心の平和

Let Peace Prevail on Earth


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K. スリダンマーナンダ長老
 
 



 「敵の攻撃に対抗する唯一の方法は、よりいっそうの攻撃を仕掛けることである」という考え方は、大国間の軍備拡大競争へと結びつきました。
 そして 武器を増大させたこの競争は、人類が全滅する寸前まで至らせたのです。
 もし私たちがこの軍拡競争をやめなければ、次に戦争が起こったとき、この地球は勝利者も犠牲者も存在しない死骸だけの世界となって滅亡することでしょう。


 憎しみは、憎しみによって終わらない
 慈しみだけが、憎しみを終わらせる


 この言葉は 敵意や悪意を抱いている人たち、互いに戦争や反乱を起こす人たちにたいして、お釈迦様が説かれたものです。

 「敵にたいして慈しみを向けなさいという教えを実行するのは不可能だ」と大勢の人が考えています。しかし実際には、これこそがあらゆる問題を解決する唯一の正しい方法なのです。この方法は、お釈迦様がみずから実体験を通して説かれた方法です。

 私たちは傲慢でわがままなため、「他人が自分のことを臆病者と見るのではないか」と考えて、自分を害する人にたいしてやさしくすることを嫌がるのです。

 また、「思いやりがあり、正直で、忍耐強く、穏やかにいる人は弱者だ」と考える人もいます。

 でも、考えてみてください。苦しみの原因であるエゴを捨て、敵を慈しむという理性的な方法をとることによって、さまざまな問題が解決し、平和と幸福が得られるならば、敵を慈しむことが弱者や臆病者であるはずがないでしょう。


寛容の心

 平和な世界は、私たちの寛容の心から生まれます。
 暴力をふるったり脅迫したりすることから生まれるものではありません。暴力や脅迫は、対立を生むだけなのです。

 そこで、平和と調和を確立するために私たち一人ひとりが最初にすべきことは、すべての悪の根元である自分の心の怒り、貪り、愚かさを滅するように努めることです。
 もし人類が、怒りと貪りと愚かさの有害な心を取り除くことができれば、この不安な世界に平和と幸福がおとずれるでしょう。

 広大な慈悲心をもつお釈迦様の弟子には、ある重要な役割があります。それは、世界を平和にするように努めること、そしてお釈迦様の次の教えを実践して、他の人たちの模範になることです。

 すべての者は暴力に脅える
 すべての者は死ぬことを恐れる
 他人を自分の身におきかえて
 人を殺してはならない、人に殺させてはならない

 ダンマパダ


 平和は必ず得られるものです。しかし祈ったり儀式を行ったりすることでは得られません。
 平和は、自分の心を成長させ、他の生命や環境と調和することから生まれます。
 暴力で獲得した平和は長続きしません。それは利己的な欲望の衝突と 絶えず変化している世の中の状況が、一時的に休止しているようなものです。

 思いやりや寛容の心がないこの世界に、平和は存在しません。
 寛容であるためには、偏見を捨て、正しい見解を身につけなければならないのです。
 お釈迦様はこのように説かれました。

 自己から生じる貪欲、憎しみ、嫉妬ほど
 敵は自分を害することができない

 ダンマパダ


 仏教は、正しい見解を身につけるための教えです。そのために、自己を制御することや自立することを説いているのです。
 また慣習に流されるのではなく、真理に基づいて生きることを教えています。
 仏教はこれまで異なる思想をもつ人びとを迫害したり虐待したことは一度もありません。お釈迦様は、すべての人びとにたいして、仏教徒ではない人びとにも、聖なる真理を体験できる道を教えられました。

 世界は鏡のようなものなのです。ほほえみながら鏡を見てください。そうすれば美しい笑顔が見えるでしょう。
 逆に、不機嫌な顔で鏡を見れば、醜い顔が映ります。
 これと同じように、思いやりをもって世界に接してみてください。そうすれば、世界もあなたを親切に扱ってくれるでしょう。
 穏やかな気持ちでいることを学んでください。そうすれば、世界もあなたにやさしく接してくれるでしょう。

 私たちの心は、あまりにも偽善や自己中心的な考えでいっぱいです。
 そのため、自分の欠点や弱さを認めようとしません。そして、自分には欠点がないという錯覚をつくりだそうと、自分の過ちを正当化するためにへたな言い訳を探すのです。
 でも、もし本当に苦しみから解放されたいと思うなら、潔く自分の欠点や弱さに向き合う勇気が必要です。
 お釈迦様はこのようにおっしゃいました。

