M 慈悲の瞑想
Meditation on Loving-Kindness

グナラタナ長老
Bhante H. Gunaratana Nayaka maha thero















 ときどき、「ヴィパッサナー瞑想(智慧の瞑想)をすると、他の生命にたいしてなんの慈しみも思いやりもない冷淡で無関心な人間になる」と言う人もいるようです。しかしながら、お釈迦さまは四つの崇高な心を育てるように強く薦められていることを忘れてはなりません。
 四つの崇高な心とは、慈(慈しみ)・悲(あわれみ)・喜(喜び)・捨(平静)です。この四つの中でも一番目の慈しみはとても重要なもので、お釈迦さまはこのようにおっしゃっています。
 「経済活動をしないで在家の人たちのお布施によって生活している人たち、すなわち僧や尼僧らは、生きとし生けるものにたいして毎日ほんの一瞬でも慈悲の瞑想をするなら、在家者たちからの借りを返すことができます」

慈悲と気づき

 慈悲経(Metta suttam)には次のように述べられています。
 「慈悲の気づき(念)をしっかり育ててください。これが梵天の生き方であると言われています」

 「気づき」は、お釈迦さまの教え全体の中で最も重要な教えの一つです。お釈迦さまが悟りを開いてから八十歳で涅槃に入るまで、ほとんどすべての説法の中で「気づき」のことを強く教えられました。そこで、慈悲経に「慈悲の気づき(念)をしっかり育ててください」とあるように、慈悲が気づきと同等に大切なものであることを理解するとき、お釈迦さまの教えの中で慈悲がいかに重要なものかということが分かると思います。

 お釈迦さまは悟りを開くために慈悲を完成させました。そして慈悲と智慧をバランスよく保ちました。悟りを開いたあとも、毎日最初に行なったことは、慈しみの結果である大悲(Mahaa karunaa)の心で世の中を観察し、誰か真理を理解できる人はいないか、ということを見ることだったのです。

 慈悲喜捨の崇高な心は、梵天の生き方と言われ、最高の生き方とされています。「慈・悲・喜」を修得すれば、第一禅定・第二禅定・第三禅定に達することができますし、「捨」を修得すれば第四禅定に達することができます。また、慈悲は聖なる八正道の正思惟(正しい思考)に含まれていて、ヴィパッサナーを実践するための非常に重要な要素になっています。事実、慈悲の思考がなければ、私たちの頭の中は怒りや悩み、緊張、不安、傲慢でいっぱいですから、心を落ち着かせることなどできないのです。

怒りを乗り越える

 崇高な慈悲喜捨の心を得るためには、まず怒りを乗り越えなければなりません。怒りには心のエネルギーを消耗させ、これまで積み上げてきた瞑想や戒律の実践を台無しにする破壊力があるのです。
 怒っている人は、火葬した後に残っている半焼けの薪のようなものです。その両端は焦げて炭になり、真ん中は焼けて汚くなっています。その汚い物を拾い上げ、火を焚くためや何か別の用途に使おうとする人はいないでしょう。なぜなら、その汚い物に触ったら、自分の手が汚れるからです。これと同様に、どんな人も、できるかぎり怒っている人を避けたがるのです。

自分がいちばん愛おしい

 慈悲の実践をするとき、まず最初に、自分にたいして慈悲を向けてください。
ときどき、「なぜ最初に自分を慈しむのか、それは自己中心的な行為ではないか」 と言う人もいます。
 自分を慈しむことは自己中心的な行為でしょうか?
 自分の心をよく見つめてください。そうすると、この世の中で自分ほど自分のことを愛している人は他にいない、ということがはっきり理解できるでしょう。お釈迦さまは次のようにおっしゃいました。

「全世界のどこを探しても、自分より愛しい人を見つけることはできない。
 自分が 他の誰よりも愛おしい。
 そのように、他の生命も 自分のことが一番愛おしいのである。
 それゆえ、自分を愛する者は 他の者を害してはならない」


 自分を慈しんでない人は、他人を慈しむことができません。
 他方、自分を慈しんでいる人は、慈しみの効果をしっかり体験することができますから、他人を慈しむこともできるのです。また、世界中のすべての生命が慈しみの心で満たされたなら、それはどんなに美しいことか、ということも理解できるのです。

