WHY WORRY! Live without fear&worry  本文へジャンプ

     第2部 悩みを乗り越える



怒りを制御する

   怒っている人は、鰐のように口は開けているが、眼は閉じている


評判を落とした裕福な貴婦人

 これはお釈迦さま在世中のお話です。一見、慈悲深そうな振舞いをし、上流社会で高い評判を得ていた貴族階級の未亡人がいました。彼女には忠実で働き者の女中がいました。ある日のこと、女中は女主人が本当に良い性格なのか、それとも上流社会の恵まれた環境のなかで単に体裁(ていさい)を繕っているだけなのか、ということが知りたくて調べてみることにしました。翌朝、女中は早く起きずに正午近くまで寝ていました。女主人は「遅い」と言って叱りました。その次の日も、女中は正午近くまで寝ていました。それを見た女主人はかっとなり、女中を口汚く罵って棒で殴り、けがをさせたのです。この出来事が周囲の人たちに広がりました。結局、裕福な未亡人はこれまでの良い評判を貶め、また忠実な女中も失ってしまったのです。
 この話のように、現代社会でも、自分をとりまく環境が良好で何も問題がなければ、私たちは親切で上品にいられますが、状況が変化して都合が悪くなると、本性を現し、イライラして怒るのです。

 周りの人が善人なら、自分も善人になりやすく
 周りの人が悪人なら、自分も悪人になりやすい

という格言を覚えておいてください。怒りは醜く、破壊的な感情です。人間は誰でも日常生活のなかで怒ることがあります。怒りは心に眠っている否定的な感情であり、何か事が起こったとき、ぱっと燃え上がって私たちを支配するのです。
 怒りは稲妻のようなものです。一瞬にして人の判断力を失わせ、理性のない行動を起こさせます。怒りは、身体にも心にも大きな害を与えるのです。ですから他の感情と同じように、怒りを制御しなければなりません。

怒りの危険性

 生まれつき、日中に目が見えない生き物もいますし、夜間に目が見えない生き物もいます。憎しみや苦しみに支配されている人は、日中であろうと夜間であろうと、ものごとを正しく見ることができません。このような諺があります。「怒っている人は、鰐のように口は開けているが、眼は閉じている」

 怒ったあと、すぐに正気を取り戻すのは難しいものです。怒りの影響があとに残るからです。銀行にお金を預けると利子が付くように、心に怒りを貯めると苦しみが付いてくるのです。
 怒っているとき、誰と戦っているのでしょうか。相手ではありません。自分自身なのです。怒りは、いわば自分の最悪の敵なのです。このことを正しく理解して、心に潜んでいる危険な敵を根絶するように努力しなければなりません。
 怒りは感情に煽られると、さらに強くなります。怒りの背後に欲望がある場合は、なおさらです。激怒しているとき、その人は人間ではなく、他人も自分も破壊する危険な猛獣のようになっています。怒りは、名声や仕事、友人、恋人、心の平和、健康、そして自分自身までも破壊するのです。
 お釈迦さまは、怒りがもたらす不幸について次のように説かれました。怒った人には、敵を喜ばせる七つのことが生じます。その七つとは、

・ 立派な服を着て身なりがきちんとしているのに、醜い
・ 柔らかく、ゆったりした布団で寝ているのに、身体が痛む
・ 不注意で理性がないために、悪を善、善を悪と誤解して、危害や苦しみもたらす行為をする
・ 一生懸命働いて稼いだ財産を失う
・ 法律に触れるようなことをして処罰されることがある
・ 長いあいだ不断の努力をして得た評判や名誉を失う
・ 友人や親類縁者が離れてゆく
・ 死後、不幸の境涯に輪廻転生する。怒りに支配されている人は身口意で悪行為をしますから、その悪行為が悪結果を招く

 これらの不幸は、私たちが敵の身に起こってほしいと考えていることです。しかしこれらは敵ではなく、怒った当人に降りかかるのです。ゆえに怒った自分が真の敵なのです。

怒りを制御する

 怒りを制御する良い方法の一つに、「自分の心に怒りがないかのように行動する」という方法があります。意志の力で心を善い方向に向け、そうすることによって悪い感情を制御するのです。自分を侮辱した人に対して、穏やかな心で接するのは、容易(たやす)いことではありません。肉体は傷つけられなくても、プライドが傷つけられたと感じて相手に仕返しをしたくなるからです。ですから、侮辱された相手に対して敬意を持って丁寧に接するのは簡単なことではないのです。私たちは幼少の頃から、侮辱を晴らすために仕返しをすることを好んでいるようです。

 あいつは私を罵った、あいつは私を殴った、あいつは私を打ち負かした、
 あいつは私のものを奪った、と思う者に、怨みは鎮まらない

 (釈迦牟尼仏陀)

 暗闇は暗闇によって取り除かれません。光によって取り除かれます。同様に、怨みは怨みによって鎮まりません。慈しみによって鎮まるのです。お釈迦さまは次のように説かれました。

 ある人は、岩に刻んだ文字のようなもの
 怒りやすく、怒りを絶えず抱いている
 ある人は、砂に描いた文字のようなもの
 怒りやすいが、怒りはやがて消えてゆく
 ある人は、水に描いた文字のようなもの
 怒りは速(すみ)やかに消えてゆく
 心が完成した人は、空気に描いた文字のようなもの
 悪口や不快な言葉を聞いても、それを心に留めることがない
 心は常に清らかで平静である


 他人に不当に扱われて怒りを感じたときには、その怒りを制御すべきです。なぜなら心が混乱して、正しい判断ができないからです。怒ったとき、その怒りに気づかなければなりません。自分を怒らせた相手や対象に注意を向けるのではなく、怒りを一つの心の状態として観察するのです。怒りを観察して分析できるよう、心を訓練しなければなりません。自分の心を絶えず分析する訓練を行うことによって「自分は心を制御できる」という大きな自信が育ち、愚かで理性のない行為はやらなくなるのです。お釈迦さまは次のように説かれました。

 行為を制御することは善いことである
 言葉を制御することは善いことである
 心を制御することは善いことである
 すべての感覚を制御することは善いことである
 すべての感覚を制御する賢者は
 あらゆる苦しみから解放される


 怒りを制御するとき、すべての人が同じ方法を用いるとは限りませんが、その有効な方法の一つに「時間を遅らせる」という方法があります。トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)はこのアプローチを手短に要約して、次のように言いました。
「腹が立ったとき、話す前に心のなかで一から十まで数えなさい。ひどく腹が立っているなら、百まで数えなさい」

 怒りをうまく制御できるようになるために、次の言葉を一日に数回、心のなかで繰り返してみてください。

 わたしは怒りを制御できる
 わたしは苛立ちを鎮めることができる
 わたしは冷静で、落ち着くことができる
 わたしは岩のように、怒りに動じない
 わたしには勇気があり、怒りを制御できる

 この言葉をよく意識して繰り返すことによって、心が強くなり、自信と落ち着きが得られるでしょう。他人から心無い行為をされたときには、お釈迦さまの次の教えを思い起こしてください。

「愚かにも他人が私に嫌なことをしたなら、私は限りない慈しみを返そう。他人がさらに危害を加えたなら、私はさらに善いことをしよう。私は常に善の芳香を得るが、彼らは評判を落とすだけである」

「徳のある人を非難する悪人は、天に向かって唾を吐くようなものである。唾は天を汚さず、唾を吐いた者を汚す。悪口を言う者は、向かい風に向かって塵を投げるようなものである。投げた塵は、投げた者に降りかかる。徳のある人を傷つけることはできない。苦しみは、悪口を言った者戻る」

 怒りを制御するためには当然、訓練が必要です。すなわち、次の「偉大なる四つの精進」に専心することです。

 ・ 悪い思考が現れないようにする
 ・ すでに現れている悪い思考を根絶する
 ・ 善い思考を育てる
 ・ 善い思考を保ち、増大させる

 これらは常に「気づき」を必要としますので、怒りが生じたとき、気づかないということはありません。怒りを明確に即座に制御できるのです。

ライオンに挑戦したイノシシ

 賢者は愚者を相手にしません。一匹の野蛮なイノシシがジャングルの王者になろうと考えて、糞だらけの洞穴から立ち上がり、百獣の王のライオンのところに行って戦いを挑みました。しかし、当然ながらライオンは悪臭のするイノシシの挑戦には応じず、そっぽを向き、無視して歩き去って行ったのです。
この話が示すところは、「賢者は愚者が戦いを仕掛けてきても無駄に時間を費やさない」ということです。

