煩悩が現れるのかが理解できるようになります。お釈迦さまは非常に実践的で現実的な方でしたから、それだけに留まりませんでした。さらに次の段階に進み、そういう「心の汚れをいかにして清らかにするか」という実践方法も教えられたのです。短気やわがまま、貪り、嫉妬、無慈悲などの汚れを落とし、心を清らかにする方法を教えられました。

心は、あらゆるものの先駆者である

これはお釈迦さまの言葉です。私たちがするどんな行為も、それは心から始まるという意味です。また、人権に関する国際連合教育科学文化機関のユネスコ憲章の前文には、有名な理念が次のように記されています。

 戦争は人の心の中で生まれるものであるから
 人の心に平和の砦(とりで)を築かなければならない

心から生じる悪い思考をすべてやめるなら、善い行為のみに従事することができるでしょう。これが仏教の実践方法です。しかし多くの人はたいてい、お釈迦さまのこの重要な教えを無視している傾向があります。その代わりに、儀式や儀礼に専念し、それによって苦しみから逃れようと安易な方法を求めているのです。ですが、単に祈ったり、神仏を崇拝するだけでは、苦しみはなくなりません。訓練して、心を育てなければならないのです。

仏教の道の最後の段階は panna (慧)です。これは超越した智慧という意味です。ここでいう智慧とは、単に学問的知識や科学的知識のことではありません。私たちは学問や書物を通して膨大な知識を集めることができます。しかしいくら知識を集めても、智慧を身につけることはできないのです。わがまま、憎しみ、無知などの煩悩が心を支配しているかぎり、智慧は現れないのです。真の智慧が現われるのは、心を育て、煩悩が完全に消滅したときだけです。智慧は光のようなものです。光が現れると暗闇が消えますし、暗闇が現れると光が消えます。一方が現れると、他方が消えるのです。ときどき、私たちの心に潜在している悪感情が、時を選ばずに、誘惑や怒りの強さに応じてパッと湧き起こってくることがあるでしょう。怒ったら、醜い顔になります。心に潜んでいる悪感情が、このようにして現れ、表情を曇らせるのです。たとえ長いあいだ宗教的な生活を送っている人でも、心を正しく育て、煩悩を完全に根絶していなければ、何か事が起こったとき、恐ろしい悪感情が現れてくるのです。

これまで話してきましたように、「戒・定・慧」がお釈迦さまの教えであり、仏道を歩むために実践しなければならないことです。最初に道徳(戒)を育ててください。次に、心の性質を理解して、心を落ち着かせること(定)に努めてください。そうすれば、心の汚れを清らかにする方法を発見するようになるでしょう。そして煩悩が取り除かれるにつれ、正しい見解(智慧)を育てることが可能になるのです。最終的には智慧を得て、身体の苦しみと心の苦しみから解放され、すべての善良な仏教徒たちが目指している究極の悟りを開くことができるのです。


二種の宗教

あらゆる既存の宗教は、二つのグループに分類することができます。一つはもっぱら信仰に基づく宗教であり、もう一つは心を清らかにする宗教です。信仰を重要視している宗教は、熱心に信仰することによってのみ救われると考え、心を育てたり清らかにすることはどうでもよいと考えています。たとえ道徳や戒律を守っていても神を信じなければ救われない、と教えています。他方、仏教は、信仰はそれほど重要なものだと考えていません。最も大事なことは心を清らかにすることであり、智慧によって心を清らかにしたとき、真理以外のいかなる邪見や信仰にも囚われなくなると教えています。信仰だけでは不安を取り除くことも、心を清らかにすることも、真理を理解することもできません。ですが私たちは理性を働かせたり分析したりするかわりに、信仰にしがみつきがちです。なぜなら、もし理性的に分析すれば、自分がこれまで頼りにしてきた信仰を失い、その結果、救われなくなると考えて怯えているからです。

