仏教の理性と自由 Buddhism and the Free thinkers  本文へジャンプ



いわゆる自由思想家と称する人の多くは、実際のところ「自由」にものごとを考えているわけではありません。それどころか、考えることを怠っていると言えるでしょう。なぜなら「存在の問題」について真剣に考えたり探究したがらないからです。仏教は、このような人のことを自由思想家だとはみなしません。仏教は「存在の問題」について偏見をもたずに自由に考え、深く探究すること薦めています。

お釈迦さまは悟りを開いた多くの弟子たちにこうおっしゃいました。「比丘たちよ、われわれは人間と神々の束縛から解放されている」と。この言葉の中に「自由とは何か」ということを見いだすことができます。他方、多くの宗教は「これは神のメッセージである」と主張して、自分の宗教教義や信仰、しきたりなどを一方的に人々に押しつけようとします。しかしお釈迦さまはそうした考え方を拒否なされ、「われわれは人間・神々の束縛から解放されている」と言われたのです。

では、この束縛とは何でしょうか。それは宗教が、私たちの心に潜んでいる迷いや恐怖を悪用してつくりあげた信仰、渇愛、執着、概念、伝統、しきたりなどのことです。信仰や儀式に盲従している人たちには自由がなく、束縛されているのです。では、お釈迦さまが説かれた「自由な思想」とはどのようなものでしょうか? また、なぜ仏教は「自由と理性の宗教」と言われるのでしょうか?


真理探究の自由

お釈迦さまは人々に完全な自由を与えられました。仏陀や神、偉い先生の見解に依存せず、真理を自力で探究し、発見するようにと説かれたのです。これが自由というものです。一部の西洋思想家たちのあいだでも、仏教は「自由と理性の宗教」として知られています。ただ自由といっても、それは理性によって導かれなければなりません。さもないと、人は自由を悪用する可能性があるからです。たとえば、ある国の政府が国民に、自分の好き放題に生活してもよいと言って完全な自由を与えたなら、その国は24時間以内で滅びるでしょう。理性を育てる前に自由を与えることは危険なのです。同様に、宗教を実践するときも、まず理性を育てることが大切なのです。

自由とは自分の好き放題にふるまうことだと考えている人もいるようですが、正しい教育や知識がない人に自由を与えたなら、そのときは悲惨な結果になることは言うまでもありません。たとえば子供は自由に遊べばいいのです。しかし「電線で遊ぶことは危険だ」と教えてあげなければなりません。

さらにお釈迦さまは、「自由は、自分以外の誰かから与えられるものではなく、私たちが生まれときから付いているものである」と強調されました。自分の性格や考え方、ふるまいは、無数の生涯のあいだに自分が自分の生き方によって形成してきたものなのです。教養が高いか低いか、道徳的か道徳的ではないか、宗教的か宗教的ではないか、善人か悪人か、意地悪か親切か、ということは、私たちが過去世で積み重ねてきた心の習慣に依るものです。自分以外の誰かが定めているものではないのです。

ものごとを正しく考えるためには、正しい指導が欠かせません。その重要な役割を、宗教が果たしているのです。宗教というものは、心を育てるためにあります。心が成長するにしたがって、理解力が身につき、道徳に従って生活できるようになります。善いことをするときには、これは正しい行為だと「理解」して行うようになります。罰を免れたいとか報酬を得たいという理由で善いことをするのではありません。このように宗教は、心を育てるためにあるのなのです。

では、なぜ私たちは神や他の存在に依存すべきではないのでしょうか。誰かに罰せられるのが怖いという理由で、悪行為や非道徳的な行為、わがままな考え方をやめたとしても、智慧や慈悲は育たないからです。それから、たとえ善い行為をしたり、他人のために尽くしたりしても、大きな報酬を期待しているなら、智慧や慈悲は育ちません。罰が怖いから(地獄に落ちるのが怖いから)悪いことをしない、報酬が欲しいから(天国に行きたいから)善いことをするというのは、利己的な行為です。もし天国と地獄が無くなったら、どのぐらいの人が宗教に残るでしょうか。お釈迦さまの教えは、この種の宗教とはまったく異なります。仏教は、天国や地獄があってもなくても道徳に基づいて生きるように、と教えています。これは他の宗教には見ることのできない仏教独特の教えなのです。