 あるバラモン人がお釈迦さまにひどい悪口を浴びせました。しかしお釈迦さまは心を平静に保ち、それに対して何も反応しなかったのです。やがて悪口を浴びせ続けたバラモン人は疲れ切ってしまいました。
そこでお釈迦さまは口汚いバラモン人に、「あなたが誰かに贈り物をあげたとき、相手がそれを受け取らなかったら、その贈り物は誰のものになりますか?」と聞きました。バラモン人は「そりゃあ、私のものになる」と答えました。お釈迦さまは「同様に、私はあなたが吐いた汚い言葉を受け取りません。ですから汚い言葉はあなたのところに戻ります」と説かれました。
 私たちも、誰かに罵られ、悪口を言われても、平静な態度を保つべきでしょう。


わがままの危険性

 わがままは、人格を壊し、精神の向上を妨げる


 「わがままとは何か」と自分に問うところから始めましょう。第一部の第一章でも申しましたが、私たちは現象をありのままに見ることができません。自分を、単なる五蘊の流れとは見ずに、永遠なる存在だと見て、「私が存在する」と考えているのです。この「私」という概念は、世俗のレベルでは危険を避けるために役立つこともあるかもしれません。しかし「私」に執着することから、さまざまな苦しみが生まれているのです。この「わがまま」という語は「自己中心」とか「利己主義」と言い換えることもできます。
 自己中心でわがままな人たちは、自分のことしか愛しません。他人を愛し、尊敬することを知らないのです。そのため些細なことで言い争いをしたり喧嘩をしますから、人生は際限なく不幸に陥るのです。他人をライバルだとみなし、他人が成功したり業績を上げたときには嫉妬します。また他人が持っているものをむやみに欲しがります。他人が幸福になることが許せないのです。結局のところ、わがままな人たちは自分で自分の思考を害し、社会にとっても危険な存在になるのです。
 金持ちであろうと貧乏であろうと、わがままな人たちは欲望に支配されています。足ることを知らず、自分が持っているものに満足できません。かつてマハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)はこのように言われました。「すべての生命に必要なものは世界に十分ある。だが、たった一人の人間の欲望も満たすことができない」
 金持ちは、家や財産など、いろいろな所有物を守ることに悩んでいます。いつでも「どうすればもっと儲かるだろうか」と考えていますし、たとえ大事なことであっても自分が持っているものを手放そうとしません。そして誰かに盗まれないか、誘拐されないか、騙されないか、と心は常に不安でいっぱいになっているのです。仕事面でも悩み、正直に働いている社員たちに対しても疑いの目を向けます。さらには、自分が死んだ後、財産がどのように使われるかということまで悩むのです。一方、貧しい人たちはどうかといいますと、彼らは物を十分に持っていないことに悩み、いつでも財産や物を追い求めて苦しんでいます。一生懸命働き、まじめに努力しても、お金が十分に得られなければ、犯罪行為に走ったり、絶望したりすることもあるでしょう。
「わがまま」は邪見、つまり生の本質を見ないところから生じています。渇愛や「私が常住する」という考えに深く根ざしている非常に破壊力の強い感情です。もしわがままを制御せず、正しい方法でそれを克服しなければ、計り知れないほどの苦しみや不幸が生じるでしょう。ウィリアム・グラッドストーン(William Gladstone)が述べた次の言葉を、じっくり考えてみてください。
「わがままは、人類にとって最大の呪いである」

 思考はエネルギーであり、わがままは悪い結果をもたらす強力な負のエネルギーです。これは因果法則という宇宙の法則に基づいています。痛みや苦しみは悪い思考の結果であり、幸福は善い思考の結果なのです。
 私たちは思考に支配されています。怒りや怨みが習慣になると、心はずたずたに傷つきます。怨みという強い感情は、人の健康を壊し、病気を引き起こす有害な毒です。もし不幸にも自分に敵がいて、敵に対して憤慨(ふんがい)し、常に怨みを抱き続けるなら、それは自分に対してすることができる最悪の行為です。怒りは敵がするどんな攻撃より、自分を傷つけるのです。

慈悲を育てる

 生命は皆、苦しみを共にする同士であり、共通の困難に陥っています。普通、人間の心のなかは悪というゴミでいっぱいです。しかし幸いにも、善という貯蔵庫も蓋が開いたまま、あるのです。善を育てるか悪を行うかは自分次第です。苦しんでいる生命に対して、あわれみの気持ちを育ててください。わがままを乗り越えて、思いやりや理解力、慈悲を育てることによってのみ、幸福で充実した人生を送ることができるのです。他人がやった素晴らしい仕事や良いところを見下(みくだ)してはなりません。また、欠点や間違いばかりを拾いあげて非難してはなりません。

われわれは一つ

 われわれは一つの大海の一つ一つの滴(しずく)
 われわれは一つの大海の一つ一つの波
 われわれは一つの果樹園に生い立つ一本一本の木
 われわれは一つの枝に付いている一枚一枚の葉
 われわれは一つの庭に咲いている一個一個の花
 われわれは一つの空に散りばめられた一つ一つの星
 われわれは一つの太陽から放つ一本一本の光線
 われわれは一つの手の一本一本の指
 われわれは一つの家族の一員
 世界は一つの家族
 地球は一つの国

 憎しみは憎しみによって鎮まらない
 慈しみによってのみ鎮まる
 これは永遠なる法則である


とお釈迦さまは説かれました。イエス・キリストも、敵を愛しなさい、という自然の法則を教えられました。
 善い思考は善い結果をもたらし、悪い思考は有害な結果をもたらします。「剣によって生きる者は、剣によって死ぬ」という諺のように、憎しみを持って生きる者は、憎しみによって死ぬのです。この事実を理解して、私たちはわがままや憎しみなど悪い思考を持たないよう、注意すべきです。
 悪は、その正反対の善という明るい力によって取り除くことができます。これは心の真理です。慈悲や友情は、憎しみや怒りの解毒剤なのです。心に明るさがあるということは、心に暗さがないということです。慈悲や友情を育ててください。これらこそが私たちにとって最高に尊い宝物なのです。
 外の物事は、内の思考ほど、心に強く影響を与えることができません。私たちは心で考えているような人間になるのです。

 自己に打ち克つことは
 他のすべての人に勝つことよりも
 実に優れている
 神にも、霊にも、悪魔にも、梵天にも
 自己を征服して制御している人が勝ち得た勝利を
 敗北に転ずることはできない
                 (Dhammapada 104-105)



嫉妬の乗り越え方

 わがままは嫉妬の原因であり
 嫉妬はわがままを育てる



 かつて、一匹の蛇の尾と頭が、どちらが先頭になるか、ということで喧嘩をしていました。尾は頭に「おまえはいつも先頭にいる。不公平だ。たまには俺に先頭をやらせろ」と言いました。頭は「それは無理だ。頭が先頭になることは自然の法則だから変えることはできない」と答えました。喧嘩は幾日も続きました。ある日のこと、尾は腹を立て、尾を木の幹に巻きつけたのです。頭は前に進むことができません。仕方なく、尾の好きなように尾を先頭にさせてやることにしました。しかしあいにく尾には眼がないため、どこに行けばいいのか見えず、蛇は火の穴に落ちて死んでしまいました。

 自分の持っているものに満足せず、自分より多くの物を持っている人を見て嫉妬ばかりしている人がいます。そのため、自分が持っているものを楽しめないのです。たとえ周りの人からとてもよくやっていると思われていても、嫉妬深い人は自分の現状に満足できません。他人が自分よりも上手にやっていることを見て嫉妬を抱き、自分を苦しめるのです。そういう人たちは外を見て嫉妬を増大させるより、内側に目を向けて自分の恵まれている点を数えたほうがよいでしょう。

