生は不確実・死は確実 Life is uncertain, Death is certain

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K.スリダンマーナンダ長老 




 「生は不確実・死は確実」 
 これは仏教の有名な言葉です。死は、すべての生命にやってくる自然な現象であることをよく理解して、私たちは死を恐れるべきではありません。
 しかし、どんな人も本能的に死を恐れています。それは、「死は避けられない」ということを知らないからです。そして自分の命や体にしがみつき、欲や執着ばかり抱いているのです。

 赤ん坊が生まれたとき、家族や親類縁者は喜んで幸せを感じます。激しい陣痛に耐えた母親も、喜びに満ちたまなざしで生まれたばかりの赤ん坊を見つめ、出産のときに味わった苦痛や困難は無駄ではなかった、と感じるのです。
 
 一方、赤ん坊のほうは泣きながら生まれてきます。それを見ると、この世に誕生するとき「苦しみ」を経験しているということがわかります。
 赤ん坊は、それから善い行為と悪い行為を重ねながら思春期を経て大人になり、やがて老人になります。そして最後には、家族や親類縁者を残したまま、この世に別れを告げるのです。
 これが人間の本質です。私たちは、なんとか死から逃れようとしています。でも、死から逃れることは誰にもできないのです。

 死が近づいてくると、私たちは自分の財産や愛する子供たちのことを心配してひどく悩み苦しみます。そして、何よりも自分の体のことを心配します。
 誕生以来ずっと大切に守り続け、念入りに面倒をみてきたにもかかわらず、いまやその体はやつれ、衰え、消耗し切っています。体と別れることは、あまりにも悲惨で耐えがたいことです。しかし、それを避けることはできません。
 このようにして、多くの人は呻き声や嘆き声をあげながらこの世を去って逝くのです。


死の恐怖

 私たちが不安になるのは外部のせいではなく、将来について考える自分の妄想のせいです。
 たとえば、死それ自体は恐ろしいものではありません。「恐ろしい」というのは、自分の妄想なのです。
 私たちは「自分が死ぬ」という現実に直面できるほど、勇気がありません。ですから死という真理を突きつけられるのは、恐ろしいことであり、受け入れがたいことでしょう。
 でも、死に向き合うことによって確実に恐怖は減少し、取り除かれていくのです。

 私たちは生まれた瞬間から、弾丸のように死に向かって進んでいます。この現実に目を覚まし、勇気をもって自然の法則である死に向き合うべきです。
 人生で自由を重んじるなら、死に対する恐怖からも自由になるべきでしょう。恐怖は、自然の法則を知らない人だけに起こるのです。
 お釈迦さまは増支部経典(Axguttara Nikqya)でこのように説かれています。
  「恐怖は愚者に起こり、賢者には起こらない」

 恐怖とは、頭のなかの妄想にすぎません。
 科学では死についてどのように説明しているかご存知でしょうか? 
 死とは生理的に体が衰えていくことである、と説明しています。
 私たちはまだ死を経験したことがないにもかかわらず、死は恐いものだと妄想して、ただ無意味に脅えているのです。
 有名なウィリアム・オスラー医師(Sir William Osler)はこのように述べました。
 「私の長年の臨床経験のなかで、苦痛や恐怖に襲われて死んでいった人はほとんどいません」

 また、あるベテランの看護師はこのように言っています。
 「大勢の人は死を恐れながら生きていますが、これはあまりにも悲しいことだと私は思います。なぜなら死が来たとき、死は生と同様に自然の現象だということがわかるのですから。
 臨終のときに死を恐れる人はほとんどいません。これまでの私の経験のなかで、恐怖を抱いて死んでいったのはたった一人だけです。その女性は、妹に取り返しのつかない残酷なことをしたと嘆いていました。
 しかし死を迎えるとき、美しいことが起こります。恐れも脅えもすっかり消えるのです。『死は現実のものである』ということを理解したとき、彼らの目には驚くほどのやすらぎがあるのを私はよく見ました。これこそが現実を知ることの徳ではないでしょうか」

 生に執着すれば、死ぬのが恐くなります。
 生きることに対して強い不安感を覚え、たとえ善いことであっても思いきって行動しようとしなくなります。
 自分の大切な命が病気や不慮の事故に遭って消えてしまうのではないかと心配し、脅えながら日々を過ごすことになるのです。

 また、たとえ「死は避けられない」ということがわかったとしても、生きることに強い愛着をもっている人は、「死んだあと魂が天国に行きますように」と熱心に祈ります。(それは心に恐怖が潜んでいるからです)
 心が恐怖や願望で混乱していては、幸福になれるはずがありません。にもかかわらず、私たちはこうした本能(恐怖や願望)をほうっておけないのです。

