5章 実 践

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 瞑想の対象にはさまざまなものがありますが、ある程度、基本的な集中力を身につけるためには、まず呼吸に集中することから始めることをおすすめいたします。このとき気をつけなければならないのは、対象に夢中になってそれに深く没頭することや、精神集中の技(わざ)のみを獲得することが目的ではない、ということです。呼吸に集中することの目的は、気づきを育て、洞察力と智慧を完成させ、真理をありのままに悟ること、心と身体のはたらきを理解すること、すべての精神的な煩わしさを取り除き、人生を安穏で幸福にすることです。


 ものごとをありのままに見ないかぎり、心は清らかになりません。「ものごとをありのままに見る」という言葉には非常に深い意味がありますが、あいまいな表現でもあります。初心者のなかには、どういう意味か分からない方も多いでしょう。というのも、ものごとをありのままに見られるのは視力のいい人だけだと思っているところもあるからです。


 「ありのままに見る」という言葉を、瞑想から得られる智慧の立場から使うとき、これは「ふつうの目でただなんとなく見る」という意味ではありません。「智慧の目で現象を観る」という意味になります。「智慧の目で観る」ということは、欲と怒りと無知から生じる先入観や偏見を入れずに、心と身体に現われる現象を観るという意味です。ふつう私たちは、自分にとって好ましくないものにたいしては無視する傾向がありますし、好ましいものにたいしては執着する傾向があります。そうなるのは、心が欲と怒りと無知に影響されているからです。私たちのエゴや我、意見が、ありのままに見ることを妨げ、判断を歪めているのです。


 感覚を見るとき、感覚を感情と混同しないように気をつけてください。というのも、感覚は感情に依存することなく生じるからです。たとえば、楽に座っているとしましょう。しばらくすると、腰や脚が痛くなってきます。心はすぐに不快感を感じ、この不快感にたいしていろんなことを考え始めるのです。
 このとき、感覚を感情と混同することなく区別して、感覚を感覚としてそれを明確に観察してください。感覚は、すべての心に必ずある七つの働きのうちの一つです。ほかの六つは、触(触れる働き)・想(認識する働き)・思(意志の働き)・一境性(集中する働き)・命根(生きている働き)・作意(心を作動させる働き)です。


 感覚のあとには、怒りや恐怖、欲望などの感情が現われます。このとき、ほかの要素とごちゃ混ぜにしないで、感情をあるがままに見なければなりません。
 色(身体)・受(感覚)・想(想起)・行(意志)・識(認識)の五蘊が一つのかたまりで、そのかたまりをすべてひっくるめて感情と考えるなら、私たちは混乱するでしょう。なぜなら、感情があいまいになっているからです。感情を心のほかの要素から区別しないで、ごちゃ混ぜになった感情にとらわれているのでは、真理に気づくことはとてもむずかしいでしょう。


 私たちは、智慧を育て、無常を経験し、苦しみと無知を乗り越えることを望んでいます。「苦しみ」を深く理解するとき、苦しみの原因である「欲」を乗り越えることができますし、「無我」に気づくことによって、我という概念から生じる「無知」を乗り越えることができるのです。これは、心と身体を区別して観る智慧から始まります。このとき、切り離すことのできない心と身体の相互関連性を観ることも大切です。
 一つ、有名なたとえ話をご紹介いたしましょう。身体は健康ですが目が見えない人(Aさん)と、目は見えますが歩くことのできない人(Bさん)がいます。二人ともそれぞれ身体の能力には限界があります。でも、もしAさんがBさんを肩に乗せて歩き、Bさんが行く方向を示すなら、二人は問題なく目的地までたどり着くことができるでしょう。
 心と身体の関係もこのようなものです。身体だけでは何もできません。動かない丸太のように、無常で腐って朽ち果てるだけのものです。また、心は身体の支えがないと何もすることができません。心と身体を注意深く観察するなら、この両者は共にすばらしいはたらきをするということが発見できるでしょう。


 一つの場所に坐り、瞑想することによって、ある程度、気づきを身につけることができます。数週間、あるいは数か月間、瞑想会に行き、自分の感覚や認識、数えきれないほどの思考(妄想)、さまざまな意識を観察することによって、心は少しずつ穏やかで安らかになってゆくのです。


