M 仏教・Q&A
Questions and Answers


グナラタナ長老
Bhante H. Gunaratana Nayaka maha thero
















 質 問①

仏教は、戒(siila)・定(samaadhi)・慧(panna)の三つのことを教えています。戒・定・慧とは、道徳・集中・智慧のことで、瞑想を成功させるための基盤になるものです。その第一歩として、まず戒律や道徳を守らなければならないといわれていますが、これに関して詳しく説明していただけないでしょうか?


 答 え①

パーリ語の「siila」(シーラ)の意味を示すのに、「道徳」という言葉がよく使われていますが、「道徳」の代わりに、哲学的な響きを持つ「戒律」や「自己制御」という言葉を使ってもよいでしょう。

おっしゃるとおり、戒律を守ること、いわゆる日常生活のなかで規律をもって自己を制御し、行動することが、瞑想の欠かせない基盤になる、ということは正しいことです。

「自己をどのくらい制御しているのか」によって、瞑想が成功するかどうかが決まるのです。十分に自己を制御していなければ、瞑想はむずかしくなるでしょう。気づくことも、気づきを維持することも、困難になるのです。

気づくためには、自己をよく制御していなければなりません。ほとんどの時間、私たちは自分に気づいていません。気づくのを忘れているのです!
 
さらに、悪い行為をして心が妨げられていたり気が逸れたりしているときには、気づくことはもっとむずかしくなり、簡単に悪い行為に巻き込まれてしまうでしょう。
 
パーリ語のsiila(シーラ)という語を聞くと、私は英語のsealant(シーラント)という語を思い出します。たとえば、家のひび割れの部分を修理したいとき、シーラント剤を使って補修します。

ひびをすべて覆って家の土台を固めますから、水が中に染み込んでくることはありません。虫も入りませんし、土台も崩れません。それで家の土台はしっかりし、頑丈な造りになるのです。
 
「瞑想」に関していえば、siila(シーラ)はこのシーラント剤のようなものです。瞑想の土台になるのです。自己を制御し、日常生活のなかで善い行動をし、善い判断をすることによって、土台をしっかり築くのです。

もし土台がしっかりしていなければ、 瞑想したとき、その結果を経験するでしょう。たとえば、毎日定期的に三十分か一時間、瞑想しているとします。でもある日、たった十分も坐ることができません。心は混乱し、すぐに気が逸れてしまいます。集中することができないのです。
 
私たちは日常生活のなかで怒ったり、淫らな行為をしたり、身体と言葉と心で悪い行為をしたり、悪いふるまいを習慣的におこなったりしてます。それが、潜在意識に深く刻み込まれているのです。

そうした行為は、いつでも心の表面に戻ってきて、後悔や罪悪感、混乱、悩みで心を覆います。それで坐って瞑想することができないのです!
 
それから、瞑想を実践しなければ道徳(戒律)を完成させることはできません。

もし皆さんが道徳を完成させてから瞑想を始めようと考えているなら、あるいは聖者になってから道徳を守ろうと考えているなら、決して瞑想することはないでしょう! 
今、皆さんがどのくらい道徳を守っているかにかかわらず、瞑想を始めることが大切なのです。

日々の生活のなかで悪い行為をやめ、善い行為をすることを、心に誓うようにしてください。それによって、「よし、これから瞑想を続けていこう。戒律を決して破らないようにしよう」と決意することができるのです。

実践するなら、その結果を見て、学ぶことができるでしょう。気づいていないかもしれませんが、私たちはたいてい日常生活のなかや心のなかで、重苦しさを感じているものです。その重苦しさを感じてみてください。私たちの実践の目的は、この重苦しい心や生き方を軽くすることです。覚り(en-light-enment)に達することなのです。
 
戒律は、命令や禁止事項ではありません。自分が自分の意思で守るものです。
もし戒律を守る努力をせず、悪い行為をしているなら、その悪い結果を受けるでしょう。それは瞑想に悪い影響を及ぼします。反対に、努力をするなら、善い結果を受けるでしょう。これがまさに原因と結果の法則なのです。
 
