WHY WORRY! Live without fear&worry  本文へジャンプ

     第3部 幸せをつくる



幸せの見つけ方

 生が言った
 「幸せは、気まぐれなものだ
 人は幸せになるために必死に努力している
 レースの半分を走って、今、喜びがある
 さらに走り続ける
 だが、ゴールはぐるりと向きを変えた」


 「幸せになりたいですか?」と聞かれれば、誰でも「はい」と答えるでしょう。幸せになるための考え方や手に入れ方は人によってそれぞれ異なりますが、私たちはみんな幸せになりたいのです。
 ある作家はこのように言いました。
「幸せとは目的に達することであると大勢の人が考えている。何かになることや、何かであることが幸せだと考えている。不幸にも、幸せは決して叶(かな)うことのない見果てぬ夢となり、私たちは虹を追いかけるがごとく人生を過ごしている。自分の影を追いかけているも同然だ。幸せは外にあるのではない。自分の心にあるのである」

 また、別の作家はこのように言っています。

 幸せは旅路にあり、目的地にあるのではない
 高尚で立派な志(こころざし)をもっている人は幸せである
 まわりにいる生命を豊かにする人は幸せである
 他の生命を害さず
 みんなが穏やかに暮らせるようにする人は幸せである
 この世界をより良い世界にするために貢献する人は幸せである
 慈しみをもって日々の活動、仕事、家事をおこなう人は幸せである
 他の生命を慈しむ人は幸せである
 他の生命を幸せにする人は幸せである

 苦しみとは幸せがないことであり
 幸せとは苦しみがないことである

 すべての人が幸せを求めています。幸せは儚(はかな)いものだと知りながらも、幸せになるために休みなく頑張っています。しかし頑張っているのとは裏腹(うらはら)に、幸せに近づくどころか、多くの場合、逆に遠ざかっています。なぜそうなるのでしょうか?

幸せを探して

 現代社会は戦いです。人々はお金を儲けるために、快楽や贅沢を手に入れるために、戦っています。こうした生活様式がもたらすものは、幸せではなく不安とストレスです。すべての人の人生で大切なことは、「世俗的なことがらに価値を入れず、そこから離れることによって、心の充実感を得ること」なのです。
 在家生活で暮らすとき、よい生活を送るためにはある程度の経済的な豊かさが必要であるということを軽視してはなりません。悲惨な環境のなかで食べものがなくて苦しんでいるにもかかわらず幸せに生きることができる、と嘘を言うべきではありません。貧困やスラム街で生活していながら幸せに生きることは困難です。トイレも洗面所もないスラム街のぼろ小屋で、子供を産み育て、大家族が寝食を共にし、生活することは悲惨なことです。多くの場合、この悲惨な環境や死にものぐるいの生活が、スラム街での売春、憎しみ、争いを絶えず引き起こしているのです。ただ、貧困のなかでも心の落ちつきを求めようとする清らかな人々がいる場合は別ですが。
 悪事をはたらく貧困者を非難することは簡単です。しかし、私たちにも貧困者の犯罪にたいして責任があるのです。犯罪に巻きこまれずに安心して暮らすためには、社会の貧困者数を減らし、生活水準を向上させなければなりません。政府は国民にたいして必要な食べものや住居などを提供する責任がありますし、また国民は政府に協力して政府を支える責任があるのです。
 しかしながら、ここで覚えておいていただきたいことは、豊かさと貧しさ、幸福と不幸は相対的なものであるということです。世の中にはお金をたくさん持っているにもかかわらず不幸な人がいますし、貧しいけれど幸せな人もいます。お金が幸せにつながるのは、お金を正しく使うときだけです。しかし私たちはお金を正しく使うことはしませんし、逆にお金や物質に執着して苦しんでいます。金持ちも貧しい人も、「もっと欲しい」と、より多くの物質を追い求め、「これで充分」と満足することがありません。そして、自分の欲望が満たされなければ、腹を立てるのです。貧しい人は、「欲しいものが得られない」と強烈な不満をもって生きていますし、裕福な人は、「今ある財産では足りない。もっと増やさなければ」と考えて苦しんでいます。金持ちは愚かにも財産に執着しているのです。このように、金持ちも貧しい人も幸せを見つけることができないでいるのです。
 やさしくて気心(きごころ)の合った配偶者がいることが幸せだと考えている人もいますし、子供がいることこそ幸せだと考えている人もいます。ある程度はそうかもしれません。しかし配偶者も子供も安定した幸せではないのです。配偶者は家を出て行くこともあるでしょうし、自分より先に死ぬこともあるでしょう。子供は、親を喜ばせるよりも心配させることのほうが多いものです。
 そこで私たちは、自分がいま持っているものに満足して、幸せになることを学ぶべきです。たとえ欲しいものを買えるだけのお金がなくても、現状に満足して、幸せになるべきなのです。

子供のいない妻
 むかし子供のいない若い夫婦がいました。二人はあらゆる面で幸せでしたが、妻は母性本能がとても強く、子供が欲しくてたまりませんでした。夫は、養子をもらってはどうかと言いましたが、妻は自分と血のつながった子でなければならないと言い、夫の話を聞こうとしませんでした。二人はできるかぎりの治療を受けましたが、どれもうまくいきませんでした。妻はだんだん落ちこんでいき、ストレスがたまり、不安で、無気力になり、精神までおかしくなっていきました。
 夫は妻の異変に気づきました。妻は妊娠していないにもかかわらず、妊娠しているふりをするようになったのです。ある日、夫が帰宅すると、妻は小さな布に何かをくるみ、それを抱いて満面に笑みを浮かべていました。夫が布の中身を調べてみると、それは小さな木のかたまりだったのです。妻は、まるでほんものの赤ちゃんをかわいがるように、木のかたまりをかわいがっていました。ふつうの母親がするように、赤ちゃんの服を着替えさせたり、ベビーベッドを整えたり、やさしい声で子守唄を歌ってあやしたり、精一杯、子供の世話をするしぐさをしました。その姿は、幼い女の子が人形遊びをやっているようなものでした。
 夫はとても心配になり、有名な精神科医に診てもらおうと、妻を医者に連れて行きました。医者はよく調べたあと、夫にこう言いました。「あなたの奥さんは現実には得られなかった赤ちゃんを、想像のなかで得ているのです。ようやく幸せを見つけたのです。もし今この幸せを取りあげて木のかたまりを捨ててしまえば、奥さんは正気(しょうき)を取り戻すのではなく、今よりももっと気が狂うでしょう」
この話のように、他の人々を導くときには冷ややかな知性よりもむしろ温かい思いやりのほうが役に立つ場合があるのです。それから、現実をはるかに超えた欲望をもつと、精神に悪い影響をおよぼし、心の落ちつきを失い、混乱するのです。

