幸不幸はだれの責任 Responsibilities  本文へジャンプ
K.スリダンマーナンダ長老 


自己責任

 どんな人にも自分の欠点や不幸を他人のせいにする、というところがあります。皆さんは「自分の不幸をつくっているのは自分である」ということを考えたことがあるでしょうか。自分の不幸は、一族の呪いでも祖先の原罪のせいでもありません。また神や悪魔のせいでもありません。自分の不幸は自分の心がつくっているのです。それゆえ、自分が自分の投獄者であり解放者でもあるのです。天国や地獄をつくっているのは他ならぬ自分であって、私たちは自分の心しだいで聖人になることも罪人になることもできるのです。
 「自分の幸不幸の責任は自分にある」 ということを学んでください。自分の不幸を他人のせいにしたり責めたりしないで、自分の悪いところを認めるようにしてください。古人の言に次のようなものがあります。

 愚か者は いつでも他人のせいにし
 あまり教養のない者は 自分のせいにし
 賢い者は 他人のせいにも自分のせいにもしない

 いかなる問題が起ころうとも、他人を見るように自己を見つめ、他人のせいにすることなく、どこが悪かったのだろうかと自己の心を見つめてください。一人ひとりが自分の悪いところを正すなら、この世界にはいかなるトラブルも争いも起こらないでしょう。しかし、私たちは 「理解力を育て、偏見を持たずに行動する」 という努力をあまりしようとしません。事実を理解するよりも、他人のせいにするほうを好んでいるのです。問題の原因は外にあると考えて、外ばかりを見、自分の悪いところは認めようとしないのです。
 私たちの心は自己欺瞞でいっぱいです。ですから何か悪いことをやったとき、「自分は悪くない」という妄想をつくり、正当化して何かいいわけをします。お釈迦さまは次のように説かれました。

 他人の過ちは簡単に見える
 自分の過ちを見るのは実にむずかしい
                  (ダンマパダ)


 多くの人は、自分に過ちがあるということを認めず、自分の欠点を隠すために他人を攻撃します。他人を攻撃すれば、自分は恥をかかなくてすみますし、また他人に非難されることもない、と考えているのです。しかし、相手を攻撃すれば問題はいっそう大きくなりますし、また周りの雰囲気も悪くなるでしょう。
 自分が間違えたときは「自分が間違えた」と認めることが大切です。心の汚れている人はいつでも他人のせいにしますが、そのような人のことは見倣わないようにしてください。お釈迦さまは次のようにおっしゃいました。

 自分が愚かであるということを知る者は
 それによって すなわち賢者である
 自分が愚かでありながら 賢者と考えている者は
 すなわち愚か者である


 自分に生じている苦しみは、自分の責任です。何かにたいしていらだったり嫌な気持ちになったりすれば、心に苦しみが生まれます。ですから「世界が悪いのではなく、自分が悪い」ということを理解してください。


人間関係における自分の責任

 何が起こっても心を平静に保っていられるなら、心が傷つくことはありません。心を傷つけるのは、自分や他人や自分にたいする自分のアプローチなのです。周りの人を慈しんでいるなら、周りから慈しみを受けるでしょうし、憎んでいるなら、間違いなく憎まれるでしょう。怒っている人は毒をまき散らしています。周りから傷つけられているのではなく、自分が自分を傷つけているのです。
腹を立てて怒っている人は、目に煙が入ったように物事を正しく見ることができません。反対に腹を立てない賢者は、物事を正しく見ますから、傷つくことはありません。「自分が他人を傷つけなければ、誰も自分を傷つけることはできない」のです。これは普遍的な真理(Dhamma)です。真理に従って生きる人は、真理に守られます。お釈迦さまは次のように説かれました。

 汚れがなく、清らかで、
 罪のない人を害する者の悪行は
 愚か者(自分)に戻って来る
 風に逆らって塵を投げる(と塵が自分に戻って来る)ように。
                              (ダンマパダ)


 他人にたいして怒れば、怒ったことから生じる報いを自分が受けなければなりません。挑発してきたのは相手かもしれません。しかし相手の挑発にのって自分も怒ったなら、結局それは相手の意のままになっているのです。