 死の恐怖を乗り越える方法があります。
 それは「私」という概念を捨てることです。つまり内側に向いている愛着(エゴ)を、外側へ向けることです。すなわち、他の生命の幸福に役立つことをおこない、慈しみを実践することです。
 「自分はいつか必ず死ぬ、死を避けることはできない」
 という事実を常に心に留めておく人は、死ぬ前に人類に対する自分の責任を果たそうと精一杯努力します。
 今生でも来世でも怠けることはありません。
 人の役立つことに専心すれば、自己中心的な執着や期待、虚栄心、傲慢、独善などの重荷からすぐに解放されるでしょう。


病気と死

 生きている限り、病気と死は必ずおとずれます。このことをよく理解して、現実をありのままに受け入れなければなりません。
 現代心理学によると、「過度の精神的なストレスは、生の現実から逃避したり拒否したりすることから生じる。ストレスを軽減するか、あるいは克服するかしなければ、体に重大な病気を引き起こす」と言っています。
 過度に悩んだり落ちこんだ状態が続くと、病気は確実に悪化するのです。

 心を清らかにして正しい行動をする人は、死を恐れません。
 「私」というものは、心と物体が結合して成り立っているものにすぎず、「死ぬ人」という固定的な実体は存在しないのです。業の結果、つまり今やっている行為や過去でやった諸々の行為が次の生をつくりだし、その生でまた業の苦しみを負うのです。

 輪廻の苦しみを終わらせることもできます。
 それには、いつでもどこでも道徳を守り、善行為をして、徳を積むように精一杯努力しなければなりません。
 また、そのように努力することによって、恐れず、現実的に、死に向き合うことができるのです。

 仏教では、自分の代わりに業の重荷を引き受けてくれる救済者のようなものは存在しないと説いています。自分がやった悪い行為の結果は、自分が受けるしかありません。
 お釈迦さまは説かれました。
 「自分をよりどころにしなさい、島にしなさい、励みなさい」

 この教えを常に心に留めておくようにしてください。

 家族や親戚、友人たちが死んでも、嘆き悲しむべきではありません。いくら嘆き悲しんでも、輪廻転生を止めることはできないのですから。
 人は死ぬと、その人の業にしたがって、新しい生に転生します。
 家族や親戚、友人たちは、死体が墓に入るまでそばで付き添うことができますが、それ以上は不可能です。
 次の生にいっしょに行くことができるのは、その人がおこなった善悪の行為だけなのです。ですから残された者たちは、愛する人の死を落ち着いて受けとめ、別れに耐えるべきです。

 死を避けることは誰にもできません。
 死だけが唯一この宇宙で確実なものなのです。森は都市に変わるかもしれませんし、都市は砂漠に変わるかもしれません。山があるところには湖ができるかもしれません。変わらないものなど、どこにもないのです。
 しかし、死だけは確実です。それ以外のものはすべて一時的です。
 私たちにはたくさんの先祖たちがいました。でも彼らは今どこにいるのでしょうか? みんな死んでしまったのです。

 ここまでの話しを聞いて、仏教は生を悲観的に見ていると思わないでください。死こそが、あらゆる現実のなかで最も現実的な見方なのです。なのに、なぜ私たちは現実を見ようとせず、非現実的なままでいるのでしょうか? 
 死はすべてのことを終わりにするのではありませんか? 
 そう、死はすべてを終わりにするのです。このことを忘れないでください。
 死は、私たちの運命に目覚めさせてくれます。どんなに地位が高くても、どんなに高度な技術や医療科学があっても、すべての人は皆、例額なく死ぬのです。
 棺に入るか、ほんの一握りの灰になって。
 そして、この生と死の連鎖は、私たちが完全なる悟りを開くまで、ずっと続いていくのです。


影響力は残る

 お釈迦さまはおっしゃいました。
 「肉体は灰になるが、名前や与えた影響力は残る」と。
 影響力というものは、人が肉体をもって生存しているときよりも死んだあとのほうが、より強く広範囲に及ぶことがあります。私たちは、過去に生きた人格者たちの思想に強く影響されて善い行為をすることもあるでしょう。自分の人格を完成させるためには、過去の偉人たちの考え方も重要なのです。
 それから、生きている人は死んだ先祖たちの合成だとみなすこともできます。そう考えると、過去の偉大な哲学者や賢者、英雄、詩人、音楽家は人種に関係なく、今でも私たちの心の中で生きている、と考えることもできるでしょう。過去の偉大な人物と自分自身とを関連づけるとき、彼らが説いた賢い思想や立派な考え、時代を超えた不朽の音楽などを共有することができるのです。
 彼らの肉体は滅びましたが、与えた影響は生き続けています。
 肉体は、常に変化し続ける化学要素の組み合わせにすぎません。
 人生とは絶えず流れ続けている大きな河の一滴(ひとしずく)であり、私たちはこの「生」という巨大な流れに、喜びをもって貢献しなければならないのです。