愛と憎しみの二重性

 私たちが育てようとしている慈しみは、一般的な意味での 「私はあの人が好き、この人が好き」 といった世俗的な愛情のことではありません。そういうものは本当のことをいうと、ある特定の人の容姿や行為、考え方、声、振る舞いなどが好きなのであって、本物の慈悲ではないのです。
 もし相手の考え方や態度が変わってしまったら、その人のことを嫌いになるかもしれません。あるいは自分自身の好みが変わったり、気が変わったり、心が変わったりしたら、もうその人のことを愛しているとは言わないでしょう。
 この「愛情と憎しみの二重性」の中で、私たちはある特定の人を愛し、別の人を憎みます。いま愛しますが、後で憎みます。愛したいときに愛し、憎みたいときに憎むのです。あらゆることが順調でうまくいっているときには愛しますが、自分と相手の関係や、ものごとがうまくいっていないときには、憎むのです。
 このように、私たちの愛情が時や場所、状況によって変わるなら、その愛情は本物の愛情(慈しみ)ではありません。欲や貪り、性的な欲望なのです。

本物の慈しみ

 私たちが瞑想を通して育てようとしている慈しみには、その裏の憎しみや下心は含まれません。
 智慧と気づきによって育てられた慈しみには、「愛情と憎しみの二重性」がないのです。なぜなら状況がどのように変化しても、慈しみが憎しみに変わることはないからです。

 「本物の慈しみ」とは、欲と怒りと無知のゴミの山に埋もれている 自然の能力のことです。その能力を、他人から貰うことはできません。自分が自らの心の中に見いだし、注意深く育てていかなければならないものなのです。

 慈しみを見いだし、育て、保つことができるのは、気づきです。気づくことによって「私」という意識(ahankaara ―エゴ)は消滅し、エゴがあった場所は、エゴから慈しみに置き換わるのです。
 エゴがあるために、私たちは他の人々を憎みます。自分の好みのやり方で生活し、好みのやり方で行動し、好みのやり方でものごとを理解したがっています。ほかのやり方はいやなのです。もし他の人が自分のやり方や意見に賛成しなかったら、その人のことを嫌いになってしまうでしょう。ひどいときには理性を失い、何もわからなくなって、その人たちの生きる権利を奪ってしまうかもしれません。

 慈しみを実践するとき、たとえ慈しみを向けた相手からお礼や見返りがなくても、腹を立てないようにしてください。腹が立つのは、自分に下心があったり、何らかの見返りを期待しているからです。

 慈しみの大きな心で、すべての生命をあるがままに包み、わずかな差別もしないで、「生きとし生けるものが幸せでありますように」 と願うようにしてください。そしてすべての生命にたいして慈悲の心で接し、慈悲の心で話すようにしてください。その人が目の前にいるときも、いないときも、慈悲の心を持ち続けるのです。

慈悲と気づき

 瞑想をすると、心も身体も自然にリラックスします。そして煩悩は消えていきます。
 たとえば、眠気や睡魔は注意深さに換わりますし、曖昧さや優柔不断は確信に換わります。怒りや憎しみは喜びに換わり、不安や悩みは幸福に換わります。そして潜在意識に埋もれていた慈しみが表面にあらわれ、それによって私たちはより穏やかで幸せになるのです。

 この瞑想の状態の中で、心は落ち着きを得て、欲を乗り越えることができます。また、「慈悲の瞑想は怒りを消し、慈しみの心を育てる」ということ、「怒りが消えれば瞑想しやすくなる」ということを理解することができるでしょう。

 慈悲と気づきはいっしょに作用します。その結果、禅定(心の落ち着き)と智慧が生じるのです。それゆえ私たちは気づきを実践し、心を上手に調整ながら 慈悲の波動を育てていくことが大切なのです。


二種の思考

 思考を観察していると、思考には ①有害で破壊的で苦痛をともなう思考 と ②穏やかで楽しく喜びをともなう思考 の2種があることに気づくでしょう。
 これに気づいた後、心は「有害な思考」を拒むようになり、「穏やかで喜びのある思考」を育てるようになるのです。