お釈迦さまは、いかなる信仰も信じる前に研究し、調べ、試し、結果を観察するようにと教えられました。わざわざ何かに対して信仰心をつくらなくても、自ら徹底的に分析し、調査し、結論に達したとき、その十分な確認によって、真理に対する「信(確信)」が得られるのです。自ら真理を理解することによって、自動的に「信(確信)」が得られるのです。これは単なる信仰や信念ではなく、悟りなのです。お釈迦さまは「何も確かめずにいきなり信仰したり、拒絶してはなりません」と教えられました。人間には、理性的にものごとを考える能力があるのですから、他に頼らず、自ら考え、正しい見解(正見)をもってものごとを理解しなければなりません。理解できないことを信じるべきではありません。問題を深く探求しようとしない怠け者たちは、ものごとの真の姿を理解しようとせず、周りの人が言ったことをそのまま受け入れて、それに従うという安易な道を探しています。自分に自信がないために、周りの人の意見に従っているのです。これに対し、真の仏教徒は自尊心を持ち、自分の行為や救い、幸福については自分で責任を持たなければならないということを十分理解しています。

 自分以外、誰も自分を救ってくれる人はいない
 お釈迦さまは正しい道を示された


布施・戒律・瞑想

これまで、仏教の実践の道である「戒・定・慧」について学んできました。これとは別に「布施(dana)・戒律(sila)・瞑想(bhavana)」という、もう一つの道があります。

まずは布施(dana)です。布施とは、他の生命の役に立つように貢献したり奉仕したりすることです。このとき、下心(したごころ)や不純な動機、自己中心的な意図がわずかにでもあってはなりません。

布施をすることの第一の目的は何でしょうか? 本物の仏教徒は、布施をするとき、見返りを一切求めません。自己中心的な心を減らすために布施をするのです。私たちは普通、自己中心的な心を持っているために数限りない過ちを犯し、他の人々や他の生命に害を与えています。このような生き方とは反対に、他者の利益のために貢献することによって、自己中心的な欲望が減ってゆき、慈しみや思いやり、智慧が成長するのです。したがって、布施を行う第一の目的は、心を成長させるためであり、これが仏教実践の道の最初のステップなのです。

二番目の段階は、戒律(sila)です。戒律とは道徳を育てることで、これについてはすでに説明しました。ここでは、在家者が守るべき五つの重要な戒律についてお話いたしましょう。
五つの戒律とは、生き物を殺さないこと、盗まないこと、性的不品行をしないこと、嘘をつかないこと、酒類・麻薬を飲まないことです。この五戒を守る人は、清らかな生き方をするだけでなく、他の生命が幸福に生きるのを邪魔しないという理由から、他の生命の役に立っているのです。五戒を守り、聖なる八正道に従って清らかな生き方を送ることによって、心は成長し、その「生」は大変有意義なものになるでしょう。さらに心が成長している人は「物を所有することや世の中の地位、権力にはまったく意味がない」ということを理解して、俗世間を離れ、より大きな平安と幸福を得るために、より多くの戒律を守るのです。

大勢の人々は、宗教の戒律や命令、規則に従っています。でもそれは「戒律を破ったら神に罰せられる」という強い信仰を持っているからです。神に対する畏怖、罰に対する恐れ、だから悪いことをしないというのが、彼らにとって戒律を守る第一の理由なのです。つまり、善行為をするのはそもそも善い心や清らかな心を持っているからではなく、神に対する恐れから悪い行為や思考を抑制しているのです。心の性質を理解しないかぎり、悪い思考は制御されることも、完全に取り除かれることもないまま、常に心を支配しています。ですから心がガードされていないときはいつでも悪い思考が表れるのです。神に罰せられるのが怖いという理由で殺生をしないという人は、まったく心を育てていませんし、残酷性や憎しみを取り除こうとしていません。また、他の生命に対する慈しみも育てていません。そういう人たちは人間らしい慈しみの心に欠け、自己本位の動機にもとづいて、自分が安心感を得るためだけに神への恐怖を持ち続け、殺生をしないだけなのです。

仏教徒が不殺生戒を守っているのは、誰かに罰せられるのが怖いという恐怖からではありません。他の生命に残虐な行為をし、苦しみを与えるのが危険だと考えているからです。殺生の危険性を考慮して、殺生をしないのです。このとき同時に、思いやりや慈しみ、同情、智慧などの徳が育っています。 