自由と理性

宗教というものは、罰を免がれるためや報酬を得るためにあるのではありません。人格を完成させ、精神的、肉体的な苦しみを終らせ、不満を取り除くためにあるのです。

お釈迦さまは「道徳や倫理、戒律を守ることによって人間性を育てること」を教えられました。道徳や戒律を守っているなら、自分で自分の人間性を育てることができるからです。この宗教を信じれば天国に行けるという誘惑や、信じなければ地獄に落ちるという脅しに左右されることはありません。これが、仏教は自由と理性の宗教であると評される理由なのです。お釈迦さまは私たちに、心を開いてものごとを探究し、理解するようにと励まされました。また、既存の教えをすぐに鵜呑みにしてはならないと説かれました。「教えられたことをむやみに信じないでください。鵜呑みにすれば、あなたは真理を理解する能力を失い、盲目の信者になってしまいますから」と。

宗教を盲目的に信仰する人は、狂信者になる可能性があります。こういう人は感情的で、宗教の権威に影響されやすく、理性的にものごとの真偽を判断するのがむずかしく、何のために道徳を守らなければならないのか、なぜ悪い行為をしてはならないか、ということを理解するための分析能力を育てていません。

たとえば子供がいたずらをすると、親は子供を叱ります。それでもやめなければ、悪いことをしてはいけませんと怒鳴って叩くでしょう。子供は脅えていたずらをやめるかもしれません。しかし「なぜこの行為が悪いのか」「どこが間違っているのか」ということを理解していません。怒鳴って叩くという行為は、ただ罰に対する恐怖心を引き起こすだけなのです。あるいは、親が子供に何か用事を頼むとしましょう。もし子供がいやだと言ったら、親は、お駄賃をあげるからと言って何かご褒美を与えるのです。子供は言われたことをやるかもしれません。でも「なぜお手伝いをしなくてはならないのか」ということを理解していないのです。子供は自分の頭でものごとを理解するより、親の指示に従うほうが楽なのです。

宗教を受け入れるときには、賞と罰によってではなく、自分で正しく理解してから受け入れるべきです。一方、宗教家が賞と罰をもって教えを説くなら、在家の人たちは宗教の真の有効性や大事な目的を理解することができなくなります。仏教には罰を与えるという脅しがありません。宗教は本来、人々を教育して悟りに導くためにあるのです。

人を裁き、罰を与えるのは国の法律の任務です。宗教はそのような法律の役割を引き受けるべきではありません。もし裁くようなことをすれば、人々はただ脅えるだけで、智慧は育たないからです。これが仏教の本質であり、お釈迦さまを「自由思想家」とみなす理由なのです。


選択の自由

お釈迦さまの時代のことです。どの宗教が選べばいいのかわからないという若者たちがいました。というのも、当時のインドには62種もの思想があったからです。若者たちはお釈迦さまのもとに赴き、いったいどの教えが正しいのかわからないのです、と言いました。

お釈迦さまは、仏教こそが真の宗教であり、他の宗教はすべて間違っているなどということは言われませんでした。そうではなく「君たちは師や宗教指導者の権威に左右されることなく自由に真理を探究しなさい」と教えられました。この考え方は、仏教の重要な特色のひとつです。

世の中の知識人たちは、このお釈迦さまの姿勢「自ら自由に真理を探究しなさい」という寛大な助言を高く評価しました。お釈迦さまは決して、自分こそが唯一の真の宗教指導者であり、わたしを崇拝して祈る者は救われ、罪が許され、死後に天国または涅槃に至る、ということは言われませんでした。

さらに、お釈迦さまは「他宗教の指導者を侮辱すべきではありません。尊敬に値する人を尊敬してください」と言われました。宗教の中には、他宗教の指導者を崇拝したり尊敬したりすることは罪であると教えている宗教もあります。他宗教の礼拝所へ行ったり、書物を読んだり、話しを聞いたりすることは罪であり、それをやった人は地獄に落ちると脅かす狂心家もいます。彼らは他宗教に対して異常なほど過敏になっているのです。このような脅しは、人を怖がらせ、無知を助長させるだけです。仏教は、このような偏狭的な態度をとっていません。もう一度言いますが、お釈迦さまが説かれたのは「真理なら認めるべきです。そして宗教の信仰にかかわらず、すべての生命を慈しみなさい」ということです。
 