 私たちが社会のなかで幸せに暮らすためには、自分に適した政治や経済、環境が必要です。フィリップ・ギブス(Philip Gibbs)は、彼の著書『Ways of Escape』でこのように述べています。
「人間が幸せを得るために本質的に欲しているものは、一人ひとりが自分の能力を最大限に育てることのできる均等な機会を充分に与えてくれる、次のような政治と社会のシステムがあることである。自分の興味のある仕事に就(つ)けること。しかし過度に仕事をさせられないこと。自分と家族、周りの人たちが安全に暮らせること。(やさしくて気づかいのある人は周りの人たちが不幸だと自分も不幸を感じる)。最低限の健全な楽しみが得られること。他人に危害を加えないという社会規範のもとで、秩序ある思想の自由と行動の自由があること。人は思想の自由と行動の自由のなかで探究し、喜びを得、美を発見し、知識を深め、自分と周りをよく管理して、人生において心身に価値あることをおこなうのである」
 仏教では、幸せを得るためには他の生命を害さずに道徳的であることが大切だと説いています。他の人々や他の生命に迷惑をかけてまで自分が幸せになる意味はありません。お釈迦さまはこのようにおっしゃいました。

 「他人に害を与えず生活する人は幸せである」

幸せの作り方

 幸せで有意義な人生を送るためには、慈悲と智慧を育てなければなりません。慈悲と智慧の二つの翼によって、私たちは人格完成という頂点にまで達することができるのです。慈悲だけを育てて知性をないがしろにする人は「心のやさしい愚か者」になりますし、逆に、知性は育てていても慈悲をおろそかにする人は「思いやりのない冷酷な人」になります。お釈迦さまは、「幸せを得るためには慈悲と智慧の両面を育てなければならない」とおっしゃいました。幸せというものは慈悲から生まれ、智慧によって導かれるものなのです。
 慈悲とはなんでしょうか? 慈悲とは、やさしさ、施し、思いやり、寛容のことであり、すべての生命にたいして、とくに苦しんでいる生命にたいして、やさしく思いやりをもって行動することです。
 智慧とはなんでしょうか? 智慧とは、ものごとをあるがままに見ること、理性をもって行動することです。たとえば、ある男性が美しい女性を好きになり魅(ひ)かれてしまったとしましょう。男性は女性に会いたくてたまりません。彼女がいっしょにいると嬉しくて心が満たされます。でも状況が変わって彼女に会えなくなると、不満になり、理性を失い、愚かな行動をとるようになるのです。この「不満」ということが、生の真理です。もし男性が女性にたいして愛着や執着をもたなければ、不満で苦しむことはなかったでしょう。喜びには不満や苦しみ、悲しみがつきものです。なぜなら喜びというものはすぐに消え去るものであり、永遠に続く幸せではないのだから。この事実を理解することが智慧なのです。

 幸せの作り方はシンプルです。幸せとは心の状態のことです。お金や権力、名誉などの物質的なものでは幸せになることができません。必要以上に多くの財産を獲得したり蓄えたりすることで人生を過ごしている人は、いずれ必ず幻滅して失望するでしょう。なぜなら、たとえ世界中のお金を全部使っても、ひとかけらの幸せも買うことはできないのだから。だからといって、お金が悪いものだと言っているのではありません。お金を他の生命の役に立つように賢く使うなら、そのお金は楽(らく)や幸せのもとになるでしょう。しかしお金を持つことの悪いところは、私たちがお金に執着しやすいところであり、それが苦しみのもとになっているというところです。
それから「喜び」と「幸せ」を区別しなければなりません。「喜び」と「幸せ」とを混同しないことです。喜びは、一時的なものであって長続きするものではありません。お金で喜びを買うことはできますが、幸せを買うことはできないのです。幸せというものは、善良さや、善と悪を明晰に区別する道徳心から生まれてくるものなのです。
 充実感がなければ、幸せにはなれません。充実感は心を育てること、つまり自己を観察することから得られます。自己を観察して心を清らにすることによってのみ、神性や人間性など、これまで眠っていた「善の種(たね)」が芽吹(めぶ)くのです。これは生(なま)易(やさ)しいことではありません。忍耐と決意と努力が必要です。

 幸せは、まず自分につけなければ
 他人につけることができない香水である

 自分が幸せで平和に生きることを望むなら、他の生命の幸せや平和の邪魔をしてはなりません。この立派な生き方にもとづいて自己を調(ととの)えるまでは、幸せや平和を得ることはできないでしょう。
そ れから、人に感謝されることを期待すべきではありません。デール・カーネギー(Dale Carnegie)は次のように述べています。
 「幸せになりたいなら、人に感謝してほしいとか、感謝してくれない、ということについて考えることをやめましょう。そして、与えることの内なる喜びを示しましょう。忘恩(恩を忘れること)は雑草のように自然に繁殖しますが、報恩(恩に報いること)は、バラの花を咲かせるように肥料をやり、水を与え、栽培し、愛情をもって守り育てなくてはならないのです」

 私たちは、簡単に手に入るものにたいしては感謝しない、という性格があります。そしてそれを失ったとき初めて感謝するのです。たとえば呼吸をするための空気や、生命を維持するための臓器にたいしては、当然あるものだと考えて、そのありがたみを忘れ、粗末に扱っています。そしてその大切さに気づいたときにはもう手遅れ、ということがあります。これは、水から陸にあげられるまで水の価値がわからない魚のようなものです。私たちは「手遅れ」になるべきではありません。

 人は心で幸せになろうと決意した分だけ幸せになる
         エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoin)