殺生に関して、お釈迦さまはこのように教えられました。なぜ他の生命を殺すことが悪いのかが分らないなら、このように考えてみなさい。誰かがあなたを殺そうとしています。そのときあなたは何を感じるでしょうか。どれほど逃げようとするでしょうか。殺されることに怯えて、どれほど身体と心に苦しみを感じるでしょうか。どれほど激しい痛みを感じるでしょうか。これが「なぜ殺生をしてはならないか」を理解する最良の方法です。

 すべての者は暴力に脅える
 すべての者は死を恐れる
 我が身に引き比べて
 他者を殺してはならない
 殺させてはならない
      (Dhammapada129)

「なぜ人のものを盗んではならないか」ということが理解できないなら、あなたが大切にしている物を盗まれたと考えてみてください。どのように感じるでしょう? 
同様に、他の戒律も我が身に引き比べて考えてみるのです。

戒律は、日常生活の中で実践すべき具体的な方法です。単なる理論とみなしたり、権威者の命令や神の命令(この両者は報酬を与えるものでもあり殺人者でもある)とみなすべきではありません。理性を使って、善行為には善行為が、悪行為には悪結果があるということを理解すべきです。宗教を信仰している人の中には「我々は悪い行為をやらない。宗教がそう教えているから」という人もいるかもしれません。心を育てた人は、そのような道をたどることはなく、何をすべきか、何をすべきではないかということを理性的に判断するのです。

どの戒律を守るときも、自分のためだけに守っていると考えるべきではありません。他者を殺すことや迷惑をかけることをやめれば、それは結局、他者に恐怖を与えていないということですから、他者は安心して生きることができるのです。これは他者に対してすばらしい貢献をしていることになります。同様に、盗まず、嘘をつかず、騙し取らなければ、他者は安全に、幸福に、穏やかに生きることができるのです。もし、この世の中のすべての人が聖なる五戒を守るなら、人類はどれほど幸福になるでしょうか!


なぜ宗教が必要か

人間の心は、本質的に信頼できるものではなく、すぐに道徳を破ってしまうものです。この心の弱さを訓練するために、宗教が必要になるのです。昔の人々は、稲妻や雷、野生の動物、幽霊、悪魔のような自然現象を恐れていました。その後、幽霊や悪魔など多くのものには根拠がなく、単なる架空のものであるということが分かりました。現代では、幽霊や悪魔を恐れることも気にすることもなくなってきました。しかし、さらに恐ろしいものが現れたのです。それは人々の平和や幸福をやたらに壊したがる無慈悲な人間です。このような人間を、信頼のおける良い人間に改善することはかなり難しいものです。ある意味では動物のほうが人間より優(まさ)っているとも考えられます。動物には宗教や道徳というものはありませんが、自然の摂理に適切に従って生きています。生存するために本能に従い、自己を守るか餌をとる以外は、決して他の動物を攻撃しません。また詐欺をしたり、騙すこともありません。

他方、人間は正しく考え、正しく理解するために、宗教が必要です。わがままやごまかしを減らすために、道徳を学ばなければならないのです。人間は、利己的な目的を達成するためや、個人的な利益を得るために、心を悪い方向に使ったり、ねじ曲げたりすることができます。このねじ曲がった心を真っ直ぐにするために、宗教が必要になるのです。かつてアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)はこのように述べました。「原子力は世界中の人々を震えさせ、全世界の方向性を変えた。だが、そのような巨大なエネルギーを持つ原子力でさえ、人間の邪悪な心を変えることはできない」

心は、ねじ曲がり、信頼できず、危険なままです。これは原始時代からずっと変わっていません。宗教は、このねじ曲がった心を良い方向へ導くことができるのです。私たちが正しく道徳を守るなら、心は良い方向に改善されるでしょう。