人々を迷わせ、誤った道に陥れることは間違った行為です。しかし宗教家たちは、宗教の名のもとに差別をつくりだし、非道徳的な教えを世の中に振りまいています。そのために大勢の人たちが「宗教は嫌なものだ」と考えるようになりました。差別は敵意を生み出し、人と人との間のやさしさ・協調・調和・思いやりを壊します。敵意のためにひとつの家族がばらばらに引き裂かれることもあるのです。

仏教は2500以上ものあいだ、他の宗教に敵意を抱いて、教えを広めたことが一度もありません。他宗教のように、自分以外の宗教を信じることは罪だと言って、人々を自分の宗教に改宗させることに興味がないからです。お釈迦さまは人々に洗礼を授けたり、それによって罪を赦すといった儀式儀礼は断じて行われませんでした。

仏教における自由を他宗教の自由と比較してみると、仏教はどれほど自由な教えであるかということがわかるでしょう。たとえば男女が結婚するとき、仏教には、仏教の命令に従わなければならないという規範がありません。ある宗教には、離婚すべきではない、なぜなら離婚したことが天国に記録されるから、と教えています。仏教徒はそういうことは信じていません。理性的に考えてみてください。もし結婚したことが天国に記録されるというなら、離婚したときにはその記録が消されなければならないはずです! これが本当の自由でしょう。

宗教が教える義務や責任を、命令として鵜呑みにしてはなりません。自分で自由に選択し、納得し、自分の意志で教えを受け入れることが大切なのです。宗教の権威者が定めた規範を盲目的に受け入れたり、怖いからといって受け入れるべきではありません。そうではなく、偏見を捨てて、どうすれば他の生命の役に立てるか、どうすれば存在の意味を理解できるかを知るために受け入れるべきなのです。

今日、世界の至るところで宗教家たちは、自分の教えを布教するために他宗教を嫉妬し、憎悪を抱いて戦っています。宗教の中には2、3千年以上ものあいだ文化的伝統や生き方の一部として受け継がれてきた宗教もあります。貴重な遺産、心理学、哲学、他の生命を尊敬して害さない生き方、道徳や倫理は、人々が正しい生き方を送る助けになりました。しかし一方では、あたかも彼らだけが天国に至る道を独占する権威を握っているかのように、人々に、天国に行けますと約束して、自分たちの信仰を押しつける宗教もあるのです。彼らの宗教を信じることでのみ天国へ行けると人々に話しているのです。

仏教では、どの宗教を信仰していても、あるいは信仰のない人でも、人格を育て、悪いことをせず、人間の尊厳を保ち、理解力があるならば、天国に行けると教えています。

しかしある狂信者は、たとえ他の生命を害さず、穏やかに生きていても、神を信じなければ天国には行けないと話しています。生きている間中、いろいろな悪いことをし、罪のない人たちを苦しめた極悪人でも、死の直前に、私は神を信じますと言ったなら天国に行けると言うのです。彼らの宗教を信じれば、神は罪をすべて赦し、直ちに天国に招いてくれるのだと。多くの人の平和と幸福を壊した極悪人が天国へ行けると言うのです。神は犯罪者は救済しても、被害に遭った人に対する哀れみはないのでしょうか。また、犯罪者を救える力があるのなら、罪を犯す前にその行為をやめさせることもできるはずではないでしょうか。仏教は、この種の教えとはまったく異なり、どんな宗教を信じていても、あるいは宗教を信じていなくても、善良で、自己を制御し、他人を傷つけず、穏やかであるなら、尊敬すべきであると考えています。

私たちが抱えている最大の問題は、先祖たちによって伝えられた多くの伝統や慣習を、何の疑問も持たずに現代まで受け継いでいるということです。先祖たちには彼らなりの考えがありました。昔は、生命や世界、宇宙に関する知識や科学技術がほとんどなかったため、人々は恐怖と無知に駆られて種々様々な儀式儀礼を行いました。その後、その儀式儀礼は伝統化されました。さらに、その伝統は様々な文化に形式化されていったのです。仏教では、儀式儀礼は文化の一部だとみなしています。伝統に従わなければならない、と考える必要はありません。文化や伝統は大事にすべきです。しかし受け入れる前に、その伝統が有意義なものかどうか、自分や皆のために役に立つものかどうかを見極める必要があるのです。もし自分と皆にとって有益であるならば、それを受け入れることです。役に立たないならば、遠慮なくそれを捨て、新しい方法を取り入れるべきでしょう。これは現代人とって重要な生き方です。