 しかし、ふだん私たちには一つの場所で集中的に瞑想するという時間はありません。ですから、日常生活のなかで「気づく」ことができる方法を見つけたほうがよいのです。そうすれば、日々の予測できない出来事に対処することができるでしょう。


 私たちは日々、予測できない出来事にであっています。これは、ものごとはさまざまな原因と条件によって生じているからであり、また、世の中が原因と条件によってすぐに変化するからです。すぐに変化するこの世の中で、私たちは「気づき」を、非常用の道具として使うことができます。気づきはいつでも手軽に使うことができる便利な道具なのです。たとえば、ものすごく腹が立ったとき、気づきをもって注意深く心を見つめるなら、怒りは静まってゆくでしょう。
 さらに、自分に関する苦々しい事実にも気づくことができるでしょう。たとえば、


 ・自分がわがままであること
 ・自己中心的であること
 ・「私」に執着していること
 ・自分の意見にしがみついていること
 ・自分は正しく、他人は間違っている、と考えていること
 ・先入観を持っていること
 ・偏見を持っていること
 ・これらすべての根底には、ほんとうは自分のことを大事にしていないということ
 

などが見つかるでしょう。こうしたことに気づくことは厳しいでしょうが、最も価値のある経験です。そして長い目で見れば、これらのことを理解することによって、心身に深く根づいている苦しみがなくなってゆくのです。
 

 気づきの瞑想(実践)とは、自分に100パーセント正直になることです。心と身体を観察すると、ある対象にたいしては、気づきたくないと思う嫌な心があることが見えるでしょう。自分にとって嫌いなものですから、その対象を拒絶しようとするのです。嫌いな対象にはどのようなものでしょうか? まず、好きな人から離れること、嫌いな人といっしょにいること、があります。人だけでなく、場所や物にも自分の好き嫌いを入れていますし、意見や考え、信仰、決めたことについても、好き嫌いを入れています。それから老いること、病気になること、衰えることなど、自然の現象もいやがっていますし、また自分の年齢を他人に言うこともいやがります。これは、自分の外見(若さ)を保ちたいという巨大な欲望があるからです。他人から自分の欠点を指摘されることもいやがります。自分の大事なプライドが傷つけられるからです。それから、自分よりすぐれている人のことを嫌いますが、これは、自分は他人よりも素晴らしいと自分のことを欺いているからです。
 今述べたことは、欲と怒りと無知のほんの一例にすぎません。


 日常生活のなかで欲や怒り、無知が生じたとき、気づきを使ってそれらを追跡し、その根のところを理解してください。欲・怒り・無知の根は、心に潜んでいます。もし心に怒りの根がなければ、他人は何をしてでも自分を怒らせることはできないでしょう。他人の行為や言葉、態度に腹が立つのは、自分の心に怒りの根があるからです。でも怒ったとき、智慧を使ってそれに注意深く気づくなら、怒りを取り除くことができるでしょう。


 もともと心に怒りの根がない場合には、たとえ他人に欠点を指摘されたとしても、腹が立つことはありません。むしろ、自分の欠点を教えてくれた相手に感謝するでしょう。深い気づきと理解によって、欠点を教えてくれた相手に感謝するのです。なぜなら、その相手は自分の性格を改善する機会を与えてくれ、自己向上の道へ進むのを助けてくれたからです。


 どんな人でも、自分では気づかない欠点があります。他人は自分の鏡であり、智慧を使うなら、他人を通して自分の欠点を知ることができるでしょう。ですから、欠点を示してくれた人のことを、「自分の知らない秘宝を発掘してくれた人」と考えたほうがよいのです。なぜなら自己を改善させるためには、まず自分の欠点を知る必要があるからです。自己を改善することは、私たちの生きる目的である「悟り」に達するためのまっすぐの道です。欠点を乗り越えるには、まず自分にどんな欠点があるかということを知らなければなりません。欠点を知ったとき初めて、その欠点を乗り越え、心の奥深くに潜在している清らかな性質を育てることができるのです。