 他人のあやまちは見やすい
 自分のあやまちは、実に見がたい

 ダンマパダ


 人類の歴史は、貪欲、憎悪、傲慢、嫉妬、わがまま、妄想などが絶え間なく表面化してきた混乱のあらわれです。
 過去3千年間に人類は大きな戦争を1万5千ほど起こしたと言われています。
 戦うことは人類の特性なのでしょうか。
 何のために戦うのでしょうか。
 人間はなぜ同じ仲間である人間を殺すのでしょうか。

 人類は、次から次へとすばらしい事物を発見し、発明してきました。しかし同時に、新しく発見したものを悪用したため、人類の種が滅亡する方向へ進んでしまったのです。
 この地球から人間の尊厳や心の豊かさが失われてしまいました。
 現代人はあまりにも高度な戦争技術を身につけたため、今日ではほんの数秒間で全人類を灰にすることができるようになりました。そして「軍事拡大競争」というちっぽけなゲームの結果、世界は兵器の倉庫になってしまったのです。

 1945年8月に日本の広島と長崎に原子爆弾が落とされました。
 この原子爆弾よりも、水素爆弾のほうが強大な破壊力をもつと言われています。科学者たちは、2,3百個の水素爆弾を使用すれば世界が全滅するという恐ろしいことを考えています。
 人間が人間にたいして何をしているのか、よく見てください! 
 科学の発展が何をもたらしたかを考えてください! 
 人間はいかに残酷で利己的になったかを理解してください!

 私たちは、攻撃性という本能に従うべきではありません。
 そうではなく、争いのない平和な社会をつくるために、賢者が説く智慧の教えに耳を傾け、道徳的な行為をとることが大切なのです。

 世界の至るところで大勢のリーダーたちが、世界の平和を保ち、増大する方法を見いだした、と言っています。そして、数多くの平和条約や協定が取り決められました。
 しかしそのような努力にもかかわらず、いまだに人びとの恐怖を取り除くことはできていないのです。なぜでしょうか。
 理由は、私たちが若者たちの教育を怠っているからです。エゴを捨て、他者の役に立つ行為がいかに重要であるかを理解すること、わがままな行為は不幸をもたらすということを教えていないからです。
 真の平和を保証するためには、あらゆる有効な手法を用いて 若者たちに慈しみや思いやり、理解することを教えなければならないのです。


仏教徒のアプローチ

 仏教徒は、たとえ仏教を守るためであっても、他者を攻撃してはなりません。
 いかなる暴力行為も避けるように、よく気をつけなければならないのです。
 ときには慈悲の心に欠けている人から、戦争に行けと強要されたり、敵の攻撃から自国を守れ、と命じられるかもしれません。世俗の生活をやめないかぎりは、戦争に行くことを義務づけられることもあるのです。
 こうした状況のもとで軍隊や自衛隊に加わる人のことを責めても仕方がありませんが、もしすべての人びとがお釈迦様の教えを実践するなら、この世界に戦争は起こらないでしょう。
 人間が人間を殺すような戦争を起こさずに、平和的に論争を解決する道を見いだすことは、教養ある人の責任です。
 お釈迦様は、「悪い心に負けてはならない」と弟子たちに教えられました。

 知識と科学の発達によって、人間は人間の都合のいいように自然をつくり変えてきました。
 しかし、いまだに安心して暮らせない状況です。
 なぜでしょうか?
 それは知識を重要視して、科学に支配されているあいだ、堕落し、腐敗し、利己的な欲望で汚れた心を放っておいたからです。

 一人ひとりが安心して暮らせないのに、どうして世界全体が平和になるでしょうか。
 平和があるためには、事実を直視できるように心を育てなければなりません。
 客観的で、謙虚にならなければなりません。
 ある人や、ある国が、常に間違っている(あるいは常に正しい)とは限らない、ということを理解してください。
 それから、この地球の豊かさを分かち合うことも大切です。
 そしてどんな場合でも、他の生命の生きる権利を奪ってはならないのです。

 世界の人口のたった5%の人が地球の資源の50%を享楽していることや、世界人口の25%の人が栄養を十分に、あるいは過剰に摂取している一方で、75%の人がいつも飢えているということは理解しがたいことです。
 豊かな国が貧しい国を助け、強い国が弱い国を助けるというように国と国とが快く助け合うときにのみ、平和がおとずれれ、国際親善が成り立つのです。
 そしてそのとき初めて、戦争のない平和な世界を心に描くことができるのです。

 軍拡競争という愚かな行為をやめなければなりません! 
 戦争をすれば、多くの命と財産が無駄になります。
 各国の政府は、命とお金を浪費する方向から、国民の安全を守り、生活水準を向上させる方向へ転換を図らなければなりません。