 このことを書物や先生、友人、敵から学ぶことはできません。自ら実践して経験することによって、学ぶことができるのです。「有害な思考」があらわれたときには、その思考を持ち続けないようにし、「穏やかな思考」があらわれたときには、その思考を育て、できるだけ長く心に留めておくようにします。このようにして、穏やかで健全な思考を持つことを、自らの経験から学ぶのです。

 このように思考を観察することによって、心に慈悲が育つ条件がつくられます。つまり、「穏やかな思考」の波動が、今後、自由にあらわれるようになるのです。
 それから、「慈しみは自分の心の内で育つ」ということと、「外の環境や状況は慈しみを育てる重要な要素になる」 ということも理解できるでしょう。

 慈しみの心がまったくない人はいません。どんなに残酷に見える人でも、慈しみがない人はいないのです。ですから、潜在意識に隠れている慈しみを、「気づき」を通して引き出していくことが大切なのです。

慈しみは太陽のようなもの

 ヴェーダ語のミトラ (mitra) と パーリ語のミッタ (mitta)に は、「太陽」という意味があります。自然の太陽は mitra や mitta と呼ばれるのです。また、友情」「慈しみ」 という意味もあります。
 慈しみはよく太陽に譬えられます。おそらくそれは、慈しみはすべての生命にたいして とても温かい心を注いでいるからでしょう。ちょうど太陽が地球に暖かさをもたらするように、慈しみは生きとし生けるものに温かさをもたらします。太陽が 世界のありとあらゆるものに 差別なく降り注いでいるように、慈しみは生きとし生けるものすべてに 差別なく染みわたっていきます。太陽が暗闇を消すように、慈しみは憎しみの暗闇を消すのです。

 物質のなかには太陽を吸収しやすい物質があります。そのように、生命のなかには 他の生命よりも 慈しみを吸収しやすい生命がいます。慈しみを吸収しやすい人は、その人の業(kamma)の結果、楽に慈しみを得ている人です。

敵を慈しむ

 お釈迦さまは広大無辺な慈しみを育てました。最大の敵デーワダッタ(Devadatta)は、お釈迦さまを何度も殺そうとしましたが、お釈迦さまはそんな彼のことも慈しみました。
 殺人鬼アングリマーラ(Angulimaala)や凶暴な象ダナパーラ(Dhanapaala)も、お釈迦さまを殺そうとしましたが、お釈迦さまは彼らを憎まずに慈しみました。
 ちょうど自分の息子ラーフラ(Raahula)を慈しむのとまったく同じように、自分を殺そうとした者たちを慈しんだのです。

 ある日、デーワダッタはお釈迦さまに会いに行く途中、亡くなりました。
 比丘たちがお釈迦さまに「デーワダッタは将来どうなるのでしょうか?」(お釈迦さまを殺そうとしたのだから大変不幸になるのではないか?)と尋ねたところ、お釈迦さまはこのように答えました。「デーワダッタはいずれ独覚仏陀になるだろう」と。これが「気づきを通して育てた慈しみ」です。
 この「気づきを通して育てた慈しみ」によって、人は穏やかに調和をもって生きることができるのです。

慈悲の言葉を唱えるとき

 慈悲の言葉をただ繰り返し唱えているだけでは、慈悲の心は育ちません。決まり文句をただ繰り返し唱えることは、病院で医者が患者に薬を与えずに 処方するだけのようなものです。あるいは、レストランで 店員が お腹がすいているお客さんに食事を出さずに、ただメニューを読み上げるだけのようなものです。メニューを読み上げるだけでは、実際 お腹はふくれません。
 同様に、慈しみも ただ言葉を繰り返すだけでなく、意識的に自らの心に育てていかなければならないのです。