 ただ祈るだけでは幸せや平和は得られません。幸せを得るためには努力しなければならないのです。神様を信じて、私を守ってくださいと祈れば、それなりに安心感は得られるかもしれません。しかし外出するときには玄関の鍵をかけ忘れないでください。あなたが帰ってくるまで神様が家を守ってくれる保証はないのだから。
 自分がすべきことを怠ってはなりません。道徳にもとづいて生活するなら、私たちはこの世の中で天国の幸福を享受することができるでしょう。反対に、道徳にそむいて生活するなら、地獄の苦しみを受けることになるでしょう。宇宙の法則である「業(ごう)の法則」にしたがって生きることを知らない人は、不平をこぼしたり、苦しんだり、たくさんのトラブルを引き起こしたりします。もしすべての人が他の生命を害さずに生活するなら、私たちはまさにこの世の中で天国の幸福を味わうことができるでしょう。天国に行くために死ぬのを待つ必要はないのです。なぜなら必然的に、善い行為をすれば善い結果があり、悪い行為をすれば悪い結果があるのだから。
 人間が持っている最も不可解な疑問の一つに、「天国や地獄と呼ばれる場所はどこにあるのか」という疑問があります。私たちは天国と地獄ということについて明確に理解していないようです。

天国と地獄はどこにあるのか
 むかし、天国と地獄について説法するのが得意なお坊さんがいました。ある日のこと、お坊さんのいつもの説法に飽(あ)きた在家信者が立ちあがり、このように言いました。「あなたがおっしゃっている天国と地獄はいったいどこにあるのですか? 答えなければ、これからあなたのことを嘘つきと呼びますよ!」と。
 この言葉を聞いたお坊さんは残念に思い、答えずに黙ったままでいました。お坊さんが何も答えないので、その男は腹を立て、「何か言え、さもないと殴るぞ!」と怒鳴りました。お坊さんはそのときサッと智慧を働かせて、こう答えました。「今あなたは地獄にいるのです。怒っているのだから」。男はその瞬間、真理に目覚めて落ちつきを取り戻し、笑いだしました。そして次にこう訊(き)きました。「では天国はどこにあるのですか?」 お坊さんは答えました。「天国は今あなたの心にありますよ。笑っているのだからね」
 天国と地獄というものは、私たちの生き方からつくられるものなのです。どこか特別な場所にあるのではなく、生命が存在しているあらゆる場所にあるのです。

幸せはどこに?

 幸せはどこにあるのでしょうか? お釈迦さまは「あなたの心です」とおっしゃいました。生命がいちばん欲しがっているものは、幸せです。このことを否定する人はいないでしょう。しかし幸せは簡単に得られるものではありません。幸せは、物質にたいする欲望や感情に依存することをやめたとき、得られるのです。

幸せな人は服を着ていなかった
 いつも不満ばかり言っていた東洋のある王様の話です。王様は哲学者に、「どうすれば幸せになれるのか?」とたずねました。哲学者は、「あなたの国で最も幸せで満たされている人を探して、その人の服を着てください」と言いました。王様は国中を探しつづけ、ついに国一番の幸せな人を見つけました。しかし、その人は服を着ていなかったのです。
 ある有名な著者はこのように言っています。「世界で一番幸せで満たされている人に会いたいなら、ぼろ服を着ている心の清らかな人を見なさい」と。
 物質を欲しがること、そしてそこから生じる不満が、苦しみの主な原因です。欲望を捨ててください。そうすれば、苦しみから解放されるでしょう。

 何を喜び、何に満足するかということは、生命によってそれぞれ異なります。犬は、骨が好きですが牧草は嫌いです。牛は、牧草が好きですが骨は嫌いです。同じように、穏やかさより刺激を好む人もいれば、刺激より穏やかでいることを好む人もいます。ある食べものをおいしいという人もいれば、気持ち悪いという人もいます。ある人の病気を治す薬は、別の人には毒になることもあるでしょう。ある人にとっての楽しみが、別の人には迷惑になることもあるのです。
 自分の心を育てることによって幸せを得ることができます。表面的なもの、たとえば財産や名声、社会的地位、人気などは一時的な幸せであって真の幸せではありません。真の幸せをつくるのは、心です。管理され、育てられた心に、真の幸せが現われるのです。真の幸せなど得られるはずがない、と考えることは正しくありません。どんな人でも心を清らかにすることによって、内なる平和や穏やかさを得ることができるのです。
 世の中の「すぐに壊れる一時的もの」にたいする執着から離れることによって、「消えない幸福」という贈り物が得られるのです。


幸せを見つける―争いと対立の中で

 腫れもの(おでき)は、その部分を刃物で切り取るだけでは治らない
 同様に、腕力で平和を築くことはできない
 平和は、争いの原因を取り除くことによって得られるのである


人類の歴史上、現代ほど対立や悪い感情、わがまま、嘘、争いからの解放を必要としている時代はありません。私たちは何よりも個人の平和、家庭の平和、会社の平和、そして世界の平和を必要としています。争いから生まれる緊張や不安、恐怖は、心と身体を破壊して、私たちを苦しめ続けるのです。

世界戦争と不安

 恐ろしいことに、現代は核の使用によって全世界が破壊しうる状況にあります。もし今後、世界規模の核戦争が起こったなら、この太陽の下には、もう逃げ場がないでしょう。人類はなんという窮地【きゅうち】におちいったのでしょうか! 現代科学は原子爆弾という恐ろしい爆弾を開発し、人類の種を滅亡させようとしています。人類が無知や復讐、わがまま、そのほか破壊的な力に支配されているかぎり、誰もこの世界で安全に暮らすことはできません。しかし皮肉なことに、この悪をなす「心」は、その逆の、善の「心」や立派な「心」の源泉にもなることができるのです。
 広島と長崎に、人類史上初めて原子爆弾が投下されました。このとき放った「目を眩(くら)ませる閃光」は、世界の歴史の方向性を変えたと言われています。不幸なことに、この二つの都市で放射された恐るべき光は、世界中の多くの人々の心に、苦しみ、恐怖、憎しみ、虚無感をもたらしました。
他方、この恐ろしい光とはまったく対照的に、今から二千五百年以上も前、釈迦牟尼仏陀は菩提樹の根元に坐って瞑想しているとき、悟りを開くという輝かしい「智慧の光」を放ったのです。この光は人類に大きな意味をもたらすことになりました。欲と怒りと無知で汚れた暗闇の世界に、「慈悲と幸福に至る道」が照らしだされたのです。

 現代人が抱えている根本の問題、それは道徳に欠けていること、そして知性を誤って使用していることです。科学技術の進歩とは裏腹(うらはら)に、世界は安全と平和から遥(はる)かに遠ざかってしまいました。そして私たちの生活は、これまでにないほどの不安にさらされています。社会の発展に取りくむとき、心の発展をおろそかにすると、人類は危険にさらされるのです。
 お釈迦さまは世界で初めて、平和や繁栄、慈悲などの「幸福への道」を人類に示されました。しかし現代人は、この時代を超えた幸福のメッセージを無視しているようです。現代は、遠く離れた場所からでもボタンを一つ押しただけで核爆発を起こすことのできる時代です。人間は科学を発展させ、自然をコントロールしてきたかもしれません。しかし、自分の心はコントロールできていないのです。もし私たちが平和を無視して争いを続けるなら、人類が向かう道はただ一つ、自己破壊と絶滅の道なのです。