信じる前に確かめる

宗教を選ぶときは、人の話を鵜呑みにしないように気をつけなければなりません。宗教家たちは、自分の師や指導者、修行方法、神や女神に特別な力があるなど、いろいろと魅惑的なことを言ってきます。それも大げさに、言葉巧みに説法し、自分の宗教を信仰するように命じるのです。

お釈迦さまはこのように教えられました。人が言うことを、何も調べずに鵜呑みにしてはいけませんと。人間にはもともとものごとを判断するための理性が具わっているはずです。しかし、それが欠落しているため、偏見を持たずに思考することができないのです。お釈迦さまは、どんなに説得力のある話しでも、確かめずに鵜呑みにしてはならないと教えられました。もし確かめずに何かを信じてしまったなら、遅かれ早かれ、鵜呑みにしたことは誤りだったということに気づくでしょう。

それから、宗教経典に書かれているからといって、それを調べずに信用してはなりません。ある宗教は、自分たちの聖典こそが真実であり、他の宗教書はすべて間違っていると言っています。おまけに、われわれの聖典は神が語った言葉だ、だから疑わずに聖典を信じなさい、と脅すのです。ほんとうはその宗教の権威者が書いたものにすぎないのですが――。

お釈迦さまは教えられました。たとえ聖典に書かれていても、何も調べずに鵜呑みにしてはりませんと。これは他の宗教には見ることのできないお釈迦さま独自の教えです。お釈迦さまは人間の理性を尊重されました。宗教を選ぶとき、人々にどれほどの自由を与えられたか、おわかりになるでしょう。他の宗教家たちは自分の好きなように本を書き、それを神の言葉だとか聖典だと言って世の中に広めている、と仏教は見ています。そして一般の人々は、疑うことなくそれを信じてしまうのです。宗教権威者は、あたかも幼い子供を扱うように、権力をふるって人々を支配し、信仰しなさいと言って教えを差し出します。その結果、人々はものごとを正しく理解する判断力や理性を失くしてしまうのです。

次のお釈迦さまの助言は、「理屈に適うからといってむやみに信じてはならない」ということです。先ほど「理屈の通らないことを信用してはならない」と言いましたが、ここでお釈迦さまがおっしゃるのは、ちっぽけな理屈を信用してはならないということです。私たちの理性は非常に限定されています。小さな子供でも、子供なりに理屈を通して話すことができるでしょう。私たちはものごとを論じることができますが、それは自分の思考できる範囲内に限られているのです。たとえば、自分の理性を偉大な思想家や科学者の理性と比べてみると、自分の理性は正しくないということがわかるでしょう。また、知識人の理性と悟りを開いた人の理性とを比べてみると、知識人の理性は完全ではないということがわかります。それゆえお釈迦さまがおっしゃったのは、自分の限定された能力の中で真理を理解するのですが、「これは絶対的な真理である」とすぐに決めつけないように、ということです。ものごとを自分で論理的に考え抜き、理性を磨き、成長させてください。理性的に考えることをすぐにやめないでください。様々な経験を積み、分別能力や正しい見解を身につけていくに従って、あなたが今、信じているものも変わっていくのですから。

次に、お釈迦さまは「純粋論理を信用すべきでない」と教えられました。議論というものは、能力や知識、技量、才能に左右されるものであり、真理や事実に基づくものではありません。議論は、感情や高慢を引き起こすこともあるのです。


動物性・人間性・神性

宗教の主要な目的は、道徳や戒律を守って人間性を向上させることであり、また、恐怖や悩み、怒り、憎しみ、妄想から自由になって、心穏やかに、幸せで、明るく生きられるように努力することです。拝んだり、祈ったり、儀式儀礼を行なうことではないのです。

人間には3つの性質が具わっています。それは動物性、人間性、神性(崇高な性質)です。宗教は、この中の動物性という性質を制御して管理するために重要な役割を果たしているのです。拝むだけでは、動物性を管理することができません。私たちがご飯を食べるためだけ、自分を守るためだけ、子供をつくるためだけに生きているなら、人間は動物と何も変わらないことになってしまいます。