「戒律を守る」ことによって、自分にたいする信頼が得られ、自分の弱点を克服することができます。
したがって、戒律を守るかどうかは、自分がどのように行為をするか、自分で選択するものなのです。心を落ち着かせ、実践を進めるために、みずからが戒律を守るのです。

戒律を守ることによって、勇気が湧き、能力が向上します。瞑想を支え、精神的な強さを与えてくれます。深い集中(jhana)を得るためには、この戒律の基盤が必要不可欠なのです。


質 問② 

戒律(siila)を守ると、瞑想にどのような影響があるのでしょうか、もう少し詳しく教えてください。


答 え②

まず、「自己を制御する」ことと「善い行為を育てる」ことは、一枚のコインの裏と表であると理解することが重要です。善い行為をし、善い心を育てることがコインの片面なのです。

たとえば、他の生命を殺したり害を与えたりすることをやめます。これはすばらしいことです。でもそれだけでなく、慈悲も実践します。

与えられていないものを盗むことをやめます。これはすばらしいことです。同時に、施しも実践します。

嘘をつくのをやめるだけでなく、真理を語る努力をします。

酒や麻薬など酔わせるものを摂ることをやめます。そうすれば、日常生活のなかで心が落ち着き、穏やかにいられるでしょう。

したがって、「戒律」(siila)とは、悪い行為や悪い心の習慣をやめる一方で、善い行為をし、善い心の習慣を保つことでもあるのです。

また、感覚器官の対象(色・声・香・味・触・法)にたいする欲を制御すると同時に、欲を超えた善い性質を育てることなのです。

戒律を守り、日常生活のなかでいくらか確信をもって善い生き方ができるようになったら、坐って瞑想するとすぐに集中できるようになるでしょう。
心が明晰で、清らかで、落ち着いていますから、後悔も、不安も、罪悪感も、うしろめたさも生じないのです。

ですから、「戒律」を、自分に課せられた重荷のようなものと考えるべきではありません。
「戒律」は瞑想の基盤であり、「集中」の踏み台です。
さらに「集中」は、智慧の踏み台になるのです。
「戒律」と「集中」と「智慧」の三つは、それぞれ互いにつながり合っています。お釈迦様はくり返しこのように説かれました。

「集中した心はものごとをありのままに知る」と。

「集中」を身につけることは、対象にスポットライトを当てる訓練をするようなものです。一方、「智慧」や「気づき」は、視覚機能のようなものです。スポットライト(集中)が当たっている対象を見て、理解するのです。

したがって、戒律を守り、道徳の強固な基盤があるとき、集中も智慧も強くなります。
実際、仏教の教えの全体は、戒・定・慧の三つのカテゴリーに含めることができます。この三つは、三脚のようなものです。脚が一本だけでは立つことができません。あと二本、脚が必要です。
実践でも同じです。とくに上級レベルでは、戒・定・慧がより強調されるのです。

瞑想に専念したい人は、戒律を守らなければなりません。これは必須であり、不可欠なのです。
まず、どのように生きるのか、自分の生き方にたいして完全に責任を負うことから始めることが必要なのです。

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 質 問⑦ 

 瞑想とは、こころを「無」にすることでしょうか? 瞑想の究極の目的は何でしょうか?

 答 え⑦

 瞑想をする方のなかには、瞑想とは何もせずに坐部やクッションにただ坐るだけだと思っている方もいらっしゃるようです。
 ヴィパッサナーは、こころを無にする瞑想ではありません! 「気づき」の実践です。「ただ坐る」だけではありません。それ以上のことをするのです。

智 慧

 でも、ただ気づいていればいいということでもありません。
 自分の行為に一〇〇パーセント鋭く気づくことができたとしても、まったく智慧があらわれない場合もあるのです。
 たとえば、野生のネコやトラは獲物を捕らえようとするとき、獲物にたいして全注意を向けています。でも、智慧はこれっぽっちもあらわれません。
 なぜでしょうか? 