ここで、宗教の定義を明確にしておかなければなりません。本書で示してきた「宗教」というものは、世の中で一般的に使われている宗教の意味とはまったく異なります。ここでいう宗教、つまり仏教のことですが、これはお釈迦さまの教え(真理)に従って、自己を救済する目的のために善い行為をし、心を清らかにしようと努力することをいいます。仏教は、祈りや願い、儀式儀礼など、いかなるものにも依存しません。お釈迦さまは私たちに「心の性質を探求しなさい」と繰り返し諭されました。心の性質を探求することで、心の弱さを理解することができます。そしてそのとき初めて心の弱さを取り除くための適切な解決法が見つかり、自己を救済することができるのです。仏教は「自己責任」の教えなのです。


瞑想(心を育てる)

最後の段階は、「瞑想・bhavana」です。これは、心を育てるという意味です。心を育てなければ、苦しみを終わらせるという人生の目的に達することはできません。

では、瞑想とは何でしょうか。これは瞬間瞬間の現象に気づく「ヴィパッサナー」のことです。ヴィパッサナーを実践することによって、心の汚れが取り除かれ、心が清らかになるのです。私たちは悟りという頂点に達するために懸命に修行し、努力しています。この究極のゴールにたどり着くための唯一の道は、お釈迦さまが教えられたヴィパッサナーを実践することなのです。現代社会は、昔に比べれば、いくらか進歩しました。単に「生存競争のためにもがき苦しむこと」から「物質的な喜びや快楽を得ること」へと進歩しました。しかし、人間の心は何も進歩していません。現代人は世の中の知識を、より多くの刺激や快楽を得ることのみに使っています。そしてそのようにして発見したものを「進歩」と考えているのです。商売の世界では、人々の欲望を満たすためにさまざまなものが開発され、コマーシャルを流し、一般の人々を刺激しています。昔は、欲望をかき立て、心に悪影響を与えるような、とんでもないコマーシャルはありませんでした。しかし今は、テレビや映画、エロチックなダンス、淫(みだ)らな雑誌など、多くの娯楽が人々の心を刺激しています。人間は欲望のとりこになり、道徳を失うところまで落ちぶれてしまいました。こうした刺激物は、心を混乱させ、不安にさせるのです。

しかし、五感を楽しませるものすべてが悪いと言っているのではありません。文化や芸術が五感を楽しませていることを否定することはできません。その中には、いくらかの点で、人間の精神を高めたり、自己の心を見つめさせたり、安らぎをもたらすようなものもあるのです。民族舞踊や歌、演劇ほか、多くの芸術の文化活動は、自分自身に、より気づきやすくするためにあるものです。野蛮な感情を引き起こすことなく、心をリラックスさせ、落ち着かせるためにあるのです。人間に感情があるということは当たり前のことです。それゆえ、心に潜在している野蛮な感情を引き起こさせない、健全で適切な娯楽が提供されるべきです。なぜなら、心が虚しく、からっぽなとき、心は非常に暴力的で残酷になりうるからです。「小人閑居して不善を為す」(徳のない卑しい人は、暇があると、とかく悪いことをするもの)という諺は、まさに的を射ています。したがって、心に安らぎを与え、存在の本質を理解する目的ならば、品のある適切な文化活動を、日常生活に取り入れても良いでしょう。しかし残念なことに、現代の消費社会は悪い文化に汚染され、昔の良き文化は廃れてしまったのです。


娯楽がもたらす影響

現代の「娯楽」の中には、非道徳的な娯楽がたくさんあります。娯楽施設に行ってみれば、それらがいかに私たちの心に悪影響を与えているかということがお分かりになるでしょう。そこの管理者たちの第一の目的は、お金を簡単に儲けることであって、人間の精神、文化、宗教に悪影響を与えているということに関しては、まったく気に留めることがありません。仏教は、いかなる種類の娯楽も勧めていませんし認めていません。なぜなら娯楽の多い俗世間の中で生活しながら仏教を実践するのは難しいからです。前回、仏教は品のある適切な芸術や文化は認めているということをお話しましたが、これはあくまでも「心に安らぎを与える品性のあるもの」に限られており、すべての芸術・文化に当てはまるわけではありません。人間の尊厳や品性を落とす芸術・文化は、いかなるものでも、やめるようにと教えています。