他人のせいにしない

 自分の心を正しく守っているなら、外部のものから心が乱されることはありません。何か悪いことが起こったとき、外部のせいにしないようにしてください。運が悪いとか、自分は運命の犠牲者だとか、誰かが呪っているとか、まじないをかけた、などと考えることは間違っています。どんないいわけをしても、自分が怒ったら、その怒ったことの結果は自分が受けなければならないのです。ですから、怒らずに問題を解決するように努めてください。どんなに腹立たしいことがあっても、心を明るく保つようにするのです。
 それから、どんな変化も、もしそれが自然なものか必然的に起きたなものなら、それに向き合うことも大切です。避けることができないものを受け入れること、そしてすべての生命に襲ってくる「死」を理解する賢明さを持つようにしてください。そのためには腹を立てず、さまざまな失望や問題に向き合う勇気を育てることが大切です。人生には困難がたくさんあります。私たちはそうした困難に勇気を持って向き合わなければなりません。いま抱えているさまざまな問題を乗り越え、それ以上問題を増やさないなら、その人は真に賢者であるということができるでしょう。
 善い行為をして他人に尽くしている人も、他人から非難されることがあります。むしろ、善い行為をしている人は、善い行為をしていない人より非難されることが多い場合があります。非難されても落ち込むことはありません。落ち込まず、冷静に、「無私無欲の行為はその結果として幸福をもたらす」ということを理解するようにしてください。このように、善い行為をするときは理性と理解力をもつことが大切なのです。英国の哲学者バートランド・ラッセルは次のように述べました。

 理性のない愛も 愛のない理性も
 善い人生を実現することはできない



心の安らぎは自分しだい

 どのようにすれば心の安らぎ、穏やかさ、落ち着きを守ることができるのでしょうか?
 それは、自分の優越感を減らし、高慢を無視し、エゴを抑え、頑固さを捨て、忍耐することです。また、他人に心の安らぎを壊されないように気をつけることも大切です。そのためには賢く行動することです。賢い行動は、正しい理解から生まれます。理解と確信を持ち、しっかりと、でも穏やかに、真理に従うよう最大限の努力をしてください。それから、争いや暴力を避け、謙虚になることも必要です。謙虚になっても失うものはありません。それどころか心に安らぎが得られるでしょう。


非難に向き合う方法

 ときには不当な非難を浴びせられることもあるでしょう。それに対処するには、自分を守る方法と、分別のある建設的な批判をする方法を身につけることです。非難にたいしては、いつでも客観的に見なければなりません。自分に向けられた非難が不当なもので、確かな根拠がなく、悪意のあるものなら、それを受け入れる必要はありません。臆病になって自分の尊厳をおとしめないようにしてください。自分に非がなく、道徳に従い、賢者に称賛されるような正しい行為をしているなら、事実無根の非難に悩まされる必要はないのです。どんな社会でもうまく生きるためには「建設的な批判」と「破壊的な非難」の両方を理解することが大切です。お釈迦さまはこのように説かれました。

 この世の中に非難されない人はいない
                 (ダンマパダ)



見返りを期待しなければ失望もない

 善行為をするとき、見返りを求めなければ失望することはありません。見返りを期待しなければ、自分を落ち込ませるものは何もないのです。私たちは他の生命の苦しみを和らげようと何か役に立つ善い行為をおこないますが、そのとき報酬を期待しないなら、自分を失望させる原因はありませんから、心は満たされるでしょう。自分がおこなった善い行為、そこから生まれる心の安らぎこそが大きな報酬であり、その心の安らぎが人生に計り知れない充実感をもたらすのです。反対に何か見返りを期待するなら、多くの場合、幸福を逃すだけでなく苦々しい失望を味わうでしょう。
 おそらく皆さんは本質的に善い人で、他人を害することなどないと思います。なのに、善いことをやっていても他人から非難されることもあるのです。それでこのような疑問が生じるかもしれません。「善い行為には善い結果があり、悪い行為には悪い結果があると言われている。自分はまったく悪いことをしていないのに、なぜ苦しみを味わうのだろうか。なぜこんなに多くの混乱に悩まされなければならないのだろうか。善いことをやっているのに、なぜ他人に非難されるのだろうか」
 これには単純に二つの理由が考えられます。一つは、宇宙には多くの邪悪な力(マーラ)が働いており、善行為をするとき知らないうちにこの邪悪な力が邪魔しているかもしれないということです。邪悪な力は善行為をする人を邪魔するのです。もう一つは、自分が過去でやった悪行為の報いを今受けているということです。
 これらのことを正しく理解して善行為を続けていくなら、さまざまな困難から解放されるでしょう。苦しみの原因をつくったのはもともと自分なのですから、苦しみを乗り越えられるのも当然自分しかいません。世の中をありのままに理解することによって、私たちは苦しみを乗り越えることができるのです。