 野生の動物が獲物をねらって鋭く注意を向けているとき、そこにあるのは、ただの集中だからです。いわゆる不善の集中なのです。

 ヴィパッサナーを実践するときには、「気づき」を働かせ、対象にたいして一〇〇パーセント注意をそそぎます。その「気づき」には、欲も、怒りも、無知も入っていません。

 欲も、怒りも、無知もなければ、こころは明晰になります。このようにして、こころに生じるあらゆる現象を観察する能力を育てていくのです。

 ヴィパッサナーを実践しているときに働いている注意や集中は、私たちが日常生活のなかで使っている注意や集中とは異なります。
 私たちのこころはたいがい何かを欲しがったり、好きなものに夢中になったり、あちこちにさまよっています。(欲)

 また、いまある状態にたいして怒ったり、拒絶したり、不快を感じたり、不満をぶつけたりしています。(怒り)。こころはいつでもどこか別のところ、今いるところではない別のところへ行きたがるのです。

 あるいは、自分のこころや周りの世界で何が起きているのかということを知りません。無関心で、無知でいるのです。(無知)

 そこで、自分が経験していることに瞬間瞬間、注意を向けて観察するなら、心が混乱していることが見えるでしょう。それで、こころがつくる欲や妄想、幻覚を、鋭く理解し、自然に手放すことができるのです。


「手放す」とは?

 よく、「手放す」という言葉を耳にします。
 実践する方のなかには、この「手放す」ということについて、「なんでも手放せばいい」と考えて、混乱している方がいます。
 この手放すという言葉が何を意味するのか、正しく理解することが大切です。

 手放すのは、実践に害のあるものです。役に立つものは、保ち、育てていくのです。
 では、実践に害のあるものとは、どのようなものでしょうか?

 欲は、害があります。怒り、憎しみ、嫉妬、恐怖、悩み、混乱、もの惜しみなども、害があります。害のあるものは、手放さなければなりません。

 手放すためには、こうした害のある感情の反対の性質――慈しみやあわれみなどの善い性質――を育てる必要があります。善い性質は手放さずに、育てることが大切なのです。 
 善い性質を育てれば育てるほど、有害な感情を手放し、離れることができるでしょう。
 
感情や思考に注意深く気づいているとき、何が得られるでしょうか?
 「善」を「善」と見、「不善」を「不善」と見る智慧――「明晰な理解」が得られるのです。


瞑想の目的は何か?

 私たちが瞑想するのは、ちょっとしたリラックスを得るためでも、一時的にいい気分を味わうためでもありません。たしかに瞑想すれば、こうしたよい気分は得られるでしょう。でも、これは心地よい副産物にすぎないのです。

 瞑想の究極の目的は、「こころを清らかにする」ことです。「悩みや苦しみを乗り越え、こころの自由を得て、最終的な解脱に達する」ことです。これ以上、優れた目的は、ほかにないでしょう。

 こころと身体は、この優れた目的に向かって精進するための研究室なのです。
 お釈迦様は、次のように何度もくり返し説かれています。

「この身体には “我”がないと見る者に、
 気づきと智慧が生じる。
 欲から離れ、
 世の中(五蘊)の何ものにも
 執着せずに住む」

 これは、「精進して実践しなければならない」という意味です。精進せずに、ただ座っていればいい(待っていればいい)ということではないのです。                   
 Appamādo amatapadam,
 pamādo maccuno padam,
 Appamattā na miyanti,
 ye pamattā yathā matā.

 精進こそが、不死の道である。
 放逸は、死の道である。
 精進し、励む者は、
 死ぬことがない。
 放逸に耽る者は、
 生きていても、死者のようである。

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(続きます)



(The above questions and answers are drawn from dhamma talks and interviews with Bhante Gunaratana at the Bhavana Society. They were compiled by Douglas Imbrogno.)

翻 訳:出村 佳子



 

 


 

 sabbe satta bhavantu sukhitatta



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