 生の本質を知らなければ、無明の泥沼に沈んで嘆き悲しみます。
 しかし生の本質に気づくことができたなら、無常なるものをすべて捨て去り、涅槃(究極の幸福)を求めるようになるのです。
 涅槃に達する前には、何度も何度も死に直面しなければならないでしょう。でも、死それ自体には何の意味もないのですから、死ぬことに抵抗して、苦しむべきではないのです。

 仏教は、「今生は最初で最後の生ではない」と教えています。
 もし今生で確信をもって善行為を続けるなら、未来の生はより幸福になります。
他方、もし何度も何度も繰り返し生まれ変わるのが嫌だと思うなら、心を育て、渇愛と煩悩をすべて取り除くために解脱に向かってあらゆる努力をすべきでしょう。


仏教の教え

 悟りの最高の位(くらい)に達した聖者は、煩悩を完全に取り除いていますから、親しい人が死んでも嘆き悲しむことがありません。
 お釈迦さまが入滅されたとき、阿羅漢に達していたアヌルッダ尊者(Ven. Anuruddha thero)は嘆き悲しみませんでした。
 しかし当時、預流果(悟りの最初の位)までしか達していなかったアーナンダ尊者(Ven. Qnanda thero)は涙を流して深く悲しみました。アヌルッダ尊者はこのように説かれました。

 「アーナンダよ、お釈迦さまはかつてこう説かれたのではなかったか。生まれたもの、存在するもの、組み立てられたもの、作られたものは、必ず壊れる。
 生じては滅する――これが諸々の条件によって形成されたものの本質である。
 生まれたものは必ず死ぬ。この構造が完全に止むとき、究極の平安が訪れるのである」


 これは、仏教の基盤となる教えです。


悲しみの原因

 悲しみの原因は、あらゆる形の「執着」です。
 悲しみを乗り越えたければ、人や財産に対する執着を捨てなければなりません。これが究極の真理であり、死が教えてくれる貴重な智慧なのです。
 執着は、私たちの感情を喜ばせ、世俗の生活を続けさせるためにさまざまなものを与えてくれます。しかし同時にそれはあらゆる悲しみを引き起こすのです。
 もしこの教えを学ばなければ、私たちは死に打ちのめされ、恐怖に押しつぶされるでしょう。このことをお釈迦さまは見事に説かれています。

 子供や財産に執着しても、死は人を連れ去ってゆく。
 ちょうど大洪水が、眠っている村を押し流すように。


 この教えは、村人たちが眠らずによく目覚めていたなら、村が大洪水で大惨事にあうことはなかった、ということを意味しています。


死はすべての人にやってくる

 愛する人が死んだために深い悲しみに沈んでいた二人の女性がいました。
 お釈迦さまはいかにして彼女たちの問題を解決されたのでしょうか?

 一人はキサーゴータミー(Kisqgotam])です。
 彼女のたった一人の生まれたばかりの赤ん坊が、ヘビに噛まれて死にました。その死んだ子を抱えてお釈迦さまのもとへ行き「この子を助けてください」とお願いしました。
 お釈迦さまは、
 「では、からしの粒を数個もらってきなさい。ただし今までに一度も死者を出したことのない家からですよ」
 と言いました。
 しかし、キサーゴータミーは死者を出したことのない家を見つけることができませんでした。彼女が訪れたどの家も、喪中か、あるいは一人以上の死者を出していました。
 ついにキサーゴータミーは「死はすべての人に起こるものだ」という苦い現実に目覚めたのです。
 死はすべての生命に襲いかかるものであり、誰もそれを免れることはできないのです。

 もう一人はパターチャーラー(Pawqcqrq)です。
 彼女のケースは、キサーゴータミーよりもさらに悲惨でした。
 短い期間に二人の子供と夫、兄弟、両親、そして財産をすべて失くしてしまったのです。
 正気を失い、狂乱して裸のまま街をさ迷い歩いているとき、お釈迦さまに出会いました。お釈迦さまはパターチャーラーを正気に戻し、このように説かれました。
 「死はすべての生命に起こる自然の現象です。 パターチャーラーよ、あなたがこのような苦しみを味わったのは今回がはじめてではありません。無数の生涯のあいだで父や母、子供、親戚たちが死ぬたびに苦しんできました。輪廻のなかであなたが流した涙の量は、海の水の量よりも多いのです」
 お釈迦さまの話しが終わったあと、パターチャーラーは「生の不確実性」に目覚めました。