 例をあげて分かりやすく説明いたしましょう。病気になったとき、私たちはまず病気の原因を知らなければなりません。病気の原因を知って初めてその病気を治すことができるのです。もし、ほんとうは病気で苦しんでいるのに、病気ではないふりをしているなら、病気を治すことなどできないでしょう。同様に、自分には欠点がないと考えている人は、清らかな道を歩むことができません。私たちは自分で自分の欠点を見ることが難しいのですから、それを教えてくれる人が必要になるのです。


 人に欠点を指摘されたとき、サーリプッタ尊者(Venerable Sariputta thero)に倣って、その相手に感謝すべきです。サーリプッタ尊者はこのようにおっしゃいました。


 「たとえ七歳の沙弥(見習い僧)が私の間違いを指摘したとしても、私はその沙弥にたいして最大限の敬意を払い、自分の間違いを受け入れます」


 サーリプッタ尊者という方は気づきの完成者であり、欠点がありませんでした。わずかな慢心もありませんでしたから、常にこのような心持ちで謙虚にいることができたのです。サーリプッタ尊者が達したところと同じところに達することを生きる目的にしている人は、サーリプッタ尊者を手本にしなければなりません。私たちは阿羅漢ではないのですから、サーリプッタ尊者に倣おうと、心を決めたほうがよいのです。
 

 自分の欠点を指摘した相手にも欠点はあるでしょう。自分には相手の欠点が見えますし、相手には自分の欠点が見えるのです。人は、他人に欠点を指摘されないかぎり、自分の欠点には気づかないものです。人の欠点を注意するとき、また、欠点を注意した人にたいして反応するとき、そのどちらの場合にも、よく気をつけてください。人の間違いを注意するとき、何も気をつかわず、いじわるで粗暴な言葉を使うなら、相手だけでなく自分をも害することになるでしょう。怒りの心で話すとき、その人には気づきがありませんから、自分の考えをきちんと伝えることができません。他方、きつい言葉を言われた人は、心が傷つけられたと感じて気づきを失い、相手がほんとうに言いたがっていることを聞き逃してしまうでしょう。話すことと聞くことから益を得るためには、気をつけて話し、気をつけて聞くことが大切です。気をつけて話し、気をつけて聞くとき、心には欲や怒り、無知、わがままがないのです。


目的


 瞑想する人は誰でも、目的を持たなければなりません。もし目的を持たずに、誰かが教えた瞑想法を鵜呑みにして盲目的に従うなら、暗闇のなかでさ迷うことになるでしょう。目的をしっかり持たなければなりません。何をするにしても、私たちは明確な目的を持たなければならないのです。他人と競争して、他人より先に悟ることや、優れた能力や権力を得ること、成功することが、ヴィパッサナーの目的ではありません。瞑想では、他人と競争しないのです。瞑想の目的は、私たちの意識下に深く潜んでいる善良で優れた性質を完全に「完成」させることです。優れた性質とは、
 
 ・心を清らかにすること
 ・憂いや悲しみを取り除くこと
 ・悩み・苦しみを取り除くこと
 ・真の安穏に至る正しい道を歩くこと
 ・正しい道を実践して真の幸福に至ること
 
の五つです。これらの目的をしっかり念頭に置いて実践するなら、私たちは希望と確信をもって前進することができるでしょう。




瞑想


 瞑想する前に、どのくらい坐るか、時間を決めてください。いったん坐ったら、その時間が終わるまで姿勢を変えないようにしてください。もし、坐り心地が悪いからといって、もとの姿勢を変えるとどうなるでしょうか? しばらくすると、その変えた姿勢も坐り心地が悪くなり、姿勢を変えたくなります。しばらく坐っていると、身体に痛みが現われたりして、またその姿勢も変えたくなります。それで瞑想をしている間中、身体を動かし、一つの姿勢から別の姿勢へと坐り直し、姿勢を変え続けることになり、結局、深い集中力を得ることができなくなってしまうのです。ですから、もとの姿勢を変えないよう、あらゆる努力をすることが大切です。


 姿勢を変えないようにするためには、瞑想を始める前に、どのくらいの時間瞑想するか、ということを決めておくことです。初めて瞑想をする方は、二十分以内に決め、そのあいだは身体を動かさずに静止させてください。瞑想を繰り返し実践するにつれて、長く坐ることができるようになるでしょう。長い時間坐れるようになるためには、正しく瞑想すること、そして極端な痛みにさいなまれることなく坐れること、が必要です。(痛みの対処法に関しては、第十章でご説明いたします)