嫉妬の原因

 嫉妬の根本原因は、わがままです。わがままな人は自分だけが大切であって、他人は皆ライバルだと考えています。そして他人の成功を妬み、他人が持っているものをむやみに欲しがるのです。他人が幸福になることは許せませんし、他人の業績をうらやみます。その結果、嫉妬する人は社会性に欠けた危険な存在になり、これがさまざまな問題を引き起こすのです。

トラブルの多くは同種から生じる

 トラブルの多くは、他の種からでなく、同じ種から生じると言われています。
一匹の犬が旅に出ました。しかし二、三日後、すぐに戻ってきたのです。仲良しの犬が、何か問題でもあったのかと尋ねると、犬はこう言いました。「私は旅の途中、たくさんの人間や動物たちに会った。彼らは邪魔をしなかったし、私を自由に行かせてくれた。問題は犬たちだ。犬たちは私の邪魔をして、吠えたり、追いかけてきたり、その上、噛みつこうとした」
 この話のように、人が成功すると、その人のことを知らない人は何も干渉しません。しかし友人や親類のなかには、人の成功を妬んで邪魔する人がいるのです。そのようなとき、彼らの妬みに耐えなければなりません。足を引っ張られ、邪魔されたときには、忍耐を実践するのです。それから、いつもいっしょにいる人より、馴染(なじ)みのない人といるほうが楽(らく)な場合もある、ということを覚えておくとよいでしょう。

思考に気づく

 思考をよく観察して考察してみれば、自分の心の平和や落ち着きを壊しているのは外部のものではない、ということがお分かりになるでしょう。苦しみをつくっているのは、ほかならぬ自分です。自分を他人と比べて、自分はあの人より劣っているとか、あの人は自分より成功している、などと考えて苦しみをつくっているのです。嫉妬しても何の役にも立ちません。嫉妬は、世の中で非常に多くの差別を生み出しています。
 嫉妬や怒り、怨みなどの悪い思考は心の成長を阻止する、ということを理解してください。私たちは何としてでも悪い思考から離れるよう努めなければなりません。嫉妬しても自分が望むものは手に入りません。それどころか、敵意や不安、過度の心身の苦痛によって行き詰まってしまうのです。
 悪い思考をしないよう、絶えず注意しなければなりません。心に悪い思考が浮かんだら、それを善い思考に置き換えなければなりません。そのためには、自分が考えていることや思い浮かんだことに気づく必要があります。気づきを成長させることによって、悪い思考の奴隷になる前に、それを阻止し、取り除くことができるのです。

嫉妬に対処する

 「嫉妬の危険性」を理解することができれば、あわれみや思いやりという善い思考を育てることに時間やエネルギーを費やすようになるでしょう。
「他人が成功しても自分は何も損をしない」ということを理解してください。謙虚になり、わがままを捨て、他人の幸福を喜んでください。このような善い思考が身に付いている人は、自分にも世間にも囚われることなく、幸福でいられるのです。それから、わがままを根絶し、苦しんでいる人々に対してあわれみの心を育ててください。わがままを乗り越え、善や慈悲、智慧を育てることによってのみ、幸福や充実感が得られるのです。

 お釈迦さまは弟子たちに説かれました。
「他人の幸福を見たとき、共感や喜びを育ててください。共感と喜びは嫉妬の解毒剤になりますから」

 他人が繁栄して成功したときには、喜びをもって祝福すべきです。親しい人が繁栄したり成功したときに祝福することは難しいことではありません。でも、競争相手が成功したときには祝福しにくいものです。そのようなとき、こう考えてみてください。「自分は繁栄したくないのだろうか。成功したくないのだろうか。幸福になりたくないのだろうか。自分が幸福を望んでいるように、他の人々も幸福を望んでいるのではないだろうか」。このように考えることで、堕落や苦しみ、嫉妬から生じる怨みや敵意を解き放つことができるのです。また他人の成功を邪魔することもなくなるでしょう。
 他方、自分が成功して嫉妬の対象になったときには、忍耐しなければなりません。人々のなかには「成功者は謙虚ではない」と考えて嫉妬する人がいるからです。まだ成功していない人たちの前では自分の成功を見せびらかさないようにしなければなりません。自分の過去の失敗を思い出してください。そうすれば嫉妬している人の気持ちも理解しやすくなるでしょう。
 他人が嫉妬を抱いて攻撃してきたときには、怒らないよう自分を守らなくてはなりません。自分も他人も、それぞれが業(kamma)の所有者なのです。次のように考えてみてください。「怒って何になるだろうか。怒っても問題は解決しない。状況を悪化させ、苦しみと不幸の業をつくるだけである。手で熱い炭を拾いあげ、それをもう片方の手に持ちかえるように、腹を立てて相手に仕返しすることは自分を傷つけるだけである」

 悟りを開いた賢者が、嫉妬をしていた相手に対して、怒らずに、上手に克服したことを示す話がありますので、ご紹介いたしましょう。

私を従わせることができるか

 かつて真理を悟った賢者がいました。あらゆる階級の人たちが彼の説法を聞きに来ていました。彼は学問的な話は一切せず、法を聴く人たちに向かって心から真っ直ぐに法を説いていました。ある日の夕方、他宗派の指導者が、賢者の説法を聴きに来ました。この指導者は、賢者のもとに大勢の人たちが集まっているのを見て嫉妬し、腹を立てました。そのなかには自分の宗派の信者たちもいたからです。傲慢な指導者は、賢者と討論して対決しようと考えました。「おい、そこの賢者、説法をやめろ。ここにいる者たちはおまえの話を聴いて、おまえの言うことに従っているかもしれない。だが、私はおまえのことを尊敬しない。私をおまえに従わせることができるか」と大声で叫びました。
 賢者が「では、こちらに来てください」と言うと、男は群集を押し分けて、偉そうに賢者の目の前で立ち止まりました。賢者はにっこり笑って、「私の隣にいらっしゃい」と言うと、男は言われたとおりに隣に行きました。「いや、私の右隣に来たほうが、よく討論できるでしょう」と言うと、男は威張って右隣に行きました。「ほら、あなたは今、私の言うことに従っています。あなたは非常に素直な人です。さあ、そこに座って説法をお聴きなさい」


敵と非難に対処する

 友から、われを守りたまえ
 敵から、わが身を守ることは知っているのだが
                ボルテール(Voltaire)



 自分には敵がいない、と言い切れる人はいないでしょう。無私無欲の心で人類に奉仕した仏陀、クリシュナ、イエス・キリスト、ムハンマドのような偉大なる宗教指導者たちにも、反対者や敵がいました。またソクラテスのような優れた哲学者にも、リンカーンや、非暴力運動の父マハトマ・ガンジーなどの社会改革者たちにも、反対者や敵がいたのです。偉大なる指導者や先導者たちは、侮辱や非難を受けたとき、彼らが何よりも重んじていた崇高な道徳や法則から逸(そ)れることなく、根気強く忍耐されました。
 他の人々の幸福のために活動している人たちも、悪意のある人に遭遇することがよくあります。善と悪のあいだには絶え間ない衝突が自然に生じるようです。誰かが善いことをすると、称賛するのではなく、あら捜しをする人がいるのです。そして「この人は何かをした」あるいは「何もしなかった」と言って非難するのです。在家信者のアトゥラ(Atula)は、お釈迦さまの弟子である長老たちの説法に不満ばかり抱いていました。その不満をお釈迦さまに訴えたとき、お釈迦さまはこのように説かれました。

 人々は沈黙している人のことを非難する
 多く語る人のことも非難する
 節度を守って語る人のことも非難する
 この世に非難されない人はいない


 たとえそれが根拠のない非難であっても、他人に非難されることをある程度認めて、受け入れる覚悟をしておかなければなりません。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)は、とても冷静で現実的な方法で非難に対処していました。「非難をすべて聞き、そのすべてに答えていたなら、この仕事(大統領職)を辞めて、他の仕事をやったほうがいい。私は自分が知っている最善を尽くしている。自分にできる最上のことを実行している。そしてそれを最後までやり続ける意志がある。もし最後の結果が良ければ、私に浴びせられた非難は問題にならない。もし最後の結果が良くなければ、たとえ十人の天使が私を弁護しても、何の役にも立たない」

