Aṅguttaranikāya Pancakanipātapāli Niivaranavaggo
Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ




常に観察すべき五つの真理

スマナサーラ長老 法話





 常に観察すべき五つの真理


人は何を観察すべきか? 


 今回ご紹介する経典の名前は「Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ」です。長いタイトルになっていますが、おそらく、どんな人にも意味がわかるようにと意図的に長くした可能性があります。
 Abhiṇha は「常に、いつでも」、paccavekkhitabbaは「観察すべき」という意味で、これらを合わせて「常に観察すべき」という意味です。いわゆる、朝も昼も晩もいつでも考えておくべき、という意味です。文字どおりそのままの意味ですから、意味がわからないということはないでしょう。このように、誰でも理解できるように、わざとタイトルを分かりやすくしてあるのです。


人生のモットー


 では、朝から晩まで何を考えなければならないのでしょうか? 
 私たちは毎日ごく普通に生活しています。普通に生活していますが、生きる上では何か「モットー」というものが必要です。 モットーというのは、日常生活の中での思考パターンといいますか、私はこの路線で頑張っている、というような指針のことです。そこで、「人間はどのような路線で生きるべきか」という問いへの答えが、この経典にあるのです。ですから、これはとても重要な経典です。なぜなら「人はどのように生きるべきか」「どんな道を歩くべきか」ということを教えているのだから、ほんのちょっとの大切どころではないのです。

 ところで、この「Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ」というタイトルの経典は他にもいくつかありまして、今回とりあげる経典では、観察すべき対象として五つの項目を教えていますが、他に、三つの項目の経典もありますし、四つの項目の経典もありますし、十の項目の経典もあります。たとえば十の項目の経典は出家者のための経典になっていて、「出家者が観察すべき」と記されています。


 では、この経典はどうかといいますと、次のように記されています。


‘Pañcimāni, bhikkhave, ṭhānāni abhiṇhaṃ paccavekkhitabbāni itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.


「女性であろうが( itthiyā vā)、男性であろうが( purisena vā)、在家者であろうが(gahaṭṭhena vā)、出家者であろうが( pabbajitena vā)、この五つの項目を常に観察すべきです」


ということで、対象者に制限はありません。つまり、誰か特定の人を限定していないのです。出家者だけとか仏教徒だけ、ということではなく、「人間なら誰でもこれを観察してください」と教えています。すべての人間が、常に観察すべきものなのです。


 ときどき、お釈迦様は一般の方にはとうてい理解できない高度なレベルのことを教えることもあります。そのときは「ariya sāvaka」(アリヤサーワカ、聖なる弟子たち)という言葉を付け加えて、「聖なる弟子たちはこれをすべきです」と教えています。この「ariya sāvaka」が付いた場合は「智慧のレベル」が少々上がるのです。


 このように、お釈迦様が「ariya sāvaka」にしているのか「普通」にしているのかということによって、誰にたいして法を説いているのかが変わってくるのです。


 この経典では、「人なら誰でも」常に観察すべき五つの項目を教えています。
 では、Katamāni pañca?  その五つとはなんでしょうか?


①老い


Jarādhammomhi, jaraṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.


 一番目は「Jarādhammomhi」です。Jarādhammaは「老いる性質のものである」という意味、omhi は「私は」という意味で、これらを合わせて「私は老いる性質のものである」という意味です。


 少し余談になりますが、「私は老いるものである」の「私は」という主語は、パーリ語には要りません。動詞だけで十分です。動詞というのは流動的なもので、名詞のように固定的なものではありません。パーリ語を含むインド・アーリア言語では、その特徴として、ほとんどの単語は動詞中心に作られているということがあります。もちろん名詞もありますが、それも動詞的な機能の一つとして扱われることが多く、静止した固定的なものにはならないのです。


 そこで、この「Jarādhammomhi」を日本語で訳すときには、「私は」と名詞の主語を付けて言いますが、原文ではそういうことではなく、動詞だけで自分のことだということが分かるようになっています。でも日本語では「私は」と強調して言わなければなりません。いわゆる「私は老いるものである」と、主語を強調しなければならないのです。