人間が動物と異なるところは、心を高いレベルに育てることができるということです。そして宗教は、人間の心の成長を助ける大きな要因にを果たすべきです。人間には法(Dhamma)という非常に優れた特徴があります。法は人間性の基本です。人間として私たちは悪い行為に対する 恥じ(慙) と 恐れ(愧) を育てなければなりません。愧とは、悪いことをするのを恐れることです。他の生命をいじめたり、危害を加えたりすることを恐れることなのです。慙は、悪いことや非道徳的なことをするのは恥ずかしいと思うことです。人間の尊厳を保ち、知性を尊重にするためには、この慙と愧を育てる必要があるのです。

世界中には様々な宗教があり、数多くの礼拝所があります。東洋では大勢の人々が寺院や礼拝所、教会、モスクに集まっています。どこに行っても、祈ったり、拝んだり、線香を立てたりする人々を見かけますが、これら大勢の崇拝者の中で、どれだけの人が慙と愧を身につけているでしょうか。もし人間として当然持つべき慙と愧の性質に欠けているなら、その人は本当に宗教を実践していると言えるでしょうか。実際のところ、自分の宗教を大げさに宣伝している人の多くは、人間性にも宗教的な敬虔さにも欠けているのです。


なぜ教えが重要なのか

宗教は、様々なやり方で人間性を育てることを教えています。人間性とは、人間の尊厳を理解して、人間らしく行動することであり、また、他の生命を害したり傷つけたりしない生き方を学ぶことです。これらは他のどんな性質よりも大切なことです。慈悲と理解力を育ててください。祈っても祈らなくても、私たちは忍耐、寛容、思いやり、正直さを育てなければなりません。今日、この世界でどれだけの人が本当にこれらの善い性質を身につけているでしょうか。ほんものの宗教は人間の善い性質を育てるのを助けてくれます。科学技術や原子力は世界を進歩させることができますが、人間の心まで進歩させることはできないのです。では誰が私たちの心を育ててくれるのでしょうか? 神でさえ、私たちの心を育てることはできないということは皆様もご存知でしょう。外部の力では不可能なのです。私たちは自分で自分の心を育てなければならないのです。お釈迦さまはこのようにおっしゃいました。「この世の中で自分の心を清らかにできるのは自分だけである。ほかの誰にもできない」と。

人間は、心を育てる方法を学ぶことができます。ですから私たちは知識を得、理解と決意をもって心を育てていくべきです。正しい教えを実践するにしたがって、心は徐々に改善されていきます。それゆえ、正しい教えが重要だと言われるのです。仏教も、キリスト教も、ヒンズー教も、イスラム教も、「人間性を育てる」ことを教えています。そして善い性格を身につけた人は誰でも天国へ行けるのです。天国は「特定の宗教を信仰すれば行ける」というものではなく、善い性格を身につけた人すべてに開かれているものなのです。

天国という世界は、喜びが多く、長く繁栄し、幸福で、五欲を楽しむことができる世界だと仏教は考えています。ある意味で、天国で享受する楽しみは、人間が地上で捜し求めている楽しみを拡張しただけのものと言えるでしょう。しかし私たちにとって大切なことは、そうした世俗的な楽しみを享受することではなく、精神的な成長、心を清らかにすることなのです。

「神が私の心を清めてくれるだろう」と期待して、自分では何もせずにただ待っているだけでは、心は清らかになりません。私たちは自分で自分の心にある動物性を取り除き、人間性を育てなければならないのです。そして人間性が成長することによって、神性が得られるのです。このように心は徐々に成長していくものです。神性とは、高尚で清らかな性格のことです。一般的に普通の人間の性格は、気まぐれで、当てにならず、信用しがたいものです。ほとんど毎日のように、恐怖や疑い、緊張を経験して生きています。その量は、動物や悪魔、霊たちよりも多いと言えるでしょう。この信頼できない自己中心的な人間の性格を改善するために、正しい宗教の教えが重要な役割を果たすのです。