五蘊の観察

 慈しみは、瞑想することで育ちます。慈しみの瞑想で心がリラックスしてくると、他人が自分に向けてやったどんな嫌な行為もゆるし、忘れることができるでしょう。

 慈悲の瞑想を サマタ瞑想(samatha)で育てることもできますが、これは一時的なものにすぎず、永続きするものではありません。
 他方、ヴィパッサナー(vipassanaa)で育てた慈しみは、心の根本に影響を与えますから、永続きします。ヴィパッサナーを実践すると、心は柔軟になります。この柔軟性とともに育てた慈しみは、心の根本まで届くのです。
 ヴィパッサナーを実践する人は、五蘊、つまり 色(身体)・受(感覚作用)・想(表象作用)・行(意志作用)・識(認識作用)が変化していることを観察します。同様に、他人の五蘊も変化していることを観察します。それで何を見ても、実体として「嫌な人がいる」とか「嫌なモノがある」とは見ないのです。「私は誰を嫌っているのか?」と自分に問うてみると、「嫌いな人」という実体は見つかりません。また、嫌いな人だけでなく、どんな対象にも実体はない、ということが発見できるでしょう。

 私たちが認識するものはすべて、自分の五蘊や他人の五蘊に絶えず流れている現象だけです。このように理解することによって、「他人の五蘊」が「自分の五蘊」や「友人、親族の五蘊」にたいしてやった嫌な行為、侮辱行為をゆるし、忘れることができるのです。

 慈悲の瞑想は、心の安らぎと幸せをつくり、清らかな心を真に育てる本物の瞑想です。慈しみを他人の心に植え付けることはできません。また、他人が自分の心に植え付けることもできません。業のせいで、心に慈しみがなかなか育たない人もいるでしょう。その場合も、誰かが強引にその人の心に慈しみを植え付けることはできないのです。
 それぞれの人が各自、自分の心に慈しみが育つよう、自分で慈しみの土台を作らなければならないのです。

まず自分が実践する

 自分の知らないことを他人に教えることはできません。ですから、慈悲を他人に教えるときは、まず自分の心に慈悲を持つことが大切です。たとえば、自分がまったく知らない分野のことを誰かに教えるとしましょう。どうなるでしょうか? 恥をかくだけでしょう。
 人に何かを教えるとき、その内容について知れば知るほど、より分かりやすく 教えることができます。同様に、慈悲を実践して、心に慈悲を育てれば育てるほど、人に より分かりやすく 「慈しみを育てる方法」を教えることができるのです。
 だからといって、慈悲をすべて修得して完成させるまで他の人たちに教えてはいけない、という意味ではありません。自分が慈悲を実践すれば、慈悲の心を実際に経験することができます。慈悲を実践するときは、対象となる他の生命がいなければなりません。孤立した状態で実践することはできないのです。そこで、自分が慈悲を実践しながら、他の人たちに慈悲を実践することを教えるのです。このようにして、学びながら教え、教えながら学ぶことができるのです。
 菩薩は、自分が解脱するために懸命に精進する一方で、他の生命を助けていました。まず自分が悟りを開くために実践し、そうすることによって他人が悟りに達するのを助けることができるのです。
 もし自分が何も実践せずに、他の人たちに「慈悲を実践しなさい」と教えるなら、そのとき、自分は悟れないでしょうし、他の人たちに正しく慈悲を教えることもできないでしょう。

慈悲の実践をするのは自分
 
 私たちは一人ひとりが、自分の心に自分で慈悲を育てなければなりません。自分が他人の心に慈悲を育てることはできませんし、他人が自分の心に慈悲を育ててくれることもできないのです。
 ときどき 「私があなたのために慈悲をおくるから、あなたは慈悲の瞑想をしなくてもいいですよ」 と言う人もいるようですが、これはうまくいきません。
 たとえば、AさんがBさんの幸せを願い、Bさんにたいして常に慈悲の瞑想をするとしましょう。それで、もしBさんが慈悲の瞑想を何もしなかったら、そのときはAさんだけ、心がきれいになります。Aさんは、どんなにBさんの幸せを願ったとしても、Bさんの心まできれいにすることはできないのです。
 もし、AさんがBさんにたいして慈悲を育て、BさんがAさんにたいして慈悲を育てるなら、両方が慈悲を育てることになります。
 Aさんは、Bさんが自分にたいして慈悲の瞑想をしてくれるのを待つべきではありませんし、Bさんも同じように、Aさんが自分にたいして慈悲の瞑想をしてくれるのを待つべきではありません。