 パターチャーラーもキサーゴータミーも、自分の悲惨な経験から「苦」という現実を理解したのです。
 四聖諦の第一の真理である「苦の真理」を深く理解することによって、残りの三つの真理も理解しました。
 お釈迦さまは説かれました。
 「比丘たちよ、苦を理解しなさい。
  そして苦の原因と、苦を滅する道を理解しなさい」


五 蘊(ごうん)

 死とは、五蘊が分解することです。
 五蘊とは、感受作用(受)、知覚作用(想)、形成作用(行)、認識作用(識)、そして物体(色)の五つの集まりのことです。
 はじめの受・想・行・識の四つは心の集まり(nqma)であり、意識を構成する要素です。
 最後の色(しき)は物体、言い換えれば、体の集まり(r[pa)です。
 そして、この心と物体が組み合わさったものを、私たちは便宜上「個」とか「人」「私」と名づけているのです。
 したがって、存在とは実体ではなく、心と物体の二つの基本要素から構成されている集合体であって、単なる現象にすぎません。
 しかし、私たちは頭が妄想でいっぱいになっているため、五蘊が現象だとわからず、実体として見ています。
 また、生まれながらにして備わっている欲望のせいで自分はかわいいと思っているために、五蘊を固定的な変化しない「私」とみなしているのです。

 ものごとの真のあり方を知ることができるのは、心が落ち着いていて、ありのままに見ようとする意志が働いているときだけです。
 お釈迦さまは大念住経(Mahqsatipawwhqna Sutta)でこのように説かれています。
 「自分の心に意識を向け、気づきをもって心を観察しなさい」

 我を入れずに、客観的に、心の流れを確認するのです。そしてこの実践を十分な期間続けるなら、五蘊は実体ではなく、連続する心と体の流れである、ということが理解できるでしょう。
 そうすれば、もう現象を実体だと誤解することはありません。
 それから、五蘊が急速に連続して生まれて消えていることが見えてきます。
 そして、一度生まれた現象と同じ現象は二度と生まれない、ということもわかってきます。
 また、五蘊は一瞬も止まることなく常に流れ続けているものであって、実体として「存在する」(being)のではなく、絶えず「成り続けている」(becoming)ということがわかるでしょう。


輪廻転生

 人は死ぬとき、心を形成する四つの集まり、すなわち受・想・行・識は、死ぬ前と同じように途切れることなく生滅を続けます。
 しかしこれら四つの集まりは、もう今の体の中で機能することができません。体が壊れてしまったからです。
 そこで四つの要素がうまく機能するのに適した新しい体をすぐに見つけなければなりません。このとき業(kamma)が法則にしたがって働き、五蘊が組み換えられるのです。これが輪廻転生です。


エネルギーの集まり

 簡潔に言いますと、五蘊が結合することを「誕生」、五蘊が一つのまとまりとして組み立てられている状態を「生」、五蘊が分解することを「死」、そして五蘊が再び結合することを「転生」と言います。
 しかし私たち凡人にとっては、どのようにして五蘊が再び結合するのか(転生するのか)を理解することは容易いことではありません。
 それには五蘊の各要素の性質、心のエネルギー、業の法則、宇宙エネルギーの作用を正しく理解しなければならないのです。

 死について、さまざまな考え方があります。
 ある人は「死は単なる自然の出来事の一つであって、五つの構成要素が分離することである。分離したあとには何も残らない。つまり死をもって一切は終わる」と考え、
 ある人は「魂が一つの体から別の体へ移動すること」と考えています。
 またある人は「魂が定まっていない状態、言い換えれば、最後の審判の日が来るのを待っている状態」と考えています。
 仏教は、「死は一時的な現象世界における一時的な終わりにすぎず、『存在』が完全に滅することではない」とみなしています。


死の原因

 仏教では、死は次の四つのうち、いずれか一つが原因になって起こると考えています。

1 個々の生命が持っている寿命が尽きる(Qyukkhaya
2 誕生をもたらした業のエネルギーが尽きる(Kammakkhaya
3 寿命と業の両方が同時に尽きる(Ubhayakkaya
4 外部の影響、すなわち事故や予期せぬ出来事(自然の作用や、2に当てはまらない過去世の業)によって起こる(Upaccedake

