M 感 覚
Mindfulness of Feeling


グナラタナ長老
Bhante H. Gunaratana Nayaka maha thero















 「感覚」への反応

 生命なら誰でも感覚があります。でも、「一般の人」と「覚りを開いた聖者」とでは、感覚への反応がそれぞれ異なります。
 
 たとえば「一般の人」は、楽の感覚に執着し、苦の感覚を拒絶します。一方「覚りを開いた聖者」の場合は、楽の感覚に執着することもしませんし、苦の感覚を拒絶することもしません。そうではなく、どちらの感覚にも注意をしっかり向け、両方の感覚
にたいして常に心の落ち着きを保っているのです。
 
 すべての生命には例外なく感覚があります。でもその生命の中で、感情的に反応することなく、経験していることの本質を深く洞察するための手段として感覚を使っている生命は、ほとんどいません。
 
 人間は、「心」を、思考したり創造したりすることに使うことができます。でも残念なことに、感覚を「人間性を育てる手段」として使っている人はあまりいません。心を育てるために、限りない能力や感覚を使っている人はほとんどいないのです。


「感覚」という言葉について

 誰かに「元気ですか?」と聞かれたら、おそらく皆さんは「元気です」とか「あまり気分がよくありません」「私は元気だけど、あなたは?」「今日は体調がすぐれません」「胃の調子が少し悪い」「憂うつです」などと言うでしょう。

 このように、私たちは気持ちや感覚を言葉で表していますが、なぜその感覚を感じているのか、理由は知らないものです。

 心理学的に分析する場合には、心の感覚と身体の感覚とを区別するでしょう。でも、日常の会話では、この二つの言葉をあまり区別せずに使っています。ですからこの法話でも、一貫性を保つために、心の感覚と身体の感覚を区別せずに「感覚」というひとつの言葉で説明することにいたします。

 ここでは、感覚がどのように生じるのかという神経学的な分析をするのが目的ではありません。
「感覚をいかに"気づきの訓練の対象"として使うべきか」ということについて説明することが目的です。このことが理解できれば、感覚に流されることなく、さまざまな感覚とともに生きることができるでしょう。


「感覚」の本質を見る

 感覚の本質を深く見抜くための手段として、感覚を使うことが大切です。
 
 どんな生命も、生まれた瞬間から最後のひと息まで、感覚が働いています。皮膚に何かが触れたとき、あるいは心に何かが触れたとき、感覚が生じます。
 
 感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)に対象(色・声・香・味・触・法)が触れるとすぐに、私たちは表面上の接触から生じる感覚を認識するのです。
 
 感覚は、身体の神経系が発達するのと同時に働き始めます。母親の子宮の中にいるあいだも、感覚が働いていました。母親が熱い食べものを食べたときには、熱を感じ、冷たいものを食べたときには、寒さを感じました。怒ったときには、母親の動揺と緊張を感じましたし、母親が動いたら、動きを感じました。歌を歌ったときには、歌っているのを聞きました。泣いたときには、泣くのを聞き、笑ったときには、笑っているのを聞きました。
 
 こうした感覚を、いま思い出すことはできないかもしれませんが、すべて感じていたのです。
 
 生まれるとすぐに、泣き声をあげました。泣いたのは、母親の子宮の中から出なければならず悲しいからではありませんし、声を出して泣かなかったら人に気づいてもらえないからでもありません。
 
 環境の変化を感じたからです。これまで居た、あたたかくて、暗く、心地よい母親の子宮の中から、寒くて、眼をあざむくような強烈な光、知らない人たちに周囲を囲まれた落ち着きのない環境へとさらされたからです。そのような環境を、これまで一度も経験したことがないのです。
 
 私たちは、単細胞の生命として「生」が始まった瞬間からずっと、感覚を経験してきました。神経細胞が発生した瞬間から、感覚を経験し続けているのです。
 
 感覚が楽しいものなら、もっと楽しみたいと思い、楽しいものでなければ、拒みます。これは、私たちにとって自然な反応なのです。


感覚への依存

 人生において私たちが求めていること——たとえば達成、成果、改良、発明、一生懸命にものごとに取り組むこと、生きていきたいということなど、あらゆることは感覚に依存しています。
 