嫌な人にも慈悲の瞑想を

 「私を嫌っている人にたいして、どうやって慈悲の瞑想をすることができますか。(慈悲の瞑想をすることはできません)」と言う人もいます。
 しかし「自分を嫌っている人を嫌う」ということは、結局、自分も相手と同等に悪い行為をしていることになるのです。このように言う人たちが何を言っているのか、別の言葉で言いますと、「人が悪い行為をしているのに、どうして自分が善い行為をすることができるか」とか、「人が罪を犯しているのに、どうして自分は罪を犯さないでいられるか」ということと同じです。
 慈悲の瞑想は、自分が実践するものです。他人が慈悲の瞑想をしようがしまいが、実践するのは自分なのです。

 慈悲の瞑想の進み具合というのは、個々人の精神的な成長と業(kamma)に深い関係があります。ある人は自分の業のせいで慈悲について理解することができません。彼らは業的に非常に不幸で、慈悲の瞑想をすることは言うまでもなく、慈悲のことを考えることさえほとんどできないのです。
 たとえば、先生が学校のクラスで教えるとき、生徒たちの行為は一人ひとり異なっている、ということがおわかりになるでしょう。双子でさえ同じ行為はしません。個性というものは、その人その人の業によって条件づけられた感情、知性、身体、心の傾向があらわれたものです。誰にも他の人の業に介入することはできません。お釈迦さまさえ、できなかったのです。
 私たちは平等につくられていません。生命に差をつけ、区別する「業」にもとづいて、人はそれぞれ異なって生まれています。もしあなたが善い業を持ち、善い結果を享受しているなら、他人はそれを盗むことができません。強引に取ろうとしても取れませんし、そっと取ろうとしても取れないのです。

慈悲は善行為の始まり

 生きとし生けるものにたいして慈悲の瞑想をすることによって、怒りや憎しみが消えていきます。そして慈悲が行動にあらわれるようになるのです。慈悲の実践を始めることは、善行為の実践の始まりです。というのも、善行為は 慈悲の心がなければ実践できないからです。
 瞑想を始めたら、最初から必ず制御しなければならない感情があります。それは貪欲と瞋恚(激しい欲と怒り)です。お釈迦さまは「四念住経」(Satipatthaana-sutta)を教え、ヴィパッサナー瞑想(気づきの瞑想)で貪欲と瞋恚を抑えるように教えました。

 よく、このような質問を受けます。「自分の心に慈悲を育てたら、他人の痛みや苦しみ、憎しみを取り除くことができますか?」と。
 お釈迦さまですら、他の人にたいして「やすらかで幸せになりますように」と願うだけでは、その人の痛みや苦しみを取り除くことはできませんでした。お釈迦さまはこのようにおっしゃいました。
 あなた方は解脱するために
 自ら励みなさい。
 仏陀は法を説くだけである。


 個々の人には業というものがあり、一人ひとりが自らの解脱のために励まなければなりません。もし他の人にたいして「痛みや苦しみがなくなりますように」と願うだけで、その人の苦しみを取り除くことができるなら、世界はいとも簡単に平和で幸福になるでしょう。もしこれが可能だとして、同じように、悪意のある人が誰かにたいして「醜くなりますように、苦しみますように、失敗しますように、お金がなくなりますように、有名になりませんように、友達ができませんように、死後、地獄に落ちますように」と願うなら、そのように願われた人たちはみんな、とんでもない苦しみに遭うことになります。
 実際には、そのような悪い願いをしたその人自身が醜くなり、苦しみ、失敗し、貧しくなり、人気がなくなり、友達がいなくなり、死後、地獄に落ちるのです。なぜならその人の心は憎しみでいっぱいで、心で悪い行為をしているからです。

なんのために慈悲の瞑想をするのか

 「究極的な意味において『存在はない』『我はない』なら、『存在は因縁によって成り立っている』なら、また『自分が誰かにたいして慈悲の実践をしても、相手の業のために相手の痛みや苦しみを取り除くことができない』なら、なんのために慈悲の瞑想をしなければならないのでしょうか。(慈悲の瞑想をしても無駄ではないか)」と疑問に思うかもしれません。