 死の原因についてのよい喩えがあります。ろうそくの喩えです。ろうそくの炎は、次の四つのうち、いずれか一つが原因になって消えます。

1 ろうそくの芯が燃え尽きる。これは寿命が尽きて死ぬようなものです。
2 ろうそくの蝋がなくなる。これは業が尽きて死ぬようなものです。
3 芯と蝋が同時になくなる。これは寿命と業の両方が尽きて死ぬようなものです。
4 風が吹くなど外部の要因によって火が消える。これは外部の影響が原因で死ぬようなものです。


事実に向き合う

 死に向き合うための最良の方法はなんでしょうか? 
 それは、前もって注意して備えておくことです。
 すなわち「私は死ぬ、遅かれ早かれ必ず死ぬ」と念じることです。死を念じるといっても、人生を悲観的に見ているわけではありません。死は現実に起こり、必ず直面しなければならないものなのです。
 仏教は智慧の教えですから、人が好むと好まざるとにかかわらず、事実に向き合うことを教えています。

 シーク教の創始者、グル・ナーナック(Guru Nqnak)はこのように言われました。
 「世の中の人は死を恐れているが、私にとって死は至福である」。
 この言葉から、偉大で智慧のある人は死を恐れるのではなく、死を受け入れる準備ができているということがおわかりになるでしょう。
 これまで大勢の人たちが、みずからの死を自覚し、他者の幸福のために尽力してきました。彼らの名前は後世の人のために世界の歴史にしっかりと刻み込まれています。


死は避けられない

 私たちは日頃ニュースなどで他の生命の死をよく見ているにもかかわらず、どういうわけか自分も同じようにいつか必ず死ぬ、と考えることは滅多にしません。
 これは矛盾しています。死は確実にやってくるのです。でも、私たちは「生」にべったりと執着しているため、「死」について考えることを嫌がり、できるだけ死を遠ざけています。死はどこか遠い先の出来事であって思い悩むべきものではない、と自分を欺いているのです。

 しかし、死に向き合う勇気をもつべきです。
 そして厳然たる死が訪れたとき、それに直面できるように備えておかなければなりません。
 自分は必ず死ぬ、という事実を理解して心の準備を整えておくなら、しかも死を恐ろしい出来事としてではなく、自然の出来事として受け入れることができるなら、 死が訪れたとき、落ち着きと勇気と自信をもって死に直面することができるでしょう。


義務と責任

 死はいつ訪れるかわかりません。ですから家族に対する義務や責任を、ふだんと変わらぬ落ち着きで、前向きに、自信をもって果たすべきです。
 ぐずぐず先に延ばしてはなりません。
 今日できることは明日に延ばさず、時間を上手に利用して、人生を有意義に過ごさなければなりません。
 生きているうちに、妻や夫、子供に対する義務を果たしておくことが大切です。
 遺言状は忘れずに書いておくべきでしょう。そうすれば遺された家族が争ったり、悩んだり、諸々の問題を引き起こさないですむからです。

 死はすべての人に平等にやってきます。地位や貧富、老若によって人を差別待遇することはありません。
 死に対する準備ができているなら、今生最期の日を迎えるときには、希望と自信をもって恐れずに死に直面できるでしょう。


渇愛と無明

 死を乗り越えることはできるのでしょうか? 
 答えは、できます! 
 私たちが死ぬのは、生まれたからなのです。生まれては死に、また生まれては死ぬ、この限りない繰り返しを「輪廻転生」(sa/sqra)と言います。
 そこで、この輪廻転生を終わらせるためには、無明(avijjq)と渇愛(tazhq)を断たなければなりません。無明と渇愛が輪廻転生の根源であり、滅尽すべきものなのです。
 したがって無明と渇愛を滅尽すれば、生を乗り越え、死に打ち克ち、輪廻転生を超越し、涅槃(nibbqna)に到達することができるのです。

 「この世のすべてのものは無常である」という真理を理解できるように努力してください。存在は単なる幻影にすぎません。科学的、あるいは哲学的な方法で、あらゆることを分析して調べてみれば、最終的に「実体はない」ということが発見できるでしょう。
 
 死を恐れることは、
 擦り切れた古着を捨て去るのを恐れているようなものである
                   (ガンジー Gandhi)
 
 愛する人を失うことは耐えがたく苦しいものです。その原因は、愛着にあります。
 お釈迦さまの在世当時、ヴィサーカー(Visqkhq)という有名な女性の在家信者さんがいました。愛する孫娘が死んでしまい、その悲しみをお釈迦さまに聞いていただこうと僧院を訪れました。お釈迦さまはヴィサーカーにこのように尋ねました。