それでは、どうすれば神性が得られるのでしょうか? お釈迦さまはこのように説かれました。慈(Metta)悲(Karuna)喜(Mudita)捨(Upekkha)の四つの性質を育てることですと。そうすれば崇高な境地に達することができるのです。ここで大切なことは、誰に対しても、どんな生命に対しても、わずかな差別もない慈しみの心を育てるということです。仏教は慈悲を、キリスト教は愛を、イスラム教は同胞愛を説いています。大勢の人々はそれぞれの宗教が教えている善い心を身につけています。でも、それはよく見ると、自分と同じ人種や仲間だけに限られているのです。つまり仲間に対しては慈悲や友情、同胞愛を向けるのですが、それ以外の生命に対しては排他的になっているのです。これはお釈迦さまが説かれたこととは異なります。お釈迦さまは「自分の親しい人だけでなく、すべての生命に対して慈しみや思いやりの心を注ぎなさい。わずかな差別もしてはなりません。母親が自分のたった一人の子を大切にするように、すべての生命に対して慈しみで溢れる心を育てなさい」と説かれました。


なぜ宗教が必要か?

世の中には、自由思想家と称する人が結構います。しかし本当のところ、彼らは宗教を選びたくないだけであって「存在の問題」を解決するための探究から逃げているだけなのです。中には無宗教であることを威張っている人もいますが、これはあまり健全な状態とは言えません。もちろん宗教を持つか持たないかはその人の自由ではありますが――。

宗教を選ぶときには、時間をかけてよく調べ、よく学ぶことが大事です。自分に理解できないからといって既存の宗教をやたらに非難すべきではありません。なぜなら非難の目だけで見ていると、永遠に真の宗教には出会えませんから。この世界には賢者が認めている理性的で実践的な宗教があるのです。私たちはそれを見つけることができるはずです。宗教を持たない人、つまり無宗教の人は、荒れた海で孤立して浮かんでいる一艘の小さなボートのようなものです。

宗教は、生きる目的や救済について教えています。多くの宗教の中で、理性的な宗教を選択して実践するなら、自己の心を清らかにすることができるでしょう。そして最終的には人生の目的を達成することもできるでしょう。財産、学識、名誉、権力、そのほか自分を立派に見せる様々な飾りは、心に平安や幸福をもたらしてくれません。ですから宗教に無関心で生きている人は、心に虚しさや空虚感を感じているものです。とりわけ人生の後半にはそれが強く現れてきます。正しい宗教は、人が死ぬ寸前まで、心に充実感や安らぎを与えてくれる唯一の友だと言えるでしょう。

自由思想家と称する人たちが本当に自由にものごとを考えているなら、人生のどんな場面においても、自由思想家という態度でいなければならないはずです。でもなぜ宗教に関してだけ、自由思想家という立場をとるのでしょうか。また、教えを聞かなくても自分は正しく生活できるから宗教は必要ないと言う人もいますが、ここで忘れてはならないのは、正しい生き方を教えているのは宗教だということです。宗教は、仏教とかヒンズー教という表面的な名前のことではなく、正しい生き方を教えているのです。ですから私たちは宗教を無視すべきではありません。宗教だけが、物質に囚われているわがままな心を改善させ、エゴから離れさせ、人類に貢献できるように、私たちを正しい方向へと導いてくれるのです。宗教の教えは私たちの人格形成に深く関わっているのです。

それから、宗教と文化は切り離せません。何世紀にもわたって人々は宗教の教えを信仰し、実践してきました。そしてそれらは人々の心の奥深くにまで浸透してゆきました。現代人は宗教離れの傾向があります。それでも宗教が教える行動規範を、文化の一部として実践し続けているのです。


堕落した宗教

「宗教は戦争を阻止できなかった」という声をよく聞きますが、正しく言うなら、宗教家たちは自分の宗教をまじめに実践しなかったということではないでしょうか。宗教の中には、この戦争は神に容認された聖戦であると主張して、戦争を正当化するだけでなく、信者たちに、敵を殺せと命じるところまで堕落した宗教もあります。戦争は戦争です。たとえそれが国家、国民、文化、遺産、言語、宗教のためであっても! 宗教の名を盾にして起こす戦争は最悪の行為です。なぜなら宗教は本来、殺生してはならないということを教えるべきものであって、すべての生命の尊厳を守るべきものだからです。

宗教の名を悪用して罪を犯している人の修行法や信仰を見て、宗教は悪いものだと安易に決めつけるべきではありません。なぜなら偉大な指導者たちが説いた根本の教えは、本来、すべての人の役に立つ教えなのですから。歴史上、現れたどの宗教創始者も、人々を誤った道に陥れようとして教えを説いたわけではありません。幸福に導くために、ある真理を示されたのです。問題は、そうした偉大な指導者の弟子たちの中に、師の教えを自分勝手に解釈したり、有害な手段を使って布教した者がいたということです。そしてそのために怪しげな宗教が生まれました。そこで、私たちが気をつけなければならないことは、自分で責任を持って、真理を説いている宗教を選択しなければならないということです。