 次の言葉は「jaraṃ anatīto’ti。これは「老いという現象を乗り越えていない」という意味です。atītaは「乗り越えること」、この語の前にan が付いていますから否定形になり、「乗り越えていない」となります。私たちは「老い」を乗り越えていません。「老い」は必ず通らなければならないものなのです。生きているかぎり、必ず老いるのです。
 このことを常に観察してください。女性であろうが、男性であろうが、在家であろうが、出家であろうが、朝も昼も晩も常に頭に入れておくべきです。


②病気


Byādhidhammomhi, byādhiṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.


 二番目は「Byādhidhammomhi」で、「私は病気になる性質のものである」という意味です。私たちは病気を乗り越えていません。このことを、女性も男性も
在家も出家も常に観察すべきです。


③死


Maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.

 三番目は「 Maraṇadhammomhi」で、「私は死ぬ性質のものである」という意味です。私たちは死ぬものであり、死を乗り越えていません。このことを、女性も男性も在家も出家も常に観察すべきです。


 このように、「私の本質は老いることであり、病気になることであり、死ぬことである」ということを常に観察するようにしてください。この考えを心に入れておいて、その路線で生きてみるのです。そうやっていると、心は落ち着いてきて、穏やかになり、いつでも平静にいられるでしょう。


④離別


Sabbehi me piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.


 四番目。 Sabbehi は「すべて」、me piyehi manāpehi は「私が好きなもの」という意味。いわゆる「私が好きで、欲しくて、愛着があるもの」という意味です。
 その「愛着しているものすべて」は、nānābhāvo「いろいろ変わってしまう」、 vinābhāvo「離れる性質がある」ということです。ですから「自分が愛するものはすべて変わっていくもので、自分はそういうものから離れなければならない。それは避けられません」と観察するのです。


 私たちは自分の欲しいものや好きなものが揃っていると、楽しくて舞い上がって、人の話はまるっきり聞かなくなる傾向があります。欲しいものなら何でもあるぞという感じで、態度がでかくなり、傲慢になるのです。しかし逆に、その対象が変わったり、なくなったりすると、その反動でものすごくショックを受けます。頭がクタクタにいかれて、立ち直れないほど落ち込んでしまう人も中にはいます。私のところに相談に来ても、そのときはもう治療できない状態。怒鳴ることが治療なんですが、そういう状況でもないのです。


 ですから、最初から「すべてのものは変化する。だから舞い上がって調子に乗るべきではない」ということをしっかり理解しているなら、何かがあってショックを受けたとき、それほど落ち込むことはないでしょう。そういうことで「どんなものからも離れておかなければならない」ということを覚えておいたほうがよいのです。


⑤業


Kammassakomhi, kammadāyādo kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇo. Yaṃ kammaṃ karissāmi – kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā – tassa dāyādo bhavissāmī’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.


 五番目は、業についてです。「私」というものは業であり、業を相続し、業から生まれ、業を親族としています。ここでいう「親族」はどういう意味かといいますと、親族はどこにいても親族であって、その血縁が切れることはありません。離れることはできないのです。たとえば自分のおじいさんは、いっしょに住んでいても住んでいなくても、近くに住んでいても遠くに住んでいても、血の繋がりが切れることはありません。このように、けっして離れられない自分の親族といえば「業」なのです。


 それから、何かに頼ったり助けを求めたりするなら、それは自分の業です。助けになり、頼りになるものは、自分の業なのです。


 また、善いことであれ悪いことであれ、何か行為をしたとき、その結果は必ず自分が相続します。つまり、自分がおこなった行為の結果は、必ず自分が受けるということです。死んだら業が消えるということはなく、どこに生まれかわっても、業は付いて来ます。業から逃れることはできません。悟りを開いて解脱しないかぎり、業はどこまでも付いてくるのです。