 平和と調和の実現のために、世界各国のリーダーたちが一同に集まり、戦争を防ぎ、問題を解決するための国際条約や協定が締結されました。第二次世界大戦後、国家間の秩序と安定を保つことを目的にした世界の主要組織として、国連という組織が設立されました。国連は世界平和を実現するための最良の方法ではないかもしれません。しかし、とりあえずこのような組織を設けることによって、国家間の争いを知的な方法で解決することができるようになったのです。
 異なる人種、異なる国、異なる宗教や宗派のあいだに生じる敵意や恐怖は、平和共存の社会をつくりません。残念なことに、国のなかには国連で条約を結んだにもかかわらず、停戦協定を破り、今でも互いに戦争している国もあるのです。このような状況のもとで、どこに平和や幸福を見いだすことができるでしょうか。

平和を築く

 争いや対立に時間と精神的エネルギーを費やしているかぎり、私たちは幸福で平和な生活を送ることはできません。平和に暮らすためには、ありとあらゆる争いをやめなければならないのです。争いをやめると、心は幸福の道具になり、社会に危害を加えることもなくなります。目に見えない巨大な心は、悩みや苦しみをもたらすかわりに、幸福をもたらすようになるのです。
 たとえば身体に腫れもの(おでき)ができたとき、その部分を刃物で切り取るだけでは完全に治りません。それどころか、切ったところからバイキンが入り、傷口が悪化するでしょう。完全に治療するためには、おおもとの原因を見つけてそれを取り除き、ケアしなければならないのです。これと同様に、平和を築くためには、私たちの行動を引き起こしているおおもとの「心」を落ちつかせ、治療しなければなりません。落ちつきは、ものごとを正しく理解することから生まれてきます。大切なのは信仰することではなく、道徳にもとづいて生きることであり、正直に、誠実に、慈しみをもって生きることなのです。
 多くの苦しみや混乱は、心をコントロールしないことから生じています。心は瞬間瞬間、色(見えるもの)・音(聞こえるもの)・香(におうもの)・味(味わうもの)・触(触れるもの)の対象に触れています。好きなものも嫌いなものも、欲しいものも欲しくないものも、これらの対象は、私たちの心に次から次へと不安や恐怖、欲望、誘惑を引き起こします。心の緊張を引き起こすだけでなく、身体の緊張も引き起こすのです。不安や恐怖が長く続くと、身体は病気になります。ですから、絶えず跳びまわっている心を落ちつかせるために集中力を育ててください。集中力を育てることによって、多くの問題から解放され、心の安らぎと、身体の健康がもたらされるでしょう。

世俗の喜びを超えて
 
 「いくら財産を蓄えても、いくら物を持っていても、人は幸せを手に入れることができない」と宗教家たちは教えています。このことは、私たちの日常の経験からも理解できるでしょう。たとえ世界中にある、ありとあらゆるすべての喜びを獲得したとしても、自分の心が無知や不安、憎しみでいっぱいなら、私たちは幸せや平和にはなれないのです。
 財産、権力、子供、名声、発明などは、真の幸福ではありません。確かに一時的な楽しみは得られるでしょう。しかし、それらは究極の幸福ではないのです。何かを不正に獲得したり横領したりしたときはとくにそうです。不正的な行為をしたとき、瞬間的には「自分のものにした」という所有の喜びを感じるかもしれません。しかしそれは必ず苦しみや悲しみ、罪悪感の原因になるのです。

 善いことをすれば幸福になる
 悪いことをすれば不幸になる
 これがわたしの宗教である
          (エイブラハム・リンカーン)


 美しい光景、うっとりする音楽、芳(かぐわ)しい香り、おいしい味、心を惑(まど)わせる接触は、私たちを迷わせ、だまし、世俗の喜びの奴隷にさせます。感覚の喜びと同様に、「何かを期待すること」にも瞬間的な喜びがあります。ですが、そうした世俗の喜びは一瞬で消え去ります。自分の過去をふりかえってみてください。そうすれば、喜びは儚(はかな)いものであり、満たすことができないものであるということがお分かりになるでしょう。
 もし財産が幸せになるために欠かせないものだとするなら、財産と幸せは同義語になるはずです。でも、財産で幸せが得られるでしょうか? ある詩人はこのように言っています。

 財産は幸せをもたらすだろうか?
 見まわしてごらん
 みんな、なんと派手に苦しんでいることか!
 なんとみじめか!
 なんと贅沢にお金を無駄にしていることか!
 心は虚しく「もっと欲しい!」と叫んでいる

 財産や物質では、燃えている心の渇きを癒すことはできません。食べることや性的な喜びなど、動物的な卑しい欲望を満たすことだけを追い求めて生きているなら、決して幸せにはなれないのです。もしこうしたことで幸せが得られるなら、この世界はすでに、あらゆる分野で凄(すさ)まじい進歩が遂げられているでしょうし、完全なる幸せの道となって繁栄しているはずです。しかし明らかにそうなっていません。世俗的な喜びでは、心は決して満たされないのです。なぜなら欲しいものを手に入れた瞬間、それにたいして「不満」が生まれてきますし、さらに「期待」というわくわくした気持ちを楽しみたいと、新たに別のものが欲しくなるからです。
 自分の執着しているものが変化したり衰えたりすると、私たちは苦しみを感じます。眼耳鼻舌身意から得られる喜びは、すぐに消えるものであって、真の幸福ではありません。真の幸福は、心が完全に解き放たれたときに現われるのです。幸福の源泉は、物質にあるのではありません。煩悩から解き放たれた心にあるのです。
 世の中のお金や財産はすべて一時的なものですが、世俗を超越した宝――確信・道徳・寛容・正直・智慧などは、なくなることがありません。執着や憎しみ、嫉妬などの悪い感情は人を堕落させますが、慈しみや思いやり、平等などの善い感情は、人格を形成し、この人生において神性(神々の性質)を得ることができるのです。
 心にやすらぎを育て、それを維持するためには、外のものをあれこれ見るのをやめて、自分の心をよく見つめなければなりません。欲・怒り・無知の破壊的なエネルギーの危険性とその落とし穴を理解してください。そして、慈しみ・思いやり・調和といった慈悲のエネルギーを育て、それらを心に持ち続けてください。