 このように、集中力を得るためには、瞑想前に瞑想時間を決めますが、瞑想の最終目標である「悟り」に達するためには、いかなる計画もたてないほうがよいでしょう。なぜかといいますと、悟りに達するということは、その人がどのくらい理解(正見)にもとづいて瞑想したかということと、どのくらい心の能力を育てたかということで決まるからです。ですから、計画や予定はたてずに、悟りを目指して、常に気づき、実践することが大切なのです。すべての条件がそろったとき、悟りに達することができるでしょう。私たちがすべきことは、条件をそろえることだけなのです。


 身体を静止させ、姿勢を調えたら、目を閉じてください。心は、コップに入った泥水のようなものです。コップを動かさずに静かに置いておくと、やがて泥は沈み、水が透き通って見えるようになります。同様に、身体を動かさずに静止させ、心を瞑想対象に完全に集中させるなら、心は鎮まり、幸福を感じ始めるでしょう。


 幸福を得るためには、心を今の瞬間に留めておかなくてはなりません。しかし「今の瞬間」というものは素早く変化してゆきます。通常の観察では、まったく気づくことができないのです。それから、すべての瞬間には何らかの現象が起こっています。現象がないのに瞬間だけが通り過ぎてゆくということはありません。私たちはその瞬間に起こっている現象に気づくことなく、瞬間だけに気づくということはできないのです。ですから、集中すべきものは、今の瞬間の現象です。現象には、過去の出来事を思い出すことや、未来を思い描くことも含まれます。心は、次々に起こってくる現象を認識します。これはちょうど一枚一枚の絵が次々に流れてゆく映画のようなものです。


 心は、何か対象がなければ、けっして集中することができません。ですから、瞬間瞬間いつでも手に入る対象を、心に与えてあげなくてはならないのです。その一つに、呼吸があります。呼吸は常に鼻腔【びこう】から出入りしていますから、心は簡単に呼吸を見つけることができるのです。瞬間瞬間、目覚めた状態で「気づきの瞑想」に取り組んでいるなら、心はとても簡単に呼吸に集中できるということがお分かりになるでしょう。というのも、呼吸は他のどんな対象よりも目に付きやすく、常にあるものだからです。


 先ほど述べた手順で姿勢を調えて坐ったら、すべての生命にたいして慈悲を注いでください。その後、深呼吸を三回してください。深呼吸が終わったら、呼吸を通常の状態に戻します。自然に、なんの力も加えずに、息をただ吸ったり吐いたりさせるのです。そして鼻腔の縁に集中します。息が出たり入ったりするたびに鼻腔の縁に空気が触れる感覚を、ただ感じてみてください。


 次に、息を完全に吸い、吐き始める前に、一瞬「間(ま)」があります。この「間」と、「息を吐き始めようとする瞬間」に気づいてください。息を完全に吐き終わったら、今度は吸い始める前に一瞬、間があります。この間にも気づいてください。これはつまり、呼吸には二つの間があるということです。一つは、吸い終わった後、もう一つは吐き終わった後です。二つの間は、ほんの瞬間ですから、普段はそれに気づくことがないでしょう。注意深く観るとき、気づくことができるのです。


 このとき、言語化したり頭で考えたりしないでください。「私は息を吸っている」「私は息を吐いている」と言うことなしに、ただ息が出ること・入ることに気づきます。呼吸に集中しているあいだは、頭に浮かんでくる考えや過去の記憶、音や匂い、味などは無視してください。他のことは気にしないで、もっぱら呼吸のみに集中してください。


 最初のうちは、心と身体がまだ落ち着いていませんし、リラックスできていませんから、息を吸うこと・吐くことはどちらも浅いでしょう。この場合、起こっているとおり、浅く吸っているときには「浅く吸っている」感覚に気づき、浅く吐いているときには「浅く吐いている」感覚に気づいてください。このとき「浅く吸っている」「浅く吐いている」と言わないでください。浅く吸い・吐いている感覚に、気づくのです。気づき続けているうちに、心と身体は次第に落ち着いてきます。そうすると、呼吸も深くなるでしょう。呼吸が深くなったら、起こっているとおりに「深く呼吸している」感覚に気づいてください。