 他人を守れば 自分が守られる
 自分を守れば 他人が守られる


 私たちは、世の中の多くのことをコントロールすることができません。突然の変化や、さまざまな影響、予測できないことが襲いかかってきて、私たちを失望させます。ですから、このような変化している世の中で善行為をするのはむずかしい場合もあるのです。しかし「他人を守れば自分が守られる。自分を守れば他人が守られる」というお釈迦さまの言葉を常に心に留めておくなら、みながお互い守り合い、役に立ち合うことができるでしょう。


報恩はすばらしい徳

 お釈迦さまは「報恩はすばらしい徳である」と教えました。しかし現実を見ると、どの社会でも感謝して恩返しする人はあまりいません。ですからたとえ自分が善行為をしても、いつでも他人が感謝してくれるとはかぎらないのです。
 私たちは忘れやすい傾向があり、とくに他人に助けられたことに関しては忘れやすいものです。ですから自分が誰かを助けたとき、たとえ相手が感謝を示さなくても、それをそのまま受け入れてください。そうすれば失望することはないでしょう。他人が感謝しようがしまいが、自分が善いことをしていれば幸福になれるのです。重要なのは、自分が他人にたいして人間としてなすべき立派な行為をした、ということを考察し、充実感を味わうことなのです。


他人と比較しない

 自分を他人と比べなければ、余計な悩みや苦しみが生じることはありません。しかし「自分は他人よりも優れている」「他人よりも劣っている」「他人と等しい」と考えているかぎり、差別が生じ、心の落ち着きがなくなるでしょう。「自分は他人よりも優れている」と考えれば高慢になりますし、「他人に勝とう」とすれば他人は攻撃してくるでしょうし、「自分は他人よりも劣っている」と考えれば自信を失います。
 自分のプライドを制御し、他人との比較をやめることはとてもむずかしい。でも、プライドを捨てれば心に安らぎが生まれるのです。ですから努力してプライドを減らしていくことを学んでください。そうすれば他の生命と調和することができますし、それによって心が安らぎ、幸福が得られるのです。皆さんにとってプライドと幸福、どちらが大切でしょうか?
 考えてみてください。「優れている」ということも「劣っている」ということも「等しい」ということも、どれもみんな変化している相対的なものです。いま貧乏でも将来金持ちになるかもしれませんし、いま教養がなくても後で賢くなることもできます。いま病気で不幸だとしても、しばらくすると健康になるかもしれません。ですから比べても意味がないのです。
 それから人間には人類の生得権として、人権、尊厳、立場など目に見えない無形の性質がたくさんあります。これら無形の性質を他人が奪う権利はありません。