 心は戦場です。これは必ず勝たねばならない最大の戦いです。この戦いでは武器は使いません。では、どのようにして戦うのでしょうか? それは、心にあるすべての暗いエネルギーと明るいエネルギーに「気づくこと」によって戦うのです。「気づくこと」が、対立や争いから離れ、善い心が現れるための鍵なのです。
 幸と不幸はすべて心から現われます。この世界に幸福が訪れるためには、まず一人ひとりの心が穏やかで、幸福でなければなりません。一人ひとりの幸福は、社会の幸福につながりますし、社会の幸福は、国の幸福を意味します。そして一国一国の幸福によって、世界全体の幸福が築かれるのです。

 人生の教訓――戦っても、真の勝利は得られません。争っても、成功は得られません。幸せは悪い感情があるかぎり得られません。いくら財産を蓄えても権力を握っても、心の平和は得られません。

 わがままを捨て、慈しみの心で世の中に貢献することによって、心の平和が築かれます。心の平和は、どんな悪い力にも勝(まさ)ります。また、健全な心を養い、豊かで充実した幸福な人生を送る助けにもなるのです。


道徳――生命の尊厳

 道徳を守るとは
 泥棒が入らないように
 自分の家と近所の家の周りに
 塀を建てるようなものである


 道徳や倫理というものは、社会や経済、政治、宗教の中心となる重要なものです。生命にたとえるなら、道徳は生命の背骨にあたり、慈悲は血液にあたります。道徳(背骨)がなければ、命は危(あぶ)ないでしょうし、慈悲(血液)がなければ、それは死んでいるも同然です。道徳心を育てることによって、人生の質は向上していきます。道徳を守るとき、心は慈悲で満ち溢れるのです。人間は本来「不完全」なものです。ですから、私たちは努力して、道徳を身につけなければならないのです。

善良な人はどこにいるのか?

 善良な人はどこにいるのでしょうか? 自分の心が善良なら、どこに行こうとも、善良という性質は自分と共にあります。ですから善良な人は自分の心のなかにいる、と言えるでしょう。他人は自分を賞賛したり、非難したり、侮辱したり、脅かしたりするかもしれません。しかし誰がなんと言おうとも、自分の心が善良であるなら、自分は善良なのです。道徳を育てることは人生において大変重要なことです。しかし多くの人は道徳を正しく理解していません。身だしなみを整えることや礼儀作法など、うわべを飾ることが道徳だと考えています。そのような偽りの形式ばった道徳は、人間が作ったものにすぎません。それは社会によって左右されますし、それゆえ変化し、すたれてゆくものであるということを、私たちは忘れているのです。
 特定の気候や特定の時代、特定の文明に流行した服装は、ほかの気候や時代、文明においては適当でなかったり、無作法だったりします。服装というものは、深遠なる道徳とは関係のないものであり、ただの慣習にすぎません。私たちは「社会的な慣習」と「普遍的な真理である道徳」との区別がついていないようです。これが私たちの大きな問題になっているのです。
異なる伝統、異なる問題、異なる目的は、よく人々のあいだに異なる見解を生みだします。人々のなかには「自分の意見のみが正しい。自分の意見に賛成する人は良い人であり、賛成しない人は愚か者だ」と考える人がいます。この種(しゅ)の自己中心的な考え方は非常に有害です。

 戒律(道徳)とは何でしょうか? 戒律とは「正しい生き方にもとづく善行為の基準」のことです。パーリ語でシーラ(sila)と言い、意味は「心を育てるための自己規律」です。戒律は自己の心を管理するために自(みずか)らが守るものであって、だれかに強(し)いられて守るものではありません。また、戒律を守るときには、慈しみや無執着、智慧といった清らかな動機をもって守るべきです。そうすることによって、「私」や「我」というものは現象である、という真理への理解が深まってゆくのです。

善い癖と悪い癖

 ソクラテスがまだ若いときの話です。彼が売春宿から出てきたとき、彼の師がちょうど通(とお)りを歩いて来ました。ソクラテスは恥ずかしくなって、こそこそ逃げようとしましたが、師はソクラテスに気づき、近づいて、「君はなぜ私を避けようとするのかね?」と聞きました。ソクラテスは、「自分のやった行為が恥ずかしいのです」と答えると、師はこう言いました。「売春宿に入る前に自分の行為を恥じるべきでしたね。そうすれば君がいま恥じている行為はなされなかっただろうから」

 悪い癖は師がいなくても簡単に身につくが
 善い癖はなかなか身につかない 師が必要である

 善い癖を身につけるのはむずかしいが
 善い癖は人生に楽をもたらす
 悪い癖はすぐに身につくが
 悪い癖は人生に苦をもたらす


 道徳を守ることは、涅槃に至るための最初のステップであり、善い心の基盤となるものです。道徳を守らなければ、心が進歩することはありません。道徳を守らない人は、自分が危険な状態にあるだけでなく、周りの人も危険に巻きこんでしまうのです。
 道徳の基盤が確立されたあと、智慧を育てることができます。さらに修行を続けていくと、心は低いレベルから高いレベルへと成長し、最終的にはあらゆるものの頂点である「悟り」に達するまで成長するでしょう。いくら勉強しても、実践がともなわなければ何の役にも立ちません。お釈迦さまはこのように説かれました。

 華やかに咲く花でも香りのないものがあるように
 教えを勉強してもそれを実践しない人には実りがない


 道徳を身につけるには、お釈迦さまが説いた戒律を学び、実践することが必要です。私たちは、お釈迦さまが偉大なる慈しみによって人類に示された「戒律」と「教え」をよく学び、よく実践しなければなりません。そして何よりも、悟らなければなりません。常識や理解、実践のともなわない単なる本の知識だけでは、問題や苦しみを乗り越えることはできないのです。