 その後、呼吸の全体のプロセス、つまり呼吸の最初から最後までのプロセスに気づいてください。気づき続けていると、呼吸が前よりも微細になってきます。また、心と身体も穏やかになってくるでしょう。この穏やかで静かな感覚にも気づいてください。




心がさ迷ったときどうするか




 呼吸に集中しよう、と懸命に努力しているにもかかわらず、心はあちこちにさ迷います。たとえば、以前 訪れた場所や人のこと、長いあいだ会っていない友人のこと、ずっと前に読んだ本、昨日食べた食事の味など、ふと過去のことを思い出していることもあるでしょう。
 心が呼吸に集中していないことに気づいたらすぐ、心を呼吸に注意深く戻し、そこにしっかり留めるようにしてください。といっても、数分後にはまた別のことを考えているかもしれません。友人に電話をしなければならない、手紙を出さなければならないとか……。また、支払いのことや洗濯のこと、買い物のこと、パーティーのこと、次の休暇の計画のことなど……。そこで、心が呼吸に集中していないことに気づいたらすぐ、心を呼吸に戻してください。


 ヴィパッサナーを実践するとき、集中力は欠かせません。この集中力をつけるのに役立つ方法を、これからいくつかご紹介いたしましょう。


1)数を数える
 

 心が他のことにさ迷ってしまうとき、数を数えることが助けになるでしょう。数を数えることの目的は、ただ心を呼吸に集中させるだけです。数を数えることは、単に心を落ち着かせ、統一させるための一つの手段にすぎません。ですから、いったん心が呼吸に集中したら、数を数えるのをやめてください。
 数を数えることには、たくさんの方法があります。いずれの方法も、実践するときには声に出さずに頭の中で数えてください。
 いくつかご紹介いたしましょう。


 息を吸いながら、肺が空気でいっぱいになるまで 「1,1,1,1……」 と数えます。息を吐きながら、肺の空気がなくなるまで 「2,2,2,2……」 と数えます。また、息を吸いながら、肺が空気でいっぱいになるまで 「3,3,3,3……」 と数え、息を吐きながら、肺の空気がなくなるまで 「4,4,4,4……」 と数えます。これを 「10」 まで数え、心が落ち着いて呼吸に集中するまで何回も繰り返してください。


 二つ目の方法は、数を10まで素早く数えることです。 「1,2,3,4,5,6,7,8,9、10」 と数えながら、息を吸ってください。 「1,2,3,4,5,6,7,8,9、10」 と数えながら、息を吐いてください。息を吸いながら1から10まで数え、息を吐きながら1から10まで数えるのです。心が落ち着いて呼吸に集中するまで、これを何度も繰り返してください。


 三つ目の方法は、呼吸ごとに数字を増やしていく方法です。息を吸いながら 「1,2,3,4,5」 と5まで数え、息を吐きながら 「1,2,3,4,5,6」 と6まで数えます。次に、息を吸いながら 「1,2,3,4,5,6,7」 と7まで数え、息を吐きながら 「1,2,3,4,5,6,7,8」 と8まで数えます。それから、息を吸いながら1から9まで数え、息を吐きながら1から10まで数えます。心が呼吸に集中するまでこの方法を繰り返してください。


 四つ目の方法は、長く呼吸をして数える方法です。息を吸い、肺が空気でいっぱいになったら「1」と頭の中で数えてください。肺が空っぽになるまで息を吐き、吐き切ったら「2」と数えます。また、息を深く吸って「3」と数え、息を吐き切って肺の空気がなくなったら「4」と数えます。この方法で呼吸を10まで数えてください。それが終わったら、逆方向に10から1まで数えます。10まで数え終わったらまた、1から10まで数え、さらにまた10から1まで数えるのです。


 五つ目の方法は、息の吸う・吐くをいっしょにして数える方法です。息を吸って吐いて肺の空気がなくなったら、頭の中で「1」と数えます。吸うことと吐くことを一つとして数えるのです。また、息を吸って吐いて「2」と数えます。この方法で、5まで数えます。5まで数えたら、逆に、5から1まで数えてください。呼吸が穏やかで静かになるまで繰り返してください。