 ここで、いかに「業と生命が一心同体か」ということがおわかりになるでしょう。二つは同じものです。不可分離ではなく、同一のものなのです。身体だけでなく、命や生き方など「私」というものすべてをまとめたものが「業」なのです。この業のことを、朝も昼も夜も、常に観察するようにしてください。




若者を悪行為から守る方法


五つの生き方の基盤


 これら五つの思考(老い・病気・死・離別・業)を常に念頭において生きてみてください。これが人間の生き方の基盤になるものです。これは、超越した仏陀の智慧で語っていることです。ですから、実践してみればその結果はすばらしく、この上ない結果が体験できるでしょう。


 私たち凡人の能力では、いくら踏ん張っても「どのように生きるべきか」という問題にたいする答えを見出すことはできません。なんとかちっぽけな脳細胞で考えるだけで、それまた個人的な捏造した知識ですから、いくら考えても偏見にしかならないのです。偏見をなくそうと考えると、それまた偏見になります。偏見で偏見をなくそうとするのだから、話しにならないのです。


 歴史上、世界には多くの哲学者や思想家たちが現れましたが、「人間はどのように生きればよいか」という問題にたいする答えは、お釈迦様以外だれも見出せていません。なぜ見出せないかといいますと、それは人間が考える方向で出てくるものではないからです。「神を信仰しましょう」とか「神の定めを守りましょう」、それはややこしいから「ただ神を畏れて生きましょう」などと言っている人もいますが、そういうのは単なる信仰で、真の生き方ではないのです。


 俗世間の知識では「生きるとは何か」「なぜ生きるのか」「どのように生きればよいか」ということを発見することはできません。俗世間のレベルで考えると、金持ちになるぞとか、出世して会社の社長になるぞとか、長生きするぞとか……そういうものなら簡単にモットーになるでしょうが、「私は死ぬものであると観察することが生きるモットーになる」ということは、とうてい理解できないと思います。


 お釈迦様が説いたこの教えを理解するのはとてもむずかしいことです。お釈迦様はシンプルに語っていますが、これは人間の知識レベルをはるかに超えているのです。




なぜ「老い」を観察するのか?


 これから註釈書に入ります。この経典の註釈は、お釈迦様ご自身が入れています。ですから、いかにこれが重要な経典かということがおわかりになるでしょう。


‘‘Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘jarādhammomhi, jaraṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?


 どのような意味を考えて、私はこのようなことを言ったのでしょうか。いわゆる「私は老いるものである。老いを乗り越えていない」と朝昼晩、常に観察することの意味はなんでしょうか?


若さにたいする酔い


Atthi, bhikkhave, sattānaṃ yobbane yobbanamado, yena madena mattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo yobbane yobbanamado so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.


 人間には、若いとき「若さにたいする酔い」というものがあります。「若さにたいする酔い」とは何でしょうか? 


 それは、人は若いとき自分の若さに驕り高ぶり、そのせいで悪い行為をやってしまうということです。たとえば女性なら「私は美しい。肌もきれいだし、プロポーションもいい」。男性なら「自分は体力もあり、能力もある。何でもできる」などと高慢になることです。このように「若さ」に酔っているとどうなるかといいますと、高慢になり、放逸になって、悪い行為をすることになります。いわゆる、身体で間違った行為をしてしまうのです。言葉では言うべきでないことを話し、頭では考えるべきでないことを考えてしまいます。これは、若さに酔っているからなのです。


 しかし、そうやってくだらないことに夢中になっているあいだも、若者は一日一日年をとって老いているということに気づいていません。「老い」は、どんな人にも必ずやってきます。どんなに美しくいたい、強いままでいたい、と望んでいても、一日一日確実に老いているのです。「老い」から逃れることはできないのです。


 そこでお釈迦様はこのようにおっしゃいました。「自分は老いるものであるということを常に観察するなら、若さにたいする酔いは消えていきます。消えない場合は薄くなります」と。いわゆる、酔いが冷めて目覚めるのです。これで悪行為から離れ、身も心も守られるのです。