 自分を大切にする人は 他の生命を大切にする
 他の生命を大切にする人は 自分を大切にする



厄介者とのつきあい方

 今、自分に起こっている問題や困難は、それが意図したものであろうとなかろうと、「原因は自分にあるかもしれない」ということを理解するようにしてください。また、周りから降りかかってきた問題を乗り越えるために「今何をすべきか」ということを知ることも大切です。問題にたいして責任を負うだけの深い理解力があるなら、問題を解決する最良の方法は必ず見つかるでしょう。そうすれば、厄介者や迷惑をかける者たちにどのように対処すればよいのかということが分かります。
 自分を攻撃してくる人たちも自分と同じ人間です。ですから仲直りすることはむずかしいことではないはずです。縁を切るのではなく、友情を育てるようにしてください。相手の間違った態度にたいして忍耐する強さがあれば、相手を避ける必要はありません。むしろ、そのような人たちとつきあうことによって、相手に良い影響を与え、相手の悪いところを改善することもできるのです。敵から自分を守るのは、理解力です。さらにはこの理解力によって、敵を善い方向へ導くこともできるのです。
 相手が理解力のない愚か者で、自分にひどいことをしてきたとき、そのときこそ、これまで育ててきた智慧や教養、理解力を発揮する絶好のチャンスです。困難にあったとき、教養と礼儀ある立派な人間として行動しなければ、これまで身につけてきた教育や知識をいつ発揮するのでしょうか。ですから誰かに嫌なことをされたときには「忍耐と思いやりを育てる良い機会」と考えてください。
 忍耐は最も重要な心の性質の一つであり、すべての人が育てなければならないものです。忍耐を実践すればするほど、人間としての尊厳を保つことができます。自分に敵意を向けてくる人たちに対処するために、お釈迦様の教えと学んだ知識をうまく実践してください。そうすれば、遅かれ早かれ相手は自分の愚かさに気づき、自分にたいして敵意を向けてくるのをやめるでしょう。
 また社会には、寛容で忍耐のある人は弱者だと考えて、思いやりがあり、正直で、心のやさしい人にたいして意地悪をしたり、犠牲にしたり、悪用しようとする人もいます。このようなとき、ずるい人の餌食にならないよう、よく気をつけて賢く行動しなければなりません。つまり「智慧を使って道徳を守る」ことが大切なのです。


許すこと・忘れること

 自分にたいして敵意を向けてくる人に仕返しをすれば、問題はさらに大きくなります。腹を立てたり敵対的な行為をすることは、自分も相手も害するだけなのです。憎しみは毒です。相手に仕返しするためには、まず自分の心に強い憎しみを抱かなければなりません。最初に憎しみの毒を持つのは自分ですから、相手を傷つける前に自分が傷つくことになるのです。これは灼熱の鉄の玉を他人に向かって投げるとき、相手よりも先に鉄を持った自分が火傷するようなものです。相手に仕返しをするということは、結局、自分も相手と同じくらい憎しみを持っているということであり、また相手に支配されているということでもあります。仕返ししても、何も問題は解決しないのです。
 逆に、相手が怒りをぶつけてきたとき、こちらが静かに微笑み返したなら、相手は敗北感と惨めさを味わうでしょう。相手の怒りに乗らなかったがゆえ、自分が勝利者になるのです。
 困難な中でもいかに幸福に生きるかということをお釈迦さまは次のように教えました。

 恨みを抱く人の中で 
 われらは恨みを抱かずに幸福に生きよう                     
                  (ダンマパダ)


 憎しみの炎を燃やさなくても、幸福に生きることができます。私たちは敵を愛し慈しむほど心が強くないかもしれません。ですが、少なくとも自分の健康と幸福のために、また他のすべての人の健康と幸福のために、敵を許し、いやなことは忘れようではありませんか。
 自分にいやなことをしてくる人を憎まず、仕返ししないことによって、私たちは礼儀ある立派な人間として行動することができます。なぜいやなことをしてくるかといいますと、それはその人が怒りや嫉妬、無知にふりまわされているからです。私たちもそのような悪い感情にふりまわされたことがあるでしょう。同様に、相手も悪い感情にふりまわされているのです。
 お釈迦さまはこのように説かれました。

 悪事をはたらく者は 
 生まれながらにして邪悪なのではない
 無知のために悪事をはたらくのである


 悪いことをする人に必要なのは、正しい生き方の指導です。その人のことを罵ったり、永遠に苦しめばいいなどと考えることは間違っています。悪い生き方を正すのに遅すぎるということはありません。ですから相手の行為は間違っているということを、相手が納得できるように説明してあげたほうがよいのです。なぜなら悪いことをする人たちは病気で苦しみ治療を必要としているのだから。病気が治れば、当人も周りの人も幸福になるでしょう。このように、無知は智慧によって消えるのです。