 もう一度言いますが、数を数える方法はずっと続けるべきではありません。正しく実践するなら、心はやがて息が出入りするたびに触れる鼻腔(びこう)の縁(ふち)に留まって、落ち着いて集中できるようになるでしょう。呼吸は非常に穏やかで静かになります。そのため、「息を吸うこと・吐くことを別々に気づくことができない」と感じるかもしれません。このとき、数を数えるのをやめてください。数を数えることは、「心を一つの対象に集中させる訓練」としてのみに用いるのです。




二 つなげる(途切らせない)


 息を吸い、吐きだす前に、一瞬、間(ま)があります。この間(ま)に気づこうと呼吸を止めないでください。止めずに、呼吸の「吸う」と「吐く」をつなげてください。そうすれば「吸う」と「吐く」は途切れることのない一連の流れであるということに気づくでしょう。




三 心を留める


 「吸う」と「吐く」がつながったら、息が出入りするたびに触れる鼻腔の縁に心を留めてください。




四 大工のように集中する


 大工は板を切るとき、まず板の表面にまっすぐの線を引きます。その後、引いた線にそって鋸(のこぎり)で切ります。このとき、押したり引いたり動いている鋸の歯は見ません。板の表面に引いた線を見ます。線を見れば、まっすぐに切ることができるのです。
 この大工のように、私たちが瞑想で呼吸に集中するとき、どこを見るかといいますと、息が出入りする鼻腔の縁です。そこに心を留め、そこを観察してください。




五 守衛のように観察する


 官庁や会社、学校の門にいる守衛という人は、入って来る人々の細かいところまで、あまり見ません。人が門を出入りするところだけを見ています。この守衛のように、私たちが瞑想で心を統一しようとするとき、自分が感じるもの・経験するものの細かいところは気にしないでください。ただ、吸うたび吐くたびに鼻腔に触れる感覚のみに気づくのです。


 実践を続けるうちに、心と身体は非常に軽くなり、空中に浮いているような、水面に浮かんでいるような感覚がするかもしれません。あるいは、身体が空に飛び上がるような感覚がするかもしれません。荒々しい「吸う・吐く」の呼吸がやんだとき、呼吸は微細になるのです。この微細な呼吸を、心の集中対象にしてください。微細な呼吸を感じることが、心が統一している印(しるし)なのです。この感覚は、さらに微細な感覚へ、またさらに微細な感覚へと、少しずつ代わっていくでしょう。


 呼吸の感覚は、鐘の音になぞらえることができます。大きな鉄の棒で鐘を打ったとき、最初は大きな音が鳴り響きます。その大きな音は徐々に消え、小さくなっていきます。これと同様に、瞑想を始めたとき、私たちは荒々しい呼吸を感じるでしょう。しかし、その荒々しさに注意深く気づくにつれ、呼吸の感覚は非常にきめ細やかになっていきます。といっても、心は鼻腔の縁にしっかり留まったままです。これが、心が集中(統一)している状態なのです。


 感覚が育つにつれ、呼吸以外の瞑想対象はだんだん明らかになってきますが、呼吸のほうはだんだん微細になってゆきます。あまりにも微細になりますから、「呼吸をしている」という感覚に気づかなくなるかもしれません。こうなったとき、呼吸がなくなったとか、瞑想で何も得られなかった、と気を落とさないでください。心配しないでください。細心の注意を払い、努力して、鼻腔の縁に触れる感覚に気づくようにするのです。このときこそ、意志をしっかり強くもち、精進・信・気づき・集中・智慧のバランスをとって、修行を続けなければならないときなのです。


農民のたとえ


 ある農民が、水牛を使って田んぼを耕しています。昼ごろ、疲れたので水牛を放し、木陰で涼みながら休みをとりました。目が覚めると、水牛がいません。しかし農民はあわてることなく、動物たちが暑い日中に水を飲むために集まっている水飲み場にゆっくりと歩いて行きました。 そこで自分の水牛を見つけ、なんのことなく連れ戻し、くびきでつなぎ、また田んぼを耕し始めたのです。