 子供がいる方ならよくおわかりになると思いますが、自分の子供がものすごく元気なら、原子爆弾を抱えたような感じで、とても大変です。何をするかわからないし、親の言うことはまったく聞きません。このとき親はどう対応していいかわからず、どのように話してよいかもわかりません。原子爆弾みたいで、子供に近寄ることもできないほどです。ですが、それでも親は子供のことを心配するものです。親は子供がいくつになっても心配ですし、守ってあげたいという気持ちは変わらず持っているのです。


 でも、子供を完全に守ってあげることはできるでしょうか? できないのです。
 そこで、お釈迦様が教えられた「若さにたいする酔い」のことを教えてあげてみてください。若者がこのことを常に観察するなら、あの酔いは消えてなくなるでしょう。酔いが消えたら、もうばかなことをすることはありません。高慢も、わがままも、消えてしまいます。それで身も心も完全に守られるのです。これ以上のお守りがほかにあるでしょうか。誰にも、何にも、まったく束縛されていません。自由はそのままです。自由ですが、間違った道には行くことはありません。お釈迦様は人の自由を守りつつも、人を危険から守ってくれるのです。


 一方、哲学者や宗教家たちの話しを聞くとどうなるかといいますと、すぐに個人の自由がなくなるのではないでしょうか。神を畏れて生活しなさい、信仰しないと救われません、などと言って人々を脅すことがよくあります。そして、あれをやってはいけない、これをやってはいけないと束縛し、あらゆる制限を課すのです。


 お釈迦様の教えには、人を束縛する制限は一切ありません。ただ「私は老いるものである、ということを観察してみなさい」と、それだけです。「老いる」ということは束縛や制限ではなく、まぎれもない普遍的な事実です。なのに、もし「きつい制限だ」と考えている方がいるなら、それはその人の誤解です。だったら嘘を考えて生きるのでしょうか? 人間なら、事実を見るのは当たり前のことです。好きとか嫌いとか、やりたいとかやりたくないとか言っている場合ではありません。どんな人でも本当は「事実が知りたい」「本当のことが知りたい」と思っているのです。だれも嘘の情報なんか、聞きたくないでしょう。ですから「老い」を観察することは、本能に逆らっていないのです。


 生命の本能には「本当のことが知りたい」ということがあります。たとえば、なぜ奥さんは旦那さんの携帯電話をのぞいてみるのでしょうか? ほっておけばいいでしょう。でも、奥さんはやっぱり本当のことが知りたいのです。それで、もし知らない人の電話番号を見つけたら、そこに電話をかけてみるかもしれません。もし女性が出たら、もう大変。これも「本当のことが知りたい」という気持ちがある
からです。本能的に「本当のことが知りたい」という気持ちが働くのです。


 若いときに「老い」という事実を観察することで、あの恐ろしい「若さにたいする酔い」が消えていきます。消えない場合は、薄くなります。微妙にちょっとあるだけ。それで、心にやすらぎが生まれてくるのです。


Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘jarādhammomhi, jaraṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.



 「この意味を考えて、私は教えを説きました。女性も男性も在家も出家も『私は老いるものである。老いを乗り越えていない』ということを常に観察すべきです。」というのが、この行の意味です。ここで、お釈迦様のやさしさがおわかりになると思います。人々を悪行為から守ってあげたいのです。脅すことなく、怒鳴ることなく、束縛することなく、とても美しく、とても丁寧に、人が人の道から外れないよう、私たちに真理を教えてくださっているのです。


◎酔いから覚める


健康にたいする酔い


 常に観察すべき五つの項目の二番目は、「病気」です。


‘‘Kiñca , bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘byādhidhammomhi, byādhiṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?


 女性も男性も在家も出家も「私は病気になるものである。病気を乗り越えていない」と観察するのはなぜでしょうか? その意味はなんでしょうか?


Atthi, bhikkhave, sattānaṃ ārogye ārogyamado, yena madena mattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo ārogye ārogyamado so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.