心の鏡

 自分の思考や信仰が、自分の人生・経験・環境を形成します。鏡を見るように、私たちは自分の思考や妄想の反映を外に見ているのです。「自分の性格は思考の結果である」という事実に気づくまで、私たちは心の奴隷になったままでしょう。しかしいったんこの偉大なる事実に目覚めたなら、悪い思考の弊害から解き放たれる一歩を踏み出したことになるのです。
 他人が醜いと見えるとき、それは自分の心の醜さが反映しています。自分の悪意や憎悪のイメージを、たまたま周りにいる罪のない他人に投影して、他人を軽率に非難してはなりません。心を穏やかにし、他人を軽々しく非難しないようにしましょう。心を広くして、相手の立場に立ってものごとを見てください。なぜ非難しそうになったのかを理解するようにしてください。このような見方をすることによって「他人を干渉しない」という立派な生き方ができるようになるのです。そして確実に幸福になります。次のお釈迦さまの言葉を心にしっかり留めておいてください。

 他人の欠点を見る人は
 常に心がいらだち、煩悩が増える
 その人に煩悩を滅することはできない


 ボルトン・ホール(Bolton Hall)は、次のように示されています。

 私は非難という顕微鏡で弟を見て、こう言う。
 「なんてがさつなやつだ!」
 私は軽蔑という望遠鏡で弟を見て、こう言う。
 「なんて心が狭いやつだ!」
 それから私は真理の鏡を見た。
 「私と弟は、よく似ている!」


他人のあらを捜す人

 お釈迦さまは次のように説かれました。

「他人の過ちは見えやすく、自分の過ちは見えにくい。人は他人の過ちを籾殻(もみがら)のように吹き散らす。しかし自分の過ちは、狡賢(ずるがしこ)い賭博者が自分の不利なサイコロをごまかすように、覆い隠す。他人の過ちを見るべきではない。他人がやったこととやらなかったことを見るのではなく、自分がやったこととやらなかったことを常に見るべきである」

 このお釈迦さまの宝の言葉を心に留めて生活すれば、自分をより深く理解することができますし、心の悪い癖にブレーキをかけることもできるでしょう。心を明るく保ってください。あら捜しをする癖がある人は、バラの花を見るときでも、棘(とげ)ばかりを見ます。花の美しさを楽しむこともできるのに、なぜ欠点だけを強調して見るのでしょうか。世俗の人は皆、不完全なものです。それから、完全な極悪人はいないということも覚えておくとよいでしょう。
 今度、他人を非難しそうになったとき、ロバート・ルイス(Robert Louis)の次の言葉を思い出してください。「極悪人にも善いところがあり、立派な人にも悪いところがある。だから我々は他人のことについてとやかく言うべきではない」

非難されたとき、どうするか

 誰かが怒りをぶつけてきたときには、なぜその人が怒っているのか、その原因を見いだすようにしてください。あなたが何か間違いをやったからかもしれません。もしそうなら、自分の過ちを認めて謝ってください。でももし相手の勘違いなら、相手と腹を割って話をし、面倒臭がらずに誤解を解くべきです。それから、もし相手が自分に嫉妬していたり、ただ感情的になって怒っているなら、怒りに対して怒りで報いてはなりません。もっとも、これは心の自然な傾向ではありますが、怒りに対して怒りで報いるべきではないのです。戦争で、戦争を終わらせることはできません。それは、さらなる復讐心を煽るだけです。よくてもせいぜい強者が不公平な和解を弱者に押し付けて終わるのです。お釈迦さまは次のように説かれました。

 勝者は(敗者の)怨みを生み出し
 敗者は惨めさを味わいながら生きてゆく
 勝利と敗北から離れた者だけが、幸福で安穏になる


 慈しみによって怒りを乗り越えてください。これを実行することは容易(たやす)いことではありません。自分の怒りに打ち克って幸福や平和を得るということは、自己を管理するという意味でもあります。お釈迦さまは説かれました。

 戦場で百万人に勝つよりも
 ただ一人、自己に克つ者こそ
 実に、最上の勝利者である


これには忍耐を要しますが、善い結果が得られますから、努力する価値はあるでしょう。
 笑ってください。心から笑ってください。敵に対して笑顔で慈しみを注ぐとき、奇跡が起こります。あなたの晴れやかな笑顔が明るい心の波動を生みだし、二人を仲違(なかたが)いさせていた冷たい壁を壊すのです。慈しみだけが、暗い思考を明るい思考に変えることができるのです。怨みは、相手の立場をより強固にするだけです。

彼は円を描き、私のことを異端者、反抗者、ばかにすべき者と言って、私を円の外へ追い出した。しかし、私には慈しみと智慧がある。私は円を描いて、彼を円の中に入れた。
エドウィン・マーカム(Edwin Markham)


 賢者は、悪に対して悪で報いることをして敵を排除しません。敵を排除すれば、さらに敵を増やすことになるのです。敵に勝つ正しい方法は、理解力をもって慈しみを注ぐことです。まず、なぜ相手が自分を非難するのかを理解するようにしてください。そして腹を立てて言い返すのではなく、相手の良いところを見て褒めるのです。ほとんどの人は、このように実行していませんが、これはいつでも良い結果になります。オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)は、「常に汝の敵を許しなさい。敵を許すことほど敵をいらだたせるものはない」と述べました。許すことが、敵を友人に変える最も効果的で実践的な方法です。実際に実践している人を見れば、これが事実であるということが明確に分かるでしょう。
 お釈迦さまは説かれました。

 慈しみによって怒りに勝ちなさい
 善によって悪に勝ちなさい
 他人の役に立つことによって我侭(わがまま)に勝ちなさい
 真実を語ることによって嘘に勝ちなさい

 
 敵だと思っている人に対して腹が立ったとき、次の二つのことを思い出してください。一つは、敵が自分にやったことより、自分が怒ることのほうが自分を苦しませるということです。もし敵をやっつけたいなら、自分の怒りを取り除くことです。
 もう一つは、ものごとを学ぶことができるのは良き友人からだけでなく、敵からも学べるということです。私たちは相手に対して有利なように解釈しなければなりません。相手が正しい場合もあるでしょう。もし相手が言ったことに注意を払わず、腹を立てたなら、何かを学び、心を向上させる機会を逃すことになるのです。親しい友人は、あなたの欠点をあまり指摘しませんが、敵は非難や批判をぶつけてきます。そして、そのなかには大切な批判もあるかもしれません。先入観を持たず、早合点をしなければ、敵からも多くのことを学ぶことができるでしょう。

批判を恐れない

 褒められると嬉しいでしょうが、褒められ過ぎると気分が悪くなります。反対に、批判は苦(にが)い薬や痛い注射のように不快なものですが、役に立つこともあるのです。
 真摯な批判を恐れないでください。どんな人も、偉大な人でさえ、まったく批判されない人はいないということを覚えておいてください。一般的に、批判というものは無意味なものです。なぜなら批判された人は身を守ろうとし、たいてい防御的になるからです。批判は危険なものでもあります。大切なプライドが傷つけられ、自分は偉いという感情が害されて、怒りを呼び起こすからです。しかし、なかには建設的な批判もあるのです。ですから私たちは批判に耳を傾けなければなりません。建設的な批判は自己を改善する良い機会になりますから、歓迎すべきでしょう。エゴを制御してください。そして自分を批判した相手に腹を立てないように。また、違う意見を持つ人に対してすぐに「敵」というラベルを貼ってはなりません。自分を批判した人がすべて「敵」ではないのです。ですから、誰かに批判されたときには肯定的な態度で「この批判には何か根拠があるだろうか、何か学ぶべきものがあるだろうか」と耳を傾けることが大切です。もしかすると、これまで気づかなかった自分の欠点を発見できるかもしれないのだから。