大昔、原始人たちにはわずかな問題しかありませんでした。たいていは食物や住む所を確保すること、そして社会で生き残ることといった問題でした。衣服を着るのは身体を守るためであって、現代人のように見せびらかすためではありませんでした。私たちはそのような原始社会のことを「不幸で野蛮な社会」と見なし軽蔑していますが、現代社会には不幸や問題がないと言えるでしょうか。現代社会には原始時代と比べものにならないほど、非常にたくさんの問題があります。そしてその問題のほとんどは人間がつくりだしたものです。現代人は落ち着きがなく、夜ゆっくり寝ることもできず、健全な食欲もありません。また、混乱がグローバル化しているため、どこにいても生きることが困難になっています。これが現代社会の特徴です。他方、原始人たちは、のどかに暮らしていました。リラックスする時間があり、食料を手に入れるのに十分な時間がありました。現代のように、互いに猛烈に競争する必要はなかったのです。

「原始人は幸福で、現代人は幸福ではない」と簡単に決めつけるべきではないと思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし大事なことは、現代人は度を越えて生き方を複雑にしているということです。もし私たちが欲望を減らし、祖先のように生活に必要なものだけに留まって生活するなら、本来あるはずもない問題は起こらないでしょう。現代の偉人、マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)やアルベルト・スバイツァー(Albert Schweitzer)は必要最低限のものしか持っていませんでした。彼らを見れば「幸福な人は無駄なものを持たない」ということがお分かりになるでしょう。お釈迦さまは「人間にとって最高の財産は充実感である」と説かれています。原始人は食物を確保するために森の中に入って動物を探し、狩りをしなければなりませんでしたが、それでもかなり充実して、自分たちの生活に満足していました。他方、現代人は巨大な高層ビルを建て、その中で何不自由なく生活していますが、そこには心の安心感というものがありません。鉄格子や鉄の扉に囲まれて、安全対策のためにあちらこちらに防犯ベルや盗難警報機が取り付けられています。なぜ、それほどまでに防犯装置が必要なのでしょうか。これが現代の発展なのでしょうか。このような中で暮らす現代人は、絶えず不安を抱え、怯えながら生活しているのです。他方、昔の人たちは、木の下でも洞窟でもどんな場所でも、恐れたり悩んだりすることなく、穏やかに眠ることができました。もちろん彼らにも問題はありました。すべての人には問題があります。ただ、現代人は問題を何千倍にも膨らませ、複雑にしているのです。それらはすべて必要のない無駄なものであり、どれも現代人がつくったものなのです。


立証済みの教え

お釈迦さまは、人間の心の強さと弱さを観察され、その後人類に「人間が生きるべき正しい道」を教えられました。お釈迦さまは、若い頃、他の人たちと同じように世俗の楽しみを享受しながら生活していました。王子であり、夫であり、父親であり、一国を統治する王様の息子であり、また美しいお妃と愛しい息子がいたお釈迦さまは、家族のことを慈しんでいました。しかし、それ以上に苦しみにさいなまれている人類全体のことを心配していました。お釈迦さまの慈しみは、自分の家族だけでなく、生きとし生けるものすべてに及んでいたのです。お釈迦さまには、人類が抱えている苦しみの解決法を発見するために、愛する家族への執着を断ち切る勇気がありました。そして世俗生活を離れ、修行し、ついに究極の悟りを開かれたのです。悟りを開かれた後、お釈迦さまは「私が体得した確信や悟り、救いを得たい人には、その方法を教えましょう」と、ご自身が得た悟りのすべてを解き明かしました。さらに「私が説いたことをそのまま信じてはなりません。偉大な人の話だからといって鵜呑みにするのではなく、自ら実践して確かめなさい」と教え、また「いくら熱心にお釈迦様を崇拝し、祈っても、悟りや救いを得ることはできません」と教えられました。