 国民と国家が利己的な欲望を捨て、民族的な傲慢を捨て去り、財産と権力を追い求める愚かな行為を完全に捨てるまで、この世界に平和はありえません。
 お金は幸福をもたらしません。
 真理を知ることだけが、心に有益な変化を与えてくれるのです。
 そして本当の意味での武力解除、つまり心のなかでの戦争が終焉するのです。

 どの宗教も、「殺生してはならない」と教えています。
 しかし不幸にして、この重要な教えは都合よく無視されているようです。
 今日では、最新兵器を使用すれば1秒以内で何百万もの人間を殺戮することが可能になりました。

 さらに不幸なことには、宗教の名前を盾にして、スローガンや旗を掲げて戦争に挑む人びともいるということです。彼らはその行為が自分の宗教の名前を汚していることに気がついていないのです。

 お釈迦さまはこのように説かれました。

 比丘たちよ、感覚的な欲望のために
 国王は国王と戦い、王子は王子と戦い、
 聖職者は聖職者と戦い、国民は国民と戦う。
 母親は息子と言い争い、息子は父親と言い争い、
 兄は弟と言い争い、兄弟は姉妹と言い争い、
 姉妹は兄弟と言い争い、友人は友人と言い争う

 マッジマ・ニカーヤ


 幸いにも、およそ3千年近く、仏教徒が仏教の名前において戦争につながるような大きな争いや対立を起こしたことは一度もありません。これは、お釈迦様が説かれた寛容の心のダイナミックな特徴の結果です。

 現代人は、より高い名声、より多くの財産、より強い権力を獲得することに夢中になり、嫉妬に心を占有されて、疲れ切っています。
 眼耳鼻舌身を満たすものをしきりに追い求め、そのために恐怖や疑い、不安のなかで日々を過ごしているのです。
 混乱と危機にさらされているこの時代、人間同士が平和に共存することが困難になっているようです。
 だからこそ、世界にはこれまで以上に寛容の精神が必要とされているのです。 寛容な態度をもって人が人と接すれば、平和共存の社会が実現されるでしょう。

 しかし世界の多くの人々は、原理主義や頑迷という病をわずらい、ひどく心を痛めて苦しんでいます。
 地球上の多くの大地には、無意味に流された血が染み込んでいます。
 これは、宗教でも政治でも、自分の仲間とは仲良くするのですが、それ以外の人に対しては攻撃的な姿勢をとっているからなのです。

 高く評価された「進歩」の世紀、いわゆる道具と発明の世紀とも呼ばれる20世紀をふり返ると、携帯電話、ファクシミリ、電話、テレビ、コンピュータ、インターネット、宇宙船、人工衛星、電気器具など、ずらりと並んだ最新科学技術の道具には目が眩みます。

 しかし、こうした多くの機械を開発して究極的な進歩を成し遂げた一方では、何百万もの人間が、銃剣、弾丸、ガス爆弾によって虐殺されてたのです。
 「偉大なる進歩」と言われる世紀において、寛容の精神は、いったいどこにいったのでしょうか。

 今日、人類はもはやこの地球で互いに仲良く調和して暮らすことができないと考えて、宇宙を調査することに関心をもちはじめました。
 人類はやがて別の惑星も奪ってしまうのでしょうか。

 このように現代人は物欲を満たすために自然を破壊してきました。
 快楽を得ることに、あまりにも心を奪われてしまい、生きる目的を見失っています。
 こうした破壊的な行為は、人間としての生き方や、人間が目指すべき究極的な目的を正しく理解していないことから生じています。そして そこから欲求不満、恐怖、不安、偏狭が生じているのです。

 実際のところ 世の中にある宗教は、今の時代になっても寛容の精神に欠けています。
 教えを説くときも、主に、天国に行くための近道を提供するということを約束するだけのようです。
 でももし本当にイスラム教徒が「兄弟愛」の教えに従い、キリスト教徒が「山上の垂訓」に基づいて生活し、ヒンズー教徒が「梵我一如」の思想で生き方を形づくり、仏教徒が「聖なる八正道」を実践するならば、この世界には確実に平和と調和が訪れるでしょう。
 偉大な賢者たちの貴重な教えをないがしろにして、宗教信奉者たちは今でも、他宗教と調和して寛大な心を示すことの価値に気づいていないのです。
 宗教と宗教とが互いに争っている様子は、あまりにも恥ずかしく、惨めなことです。