 善い人生は 慈しみによってもたらされ 
 智慧によって導かれる


 相手が無知で誤解を持っているためにあなたにひどいことをしてきたとき、そのときこそ相手にたいして慈しみを向けるときです。そうすれば、いつか相手は自分の愚かさに気づくでしょうし、しだいに憎しみも消えていくでしょう。相手に善い方向へ改善する機会を与えてあげてください。憎しみの心を改めることによって、善い人間になれるのです。そしていずれ相手はあなたのやさしさに心から感謝するでしょう。
 次の言葉は、お釈迦さまの言葉の中でも最も慈悲深い言葉のひとつです。

 憎しみは憎しみによって終わらない
 慈しみによってのみ 憎しみが終わる
 これは永遠なる法則である


 心に慈しみのある人は、危害にあうことはないでしょう。危害にあわないのだから、身も心も健康になるのです。
 生きることにはそれ自体に動的なリズムがあります。一方で悪いことがあれば、他方で善いことがあります。苦あれば楽ありです。このことを理解していない人は、生きる上でトラブルを起こしたり困難にぶつかったりするでしょう。ですから、たとえ誰かがあなたにたいしていやなことをしてきても、そのときは賢く行動して、相手が間違いをするたびに慈しみをもってそれを正すように努めることが大切です。これは容易いことではありませんが、それでもお釈迦さまを見倣って最善の努力をしたほうがよいのです。やがてこのような賢い行為は不可能ではない、ということがお分かりになるでしょう。 お釈迦さまは次のように説かれました。

 害を与えられれば与えられるほど
 私はさらに慈しみを放とう


 自分にひどいことをしてくる人にたいして慈しみで接することなどできない、と考えている人もいます。不可能かどうか、ご自分で試してみてください。もし「憎しみに対して慈しみで返す」のがむずかしいと感じるなら、そのときは「憎しみに対して憎しみで返すことをしない」ようにしてください。そうするだけでも自分と相手にたいしてとても善いことをしているのです。

 憎しみを持っている無知な人には
 慈しみが必要である



人間の欠点

 すべての人間には欠点があります。それゆえ私たちは過ちを犯しやすいのです。どんな人にも欲と怒りと無知があり、その強さは人によってそれぞれ異なりますが、私たちの心を支配しています。人格完成者である阿羅漢に達していないかぎり、あなたも例外ではありません。
 次の言葉は人間の心の本質を示したものです。

 全世界が自分のものになったとしても
 人は自分の人生に満足することがなく
 また、人生の目的を見つけることもできない


 無明で覆われている人たちのことをよく見てみると、その人たちの心は煩悩や混乱、暗闇で曇っています。無明のために不幸をつくり、さらにはそれを他の人たちに振りまいているのです。
 悩みと不幸の原因の多くは、「世の中が絶えず変化していること」と「自分のわがままがずっと続いてほしいという世俗的な楽しみを求めてやまない自分の欲望」です。悩みを作り出しているものは、予測できない変化から生じる「失望」と、満たされることのない「欲望」なのです。したがって、悩みは「自分の責任」にほかなりません。
 この世の中に完璧な人などいませんし、どんな人も間違いや何らかの悪いことをしています。では、どうすればそうした間違いや悪いことから解放されるのでしょうか? それは、「無明が渇愛(欲望)を生みだしている第一の原因である」こと、そして「渇愛が悩みを生み出している」ことを智慧をもって理解することです。「智慧によって無明が消えると、悩みも恐怖も消える」のです。このようにして人間の心の欠点(無明・渇愛)を理解することができたなら、悩みや問題にたいして不平不満を言うことはなくなるでしょう。また、勇気をもって問題に向き合うことができるでしょう。ですから、幸福をつくるのも不幸をつくるのも自分しだいなのです。

 自分の内にないもの(問題)は自分に起こらない
                (哲学者 カール・ユング)