聖典の奴隷にならない
 かつて、カルト宗教をつくった男がいました。人々は、その男のことを学識の深い人(師)だと見ていました。この師には弟子たちがいて、師が説く教えを書き留めていました。数年後、書き留められた教えは何冊もの本になりました。そして師は弟子たちにこのように言いました。「君たちは何をするときにもこの聖典に従いなさい」。弟子たちはどこへ行くにも、何をするときにも、まず生き方のマニュアルとして与えられたこの聖典で調べることにしました。
 ある日のこと、師がつり橋を渡っているとき、足を滑らせて川に落ちてしまいました。師に連れ添っていた弟子たちは、どうすべきかわかりません。そこで聖典を開いて調べ始めたのです。師は、「助けてくれ、助けてくれ、私は泳げないんだ!」と叫びました。弟子たちは、「ちょっとお待ちください。いま聖典で調べていますから。必ずどこかに、つり橋から川に落ちたときにはどうすべきかということが書いてあるはずです。それまで溺れないでください」と言いました。弟子たちがページをめくっているあいだに、師は川に沈み、溺れ死んでしまいました。
 この話の重要なメッセージは、「常識を使わずに聖典に頼ったり、保守的で時代遅れの思想に盲目的に従ってはならない。理性をもって判断すべきである」ということです。
 新しい知識、新しい状況、新しく発見したものに出会ったとき、まずはそれに適切に対応し、「すべての生命の役に立つかどうか」ということを考えてから受け入れなければなりません。あらゆる宗教の経典や聖典は、結局のところ、真理を悟るための指導書や案内書にすぎません。禅仏教では、「教えとは月を指し示すときの指のことである」と言っています。空の月がどこにあるかを示すために私たちは指を使いますが、月を見ないで、その人の指を見るというのは愚かなことでしょう。

若者と道徳

 現代の若者たちは道徳や規律が堕落しているとよく言われます。すべての若者が堕落しているわけではありませんが、心が混乱し、反抗的な若者が結構いるのです。彼らの行動や習慣は社会の平和を乱し、そのために平和を好む人たちは大きな苦しみを受けているのです。
 ある意味で、子供の悪い行為や思慮のない行為は親の責任である、ということができるでしょう。親が子供を甘やかし、子供に好きなことをさせ過ぎているのです。これは、親自身が物質的な欲望を追い求めるのに忙しすぎて、子供をほったらかしにしているからです。子供の道徳の堕落を防ぐために、親には重要な役割があります。それは、正しい宗教や精神的な教えにもとづいて子供を育て、導くという役割です。
 道徳や倫理を教えるとき、宗教のラベル(どの宗教に属するかということ)は重要ではありません。どの宗教にも人間の行為を正すための道徳律があり、それを守ることによって、私たちは互いに調和して暮らすことができるのです。つまり、互いに尊敬しあい、守りあい、信頼しあい、支えあって、社会に貢献することができるのです。しかし非常に不幸なことに、宗教のなかには「われわれは神の子である」と主張して、他の宗教を差別したり、嫉妬したり、敵意を向けている人たちもいます。この世の中には人々の憎しみを煽(あお)る宗教は充分にありますが、互いに慈しむことを教える宗教はほとんどないのです。

善い人になるか、善い行為をするか?

 H・サッダーティッサ長老(Ven. Dr. H. Saddhatissa)の著書『仏教倫理学』には次のように記されています。
 「一般的に道徳には二つの考え方がある。一つは『善い人になること』、もう一つは『善い行為をすること』である。最初の『善い人になる』というのは真の道徳だが、もう一つの『善い行為をする』というのは、なんらかの目的を達成するための一つの手段であると言えよう。つまり、人は善い行為をする。それは一見、完璧に利他的な行為のように見える。しかし心の奥では利己心が働いている。徳を得たい、満足を得たい、天国に行きたい、報酬を得たいという欲望、あるいは罰が怖い、地獄に落ちるのが怖い、というエゴに駆り立てられているのだ。いわゆる『善い行為』をするときには、このような利己心が働いていることが多い。仏教では『善い人になる』ことが真の道徳であると考えている」

 悪いことをしたにもかかわらず、それを正当化したり、否定したり、自分は何もやっていないと偽る人よりも、罪を正直に認める人のほうが優れています。シェークスピアはこのことをうまく表現しています。マクベス夫人が王を殺害する前、夫人は王にこう言いました。「表面では潔白な花のように装(よそお)っているが、心の奥では悪意を秘めている」と。おおっぴらに悪をおこなう人であれば、周りの人たちは少なくともその人を避けることができます。しかし偽善者がおこなう悪事は、ずっと後になるまでわからないものです。

 過去世の善い業(ごう)の報いを受けて、今世で金持ちになり、幸運に恵まれているにもかかわらず、道徳を守らず、慈しみをもたずに生きているなら、それは過去世の善い業を、ただ無駄に使っているだけです。これは、大都市で贅沢に暮らしつつも、善業という銀行口座に何も貯金をしないで、今ある貯金を絶えずおろし続けているようなものです。そして貯金を使い尽くしたときには、「心の貧乏人」となって次の生に輪廻転生するのです。この哀れな状況は誰がつくったのでしょうか? 誰の責任でしょうか? 神ですか、運命ですか? どちらでもありません。すべてのことは自分がつくったことであり、自分の責任なのです。

 この世界は神が創造したのではなく
 神がよそみをしているあいだに
 悪魔が創ったのではないかと私は思う
 バートランド・ラッセル (Bertrand Russell)

 善行為をするか悪行為をするか、そのどちらを選ぶかという葛藤は、瞬間瞬間、絶えず私たちの心にあります。そうした状況のなかで、私たちはどちらを選択するかということを知るべきです。水は必ず高いところから低いところへと流れていきます。そのように、行為には必ず結果があります。ある行為をすると、必然的にそれに応じた結果が現われるのです。これは、自分以外の誰かから報酬をもらうとか罰を与えられるという意味ではなく、ものごとの法則なのです。業の働きを理解した人は、善い行為をするようになります。意志の弱い人なら、悪い行為をやめるようになるでしょうし、意志の強い人なら、進んで善い行為をするようになるでしょう。

 若者たちは、「欲望には一貫性がほとんどない」ということにまだ気づいていません。そのため、やりたいことが多すぎて悩み苦しんでいます。人は成長するにつれて、社会における自分の義務を果たすために多くのことをあきらめなければならないのです。
 若者が、ある人を好きになったり別の人を好きになったりと、恋愛相手をころころ変えることは理解できますが、大人になっても若者と同じことをしているなら、人から愚か者だと言われ、笑われるでしょう。 少年が着るようなカジュアルでラフな服を着ている中年男性や、少女が着るようなかわいらしい服を着ている中年女性は、見ていられないほど変(へん)です。彼らは心を育てることや心を育てるために必要なことを、まだ学んでいないのです。人が成長するために必要なこととは、多くの「感覚の欲望の扉」を閉じることであり、それらを閉じたとき、「成熟した慈悲の扉」や「善の扉」など、立派な扉が開かれるのです。