お釈迦様に帰依する

お釈迦さまは人類に「救いを得たいなら、教え(Dhamma)を守り、真摯に実践するように」と諭されました。お釈迦さまが偉大なる師であるからという理由で、盲目的にお釈迦さまを信仰するなら、それは本当にお釈迦さまに帰依しているとは言えません。お釈迦さまは私たちに、教え(Dhamma)に従って生きるようにと教えられました。お釈迦さまの教えに従って生きるとき初めて、「お釈迦様に帰依している」と言うことができるのです。

お釈迦さまは次のように説かれました。「私につきまとい、衣にしがみつき、いつも私のそばにいる弟子たちが大勢います。彼らは、お釈迦様と一緒にいると思っていますが、たとえ私のそばにいても、教えに従わず、心が汚れているなら、私から遠く離れているのです。一方、私から遠く離れたところに住み、私に一度も会ったこともない弟子たちもいます。しかし、その者たちが教えを守り、心が清らかなら、たとえ遠く離れていようとも、その者たちこそが私と一緒にいるのです」

かつて、お釈迦さまの偉大さに惹(ひ)かれ、いつもお釈迦さまを見ていた比丘がいました。ある日、お釈迦さまは「何を見ているのか」と聞きました。比丘は「お釈迦さまの姿かたちを見ると、ものすごく幸福を感じるのです」と答えました。お釈迦さまは「この汚い肉体を見て、何を得ようとしているのか。肉体を見ても、お釈迦様を見ることはできません。真理を理解する者だけがお釈迦様を見ます。真理によってのみ、お釈迦様を見ることができるのです」

仏像の前にひれ伏し、祈りを捧げている人がたくさんいます。仏像の中に「お釈迦さまが生きている」と信じている人も多いでしょう。しかし、私たちが見ている仏像は、聖者の偉大なる特質を、美術的に目に見える形に具現化して表現したものにすぎません。こうした美術は、信仰心の篤い人々が偉大なる師への献身を表し、崇拝するために、形ある象徴を作ったのです。ここからお釈迦さまやお釈迦さまの教え(真理)を表現する美術が発展しました。それらには、絵画や有形の像などさまざまなものがあり、このようにして仏教美術ができあがったのです。仏像を見ることによって「お釈迦さまはこのような姿かたちをしていただろう」と想像することができるでしょう。お釈迦さまは、智慧・成就・神聖・慈悲・静寂を兼ね備えた方であり、仏像はそれらの特質を表現した象徴です。精神的に優れた人が来るとその場が明るくなるように、仏像があるとその場は静寂で満たされます。落ち着きのある仏像を見れば、確かに私たちの心は静かになるでしょう。しかし「真理」を通して見るなら、間違いなく本物のお釈迦様を見ることができるのです。お釈迦さまが説かれた法を考察・実践し、生きとし生けるものに対するお釈迦さまの寛容性や落ち着き、静けさ、穏やかさ、慈しみ、憐れみ、悟りや究極の智慧を考察するときのみ、偉大なる徳と智慧をすべて備えた正自覚者であるお釈迦様を見ることができるのです。したがって、真理を学ばず実践しなければ、「真のお釈迦様を見る」ことはできないのです。


五種の実践法(伝統・文化・献身・知識・精神)

最後に、仏教の実践には五種の側面があるということをお話いたしましょう。五種の側面とは「伝統・文化・献身・知識・精神」です。これらは世界中のさまざまな地域で、人々の生き方や必要性、教育に応じて取り入れられ、実践されています。


■伝統

まずは「伝統」です。伝統は、私たちの祖先が当時の信仰に基づいて築きあげられたものです。昔の人々には教養がなかったため、その信仰の多くは、恐怖や妄想、疑い、迷信に根差していました。彼らは自分の身を守るためや健康を維持するために信仰的慣習をつくりあげ、それが伝統になったのです。伝統や文化が迷信的なものだからといって、私たちは伝統・文化をすべて否定すべきではありません。中には有意義なものもあり、人々の恐怖や不安を和らげたり、道徳的な生き方を保つよう組織的・集団的なやり方で活動するために発展したものもあるからです。そしてそれらの慣習のいくつかは、宗教の慣習に取り込まれていきました。ですから仏教の真の教えに馴染みが薄い人の中には「伝統的慣習が仏教である」と間違って捉えている人もいるのです。伝統・文化というものは、民族や国、時代によってそれぞれ異なるものです。それゆえ、自分たちの伝統は他の伝統よりも優れている、と考えてはなりません。伝統・文化は一つの生活様式であり、時代と環境によって変化してゆきます。それとは違い、お釈迦さまが説かれた普遍的真理は、決して変化するものではありません。このお釈迦さまが説かれた「普遍的真理」と、状況によって変化する「相対的真理」を区別することが大切なのです。