親の責任

 親には、子供が幸福になるように育てる責任があります。子供が健康で、精神が強く、社会の役に立つ人間に育ったなら、それは親の努力の結果ですし、反対に子供が非行に走っているなら、親はその責任を負わなければなりません。子供を正しい道に導くことは、親の責任なのです。どうしようもなく救いがたい犯罪を起こす子供もいるかもしれません。そのときも、親は自分の子供の行為にたいして責任があるのです。
 子供の感受性が最も強い時期、子供は親の慈しみ、やさしさ、愛情、気づかいを必要としています。親の慈しみと躾がなければ、子供は情緒的に欠陥を持つでしょうし、社会でどう生きていけばよいか分からずに困惑するでしょう。愛情を注ぐということは、子供の言うことをなんでも聞くということではありません。また、責任をすべて引き受けるということでもありません。実際、過保護に育てれば、子供はわがままに育つでしょう。子供がかんしゃくを起こしたとき、母親は落ち着いて、毅然とした態度で対応しなければなりません。荒々しい言葉を使わずに、子供が理解できるよう、慈しみをもって正しく躾することが大切なのです。
 残念なことに、現代の母親たちは子供にたいする慈しみに欠けています。物質的な進歩が急速に進み、男女平等の声が高まったため、母親は夫とともに激しい競争社会に参加するようになりました。家庭で子供の面倒をみるのではなく、会社や職場で働くことによって家族イメージやステータスを維持しようと苦心しているのです。
 親ではなく親戚やお手伝いさん、ベビーシッターに育てられている子供、また親の都合のために「かぎっ子」として家でひとりで留守番をさせられている子供は、母親の愛情や温かみを知らないことが多いものです。一方、母親は子供の世話をしていないことに罪悪感を覚え、子供が欲しがるものをなんでも買い与えることで子供の機嫌をとろうとします。しかし、このような行為は子供を甘やかせ、わがままにするだけなのです。現代の高性能のおもちゃ、たとえば戦車や機関銃、ピストル、剣などのような有害なおもちゃを子供に与えることは、子供の心に悪い影響を与えます。そのようなおもちゃをもらった子供は、慈しみや思いやり、他人の役に立つことを学ばずに、知らず知らずのうちに破壊することを学んでいるのです。その結果、成長するにつれて残忍な性格になるでしょう。子供がかわいいからといって有害なおもちゃを与えることは、母親の愛情ではないのです。
 働く母親はジレンマにおちいることが多々あります。外で忙しく仕事をし、あわてて家に帰り、疲れきっているのに家事をしなければなりません。一日の家事が終わると、夕食を食べ、テレビを見ます。愛情や慈しみもって子供に接する時間はほとんどないのです。
 女性解放運動が起こったとき、女性が解放されるためには家庭の外で男性と競争しなければならない、と多くの女性たちが考えました。外で働こうとする女性は、子供を産むかどうか慎重に考えるべきです。子供を産んだにもかかわらず、育児を放棄する母親は無責任です。親には自分が産んだ子を育てる責任があるのです。
 子供は物質的に満たされる権利がありますが、それよりも重要なのは、精神的・心理的に満たされることです。物質的な楽しみを与えることは、愛情や慈しみを与えることほど大事ではありません。わずかな収入しかない貧しい家庭でも、子供に充分な慈しみを与え、子供を立派に育てている親たちがたくさんいます。反対に、金持ちで子供にあらゆる物を与えて贅沢をさせていても、親の愛情を与えていない親たちもいます。そのような家庭で育った子供は、成長するにつれて精神的・道徳的に欠陥を持つでしょう。
 育児に専念しなさいと言うと、女性のなかには、女性を見くだしているとか、考え方が古くて保守的だと言う人がいます。確かに昔の女性は見下され、ひどい扱いをされてきたかもしれません。しかし、これは女性が弱くて劣っているためではなく、男性たちが無知だったからです。サンスクリット語では家庭の主婦のことを「Gruhini」と言い、これは「家庭の長(リーダー)という意味です。ここには女性が劣っているという意味はまったくありません。そうではなく、男性は家庭の外、女性は家庭の内という男性と女性の責任を明確にしているのです。
 夫が、家事を担っている妻に、稼いだ収入をすべて渡すという習慣のある国々も世界には結構あります。このように妻に財産の管理を任せることによって、夫は自由になり、自分がやるべきことに専念して最大限の努力をすることができるのです。こうした夫婦は、それぞれが自分の果たすべき責任をはっきり知っていますから、夫婦間で争うことはありません。家庭の雰囲気は和やかで穏やかなため、子供も健全に育つでしょう。
 当然のことですが、夫は妻を大切にするように気をつけなければなりません。妻は、家族からさまざまな相談を受け、家庭内のあらゆることを決める立場にあるのですから、自分の心を育てる時間や興味のあることをする余裕の時間を持つことが必要です。夫婦は家族の幸せに関して平等に責任があるのです。このことを知っていれば、夫婦が互いに争うことはないでしょう。
 結婚した女性は、外で働けば落とし穴が伴うということを理解して、仕事を続けるべきか、あるいは母親として慈しみをもって子供の面倒を見て育てるか、ということを慎重に考えるべきです。残念なことに現代では、とりわけ軍事政権で人材不足の問題を抱えている国々では、母親にまで恐ろしい武器や銃の使い方を教えて訓練している国もあります。本来は子供を抱いてかわいがり、道徳を守る善い人間になるように躾すべきときなのに。
 現代の働く母親たちの子供にたいする姿勢は、古くからの良き伝統である「子供が親孝行をする」という習慣を壊している傾向があります。母親が母乳を与えずに哺乳瓶でミルクを与えることも、その原因の一つになっています。
 赤ちゃんを腕に抱いて母乳を与えるとき、母と子のあいだにはほのぼのとしたやさしい愛情が満ちあふれます。母乳で子育てをしている母親は、母性本能によって、わが子に母乳を与えていることに喜びを感じ、なんともいえない充実感を味わうことがよくあります。母乳を与えることで、母親が子供に与える影響は強まり、母子間の絆もより深まるのです。さらに家庭には子供の親にたいする尊敬の気持ち、家族のつながり、秩序も生まれてくるのです。
 母乳で子供を育てるという伝統は、子供が幸せで善い人間になるために必要なものです。慈しみや愛情をもって子供を育てるかどうかは両親しだい、とくに母親しだいです。母親には、子供が善い人間になるか、わがままな人間になるかの責任があるのです。別の言葉で言うなら、母親は未成年者の非行を減らすこともできるのです!
 自分の心を最も高いレベルまで育てれば、物事を自分勝手な見方ではなく、ありのまま見ることができます。このとき 「自分に起こるすべてのことは自分の責任である」 ということが理解できるでしょう。