怒りがもたらすもの

 次のことを覚えておいてください。心が悪い考えや怒りの思考でいっぱいのとき、私たちは相手を罵ったり、傷つけたり、嘘をついたりします。とても汚い乱暴な言葉を使って話し、悪意をもって喋ったりするでしょう。
 心が怒りでいっぱいだと、見えるものはなんでも嫌なものですし、聞こえるものはなんでも苦痛をもたらします。臭うものはなんでも気持ち悪く、食べるものはなんでも身体を病気にさせます。触れるものはなんでも身体に不快なもので、考えることはなんでも苦痛をもたらします。それで、怨みを抱くようになるのです。いつでも他人の悪口を言い、けっして良い面を見ることはしません。非難ばかりするようになります。常に他人の欠点をあげつらいます。他人がどんなに善い行為をしてもまったく喜びしません。いつも嫉妬するのです。非常に傲慢で、恩知らずで、意地が悪く、とても悪い心になります。
 常に他人に害を与えようと考えています。他人が苦しんでいたり、問題を抱えていたり、困っているのを見て楽しみます。失敗するのを見ると、とても喜びを感じるのです。それから、他人にたいして非常に攻撃的な態度をとります。それで周りの人たちを簡単に病気にさせるのです。
 このような人は、周りにたいして非常に不快感を与えます。いっしょにいる人たちはみんな気分が悪くなるでしょう。頭痛や腹痛を覚えるでしょう。いっしょにいることを拒むようになるでしょう。このように、悪い思考は他人にも悪い影響を及ぼすのです。

 他方、心が慈悲で満たされているなら、穏やかに、やさしく、あたたかい言葉で話しをします。見えるものはなんでも幸せをもたらし、聞こえるものはなんでも耳に穏やかで、匂うものはなんでも楽しみをもたらします。食事はなんでもより良く味わうことができ、触れるものはなんでも心地よく、考えることはなんでも明るく穏やかなことです。
 他人の役に立とうと、一生懸命努力します。とても思いやりがあり、理解力があり、忍耐強く、深い落ち着きがあります。適応力があり、協力的です。常に真実を話します。いつでも他人を喜ばせます。他人が自分にたいしてやった嫌な行為を水に流すことができます。いつでもリラックスしているのです。
 無意味で神経質な作り笑いをすることはなくなり、あたたかい笑顔があらわれるでしょう。それで周りの人たちはあなたといっしょに仕事をするのが楽しくなるのです。あなたのそばにいると心地よく感じます。あなたにたいして非常にやさしく、柔軟になり、守ってくれるでしょう。あなたがいないところで、あなたの悪口を言ったりしません。褒めるのです。仕事の能率は上がりますし、評判も上がるでしょう。

慈悲の瞑想の目的

 慈悲の瞑想に関して、このような疑問を持つ人がときどきいます。
 「すべての生命にたいして『一切の生きとし生けるものは幸福で安穏でありますように。いかなる生命であってもことごとく、怯えているものでも、強剛なものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、目に見えるものでも、目に見えないものでも、近くに住むものでも、遠くに住むものでも、すでに生まれているものでも、これから生まれようとするものでも、一切の生きとし生けるものは幸せでありますように』と慈悲の瞑想をして、なんの役に立つのでしょうか?」

 「なぜ『どんな場合でも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて、互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。あたかも母が己(おの)が独り子を命を賭けても守るように、そのように生きとし生けるものにたいして無量の慈しみの心を育ててください』と言うのでしょうか?」

 「なぜ『全世界にたいして無量の慈しみの心を育ててください。上に、下に、横に、障害なく、怨みなく、敵意のない慈しみを実践してください。立っているときも、歩いているときも、坐っているときも、横になっているときも、慈悲の念を保ってください』と念じなければならないのでしょうか?」と、疑問に思うかもしれません。

 それから、「自分の嫌いな人や嫌っている人たちにたいして『彼らが幸せでありますように。苦しみがなくなりますように。願いごとが叶いますように。人生で逃れることのできない困難や問題に出会っても、忍耐や勇気、理解力、決意をもってそれらに向かい合い、困難を乗り越えることができますように』と願うことなどできるはずがない」と言う人もいます。