お釈迦さまは伝統・文化についてこのように教えられています。「十分に考えないまま、軽はずみに伝統・文化を受け入れたり拒否したりすべきではありません。もしそれが無意味なもので他の生命に害を与えるものなら、たとえ古くから受け継がれているものであっても、それに従ってはなりません。逆に、皆にとって意味があり役に立つものなら、何としてでもそれに従うことです」。

伝統の中には重要なものもあり、それはとりわけ宗教的儀式を執り行うときに人々の献身や意欲を引き起こします。伝統的慣習がないと、宗教それ自体は孤立してしまいますし、人々の献身も薄れてしまうでしょう。世の中には、心のよりどころを得るために宗教のもとで結集して伝統的宗教の慣習を堅く守り、それを「未来世代に譲り伝えていくべき遺産」として保持している人たちもいます。


■文化

二番目の側面は「文化」です。文化と宗教は、どこの社会でも密接に織り交ざっています。文化は人間社会の要(かなめ)になるものであり、文化を見れば、その人間の価値や技術、知性、芸術などが理解できるでしょう。文化とは、洗練され美しくされた伝統のことであり、芸術を楽しむための一つの手段として時代や環境に応じて適応し、発展してきました。善い文化活動を行えば、善い刺激を受けるでしょう。感情が落ち着き、心が満たされ、人格が向上します。アジアが繁栄しているのは多大に文化のおかげです。このアジア文化に大きく影響を与えたのが仏教であり、仏教が重要な役割を果たしているのです。

他方、文化も仏教を守り促進させることができます。文化を通して仏教活動を行うなら、私たちの日々の活動はより魅力的なものになりますし、生きた仏教として他の人々にも影響を与えることができるでしょう。仏教文化というものは、もともとお釈迦さまの教えである仏教から生まれたものですが、今では仏教的な生き方を理解するための踏み台になっています。たとえ仏教を知らない人でも、仏教の文化的活動に少しずつ参加してゆくことによって、仏教の価値が分かってゆくでしょう。さまざまな活動に参加することによって、次第に正しい知識や理解を育てる機会が得られるのです。仏教文化がなければ、人々は仏教の教えに見向きもしなくなる可能性があるのです。ただ例外として、十分な教育を受け、理解力があり、個人として立派な人間であるなら、それほど積極的に伝統的・文化的活動に参加する必要はないかもしれません。

仏教は、文化を豊かに充実させるために大きく貢献しています。事実、アジア諸国ではたいがい文化と仏教が密接に結びついています。舞踊や歌、芸術、演劇には、仏教からインスピレーションを得てつくられたものが非常にたくさんあります。文化がなければ仏教は無味乾燥で、つまらないものになりうるでしょう。それから仏教を実践するとき、他の伝統や他の宗教を邪魔することなく活動するなら、そうした礼儀正しさや穏やかな姿勢、寛容的で平和的共存の形が、一つの文化としてみなされることもあります。


■献身(奉仕)

三番目の側面は「献身」です。宗教において「献身」は非常に重要な要素です。何を信じようが、何を行おうが、献身がなければ、それは学問としてみなされます。学問は大切なものです。献身は人間の感情に関連しているものですから、私たちには正しい知識を得るための学問が必要になるのです。知識がなく、信仰に基づく献身だけでは、狂信や盲信に陥る可能性があるのです。