 お釈迦様は説かれました。

 怨みを抱いている人々を怨まずに
 われわれは幸福に生きてゆこう
 怨みを持っている人々のなかで
 われわれは怨まずに生きてゆこう
 悩みを抱えている人々のなかで
 われわれは悩まずに幸福に生きてゆこう
 貪っている人々のなかで、
 われわれは貪らずに幸福に生きてゆこう



平和への責任

 現代ほど平和が遠くかけ離れ、最も得がたいものとなった時代は、過去の歴史のなかであったでしょうか。
 過去においても戦争や衝突は起こり、恐ろしい専制君主や暴虐的な政府がありました。しかし、それらは決して地球全体を破滅させるような勢力ではなかったはずです。
 この問題に対して仏教徒としての私たちは、正しい見解をもつ人、つまり、この地球を破壊しようとする狂気を阻止するために力を尽くしている人たちを支持していかなければなりません。
 正しい見解をもつ人を支持することは、私たちにとって大きな責任なのです。

 欲しいものを手に入れることで、心は満足できるのでしょうか? 
 渇愛や不安を満たすことができるのでしょうか? 
 感覚を楽しませれば楽しませるほど、渇愛が増幅するのではないでしょうか?
 お釈迦様が説かれた「充実感」を育てることによって、私たちは初めて幸福になれるのです。

 今日では、何百万人もの罪のない人びとが難民として母国から逃れなければならない状況におかれています。
 戦争が引き起こした悲しみや苦しみは、いかなる言葉を使っても言い表すことができません。
 アルバート・アインシュタインはこのように言いました。
「戦争とは、野蛮で非人間的な未開時代の遺物である」
 この言葉に誤りはないでしょう。

 人間は創造することよりも破壊することのほうに強烈な喜びを感じる生きものではないかと私は思います。
 人間には 生まれつき 戦うという習性が備わっているのでしょうか? 
 いいえ。私たちは、平和は退屈なものであり、戦争は刺激的なものだと考えているために戦争を起こすのです。

 戦場で百万人の敵に勝つよりも
 ただ一人の自己に克つ者
 彼こそ、実に最上の勝利者である



 殺生や盗み、脅迫をすることは簡単です。
 しかし、自分の心から生じる怒りや嫉妬を制御するには強大な精神力が必要です。
 慈悲の心をもつ人は弱者ではなく、強者なのです。
 報復をしない人こそが、真の勝利者なのです。
 お釈迦様はダンマパダのなかでこう述べられています。

 自己に打ち克つことは
 他人に勝つことよりも優れている
 神も、悪魔も、梵天にも
 自己を制御して常に行いを慎んでいる人の勝利を
 打ち負かすことはできない

 ダンマパダ


 お釈迦様が生きていた前や後の時代にも、多くの宗教指導者たちが「攻撃してはならない」と説いていました。
 しかし唯一お釈迦様だけが「ほんのわずかな攻撃も、仕返しさえもしてはならない」と教えられたのです。
 仏教徒であるなら、いかなる形であれ、攻撃をしてはなりません。
 お釈迦様は「攻撃するのではなく証拠に基づいて事実を説くべきです」と教えられました。

 民族意識、宗教差別、伝統、慣習、言語や文化の違い、政治の対立、優越感、劣等感、資本主義、貧困などは、人類に暴力や殺戮などの不幸をもたらしました。
 このような自己中心的な見解は、不幸を増幅させるだけなのです。

 そこで、私たちが人間として為すべき仕事は、平和は他人を征服することではなく自分の利己心に打ち克つことでのみ実現する、ということを人びとに知らせることです。

 仏教の目的は、人びとを仏教へ改宗させ「仏教徒」と呼ばれる人の数を増やすことではありません。
 怨みを持たず、戦争に反対を唱えることを恐れない高貴な人間を育てることにあります。
 現代社会が直面している危険な事態をよく理解して、世界中の仏教徒たち、いや、宗教や宗派にかかわらず、一人一人の人間が、自分にできる範囲で恐れや心配のない平和な世界を維持するために貢献することを、仏教は願っています。

(了)

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Let Peace prevail on Earth, by Ven, Dr. K. Sri Dhammananda Nayaka MahaThera
Published for free distribution for World Peace through the Buddhist Community Programme
21 August to 31 December 1999. Published by Sukhi Hotu
Sdn Bhd, 42V Jalan Matang Kuching 11500 Air Itam, Penang.

1st Printing-40,000.
ISBN983-9382-20-9
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K・スリダンマーナンダ長老 著
出村佳子 訳


生きとし生けるものが幸せでありますように








 
 
© yoshiko.demura