 人の話をまったく聞かない度し難い人に会うこともあるでしょう。彼らに対してさまざまな方法を使って道徳を説くかもしれませんが、それは無駄な努力に終わるのです。そういうとき、彼らを無視して放っておくのが一番適切です。けっして怒ったり仕返しをしてはなりません。もし怒ったなら、同じ泥沼に落ちて、その中でのたうち回ることになるからです。怒りに対して怒りで返すことは、敵と同じことをすることになります。そうやって私たちは自(みずか)らの心を汚すのです。意地悪をしたり根拠のないことを言って他人のことに口を出す人も結構いますが、そういう人たちは自分の愚行の結果、苦しむ羽目になるのです。
 ですから他人のことを、あまり批判したり詮索すべきではありません。また、必要がないのに口を出すべきではありません。このポイントを例証する東洋の民話がありますので、ご紹介いたしましょう。

余計なことはしない

 ある日、木こりたちが木を切っていました。そして一本の倒れた木を半分に割ろうと、木にくさびを打ち込みました。ちょうどお昼になったので、一休みすることにしました。くさびは木に入ったままです。そこへ一匹のサルがやってきました。サルは珍しそうにくさびを見て、木にまたがったり、しっぽや手足でくさびに触(さわ)って遊んでいました。そのとき、くさびが外(はず)れ、裂けた木の両側がピシャリと閉まったのです。その瞬間、しっぽと身体がつぶされて、サルは死んでしまいました。

 この話の教訓は、口を出す権利のないところまで干渉すると、結局は自分を傷つけるということです。賢明なのは、余計なことをせずに、そのままにしておくことです。
 誰かにひどいことを言われたとき、どのような行動をとるべきでしょうか。まず、相手の行為や言葉には根拠があるだろうか、と考えてください。もし根拠がなく、自分にもまったく非がないなら、相手を無視すべきです。怒ってはなりません。あるいは、悪い心で行動した人は必ずその報いを受けるのだから、慈しみの心を向けることもできるでしょう。そして、相手は無知で正しい導きが必要な人だということを理解してください。イエス・キリストはこのように言われました。「彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」
 非難の問題を避ける最も効果的な方法の一つに、できるだけ悪い人と会わないようにするという方法があります。お釈迦さまはこのように説かれました。

 信頼できる友がいなければ
 ひとりでいるほうがよい


 しかしこれは常に可能なわけではありません。人のものを奪おうとばかりする自己中心的な人たちと一緒にいなければならないときもあります。彼らはまるで蚊のように他人の血を吸い、おまけにウィルスを撒き散らすのです。このようなとき、どうすればよいのでしょうか? なるべく悪影響を受けないですむ方法を見つけることです。お釈迦さまは「怨みを抱く人たちのなかで我々は幸福に生きよう」と説かれました。
ときには「仕返しをすることは悪くない」と思われるような状況にあうこともあるでしょう。でも、何があっても仕返しをしてはなりません。つまらない問題は気にしないようにしてください。怒りが生まれたのは、自分のエゴが傷つけられたからです。エゴという邪見を取り除いたとき初めて、怒るべきものは何もなく、怒りを向ける対象(人)もない、ということに目覚めるのです。
 忍耐と智慧を育ててください。怒らずに相手の利益になるように自分を役立ててください。不当な非難を浴びせられたときには、道徳を放棄することなく、心静かに落ち着きを保つべきです。また、自分の宗教や教えを非難されたときでも、教えを守るために腹を立てたり、怒ったり、仕返しをしてはなりません。

私の足を踏んでください

 ある若者が電車の車両の通路を歩いているとき、うっかり他の乗客の足を踏んでしまいました。若者は謝りましたが、その乗客は怒って許してくれません。若者は「あのう、わざと足を踏んだわけではないのです。謝っても、あなたの気が治(おさ)まらないなら、どうぞ私の足を踏んでください」と言いました。足を踏まれた乗客は自分が怒鳴ったことが恥ずかしくなり、すぐに怒鳴るのをやめました。
 この若者のとった態度はすばらしく立派です。しかし私たちは「思いやりのない弱肉強食の世の中で、この若者のようなやさしい態度をとることは無理だ」と考えがちです。実行するのは難しいかもしれません。でもけっして不可能ではないのです。人は非難や悪行為を楽しんでいるところもありますが、心の内には悪を乗り越えて、完全なる自由の境地に到達しようとする善い能力もあるのです。
 他人に非難されたという理由で、善行為をやめるべきではありません。他人に非難されても、正しい教えに従い、勇気をもって善行為を続けるなら、その人は真に偉大であり、いかなるところでも成功できるでしょう。
 自分の時間や労力を他の人々のために役立てている人は、他人から感謝されますが、同時に非難も受けるものです。非難する人は嫉妬深い人です。これは俗世間の自然の状況です。次のことを覚えておくとよいでしょう。甘い果物が実っている木にはたくさんの人が集まって、石を投げたり枝を切ったりして果実を取ろうとします。さらに、人間だけでなく害虫にも攻撃されるのです。

 お釈迦さまは説かれました。
「賢者は正しい道を踏み外(はず)すことがなく、もはや世俗の喜びに対する渇愛はない。喜ばしいことが起こっても悲しいことが起こっても、心は平静である」 

 敵に対して慈しみを実践したからといって、即座に良い結果を得ることを期待してはなりません。あるいは、努力したのに報いられないといって、落ち込んではなりません。確信と決意と忍耐を持って、時間をかけて実践し続けなければならないのです。そうすれば、相手はいずれ自分の過ちに気づき、あなたの勇気とやさしさを高く評価するでしょう。あるいは、たとえ相手がそのように変わらなくとも、あなたは善行為の結果として心の安らぎを得ることができるのです。これ以上すばらしい報いがほかにあるでしょうか。
 喧嘩を終わらせ、相手と仲良くしようとするとき、自分が何か間違ったことをしているなら、素直に謙虚になって、その間違いを認めてください。もし間違っていなければ、道徳を貫き、怒りや怨み、復讐心から離れて、心の清らかさを保ってください。
 それから、弱い者や少数派の人たちを、見下(みくだ)さないように気をつけなければなりません。弱い生き物でも互いに力を合わせれば、巨大な怪物を倒すこともできるのです。

団結は力

 一匹の象が木の枝を引っ張っていたところ、木の上にあった鳥の巣と卵が地面に落ちて壊れてしまいました。親鳥は気が動転して混乱しましたが、象は謝ることなく立ち去って行きました。親鳥はキツツキとハエのところへ飛んでゆき、あの象の目をつぶしてくれ、と頼みました。キツツキは象を追いかけて目をつっつき、その後、ハエの大群が攻撃しました。目が見えなくなった象は、なすすべもなく水を求めて辺(あた)りをふらつきました。それでも親鳥はまだ気が治(おさ)まりません。カエルたちのところに行き、乾燥している大きな穴のなかでゲロゲロ鳴いてくれ、と頼みました。カエルたちが鳴いているのを聞いた象は、あそこに水があると勘違いしてカエルの鳴き声のするほうへ走っていったところ、穴に落ちて死んでしまいました。
このように、鳥、キツツキ、ハエ、カエルのような小さな生き物たちでも、団結すれば象のような巨大な生き物も滅ぼすことができるのです。
 この話のポイントは、弱者が強者に仕返しすることはよいことであるということではなく、弱者が団結すれば、弱者も強くなり、不正行為や抑圧に勝つことができるということです。同様に、人間社会における少数派も、もし声をそろえて正々堂々と自分たちの意見を述べるなら、世界の運命を変えることもできるのです。フランス革命がその良い例です。少人数でも力を合わせれば強力な敵を打ち倒すことができるのです。