適切な宗教の中で献身的に活動すれば、心は確実に落ち着きますし、善い刺激が得られます。心が活発になり、恐怖や緊張、怒りなど多くの悪い感情が鎮まり、取り除かれてゆくでしょう。そうすると、もっと信仰を深めようと献身しますから、さらに自信を持って善い生き方に勤しむようになるのです。献身は、戒律(sila)のカテゴリーに入ります。戒律を正しく守ることによって、心は清らかになり、智慧が開発されます。これは精神を開発する中でも、より高度なレベルになります。戒律を守らないまま、献身や信仰しているだけでは、狂信に陥る可能性があるのです。

お釈迦様に敬意を表すこと、花を供えること、お経を唱えること、儀式を執り行うこと、仏教の歌を歌うこと、音楽や演劇を行うことなど、こうした活動は心を刺激しますし、落ち着きを与えてくれます。このような活動を行うことによって、自信が育つのです。献身が深く根づけば、いかなる苦しみにも耐えることのできる忍耐が育ちます。心が強くなり、困難に立ち向かえるようになるのです。


■知識

仏教を理解し実践するための四つ目の側面は「知識」です。伝統・文化・献身を実践することにより、さらに上の段階の「知識」に進んでゆきます。熱心に勉強し、たゆまず実践することによって、信仰や慣習の意味、人生の意義や目的、世の中の本質である苦と不満、また現象と無常ということに関して、自分の疑念を晴らそうと、さらなる知識や理解を習得することができるのです。知識と観察と集中を通してのみ、私たちは真理を明確に見、現象ということを理解し、教えに対する確信を得ることができるのです。理解から得た確信は、揺るぎないものです。しかし、お釈迦さまの教えを知識として学ぶだけに留まり、それ以上努力して実践しようとする人はあまりいません。知識を得た後、学んだことを実践に移さなければなりません。実践したときにのみ、有益な結果が得られるのです。仏教を実践するのに思想や哲学、伝統的信仰に依存する必要はありません。とりわけ個人崇拝に依存してはなりません。分かりやすく言いますと、救いを求めて他人に依存してはならないということです。たとえ仏教の知識が豊富な人でも、五戒を守らず、実践していなければ、それはスープの味を知らないスプーンのようなものです。単なる机上の知識だけでは人格を向上させることができません。心が清らかではないのに知識だけがあるというのでは、結局のところ疑念のみで終わるでしょう。


■精神

最後の側面は「精神」です。これは心の清らかさ、智慧、究極の幸福のことです。いくら仏教に関する知識が豊富でも、あるいは「自分は仏教徒だ」と言って活動していても、心が清らかでないかぎり、決して悟りや解脱を得ることはできません。実際、心の汚れを取り除かないまま善行為をすることもできますが、それだけでは十分ではないのです。

道徳を守るように努めなければなりません。道徳を守らなければ、わがまま、欲、嫉妬、怒り、エゴは、心の中でずっと邪魔し続けるでしょう。訓練されていない心は非常に壊れやすく、いつも脆弱な状態にあります。ちょっとした誘惑や刺激が、簡単に心に影響を与え、悪い行動を起こさせるのです。精神が成長するのは、心を正しく訓練したときだけです。そして心を清らかにするための立証済みの方法が、お釈迦さまが教えられたヴィパッサナー瞑想なのです。

仏教を実践する主要な目的は、

 ・今生で幸福を得ること。
 ・来世で幸福になること。
 ・存在の究極の目的に達すること。つまり、至上の幸福である涅槃に到達すること。

これまで、どのように仏教を実践すればよいかということについて、いくつかの手段を述べてきました。お釈迦さまの教えを知り、善い結果を得たければ、仏教の理論や、さまざまな宗派に依存せずに、お釈迦さまが説かれた根本の教えを学び、実践するようにしてください。(了)

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How to practice Buddhism
by Venerable Dr K Sri Dhammananda Nayaka Maha Thera
Publication of the Buddhist Missionary Society Malaysia
Buddhist Maha Vihara, Kuala Lumpur, Malaysia
Wisodom Series No.47-1987、Published for Free Distribution
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翻訳:出村佳子

生きとし生けるものが幸せでありますように








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