 「ヴィサーカーよ、あなたはこのサーヴァッティの町にいる子供の数と同じだけ、自分の子供や孫がほしいですか?」

 「はい、ほしいです。それほど大勢の子供がいれば、どんなに楽しいことでしょう」

 「では、その子供たちが死ぬたびに、あなたは泣き悲しむのですか? ヴィサーカーよ、愛する人が百人いる者には、百の悲しみがあります。そして愛する人が一人もいない者には、悲しみがなく、悲しみから解放されているのです」
 
 人に愛着すれば、離別という悲しみの代償を払わなければならないのです。
 
 命に対する愛着が、死の恐怖を生みだしています。
 私たちは、たとえ善いことだとわかっていても思いきって行動しようとしません。事故に遭ったり病気になったりして自分の尊い命が失われるのではないかと恐れながら日々を過ごしているのです。
 それから、自分は必ず死ぬということを理解した人でも、自衛本能が働いて、魂が天国で生き続けますようにと祈るのです。これは来世に対する強烈な渇愛から生じています。

 死という自分の運命に気づくべきです。王であろうが一般人であろうが、金持ちであろうが貧乏であろうが、強い者であろうが弱い者であろうが、この肉体の最後の場所は棺(ひつぎ)に入って地下に埋葬されるか、焼かれて骨壷に入るか、海に流されるかのいずれかなのです。

 すべての人は皆、死に直面して同じ結末を迎えます。
 ですが、私たちは生の本質を知らないために、死が訪れたとき嘆き悲しみます。しかし、いったん生の本質に目覚めることができれば、組み立てられて成り立っているすべての現象の無常性を見ることができ、解脱を求めるようになるのです。諸々の世俗的な束縛から解放されるまでには、何度も何度も死に直面しなければならないでしょう。
 しかし、ここで死は非常に重要な役割を果たすのです。死が耐えがたく嫌なものだと気づくことによって、生と死の循環、つまり輪廻転生を乗り越えようと懸命に努力するようになるのです。


死の観察

 なぜ死を念じなければならないのでしょうか? 何のために観察するのでしょうか?
 お釈迦さまは人々に「常に死を念じて観察しなさい」と勧められました。理由は「生まれたものは必ず死ぬ」からです。受精したときに現れた心と体は、それから発育し、成長し、成熟します。これは言い換えれば、徐々に老化しているということです。私たちは子供のときは「成長する」と言いますが、その後は「老化する」と言います。しかしどのように言おうが、結局は避けることのできない死に向かって進行している一本のプロセスにすぎないのです。

 ある調査によると、今日では毎日平均して二十万人もの人が死亡していると言われています。ということは、毎年およそ七千万人もの人が死んでいるということになります。 これだけ大勢の人が死んでいるにもかかわらず、私たちは死を観察することや受け入れることにまったく慣れていません。私たちが普段やっていることは、死を避けて、自分は決して死なないかのように生きることです。しかし死を恐れている限り、有意義で充実した人生を送ることはできません。

 したがって死を観察する一番目の理由は、「恐怖を乗り越えること」です。決して気を滅入らせたり絶望させたりするためではありません。観察することによって、恐怖から解放されるのです。
 二番目の理由は、「人生に対する見方や態度が変わる」ということです。私は絶対に死なないという思い込みをやめれば、人生に対する価値観は根本から転換し、今までとはまったく異なる人生を生き始めるのです。
 三番目の理由は、「正しく穏やかな方法で死にアプローチし、それに向き合う能力を育てること」です。
 
 死の観察には三つのメリットがあります。

◎ 恐怖が取り除かれる。
◎ 人生に新しい価値観をもたらし、正しい価値観をもって生きることができる。
◎ 尊厳をもって死ぬことができる。

 死を観察することによって、有意義な人生を送り、やすらかな死を迎えることができるのです。これ以上ほかに必要なことがあるでしょうか。


 仏教では次の観察を勧めています。

◎ 私は老いるものである。老いを避けることはできない。
◎ 私は病【ルビ・・・や】むものである。病気を避けることはできない。
◎ 私は死ぬものである。 死を避けることはできない。
◎ 私のもの、愛するもの、喜ばしいものはすべて、変化し、別れ、離れていく。
◎ 私は業に支配されている。業(行為)の結果を避けることはできない。

 以上の真実を、落ち着いた心で観察して意識するなら、老病死、離別に対する恐怖を乗り越えることができるでしょう。観察の目的は、私たちを憂鬱にさせるためでも、死にたいという虚無的な気持ちにさせるためでもありません。恐れることなく人生を生き、恐れることなく死を迎えるためなのです。