感情の指揮権をとる

 暗い感情は醜い顔を世にさらけだし
 社会のなかで不快な雰囲気をつくりだす



 どんな人でも、いくらかは暗い感情に左右されているものです。自分の暗い感情をよく理解しなければなりません。そうすれば、それを制御することができますし、後で悔(く)いるような悪行為をすることも避けられるからです。感情的になっているときは、重要な決断をくだすことを見送ったほうがよいでしょう。怒っていたり落ち込んでいるときには、ものごとを明確に見たり考えたりすることができませんから、良い結果を出すための思慮深い決断ができないのです。反対に、気持ちが高揚して喜びで舞い上がっているときも、客観的な良い判断をするのが難しいものです。このようなときに判断したことは、偏見が入っている可能性が高いのです。ですから時間をとって気持ちを落ち着かせてください。そして問題を綿密に検討し、熟考してください。感情に左右されずに落ち着いて判断したことには偏見があまり入っていませんから、より良い判断ができるでしょう。
 感情は、顔の表情に表れるものです。鏡を見れば、それがお分かりになるでしょう。ちなみに鏡で自分の顔の表情を確かめることは、暗い感情を正しい方向に直す良い方法です。しかめっ面で渋い顔をしているのを見ると、いかに自分が愚かかということが分かって、ばかばかしくなります。笑って顔の筋肉をゆるめれば、気持ちも明るくなり、幸福になるでしょう。
 感情はすぐに変化します。これは感情が一時的なものであることを示しています。私たちが永遠だとみなしている「私」というものは、単なる幻影であり錯覚にすぎません。嬉しいときには「私は嬉しい」と言い、悲しいときには「私は悲しい」と言い、怒ったときには「私は怒っている」と言いますが、この「私」という言葉は、ものごとを指し示すときに使う社会で決められた言葉にすぎないのです。喜びや悲しみ、怒りを感じている固体としての「私」はどこにあるのでしょうか? 頭のなかでしょうか、心臓でしょうか、それとも魂でしょうか? 注意深く観察してみれば、永続する「私」というものは無く、瞬間瞬間生まれて滅している心と身体の流れがあるだけだということがお分かりになるでしょう。禅仏教の道元禅師は次のように教えられました。「仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」
 もし永遠なる「私」というものがあるなら、その「私」は、変化することなく常に同じ状態で現れているはずです。歳をとることもないでしょう。でも実際には、ものごとは常に変化しています。心は途轍もない速さで生滅変化していますから、私たちは「永続する私が存在する」と錯覚してしまうのです。地球が太陽の周りを回っていることを実感するのが難しいように、「永続する私は存在しない」ということを理解するのは難しいものです。しかしこの真理を理解できたなら、感情はすべて幸福と安らぎへの道を妨げるものであるということが分かり、自分の感情をより上手に扱うことができるようになるでしょう。
 想像してみてください。たくさんの乗客がバスに乗り込んできて、皆が運転席に座り、ハンドルを握って運転します。さて、どうなるでしょうか? 当然事故が起こるでしょう。そこで、バスの車体を自分の身体、乗客を感情に置き換えてみてください。私たちは自分の感情を上手に扱う方法を知らないまま、感情にハンドルを握らせています。そのため、混乱した状態で毎日を過ごしているのです。
 乗客の数を減らさなければなりません。迷惑をかけるものを途中のバス停で降ろしてください。怒り、貪り、悩み、嫉妬、悪意などの悪い感情を降ろすのです。有害な感情を途中で降ろすなら、ハンドルを横取りするものはもういませんから、平穏無事に運転して、バスをしっかりコントロールすることができるでしょう。身体も心もコントロールして、行きたいところならどこでも行けるようになるのです。つまり、自分が自分の主(あるじ)になるのです。
「私」という概念から、多くのトラブルが生じます。私たちは、エゴや私というものが永続すると考えているために、自分のことを過度に重要視して、自分は他の誰よりも重要だと考えるのが習慣になっています。ですから自分よりも優れた人を見ると嫉妬するのです。たとえば裕福な人を見ると、それを喜ばずに(本当は喜ぶべきですが)、その人の過去を調べて、他人が知る必要もない内輪の秘密を探しだし、それを公(おおやけ)にばらすのです。また自分よりも容貌が美しかったり、何かについて上手だったりすると、嫉妬するのです。そこで、この嫉妬に対処する最も良い方法は、他人の成功に共感して喜ぶことです。心の傲慢や優越感という重荷を減らしてください。そうすれば多くの友人ができるでしょう。さもなければ、多くのトラブルを招くことになるのです。
 傲慢や優越感は、新たな問題を引き起こします。現代社会には成功者が結構いますが、そのなかには他の人々から助けてもらったことを認めたがらず、自分ひとりで成功したと考えている人がいます。周りの人の親切に感謝しなければ、多くの場合、善い友人は去ってゆくでしょう。また、成功者のなかでどれだけの人が自分を生み育ててくれた両親に感謝しているでしょうか。私たちは恩知らずの気持ちをただちに取り除かなければなりません。

思いやり

 機嫌が悪いとき、自分よりも不幸な人に対して、つらく当たったり乱暴をしたりして、優越的な態度をとることがあります。料理人も理容師も郵便配達人も、すべての人間の肉体はみな同じ土からできているということに気づかない人は、思いやりに欠けています。すべての生命に対して思いやりの心を向けていないとき、それは同時に自分の心の安らぎを壊しているのです。私たちが生きる上で忘れてはならない重要なことは「日々出会う人は皆、人間の尊厳を持っている」ということです。このことを理解して、自らの生き方を変えることが大切なのです。
他の生命に対する思いやりの行為が大きかろうと小さかろうと、「他を思いやる」という気持ちの本質は同じです。従業員に対していつも心を配り、上手につきあっている雇用者は幸福ですし、やる気があり、気配りができる従業員は、どこに行っても非常に大切にされるものです。
 他の人々にも、他の動物にも、他の生命を慈しむことがいかに大切かということを示す話がありますので、ご紹介いたしましょう。

感情的にならない

 むかし、ある王様が馬乗りの名手から馬車を走らせる方法を教わり、馬車の競争に出ることになりました。競争の当日、王様の馬車が野原に到着すると、まだ馬の身体が十分温(あたた)まっていないにもかかわらず、王様はいきなり馬車に乗って、鞭で馬を打ち始めたのです。しかしいくら強く打っても馬は早く走りません。打てば打つほど、どんどん遅れてしまったのです。競走が終わった後、王様は馬乗りの名手に「おまえは私に馬の乗り方をちゃんと教えなかっただろう」と激しく怒鳴りました。
 馬乗りの名手はこのように答えました。「陛下、私はあなたに馬に乗る技をすべてお教えしました。しかしあなたは馬に対してひどい扱いをなされました。私たち御者にはルールがあります。まず馬の全体的な状態を把握して、それに従って行動しなければならないということです。馬が遅れたとき、あなたは馬の状態を把握せずに、怒って猛烈に鞭で打ちました。速く走らせることばかりを考えて、馬に対する気遣いがありませんでした。だから負けたのです」

すべての生命を思いやる

 幸福になりたいなら、幸福になるに値(あたい)することを行わなければなければなりません。お釈迦さまは「為すべき義務を立派に果たし、そこから生じる喜びから幸福を得てください」と教えられました。為すべき義務を果たすことが、社会のなかで人とうまくやってゆく基本的なこつなのです。抽象的な信仰ではない人間共同体における道徳が、基本なのです。道徳を守ることが個人を成長させ、社会を幸福にするのです。
 私たちはものごとがうまくいっているときでも、怒ったり怨んだりすることがあります。もし人類が慈しみと思いやりを常に実践していたなら、人類の歴史は今とはまったく異なっていたでしょう。しかし奇妙なことに、人類は歴史を通じて苦しみを軽減するより、苦しむことに関心を持ってきたように思われます。アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)は次のように言われました。「世界は危険でいっぱいである。それは悪事を働く者がいるからではなく、悪事を見ても見ぬふりをする人たちがいるからだ」
 愚かさと無知があるために、私たちは自分が他の生命に与えている苦痛を理解することができません。いわゆる文明人といわれている人間は、自分勝手な娯楽と気晴らしのために、弱くて無力な動物を苦しめ、殺しています。冷酷にも、罪のない弱い動物たちが現代社会の欲望の犠牲になっているのです。一部の人間の娯楽と快楽のために、どれほど多くの動物たちが苦しめられ、殺されてきたでしょうか。
 愚か者は邪見のために悪事を働いて楽しんでいます。無防備な動物を撃ったり、弱い人間を搾取することは、あまりにもひどいことです。でも、私たちのなかにはそのような非人間的な行為を見て、傍観者として楽しみ、笑っている人がいるのです。これは人間の心の弱くて暗い側面の表れです。人が他の生命を傷つけているのを見て何が面白いのでしょうか。他の生命が苦しんでいるのを見て何が楽しいのでしょうか。残念ながら、多くの人はこのようには考えていないようです。立派な人間になるためには、このような汚れた心を捨てなければなりません。そして生きとし生けるものの幸福を願うことのできる慈しみと思いやりの心を育てなければならないのです。