真の宗教は、人類の物質的な発展には反対しませんが、そのようなすぐに消え去る世俗的な喜びには執着しないように、と教えています。執着しているかぎり、幸福は得られないのです。 

これまで私たちは、宗教という名を悪用して世界中で多くの悪事がなされてきたことを見てきました。そして今日になってもインチキの狂信者たちは、人々を脅し、人類に対して殺戮やテロなど悲惨な罪を犯しているのです。


心を育てる時間

「私は仕事や政治、個人的にやらなければならないことがいろいろあるから、宗教に関わって、心を育てる時間がない」と言っている人がいますが、このような人には次の言葉が役に立つでしょう。「仕事が忙しいから宗教を無視するという人は、旅行に出るとき靴を脱ぐという人のようなものである」

宗教(心を育てること)を忘れるほど、毎日社会のさまざまな事柄に深く巻き込まれている人は、どこか間違っています。本当のところ、こういう忙しい人こそ、宗教から教えを受ける必要があるのではないでしょうか。

教えを実践して、心を清らかにするために、世俗の生活を捨てなくてもよいのです。現代社会では、女性も男性も生計を立てるために働かなければなりませんし、人生のもろもろの義務から逃げることは、あまり意味のあることではありません。私たちは働かざるをえない状況にあります。ですから、仕事をしながら、誰にも迷惑をかけないで、問題を取り除くように努力することが大事なのです。

宗教を警戒している人たちもいます。多くの場合は、一部の伝道師たちが布教のときに使っている不審な手段のためでしょう。彼らは甚だしいしつこさで、怪しげに、攻撃的な手段を用いて、世間に害を与えています。たとえばある宗教は、自分の宗教だけが絶対的な真理を教え、救済の方法を知っているのだから、他の宗教の教えを聞いてはならないと言っています。このような根拠のない教えのために、多くの犯罪が起こりました。この偏狭な宗教家たちは、本当のところ、理性のある人から批判されないように内部の教条主義を覆い隠しているにすぎないのです。

また、ある宗教は、「人間はなぜ苦しんでいるのか?」という問いに対して明確な答えを出さずに、ただ「信じなさい」とだけ言っています。私たちは、苦しみという問題に対する答えを持っている宗教を選択することが大事であり、宗教を盲目的に信仰してはなりません。

それから、宗教は寺院や教会、聖職者のためだけにあるものであって、在家者や俗人には関係がないと考えている人が多いようです。また、高齢者のためのものであって、若者には関係がない、女性のためのものであって、男性には関係がない、貧しい人のためのものであって、豊かな人には関係がないと考えている人もいます。それから、宗教は古い書物の中に書かれているものであって、野原で生き生きと咲いている花の中には見出すことができないという人もいます。このような考えは、宗教に対する無関心や怠けから生じているのでしょう。

今日、多くの人が宗教の自由について語っています。しかし世の中を眺めてみると、本当に宗教の自由が認められている国はほとんどありません。真の宗教の自由とは「宗教を持つ自由」だけではなく、「自分が納得する宗教を選ぶ自由」を持つことでもあります。非常に残念なことに、ほとんどの人はこの「宗教を選択する自由」を持っていません。至るところから脅され、妨げられているのです。 今、自分が属している宗教に納得できないときは、他の宗教を選択する自由がなければなりません。宗教を選択する自由を妨げている人は、実際、人から自由意志を奪っていて、そのために心の平安を壊しているのです。

宗教は、その信仰や実践において、人間の尊厳や教育、智慧を奪ってはなりません。また、私たちもそのような宗教を選択しないように気をつけなければならないのです。

Sadhu! Sadhu! Sadhu!



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Buddhism And The Free Thinkers
by Venerable Dr. K. Sri Dhammananda Nayaka Maha Thera,
Published by the Buddhist Missionary Society Malaysia,
Buddhist Maha Vihara
123 Jalan Berhala, Brickfields 50470
Kuala Lumpur, Malaysia
Published for free distribution.
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Translated by Yoshiko Demura

生きとし生けるものが幸せでありますように