 私たちは、身体が健康で元気なときには「健康にたいする酔い」というものがあります。体力があり、食欲があり、運動ができて、力もあって、仕事もビシビシできたりすると、自分の体力や健康に酔ってしまうのです。


 酔ってしまったら、どうなるのでしょうか? 傲慢になり、放逸になります。それで、身体でやってはいけない行為をし、口で言ってはいけないことを話し、頭で考えてはいけないことを考え、結果として不幸になり、自分だけでなく周りの人たちも不幸に陥れるのです。


 そこで、お釈迦様が教えられたこの教え、「私は病気になるものである。病気を乗り越えていない」ということを常に観察するなら、あの「健康にたいする酔い」は消えていきますし、完全に消えない場合は、ほとんど無いくらい、ものすごく薄くなっていきます。


 このような意味で、お釈迦様は観察することを薦められたのです。


生きること(命)にたいする酔い


 常に観察すべき五つの項目の三番目は、「死」です。


‘‘Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?


 女性も男性も在家も出家も「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」と観察するのはなぜでしょうか? その意味はなんでしょうか?


Atthi, bhikkhave, sattānaṃ jīvite jīvitamado, yena madena mattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo jīvite jīvitamado so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.


 私たちには自分の命にたいして、私は生きているという「命にたいする酔い」(j]vitamado)があります。いわゆる「生きること」にすごく酔っていて、生きるためなら何でもやろうとすることです。これは若者や健康な人に限らず、生きている者なら誰にでもあるものです。この「命にたいする酔い」から、「自分の命が何よりも大切だ」「なにがなんでも生きていかなければならない」「生きるためならなんでもやるぞ」といった傲慢が生まれてくるのです。


 だいたい大人や年配者が悪い行為をする場合は、この「生きること(命)にたいする酔い」から生じていることが多いのです。若者たちが若いがゆえにやる愚かな行為は、年をとったら興味がなくなって自然にやらなくなりますし、健康なときにやった悪い行為は、身体が弱くなったら自然にやらなくなるものです。しかし「生きることにたいする酔い」がもとでやる悪い行為は、死ぬまでやり続けます。自分の命を脅かすようなことが起こったり、危険な目に遭いそうになったり、面倒なことが起こったりすると、年齢に関係なく、悪い行為をやってしまうのです。


 たとえば、世間でよく見られるお姑さんとお嫁さんの対立も、この「命にたいする酔い」から生じています。お姑さんは、何十年ものあいだ女王様として暮らしてきた自分の家に、いきなり外から若いお嫁さんが入ってくると、自分の女王の座を奪われるのではないかと考えて、ものすごく不安になり、それでちょっとしたことでお嫁さんを非難したり意地悪をしたりする傾向があります。自分の立場にライバルが現われたことで、お姑さんは自分の命が攻撃されたと感じるのです。一方、お嫁さんのほうは、嫁ぎ先の新しい家でなんとか自分の立場をつくろうとして踏ん張ります。
 このようにして、まったく無意味な争いが始まるのです。互いの心に怒りや憎しみが生まれます。頭もいかれて精神的に病気になり、恐ろしい地獄を見ることになるでしょう。その結果、自分の人生は不幸になり、相手の人生も不幸にし、家族全体が不幸になるのです。
 これは、お姑さんもお嫁さんも「自分がかわいい。だから自分の立場を守りたい」という「生きること(命)にたいする酔い」が原因で起こっているのです。


 そこで、お釈迦様が教えられた「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」ということを常に観察し、理解できれば、このような地獄に陥って苦しむことはありません。「なんとしてでも生きていかなければ」という「生」にたいする強烈な執着が消えてなくなりますから、怒りも憎しみも、対立も争いも、消えてなくなるのです。


人生に悪を足さない


 もう一つ例をあげましょう。たとえば、ある店に強盗が入ったとしましょう。強盗は誰にも見つからないように店に侵入しますが、もしそのとき誰かに見つかってしまったら、その瞬間、ものすごい恐怖を感じて、持っていた刃物でその相手を刺すということがあります。あるいは反対に、強盗を見つけた店の人が、先に刃物で強盗を刺すということもあります。
 この場合、強盗も店の人も、どちらも「自分の命がかわいい。自分の身を守らなければ」という、ものすごい恐怖と衝動で、相手を刺してしまうのです。