死は生の一部

 死は存在の一部であり、すべての生命に訪れるものです。若いときに死ぬ人もいれば、年老いてから死ぬ人もいます。いつ来るかはわかりませんが、すべての人はまちがいなく死ぬのです。招かれてもいないのにこの世に生まれ来て、命じられてもいないのにこの世を去って逝きます。自分も、他人も、動物も、植物も、すべての形成されたもの、すべての生命は必ず死ぬのです。冬が近づくと、葉は枯れて木から散り落ちます。しかしそれを見て嘆き悲しむ人はいないでしょう。なぜなら、これは自然の法則だと知っているからです。私たちの命も、この散りゆく葉のようなものなのです。

 宗教的な人は、物質主義的な人よりも、たいがい死に対する恐怖が少ないものです。なぜなら物質主義者は今生において五感を楽しませることにしか関心がないからです。

 仏教の観点から見ますと、死は「今生の終わり」というだけではありません。「次生の始まり」でもあるのです。一方、再生(転生)は「次生の始まり」であり、また「今生の終わり」でもあります。ですから「今生の死」というのは、生・死・再生・死・再生・死……と繰り返される全体のプロセスの中のほんの一部にすぎないのです。この絶えまないプロセスを理解することができれば、死に対する恐怖は減っていくでしょう。死は、存在すべての終わりではなく、一つのサイクルの終わりにすぎません。そして一つのサイクルが終わった瞬間、次のサイクルが新たに回転し始めるのです。葉は木から落ちますが、それで終わりではありません。葉は土になり、木の根の栄養になり、翌年にはその木から若葉が芽吹きます。人生も同じです。死の瞬間が再生なのです。この基本的な法則を理解することができれば、死の恐怖から解放されるでしょう。


目覚めて生きる

 私たちは、時間をどれだけ浪費しているかということを何も考えずに、多くのつまらぬことに心を奪われて日々を過ごしています。今この瞬間でさえ、はっきり目覚めて生きていないのに、来年のことや二十年先のこと、未来のことを思い煩って、今日という一日をどれほど無駄に過ごしたでしょうか。
 人生で大切なものは何でしょうか? 何のために生きているのでしょうか? 何が人生を形づくっているのでしょうか? 真剣に死を観察すれば、人生に対する価値観を見直すことができるでしょう。いくらお金を持っていても意味がありません。死ぬときにはすべて置いて逝かなければならないからです。かわいがってきた我が身でさえ置いて逝かなければなりません。遺体はただのゴミとなり、遺族が何らかの方法でそれを処分するのです。

 ですから大切なことは、どう生きるかという生き方であって、多くの財産を得ることではないのです。生き方が善いものになるか悪いものになるかは、心の質しだいです。今日一日をより善く生きることが、ほかの何よりも大切なのです。生命は皆、死と心の質を条件として、次の生に転生します。持っていくものは心の質だけです。心の質だけが、この世に残さずに次の生に相続する唯一のものなのです。

 生命は業を所有し、
 業を相続し、業から生まれ、
 業を親族とし、業に従い、
 善悪の業を作りて、それを相続する。


 次の生に転生するのは、業、言い換えれば、内面の性質、心の質、精神の質、善悪の質だけです。相続するものはこれだけです。これらのものが次の生の行き先を決定し、未来を形づくる条件となり、次から次へと起こってくる「生」に新しい価値をもたらすのです。私たちはお金を稼ぎ、そのお金でさまざまなことを楽しむことができるでしょう。しかしそれよりも大切なことは、より穏やかに生き、道徳性を育てることです。これは、自分の人生や価値観に大変良い結果をもたらします。ただ生きるのではなく、どのように生きるのかが重要なのです。


やすらかな死を迎える

 これまで話してきたことをよく考えて、死を恐れるのではなく、現実に起こる出来事として納得することができれば、確信をもって死を迎えられるでしょう。それだけでなく、やすらかな死を迎えるために備えておくこともできるのです。正しく生きてきた人は、やすらかな死を迎えることができます。しかし、正しく生きてこなかったという人でも、今から精一杯努力すればよいのです。つまり死を観察して、「恐れない」という善い性質を心に育てるのです。

 死が近づいてくると、多くの人は肉体の苦痛や親しい人たちとの別れに恐怖を覚えます。このようなとき、周りの人は死にゆく人の恐怖をやわらげて、安心させてあげなければなりません。それにはまず、付き添っているあなた自身が落ち着いている必要があります。肉体の痛みは激しく、耐えがたいものです。しかし幸運にも現代医学の進歩によって、肉体の苦痛を鎮めることが可能になりました。今では、痛みは圧倒的な恐怖の対象ではなくなったのです。