 私たちが慈悲の瞑想をするのは「自らの心を清らかにし、悟るためである」ということを忘れてはなりません。慈悲の瞑想をすると、偏見や先入観、差別、憎しみがなくなり、とても友好的に行為をすることができるようになります。この清らかな行為によって、非常に現実的な方法で、他の人たちが各々の痛みや苦しみを減らしていくのを助ける役に立つのです。

 周りの人たちに安らぎを与え、とてもやさしく、思いやりをもって行為をする人は、あわれみ深い人です。あわれみは慈しみが行動にあらわれた形です。慈しみがない人には他の人々を助けることができません。

 「清らかな行為」とは、非常に友好的な態度で心から誠意をもって行為をする、という意味です。行為には、思考・言葉・行動の三つがあります。もしこの三つが矛盾しているなら、その行為はどこか間違っていると言えるでしょう。矛盾している行為は、当然清らかな行為ではありません。たとえば慈悲のことについて話していながらも、実際には悪い行為をしているなら、その人は偽善者であって正直者ではないのです。

思考をきれいにする

 実践面から見ても「あの人は嫌い」と考えるよりも、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と清らかなことを考え、そのような思考を育てることは非常に善いことです。
 清らかな思考は清らかな行為として確実に表面にあらわれますし、悪い思考は悪い行為として表面にあらわれます。ですから、「思考は言葉や行動にあらわれる」ということをよく覚えておいてください。言葉や行動にあらわれる思考は、脳の中でプラスのホルモンを分泌します。このプラスのホルモンは、栄養素として働き、神経に栄養を与え、神経を強くします。神経がプラスのホルモンで満たされると、神経は強くなるのです。また、プラスのホルモンは血液循環によって身体全体に運ばれ、これが各細胞を健康にします。健康な神経細胞や血液細胞は、心と身体を強く、健康にさせるのです。

 私たちは常に慈しみをもって話し、行動すべきです。慈しみのことを語りながらも日常生活のなかでそれとは正反対の行動をしたり話したりしている人は、賢者に非難されるでしょう。
 慈しみが育つにつれ、私たちの思考や言葉、行動は穏やかになり、楽になり、有意義で、真実で、自分にも他人にも役に立つように変わっていくのです。
 もし自分の思考や言葉、行動が、自分自身を傷つけていたり、他人を傷つけていたり、あるいは自分と他人の両方を傷つけているなら、そのときは「自分は本当に慈しみを持っているだろうか」と自身に問うてみなければなりません。


慈悲で心を改善する

 仮に、自分の嫌いな人や自分のことを嫌っている人たちがみんな健康で幸せで、心が穏やかだとしましょう。そうすると、その人たちは自分の敵ではなくなるのではないでしょうか。彼らが問題も、痛みも、苦しみも、悩みもなく、神経症や精神病、心身症、パラノイア(偏執病)、恐怖、緊張、不安などの病気が何もなければ、彼らは自分の敵ではなくなるはずです。
 自分の嫌いな人や自分のことを嫌っている人たちにたいする現実的な対処法というのは、彼らが彼ら自身の力でさまざまな問題を乗り越えるのを手助けしてあげることです。そうすることによって、私たちは穏やかで幸せに暮らすことができるのです。できれば、慈悲を教え、彼らの心を慈悲で満たすようにし、さらには悟りということを理解できるようにしてあげることです。そうすれば、私たちは穏やかで幸せに暮らせるでしょう。なぜなら人というものは神経質で精神病を持ち、恐怖や緊張、不安などがあればあるほど、ますます多くのトラブルや痛み、苦しみを世の中にもたらすからです。
 もし、凶暴で悪意のある性格の人を、道徳的で立派な性格へと改善することができたなら、そのときはお釈迦さまが称賛する驚くべき偉業を成し遂げたことになります。ですから、まずは自らの心に慈悲と智慧を十分に育て、悪い心を清らかな心に改善しましょう。(了)

 
 

 
 sabbe satta bhavantu sukhitatta

(翻訳:出村佳子)

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