 アリストテレス (Aristoteles)はこのように言いました。理想の高い人は、他人に尽くすことで喜びを得るが、他人が自分に尽くしてくれると恥かしいと感じる」
人に親切にすると優越感を感じる、人から親切にされると劣等感を感じる、という人が結構います。仏教では、親切にするときも、親切にされるときも、優越感や劣等感をいだかずに、また下心(したごころ)をもたずに、お礼を受けることや褒められることも望まずに、平静な心でいるべきである、と教えています。そのような行為の動機は非常に清らかであり、わずかにでも利己心で汚れていません。もし人から親切にされることが恥ずかしいと思うなら、それは相手を平等に見ていないということです。仏教では、親切にすることも親切にされることも同等であると考えています。

性格の改善

 「その木が何の木か」ということは、その木に実っている果実を見ればわかります。これと同様に、結果を見れば、どの宗教が正しいか、ということが判断できるでしょう。真の宗教は、人が立派な人間に成長するという善い結果をもたらすものです。
 宗教は、人の性格を改善する手助けをしてくれるはずです。しかし、もし教えを実践しても以前と変わらず欲張りで、意地悪で、嫉妬深く、仕事で不正をし、他人のものを盗み、周りの人にたいして思いやりがなく、ほんのちょっとしたことで腹を立てたり、他人の胸にナイフを突き刺したくなったりするならば、その教えは有益な教えとは言えません。
 宗教をただ信仰したり讃えたりすることは、感情的に気分がよくなるかもしれません。でも、性格が向上せず、慈悲がなく、心が改善されなければ、その宗教に関わることには何の意味もないのです。これは病気で寝ている人が、いくら自分が「良くなった」と思っていても、体温計で熱を測るとまだ熱があり、実際には良くなっていないということと同じなのです。
 人々にたいして生の本質をよりよく理解できるように教えている宗教は、人生において幸福が現われたとき、そのさまざまな形の幸福を受け入れることを助けてくれます。幸福が現われたときには幸福を歓迎すべきですし、幸福が去ったときには未練をいだかずに、それを追いかけないことです。詩人のウィリアム・ブレイク(William Blake)はこのような詩をうたっています。「通り過ぎる一瞬の喜びに気づく者は、永遠の日の出に生きる」

 教えを実践することによって、心を改善することができます。これは「外側から」ではなく「内側から」改善するのです。外見をいくら整えても立派な人間にはなりませんが、内側を清らかにし、道徳的な生き方をすることによって、人は立派な人間になるのです。地位や階級、肌の色、富、権力が人を立派にするのではありません。人を価値ある立派な人間にするのは、道徳なのです。

 財産は 家を美しく豪華に飾るが
 人を美しく立派にするのは 道徳である
 服装は 身体を美しく飾るが
 人を美しく清らかにするのは 善い行為である


 道徳は、個人だけでなく、社会のみんなで守るべきものです。社会の平和のために、社会の一員である私たちは、道徳をおろそかにしてはなりません。しかし、なかには「悪いことをしてもうまく逃げられる」と考えている人たちがいるのです。また、悪い行為を美化して正当化しているテレビ番組を見て、「自分もやってみよう」と誘惑される人もいるでしょう。しかし悪い行為をした人は、その行為の結果である悪い結果から逃れることはできません。そしてそのような悪い行為をする人が周りにいるかぎり、社会は平和になるはずがないのです。
 それから、上の立場にある人は道徳を守るべきです。なぜなら、上の立場にある人の行為は、下にいる人たちに非常に強い影響を与えるからです。


運命は自分しだい

 幸運を待っている愚か者を
 幸せは通り過ぎてゆく
 運というものには、何の意味もない


 幸運と不運――運を信じることは大勢の人にとってごく普通のことです。私たちは、不意にやってくる善いことを幸運だといい、悪いことを不運だといって、ものごとを運のせいにしがちです。これは、業(ごう)の法則や現象の本質を理解していないからです。
お釈迦さまは次のように説かれました。

 善いことが起こるのは 善い原因があるからであり
 悪いことが起こるのは 悪い原因があるからである
 これが業の法則である


 悪いことに遭ったとき、それは今世か過去世で自分がおこなった悪い行為の結果にほかなりません。ですからそれを、運が悪いといって運のせいにすべきではありません。正しく言うなら、過去の悪行為の結果を受けている、ということなのです。業の法則を理解している人は、ものごとを運のせいにするという間違いはしません。なぜなら起こることはなんであれ、原因の結果、つまり過去で自分がおこなった行為の結果だということを知っているからです。このように、善い生き方から生じる幸福も、悪い生き方から生じる不幸も、結局は自分の行為に原因があると理解できるのです。運というものはありません。成功するか失敗するかは、自分の行為しだいなのです。

運勢のせいにしない

 意志の弱い人は、運勢や占いをすぐに信じます。この信じたり恐れたりする態度から、失望や苦痛、緊張、ストレスが増えるのです。他方、意志の強い人、勇気や智慧、自信のある人は、運勢の奴隷にはなりません。自分でさまざまな困難を克服し、人生を成功させることができるのです。幸運と上手さ(巧みさ)のあいだには密接な関係があります。上手さ(巧みさ)という性質によって、人の能力が開発され、心がさらに強くなるのです。
 幸運が得られないからと言って、落ちこむべきではありませんし、不運を乗り超えたりする努力をやめてはなりません。また運勢を信じて、その犠牲になってはなりません。なぜなら信仰は、物質的にも精神的にも進歩を妨げるからです。たとえ悪い業のせいで何かに失敗したとしても、健全な思考を養い、善い行為を重ねることによって、悪い業の結果を最小限に抑えることができます。また、悪い業を乗り越えることもできるのです。私たちはいろいろなやり方で善い行為をすることができます。お金を使わなくても、親切や思いやり、寛容、忍耐、善意、理解などによって、徳のある善い行為をすることができるのです。
 「精進(努力)は悪い業の結果を和らげる最も重要な要素である」と仏教は説いています。今、精進することによって、新しい業をつくることができます。そしてそれによって今までの環境や境遇の方向性を変えることができるのです。失敗したとき、それが自分の無能さや未熟さ、怠けが原因で起こったなら、そうした自分の性格を改善するように精進しなければなりません。また失敗を、運勢や悪魔、悪霊のせいにするのではなく、どうすれば失敗を乗り越えられるか、ということを学ぶことが大切です。自分の性格を理解して、弱さを認めることが、自己を改善する最初のステップになるのです。