子育てのプレッシャーと喜び

 親の特徴や性格は子供に反映する
 これは自然なことである



 親が他の人々の恩恵に感謝していないのに、どうして自分の子供が親に感謝することを期待できるでしょうか。
 家庭というものは、この世の中の一番身近な社会単位です。小型版の社会であり、文明の基盤になるものであり、先人たちの思考の所産でもあります。ですから、親たちには「文明の灯火を後世に伝える」という大切な義務があるのです。
 ほとんどすべての親は自分の子供を愛し、大事にしています。子供の健康と幸福のためならいつでも自分を犠牲にしてもいいと考えているでしょう。しかし残念なことに、現代の物質中心の生活様式が、かつてないほどのプレッシャーを親たちに与え、文明が開ける以前から存在していた最も基本的な社会単位である家庭をバラバラに崩壊しようとしているのです。

親のプレッシャー

 家庭崩壊にはたくさんの理由があります。まず、経済形態がこの二百年のあいだに農業から産業へと大きく変わったことです。現代では農業によって生計をたてる家庭はほとんどなくなりました。親は子供から離れたところで仕事をし、家に帰ってくるのは勤務時間が終わってから。仕事では時間に追われ、報酬は仕事の出来高によって決まります。不況のときには解雇か減給という不安にさらされますから、そのような目に遭わないために、あらかじめ低賃金で長時間の労働をするのです。このようにして、家庭には大きなプレッシャーがかかっています。
 子供たちは、マスメディアが宣伝するさまざまな要求や期待、消費パターンにさらされて、その重圧に苦しんでいます。一方、親たちは自分よりも高い教育を受けた我が子から批判され非難されることもあるでしょう。親と子のあいだには共通点があまりなく、ちょっとした会話を交(か)わすのも難しくなっている状態です。この親子間の不和は「ジェネレーションギャップ」と呼ばれています。
 新しい社会形態が家庭に大きなプレッシャーを与えています。そして多くの親は、この精神的プレッシャーに対処できないでいるようです。
 それから、前世紀に起こった二度の世界大戦は全人類を恐怖に陥れました。そしてそれまで人々が信じていた「神はすべての生命を創造し、すべての生命を愛している」という見解が崩れ始めたのです。科学技術の発展により、一部の宗教家たちが布教したこの神の概念には矛盾があり、人類が実際に経験していることや科学的事実に反しているということが分かったのです。およそ五十年前の「共に祈る家族はいつまでも別れない」というキャッチフレーズは廃(すた)れてしまい、今では「家族で食卓を囲む」ことも難しくなっています。これは世界の人々の行動パターンが大きく変化したからなのです。
 ほとんどの都市社会では、親はたいてい自分の子供に大きな期待をかけています。そしてもし子供が自分の期待に沿(そ)わなかったら、親として失格だとか、力不足だったと考えるのです。悲しいことに親が重要視しているのは、自分の子供が同級生や近所の子供たちより良い成績をとったり優位に立つことであって、道徳の大切さは無視しています。そして、良い点数が取れるように勉強しなさい、高収入の安定した職に就いて社会的に偉くなりなさい、財産をできるだけたくさん蓄えなさい、などと言うのです。かわいそうに、子供は親の期待の犠牲になっています。親は、財産を獲得することや世俗的な成功を追い求めることばかり大事にして、感謝の気持ち、正直さ、誠実さ、思いやり、気遣い、寛大さはないがしろにしているのです。
 正しいことであろうと間違っていることであろうと結果を考えずに、親は子供に対して「一生懸命勉強し、競争して成功しなさい」とけしかけています。なかには子供が嫌がっているのに、無理矢理やらせている親もいます。
 親の特徴や性格が子供に反映するのは自然なことです。そのため、親は自分の価値観を子供に押しつけるのです。利口になりなさい、人気者になりなさい、他人に勝ちなさいなどと。その結果、子供は「成功とは競争に勝って他人を負かすことであり、心の安らぎは無視してもいい」と思い込むのです。

 都会では一般的に、子供が興味を持っているかないかにかかわらず、親は子供にコンピュータや音楽、バレエ、水泳などを習わせています。成功や幸福を得るためには習い事をするのがとても重要だと誤解しているのです。もし子供が本当に楽しんでやっていたり、それなりに才能があったり、子供自身と世界に対する認識を広げるためにやっているなら、習い事をするのはちっとも悪くありません。教養を深めるためには文化的な活動は必要なものです。教養を深めることによって「生きる」ということを理解できれば、子供の心には思いやりと慈しみが育ち、彼らをとりまく自然環境に対して感謝の念を持つようになるでしょう。しかし、このような心のあり方を学ばせようとして、子供にプレッシャーをかけてはなりません。もしプレッシャーをかければ、心を養うという本来の目的が失われてしまいますから。習い事の目的は、子供の能力を周りの人たちに見せびらかすことではなく、子供の人生の質を向上させることにあるのです。ですから決して強制してはなりません。
 必要なことと必要でないことを見極めることが大切です。勉強や技術、芸術だけでは真の成功や幸福は得られません。子供に不必要なプレッシャーをかけないようにしてください。その子の能力ではとても及ばないのに「偉くなりなさい」とか、まだ十分な準備が整っていないのに「指導者になりなさい」とか、スポーツに向いているかどうかも分からないのに「スター選手になりなさい」などと言わないようにしてください。親があまりにも実現不可能な目標を立てると、子供は早い時期から大人のプレッシャーに追い込まれ、重い責任を負うようになります。その結果、子供は疲れ果ててやる気がなくなったり、イライラして怒りっぽくなったりして、子供時代の自由で気楽な生活を楽しむことができなくなるのです。さらには大人になったとき情緒不安定を招く要因にもなるでしょう。ですから、親の期待や希望を子供に背負わせないようにしてください。子供から、幼少期の遊び心を奪わないでください。

子供の素質に気づく

 子供の内に潜んでいる素質に気づくことが大切です。将来子供が無理をせず、その子なりに何ができるかということに気づいてあげなければなりません。子供はまだ幼いですから、優秀な大学に入ることや一流企業に就職すること、幸せな結婚をすることなど、子供に将来の目標を持たせるのは不可能です。しかし持てる目標が一つあります。それは「役に立つ人間になる」ことです。どんな人にも何らかの才能や素質があるものです。たとえば勉強ができなくても、自動車の整備が抜群に得意だったり、料理がずばぬけて上手だったりします。ですから、親がやらなければならない大事なこととは、子供はどんなことが得意か、何に適しているか、ということをよく観察して、子供の能力や才能を見出すことです。そしてその能力を社会の役に立つように、上手に育ててあげるのです。そうすれば、子供は充実した人生を送ることができるでしょう。
 もう一度くり返しますが、親の責任とは、子供をその能力に応じて社会の役に立つ人間になるように育てることです。そして子供が充実した豊かな人生を送れるように支えてあげることです。
 それから何よりも、子供を他の子供と比べないようにしてください! 親や先生たちが、子供が生まれながらにして持っている性格や能力、潜在的才能を理解するように努めるなら、子供を社会の役に立つ立派な人間に育てることは、それほど難しくないでしょう。
 何を優先するか、という優先順位を理解することが大切です。親たちのあいだでは自分の子供の成績と、よその子供の成績とを比べるのが当たり前のようになっているふしがあり、そのために親は「勉強、勉強」と子供を追い立てているようですが、勉強の成績だけで子供を評価すべきではありません。子供をありのままに受け入れるべきであって、親の期待を子供に押し付けないようにしてください。しかし、どんな親も知らず知らずのうちに子供に期待を押し付けています。「子供をありのまま受け入れる」と言っても、これは子供が何も学ばなくてもいいとか、成績が良くならなくてもいい、という意味ではありません。良くなるように子供を励まさなければなりません。ただこのとき、最初に子供の適性や性向、能力を考慮しなければならないのです。つまり、子供の得意な分野において優れるように励ますということです。すべての子供が同じ能力を等しく有しているわけではありません。ですから、親は子供が持っている能力を発見して、その得意分野で優れるように支えてあげることが大切なのです。