 寒いと感じると、あたたかさを求め、お腹がすくと、食べものを求めます。緊急を感じると、その感覚が満たされる適切な場所へ行くのです。
 
 人間は感覚で感じるために、さまざまなもの発見したり、製造したり、開発したり、改良したりしてきました。感覚に基づいて、作ったり、創造したりしているのです。
 
 論理的な思考でさえ、感覚から生じています。私たちがおこなうあらゆることは、感覚から生じているのです。        
               
 さらに、ものごとをどのように感じるかによって、状況にたいする感情の反応が変わります。自分の感じ方に基づいて、欲や怒りなどの感情が生まれるのです。
 
 また、同じ感情をくり返し起こしていると、エゴがだんだん膨らんでいきます。感情が癖になったら、その感情を正当化するようになるのです。たとえば、誰かに何か嫌なことを言われると、「自分には自分の気持ちを守る権利がある。自分を守らなければならない」などと考えて、自分の正当性を主張するのです。
 
 一方、感情や感覚の普遍性を学ぶなら、利己的になるのではなく、すべての生命の役に立つことに感覚を使おうと、心を育てるようになるでしょう。心を育て、精神を成長させる対象として、感覚を使うのです。このとき、感覚について多くのことが学べるでしょう。感覚を深く理解して、感覚をフルに活用するようになるのです。
 
 感覚や感情の普遍性が理解できれば、他人を傷つけることは決して言わないようになるでしょうし、生命を害する行動はできなくなるでしょう。どんな生命も、死を恐れていることがわかるのですから。
 
 他の生命の感覚を無視すれば、自分の行為を正当化します。反対に、他の生命の感覚を理解するなら、たいがい自分を正当化することはないでしょう。
 
 他者の感覚をないがしろにする人は、自分を正当化しようとします。よく知られているのは、狂信的な人たちです。自分の宗教を高く持ち上げ、他の宗教にたいしては汚い、蔑んだ言葉で攻撃するのです。これは、他者の感覚を無視しているからなのです。
 
 そこで、感覚を観察し、理解するなら、自分と意見の異なる人に会ったときでも、それほどいらだつことはないでしょうし、誰かに知らない言語で話しかけられたとしても、緊張することはないでしょう。
 
 感覚の本質を理解することができれば、他人が痛みで苦しんでいることに耳を傾けることができます。反対に、感覚の本質を理解しなければ、不快になったり、傲慢になったり、侮辱したりするかもしれません。そして、こうした悪い振る舞いのために、あとで苦しむことになるのです。


感覚に気づく

 「感覚に気づく」ように心を育てていくと、見方全体が変わります。そして、自分とは異なる外界のさまざまな「違い」に気づくことに、楽しさを感じるでしょう。
 
 自分の感覚――「苦」「楽」「不苦不楽」の感覚――に気づくようにしてください。「頭が痛い」とか「足が痛い」などと不平を言ったり、それについていろいろ悩んだりせず、感覚に完全に注意を向けるのです。注意を向けないかぎり、その奥にあるものは知りえないでしょう。
 
 感覚に完全に注意を向け、「苦」の感覚の奥に潜むものに気づくようにすることが大切です。何かにたいして完全に注意を向けることによってのみ、感覚の奥に潜んでいる本質に気づくことができるのです。
 
 そこで、よく忍耐して、みずからの感覚を注意深く観察するなら、「感覚が変化している」ことに気づくでしょう。観察しなければ、感覚が変化していることに気づくことはできません。ものごとの本質を観察し、心の表面に浮び上がらせることができるのは、気づきであって、概念や言葉ではないのです。

 たとえば、落ち込んでいるとしましょう。他の感情を加えることなく、その落ち込みの感覚に完全に気づくなら、落ち込みはだんだん小さくなっていきます。もし、落ち込みにこだわったり執着してしまったら、落ち込みが悪化するかもしれませんし、もしかすると躁うつ状態が何日も続くかもしれないのです。
 
 そこで、どの瞬間の感覚にも働いている「変化」という事実を理解するなら、落ち込みに、すぐに対処できるでしょう。幸い、不快な感覚も一時的な現象にすぎず、「変化」するのですから。
 
 たとえば、ある朝、激しい頭痛で目が覚めたとします。どこか静かな場所を見つけて、そこに座ります。目を閉じて、心配することも不安になることもなく、頭の痛みだけにただ気づき、その感覚を観察します。しばらくすると、痛みが小さくなっていることに気づくでしょう。
 
 反対に、心配するなら、痛みにたいして緊張やプレッシャーを加えていることになりますから、結果として、痛みを悪化させるかもしれないのです。頭痛というひとつの感覚だけでなく、さらにもうひとつの感覚――不安――を加えたのですから。
 
 このように、感覚は変化します。感覚にたいして、私たちがどう向き合うかによって、結果も変わるのです。

翻 訳: 出村 佳子



 

 


 

 Sabbe satta bhavantu sukhitatta



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