運命は自分でつくる

 「避けることのできない定められた運命というものはない」と仏教は教えています。これまでのご自分の経験や他の人々のことを調べてみてください。そうすると、いま自分が味わっている不幸や苦しみというものは、過去で自分がおこなった悪い行為の結果だということがお分かりになるでしょう。

不運をもたらした人
 三世紀、インドにカーリダーサ(Kalidasa)という名の有名なサンスクリット語の詩人がいました。カーリダーサは少年のころ貧しくて、小さなぼろ小屋に母親と二人で暮らしていました。カーリダーサの家の前には豪華な宮殿が建っていて、その庭には大きなマンゴーの果樹園がありました。実(み)がなる季節になり、木々には甘い香りのするおいしそうなマンゴーがいっぱい実っていました。カーリダーサはときどき、城の人たちが見ていないのをねらって、宮殿の壁をよじ登り、マンゴーの実をいくつか取っていました。
 ある日、王様が部屋でマンゴーを食べようとしたとき、ふと窓の外の果樹園に目をやると、マンゴーを取っているカーリダーサの姿が目に入りました。そして、王様が手元のマンゴーの皮を剥(む)こうとしたとき、ナイフで手を切ってしまい、そこから血が流れ出たのです。王様は占い師をよび、「なぜこのような不幸が起こったのか」と訊(き)きました。占い師はしばらく考えたあと、「今朝、何かかわったものを見ませんでしたか?」とたずねると、王様は、「そういえば庭でマンゴーを盗んでいる少年を見た」と言いました。すると占い師は、「王様、それは不吉です。あなたが見たものは大変不吉なものです。その少年が王様に不運をもたらしたのです。少年をすぐに捕まえて処罰したほうがいいでしょう」
カーリダーサは捕らえられ、宮殿に連れて来られました。かわいそうに、少年は恐くて震えたまま、王様の前に突き出されたのです。王様は言いました。「今朝、私はお前が果樹園でマンゴーを盗んでいるところを見た。そのできごとが私を不運にした。お前を死刑にする。何か言い残したいことはあるか」
 カーリダーサはこう言いました。「王様、あなたを不運にしたことをお詫(わ)びいたします。でも、私だけが処刑されるのは筋(すじ)がとおっていません。今朝『私を見た人』も処刑されるべきではないでしょうか。なぜなら『私を見た人』も、私をこのような不運な目に遭(あ)わせたのですから」
 王様は少年の言葉に驚きました。そして占い師の言葉をうのみにした自分がいかに愚かだったか、ということに気づきました。カーリダーサの賢さに感銘を受けた王様は、カーリダーサを養子として迎え入れました。その後カーリダーサは、宮殿で文学の才能を開花させ、のちに有名な詩人となってインドに現れたのです。彼が書いた『シャクンタラー』(Shakuntala)という戯曲は、今日(こんにち)になっても上演され続けています。

 人間は、自力では何もできず宇宙の力に突き動かされているチェス盤の駒(こま)ではありません。幸運であれ不運であれ、運命をつくっているのは自分です。自分の思考・言葉・行為(身口意)が運命をつくっているのです。そして自分のおこなった身口意の行為が、遅かれ早かれ、自分に戻ってくるのです。ですから、私たちは行為の結果から逃れることができません。人は自分の人生を築きあげる建設者であり、自分の運命を創造する創造者なのです。
 運命を形づくる業の法則には「罰する」という意味は含まれません。法則は公平なものです。この偉大なる普遍的な業の法則には、罰を与えるということがありませんし、褒めるということもありません。また、人の要求に応じて特別に願いを叶えるということもありません。適当な条件がそろったとき、自分がおこなった行為の結果が出るのです。ですから不運にであったとき、天に向かって叫び声をあげ、助けを求めても無駄なのです。そこで私たちが学ぶべきことは、「予測できない・不確定」という世の中の本質を理解すること、そして一見「不公平」に見える苦しみにたいして落ちつきのある心で向き合うことです。
 ものごとは常に変化しています。ですから地獄で永遠に苦しむとか、天国で永遠に幸せを味わうという概念は、仏教とは無縁です。輪廻(sa/sqra)のなかのすべての生命は、無常です。煩悩を取り除き、輪廻を乗り超えた人だけが、永遠なる至福(涅槃)に達することができるのです。
 心を育てるためには、心を慈悲と調和と献身で満たし、道徳(戒律)を守り、心を清らかにし、正しい生き方を送ることが必要です。苦しみからの解放(解脱)の方法に関しては、それぞれの宗教が、さまざまな解釈をしています。仏教では「普遍的な道徳の法則にもとづいて心を清らかにすることにより、苦しみから解放される」と説いています。心を清らかにすることで、自分以外の誰か(神など)に過度に依存することなく、自分で自分の運命をつくることができるのです。
 過ぎ去ったことを嘆き悲しんだり、ただぼんやりと怠けて不注意に日々を過ごしたりして、人間としての貴重な生を無駄にしてはなりません。時間を無駄にすれば、人生の真の目的を実現する好機を逃してしまいますし、また苦しみを完全に滅することも先送(さきおく)りになってしまうでしょう。
 このことを強く心に留めて、生があるかぎり、私たちは善いことをおこなうべきです。時間を無駄に使うことは、自分や他の人々を誤った方向に向かわせるだけでなく、人生で「真理を知る」という絶好のチャンスをつかみ損ねることになるのです。

 過去世でおこなった行為の結果以外に
 定められた運命というものはない
 過去の行為を、運命と呼ぶのである
 結果は、行為で決まる
 それゆえ、行為が運命なのだ

 自分の思考が、自分の運命を決める
 ものごとを起こらせることもできるし
 起こらせないように運命をつくることもできる
 自分に起こることはなんであれ
 自分の身口意の行為の結果であり
 他人のせいではない

 それゆえ
 今、最大限に精進することによって
 自分の不運(過去の行為の結果)を
 乗り越えるべきである
 正しく精進することによって
 成し遂げられないものは、この世にない



*参考―正精進(正しい精進・努力)
 ・ まだ行(おこな)っていない不善行為を行わないこと
 ・ すでに行っている不善行為をやめること
 ・ まだ行っていない善行為を行うこと
 ・ すでに行っている善行為を継続し、やめず、増大し、拡大し、修行を成就させること

  生きとし生けるものが幸せでありますように