 同様に、この瞑想を続けていると、呼吸が非常に微細になり、呼吸をしている感覚にまったく気づかなくなるかもしれません。こうなっても驚かないでください。呼吸が消えたわけではありませんから。呼吸は鼻腔の縁にそのままあるのです。二、三回、素早く呼吸をしてみてください。そうすれば、呼吸の感覚をまた感じるようになるでしょう。感じたら、呼吸が鼻腔に触れる感覚に集中してください。




   瞑想を始めたとき、私たちは瞑想の対象として、「入る息」と「出る息」を観ていました。今は三番目の対象「鼻腔の縁に触れる感覚」を観ています。この三番目の対象に集中するとき、心は気づきの瞑想(ヴィパッサナー)を実践するのに充分な集中(統一)レベルに達しています。この感覚は、鼻腔の縁に強くあります。それを身につけ、完全にコントロールしてください。そうすれば、必要なときはいつでも手に入れることができるでしょう。心を、今の瞬間 手に入るこの感覚に集中させ、瞬間瞬間過ぎ去ってゆく流れとともに心を流れさせてください。それに集中して気づくなら、現象それ自体も瞬間瞬間変化しているということが分かるでしょう。瞬間瞬間の変化に、心を留めておいてください。


 それから、心は「今の瞬間」にしか集中できないということにも気づいてください。この、今の瞬間に心を留めること・集中することを「瞬間的集中」と言います。これは「瞬間」が次から次へと絶えず過ぎ去っていくとき、心は「瞬間」に遅れをとらずについて行く、ということです。いかなる瞬間にも執着せず、瞬間とともに変化し、瞬間とともに現われ、瞬間とともに消えるのです。
 心を、ある一つの瞬間に止めようとすると、いらだちが生じます。なぜなら、心は速いペースを保つことができないからです。心は現われてくる新しい現象に 瞬間瞬間ついていかなければなりません。「今の瞬間」はどの瞬間にもあるのですから、私たちが目覚めてさえいれば、瞬間瞬間、常に集中することができるのです。


 今の瞬間に心を留めておくためには 「今の瞬間、何が起こっているか」 ということに気づかなければなりません。このとき、ある程度の集中力が必要です。そうでなければ、変化し続けている瞬間瞬間に 心を集中させることはできないのです。いったん集中力が身についたなら、集中した心で 自分が経験しているあらゆること、たとえば腹部の膨らみ・縮み、胸部の膨らみ・縮み、もろもろの感覚が現われて消えること、呼吸や思考が生まれて消えることなどに気づくことができるでしょう。


 気づきの瞑想(ヴィパッサナー)が上達するためには、「瞬間の集中力」が必要です。気づきの瞑想で必要なのは、この「瞬間の集中力」なのです。なぜ「瞬間」かといいますと、私たちが経験する感覚はどれも、ほんの瞬間しか持続しないからです。

 そこで、この瞬間瞬間 集中した心で、自分の身体と心を観察してみると、


◎ 呼吸は「身体」(物体)であること
◎ 呼吸を感じること、感覚を知ること、現象を認識することは「心」であること


に気づくでしょう。また、それぞれの要素は常に変化しているということにも気づくでしょう。


 呼吸の感覚以外にも、身体にさまざまな感覚を感じるかもしれません。身体全体を観察して、感覚を観察してみてください。このとき、自然に現われていない感覚はわざとつくらないようにしてください。ただ身体に現われている感覚と、心に現われる考え・現象のすべてに気づくのです。
 さらに、現象が生じたとき、それがどんな現象であれ、私たちが気づくべきものは、あらゆる現象の本質である「無常・苦・無我」なのです。


 気づきが育つにつれ、変化にたいする反感や、嫌なことにたいする怒り、楽しいことにたいする欲、「私」という概念は、「無常」「苦」「無我」の深い智慧に置き換わります。この、経験にもとづく真理の智慧が、人生にさらなる穏やかさ、安らぎ、落ち着きを与えてくれるのです。これまで「変わらない」と思っていたものが、心が追いつくことができないほど途轍もない速さで変化しているということが理解できるでしょう。ともかく、多くの変化に気づくことができるのです。
 「微細な変化」や「微細な無我」までも気づくことができます。この智慧が、安穏と幸福に導き、人生における日々の問題に対処する智慧を与えてくれるのです。