 真理に従わずに生きる者は
 精神的にも身体的にも悪い結果を受ける


 感覚(眼耳鼻舌身意)と、存在にたいして強い渇愛(欲望)を持っているなら、その代償を払わなければなりません。つまり、支離滅裂な本末転倒したこの世の中で、なんとか踏ん張って生きていかなければならないという苦しみを味わうのです。夢や欲望がいっぱいあること、永遠を渇望すること、「私」や「私のもの」という微細な感覚に執着すること、これらは人を盲目にし、時間の感覚(時の流れ)を覆い隠します。欲望というものは、決して満たされることがありません。ですから欲望を抱けば、結果として喧嘩や衝突、恐怖、悩み、孤独、不安、コミュニケーションの失敗などが生じます。都合よく欲望だけを満たすことはできないのです。
 心の苦しみを取り除きたいなら、欲望(渇愛)を控えなければなりません。人生という旅路には「T字路」があります。一方は幸福への道、もう一方は不幸への道です。「心を育て、正しい道へ進み、さまざまな苦しみを和らげる方向」と「感覚にふけり、そこから生じる多くの苦しみを味わう方向」の二つの道があるのです。
 心の苦しみを和らげる方法の一つに、自分の苦しみや困難を他人のものと比べて自分の苦しみの度合いを理解する、という方法があります。不幸にあったとき、私たちはよく、世界は自分を恨んでいると考えることがあります。また、自分の周りにあるすべてのものが今にも崩壊するように思えたり、自分の人生はもう終わりだと考えたりすることもあります。しかし、周りをよく見つめ、自分の恵まれている点を数えるなら、意外にも自分はほかの多くの人たちよりもはるかに良い状態にあるということがお分かりになるでしょう。