天才児

 むかし貧しい家庭に、詩の才能に長(た)けた男の子がいました。男の子は友だちと話しているときでも、自然に口から詩が出てくるほど上手でした。村人たちは男の子の詩の才能に感銘を受けていましたが、愚かな父親だけは息子の才能を認めようとしません。ある日のこと、息子が父親に「詩」で話しかけたところ、父親はかっとなり、息子を棒で叩き始めたのです。叩かれているとき、息子はこのような詩を唱えました。

 わたしは詩を唱えるために生まれてきた
 なぜ父はわたしに
 詩を唱えさせてくれないのだろう
 もし父が詩に耳を傾けるなら
 父も詩を愛(め)でることができるだろう
 もし詩に耳を傾けないなら
 そのとき、棒で叩くのだろう
 
 子供たちは皆が皆、同じ才能を持って生まれてきたわけではありません。才能はそれぞれ異なるのです。親は自分の期待を押し付けずに、子供に本来備わっている才能に気づくよう努めてください。子供を励まし、支えてあげるなら、子供は才能を開花させ、それを最大限に生かすことができるでしょう。
 たとえ才能がすぐに開花しなくても、子供の才能に気づき、育ててあげるのが親の役目です。親は子供に良い教育を与えてあげなければなりません。そして何よりも、尊い道徳と行動規範を教えてあげなければならないのです。なぜなら子供が自分の真の可能性に気づき、成長することができるのは、心を訓練して道徳を身に付けたときなのだから。仏教学者フランシス・ストーリー(Francis Story)は彼の著書で次のように書かれています。
 
 知識は社会で成功するために必要なものであり
 瞑想は悟りを開くために必要なものであり
 戒律(道徳)は、この両方に必要なものである

かごを忘れないで

 むかし、若い夫婦が祖父といっしょに暮らしていました。祖父は非常に短気で不平不満ばかり言い、周りの人たちに迷惑をかけていました。ある日のこと、夫婦はとうとう耐え切れなくなり、祖父と縁を切ろうと考えました。夫は大きなかごを用意して、そのなかに祖父を入れ、肩にかついて出かけようとしたところ、八歳の息子が「お父さん、おじいちゃんをどこへ連れて行くの?」と聞きました。父親は「おじいちゃんを山へ連れて行くんだよ。おじいちゃんはこれから山でひとりで生活するんだ」と言い、山へ向かおうとしました。息子は黙って見ていましたが、いきなり大きな声で「お父さん、帰ってくるとき、かごを忘れずに持って帰ってきてね」と叫びました。父親は不思議に思って立ち止まり「なぜだい?」と尋ねると、息子はこう言いました。「だってぼくも将来そのかごを使わなくちゃいけないから。お父さんが年老いたとき、そのかごにお父さんを入れて山へ連れて行かなくちゃいけないでしょ」と。父親はハッとして、すぐに祖父を家に戻し、それ以来、祖父の面倒をよく見て世話するようになりました。
 子供に慈しみや感謝、忍耐の心を学んでほしいなら、まず親自身がこれらの道徳を守らなければならないのです。
 子供の前で何かをするとき、親はよく注意して行動しなければなりません。さもなければ、子供の前で悪い手本を示すことになりますから。

 子育てのコツを表現した詩がありますので、ご紹介いたしましょう。

  寛大さのなかで育った子供は 忍耐強くなります
  勇気づけられて育った子供は 自信が身につきます
  誉められて育った子供は 感謝することを覚えます
  公正さのなかで育った子供は 正義感を学びます
  安心感のなかで育った子供は 信頼感が身につきます
  人に認められて育った子供は 自分を大切にします
  受容と友情のなかで育った子供は 世界に愛を見出します

 子供の心は純粋で影響を受けやすいものです。ですから子供の前ではよく注意して行動しなければなりません。なぜなら子供はすぐ親の真似をするのだから。たとえば、電話が鳴ったとしましょう。子供は受話器をとって「もしもし」と言いました。受話器の向こうから「パパいますか?」と尋ねられると、子供は父親に「パパ、電話だよ」と呼びかけました。父親はものぐさに「今いないと言ってくれ」と答えると、子供は電話の相手に「パパが、今いないと言ってくれ、と言っています」と、そのまま父親の言葉を伝えたのでした。

 無責任な親は、子供に道徳を教えようとせず、子供が好き勝手にわがままに振舞っているのを見ても知らん顔をしています。成長するにしたがって子供には道徳が必要になってきますが、大人になってから道徳の大切さに気づいても、そのときはもう遅いのです。ですから親は親としての責任を怠ることなく、積極的に子供に慈しみや尊敬心、調和の心を教えてください。そして何よりも、社会で役に立つ人間になることを教えてあげてください。

 親の悩みの一つに、「子供が反抗的で親孝行をしない」ということがあります。親たちは、子供が非行に走って親に恥をかかせ、家名を汚すのではないかとか、自分が年老いたとき面倒を見てくれないのではないか、と不安を抱いているのです。しかし一般的に考えますと、子供の親に対する愛情は、親の子供に対する愛情ほど、大きいものではありません。ですから未熟で経験の浅い子供に、親と同じだけの深い愛情をもって親孝行してくれることは期待しないほうがいいでしょう。子供は親の大切さや愛情に気が付いていないのだから。
 親が子供にどんなに最高の教育を与え、良い価値観を教えていたとしても、子供の性格が強情で反抗的なら、教えたことが水の泡になることもあるでしょう。また親が非常に優れた人であっても、子供が手に負えないほどわがままに育つこともあります。このような場合、親としてやるべき義務をちゃんと果たしているなら、親は自分を責め咎めるべきではありません。そして改めるべきところは改め、どうすることもできないところはどうすることもできないと認めることが大切です。
 カリール・ジブラン(Khalil Gibran)は、親が子供について理解すべき重要なことを、次のように書いています。
 
  あなたの子供はあなたの子供ではない
  生そのものの息子であり娘である
  子供はあなたを通して生まれてきたが
  あなたから生まれたのではない
  あなたといっしょにいるが
  あなたのものではない
  子供に愛情を与えるがよい
  でも、あなたの考えを与えることはできない
  子供には子供の考えがあるのだから
  子供のようになろうと努めるがよい
  でも、子供をあなたのようにしようとしてはならない

 お釈迦さまは次のように説かれました。

  私には子供がいる、私には財産がある
  と考えて、愚か者は苦しんでいる
  しかし自分さえ自分のものではないのに
  子供や財産がどうして自分のものになろうか


 子供や財産、ましてや自分自身さえ思いどおりにならないのに、どうしてこれらのものを自分のものだと考えるのでしょうか。
 子供が結婚したにもかかわらず、子供に対していろんなことを要求する親がいます。子供には子供の問題があり、新しい環境のなかでものすごいプレッシャーを抱えているというのに、その上、実の親に「あの娘(こ)は全然実家に帰ってこない」とか「親不孝者だ」とぶつぶつ言われれば、既婚した子供は罪悪感ややましさから余計に実家に帰らなくなるでしょう。そうではなく、親が心に落ち着きを育て、子供に対して無理な要求をしなければ、親子のあいだには大きな信頼感が生まれ、互いに理解し合うことができるでしょう。そしてそこに望ましい調和が生まれてくるのです。

現代社会の親

 現代社会におけるさまざまな問題のなかの最大の悲劇の一つに「親の愛情が欠けている」ということがあります。親の愛情が欠けているために、子供は苦しんでいるのです。若い男女が結婚するとたいてい子供をつくります。そして子供が生まれたら、親には精一杯、子供を正しく育てるという義務が生じます。物を十分に与える責任もありますが、それよりも重要なのは、精神面です。愛情を十分に与えてあげることのほうが大切なのです。
 物を与えることは、愛情を与えることに比べれば、それほど重要ではありません。貧しい家庭でもしっかり子供を育てている親がたくさんいることを私は知っています。反対に、裕福で子供に何でも物を買ってあげているのに、愛情だけ与えていない親もたくさんいます。このような環境のなかで育った子供は、たいてい心理的にも道徳的にも成長しないでしょう。


  生きとし生けるものが幸せでありますように