 心が常に呼吸といっしょに流れているなら、心はおのずと「今の瞬間」に集中します。そして「空気が鼻腔に触れ、触れることによって生じる感覚」に気づくことができるのです。つまり、


◎吸ったり吐いたりする空気「地の要素」 が、鼻腔「地の要素」に触れる
◎触れるたび、心は空気が出入りする流れを感じるのです。


 このとき、鼻腔や身体のどこかにあたたかさを感じるかもしれません。これは空気と鼻腔が触れることから生じる熱「火の要素」です。

 また、空気の流れ「風の要素」が鼻腔に触れるとき、呼吸の無常性を感じることができます。

 「水の要素」も呼吸のプロセスにありますが、心はそれを意識することができません。


 また、呼吸をするとき、胸部(肺)や腹部、下腹部が膨らんだり縮んだりするのを感じるでしょう。膨らみ・縮みは宇宙の普遍的なリズムの一部です。宇宙のすべてのものには、膨張・収縮という共通のリズムがあるのです。私たちの呼吸や身体にも、同じリズムがあります。すべてのものが膨張と収縮、生まれて消えるのです。しかし、そのすべてのものの中で私たちが最優先して観るべきものは、呼吸の生滅と、身心に現れる現象の生滅を微細なところまで観ることです。


 息を吸っているとき、少し楽を感じます。しかし、息をすぐに吐かなければ、苦しみを感じます。息を吐くと、苦しみはなくなりますが、吐いたあと新しい空気を吸わずに止めていると、また苦しくなります。つまり、肺の中が空気でいっぱいになると息を吐きたくなりますし、肺の中が空っぽになると息を吸いたくなるのです。息を吸うときと吐くときには、楽の感覚をわずかに感じます。


 私たちは「楽の感覚」と「苦の感覚がない状態」を好みます。呼吸を止めたときに感じる苦の感覚はいやなのです。楽の感覚は長く続いてほしい、でも苦の感覚は少しでも早く消えてほしい、と考えています。しかし、残念ながら、苦の感覚は私たちが望むほど早く消えませんし、楽の感覚は私たちが望むほど長く続きしません。それでさらにいらいらするのです。なぜ心がいらだつのかといいますと、


◎ 楽の感覚を味わいたい
◎ 楽の感覚はなるべく長く続いてほしい
◎ 苦の感覚はすぐに消えてほしい
◎ その苦の感覚は二度と味わいたくない


と考えるからです。しかし、すべてのものは無常です。それにもかかわらず、少しでも「楽が続いてほしい」「苦が続いてほしくない」など欲を持つと、苦しみや不満が生じます。この状況をコントロールしている絶対的自我は存在しないのですから、欲を抱けば、必ず失望が生まれるのです。


 そこで、呼吸をしているときに生まれる「楽の感覚」を望まず、「苦の感覚」を拒まず、呼吸を観察し、呼吸の無常・苦・無我を観察するなら、心は穏やかで静かになるでしょう。


 心は常に呼吸の感覚といっしょにいるわけではありません。音や過去の記憶、感情、意識、認識、意志など、いろいろなところに跳び回ります。跳び回ったとき、呼吸に集中するのをやめて、すぐにその現象を観察してください。このとき、すべての現象を同時に観察しようとするのではなく、現象を一つ一つ観察します。そしてその一つ一つの現象が消えるたび、心を呼吸に戻してください。呼吸は、瞑想の基本対象であり、ホームベースです。心が、身心に現われる諸々の現象を順々に観察したあとに戻るべきホームベースなのです。

 心が、身心の現象の本質を観察して呼吸に戻るたび、無常・苦・無我の智慧は深まります。心は偏見と先入観から離れ、無常・苦・無我をありのままに洞察できるよう研ぎ澄まされるのです。また、身心の集合体である五蘊(身体、感覚、意識、意志、認識)は身心の本質を見抜く深い智慧を得るために用いるべきである、という事実を観る智慧が心に現われるのです。










Distribution Agreement






   
 生きとし生けるものが幸せでありますように
  Translated by Yoshiko Demura