 自分は靴を持っていないと不平を言っていた
 足がない人を見るまでは


ということわざを聞いたことがあるかもしれません。この意味は、私たちは自分の問題や困難を大げさに見すぎているということです。実際のところ、ほかの人たちは自分よりも貧しいのに、それほど悩んでいません。さまざまな問題は「大げさに考えて悩む」というところにあるのです。ですから、悩んで心の苦痛をつくる代わりに、大げさに考えることをやめるようにしたほうがよいのです。中国には問題解決に関して次のようなことわざがあります。

 大きな問題があるなら
     それを小さな問題に減らすようにし
 小さな問題があるなら
     問題をなくすようにする


 問題を解決するための方法がもう一つあります。それは、以前似たような問題や、今より悪い状況にあったとき、困難を切り抜けた方法を再現してみることです。忍耐や努力、責任ある決断をしたことによって、克服しがたい困難を乗り越えたときのことを再現してみるのです。そうすれば、いま直面している問題に圧倒されて自分を見失うことはないでしょう。逆に、新しい見方で人生を見ることができ、自分に起こってくる問題ならなんでも解決することができるようになるのです。
 これまで、多くの困難を切り抜けてきたということ、そして何が起こっても面と向かって取り組める姿勢があるということに気づいてください。それに気づくなら、私たちはすぐに自信を取り戻し、これからやってくるであろうどんな問題も解決することができるでしょう。
 自分が直面している問題には、それを乗り越える解決法があるはずです。ですから悩む必要はありません。もし、問題に解決法がない場合でも、悩むべきではありません。なぜなら悩んでも問題は解決しないからです。


みんな一様に善い人ではない

 他人に迷惑をかけず、問題を引き起こしたことがない人でも、他人に騙されたり、そそのかされたりして、被害にあうことがあります。道徳的な生活を送っているにもかかわらず、いやな気持ちを味わったり、不快な目にあったりして、自分は何も悪いことをしていないのに傷つけられた、と感じるのです。
 このようなとき、世界にはさまざまな人がいるということを理解するようにしてください。善い人もいますし、あまり善い人ではない人もいます。悪い人もいますし、それほど悪くない人もいます。この世の中は、いろいろな性格を持つ人たちが集まって成り立っているのです。
 善い人は、「自分は善いことをおこない、善いグループに属している。他人を傷つける人は悪いグループに属している。だから自分は悪い人たちとは関係がない」と考えているかもしれません。しかし、ときには悪い人たちの悪行為に巻き込まれ、辛抱強く耐えなければならないこともあるのです。ひとつ例をあげましょう。
 「丁寧で上手な運転手」と「無茶で下手な運転手」がいるとします。上手な運転手は、あらゆることに気をつけて慎重に運転をします。しかし、自分にはまったく過失がないにもかかわらず、無茶で下手な運転手の不注意のせいで、事故に巻き込まれることもあるのです。このように、善い人は悪いことをしていなくても苦しみにあうことがあります。これは、私たちの周りには無知で乱暴な人がいるからなのです。
 この世の中は、善だけ、あるいは悪だけで成り立っているのではありません。世の中には聖者も犯罪者もいます。賢者も愚者もいます。同じ質の粘土から、美しい陶器、形の崩れた陶器、役に立つ陶器、役に立たない陶器を作ることができます。良い陶器を作るのは、粘土の質ではなく、陶芸家の腕です。そこで、陶芸家を自分に置き換えてみてください。自分の人生を幸福にするか不幸にするかは、自分の腕にかっているのです。


心の安らぎを得るために

 これまで述べてきたアドバイスを日常生活の中で実践して、もろもろの問題を乗り越えるために最大限の努力をするなら、私たちが探し求めている幸福や安らぎ、調和は必ず見つかるでしょう。自分の心を守り育てるために、この小冊子にある道徳を実践してみてください。(了)

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Problems and Reaponsibilities
by Venerable Dr K Sri Dhammananda Nayaka Maha Thera
Publication of the Buddhist Missionary Society Malaysia
Buddhist Maha Vihara, 123 Jalan Berhala,50470 Kuala Lumpur, Malaysia
Published for Free Distribution
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翻訳:出村佳子

生きとし生けるものが幸せでありますように







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