 私は通常、死に瀕している人、たとえば癌などの末期状態にある人に対しては、まず安心感を与えるようにしています。そうすればその人は肉体以外の精神的な苦痛を味わわずにすみますし、また、適切な治療を受けて肉体の苦痛をやわらげることもできるからです。安心感を与えることは、患者がリラックスして穏やかな死を迎えるために重要なことなのです。

 それから、愛する人との別れという恐怖もあります。元気なときに「会うことは別れること」という観察をしていれば、それほど恐怖を感じることもないでしょう。しかし観察をしていない人に対しては、周りの人の手助けが必要です。子供や家族のことは心配しなくても大丈夫、親類や友人がちゃんと面倒みてくれるから、と死にゆく人を安心させ、リラックスさせ、穏やかな気持ちにさせてあげることが大切なのです。

 重要なことは、死にゆく人が、より穏やかな気持ちになるように励ましてあげることです。では、どうすればよいのでしょうか? 仏教では、死にゆく人の部屋を穏やかな雰囲気に保つことを勧めています。枕元で叫んだり、泣きわめいたり、嘆き悲しんでもまったく意味がありません。このようなことをする人たちは、死という重大事を迎えようとしている人に対して何をしているのでしょうか。穏やかに死ぬのを困難しているだけです。寿命が尽きようとしているこの大事な時期には、親類や友人たちがそばに集まり、思いやりと慈しみをもって、快く何か役立つことをしてあげることが大切なのです。

 「死に瀕しているとき、宗教的な象徴はとても役に立ちます。死にゆく人が仏教徒なら、小さな仏像を見せてあげたり、できれば僧侶を家に招いて心の動揺をなだめるお経を唱えてもらうのが大変有効です。そうすれば大きなやすらぎと尊厳をもって死ぬことができるでしょう。このように可能な限り最善な状況のなかで、新しい生に転生できることは素晴らしいことです」
              (アジャン・ジャガロ Ajahn Jagaro)


生を無駄にしない

 誰もが皆、自分の人生の義務と責任をまっとうしたあとに、穏やかな死を迎えることを望んでいます。しかし、どれだけの人が死に備えているでしょうか? どれだけの人が家族や友人、国、宗教、自分の人生に対する責任を果たしているでしょうか? これらの責任を果たしていなければ、穏やかに死を迎えることはむずかしいでしょう。

 私たちは、自分で死の恐怖を乗り越えることを学ばなければなりません。神々も死に支配されているのだから、神々を頼りにすることはできないのです。つまらぬことに心を奪われて時間を無駄に過ごしていると、死期が近づいたとき、後悔の念に襲われるでしょう。

 人生は、絶えまなく流れ続けている河の水の一滴(ひとしずく)にすぎません。このことを理解する人は、輪廻という大きな河の、ほんの一部分にでも貢献しようと心を動かされるでしょう。賢者は知っています。生きるということは悪を避け、善をおこない、心を清らかにして、解脱するために努力しなければならないということを。お釈迦さまの教えにしたがって、生きるということを理解した人は、死について悩むことがありません。死が苦しみをもたらすのではありません。生きているあいだに自分のためや世界のために何も為さないことが苦しみをもたらすのです。


今日、私は死ぬ

 有名な西洋仏教学者、デイビッド・モリス氏(David Morris)は八十五歳で亡くなりました。彼が死んだ直後に、筆者は一通の手紙を受け取りました。それは明らかにモリス氏が亡くなる前に書いた手紙であり、ポストに投函されたものです。その手紙にはこのように書かれていました。

 「今日、私が死んだということを知って、あなたは安心されるでしょう。これには二つの理由があります。一つは、私がようやく病気の苦しみから解放されたということ。もう一つは、私は仏教徒となり五つの戒律を堅く守ってきたので、来世は苦しみの次元に落ちることがないからです」

 生は夢のように儚く、死は現実に訪れ、転生は自然に起こります。死を観察し、死に備えておけば、輪廻転生を乗り越えられるか、あるいは苦をなくすためにもう少し生が続くかのいずれかが起こるでしょう。苦をなくし、輪廻を越えること、これこそが人間の智慧なのです。
 

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Life is uncertain, Death is certain
Venerable Dr. K. Sri Dhammananda Nayaka Maha Thero
Published by the Buddhist Missionary Society Malaysia, Buddhist Maha Vihara
123 Jalan Berhala, Brickfields 50470 Kuala Lumpur, Malaysia
Copyright 1995 K. Sri Dhammananda. All rights are reserved.
Published for free distribution.

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スリダンマーナンダ長老 著
出村佳子 訳

生きとし生けるものが幸せでありますように