 しかし、生命はどんなに踏ん張っても、自分の命を完全に守ることなどできません。「生」の終わりは「死」と決まっているのです。これに例外はありません。


 いずれ必ず死ぬのに、なぜ他人を殺して、自分の人生に「罪」を付け加えるのでしょうか。たとえ強盗に「殺すぞ!」と刃物を向けられたとしても、「あ、あんた殺したいんですか。どうぞやってください」と言えばよいのです。別に脅えなくても、いつか必ず死ぬのですから、どうということはありません。もし殺されたとしても、その場合は、ただ「死」という現象があるだけで、自分の人生に罪が足されることはないのです。


 真理の立場から見ますと、強盗が店員を殺しても、店員が身を守るために強盗を殺しても、どちらも殺生の罪を犯したことに変わりありません。店員のほうは裁判で正当防衛とされるかもしれませんが、「人の命を奪った」というのは紛れもない事実です。その事実から逃れることはできないのです。


 生命は誰でも自分の命を愛しています。ですから、自分が殺されそうになったとき、相手を殺したくなるのは、ごく自然に湧いてくる衝動なのかもしれません。自然に「身を守ろう」という衝動が働くのです。


 問題は、だからしょうがないではない、ということです。いかなる理由であれ、たとえ身を守るための正当防衛であったとしても、もし他の生命の命を奪えば、自分が殺生の罪を犯したことになります。殺生したことに変わりないのです。


 この点で、私たちは残酷に「輪廻」という恐ろしい罠に嵌められているということがおわかりになるでしょう。輪廻の罠は途轍もなく恐ろしく、あまりにも残酷です。ですから仏教は皆さんに「解脱しなさい」と教えているのです。もし輪廻がそれほど悪いものではないなら、別に解脱しなくてもよいでしょう。「生きることにはいろいろありますが、まんざら悪いものではない。なんとかすればなんとかなりますよ」ということなら、別に解脱しなくてもよいのです。それだったら、何をしてもうまくいかない人だけが解脱して、なんとかなる人は別に解脱しなくてもいい、ということになります。


 しかし、輪廻というものはそういうものではありません。誰にとっても残酷なものなのです。完全に包囲され、罠をかけられ、逃げるところがないのです。
 輪廻の恐ろしさを知らない無知な人たちは、いつでも何か理屈をつけて、悪い行為をしています。たとえば、魚を捕って生計を立てている漁師さんたちに、不殺生戒(生命を殺さないという戒律)のことを教えると、多くの人は「魚が捕れなくなったら、われわれの収入がなくなって生きていけなくなるではないか。食べるためなら魚を捕ってもかまわない」などと何か理屈を付けて、自分の生き方を正当化しようとするのです。


 この問題に関しては、こちらに答えがあります。私たちは、生きることに価値を入れて、生きることをモットーにして生きていますが、生きることはモットーになりません。なぜなら、生命は必ず死にますから。「死」ということが必然的なら、どうして「生」がモットーになるでしょうか?


 私たちはあまりにも大きな勘違いをしています。世の中の理屈は、矛盾だらけなのです。 世界では昔から戦争が絶えず起こっていますし、多くの人たちはこのように考えているようです。「テロリストが爆弾を落としたらどうするのか。ほうっておけば我々が殺されてしまうのではないか。やっぱり殺される前に、相手を殺さなければならない」など、そういう気持ち悪い哲学ばかりが世の中にあります。殺しを、とにかく正当化しているのです。


 なぜ殺しを正当化するのかといいますと、それは「自分が生きるべきだ」という前提があるからです。しかし、どんな生命も、どんなに踏ん張っても、生き続けることはできません。誰でも最終的には必ず死ぬのです。
 このことを理解することが、真の智慧であり、真の理性です。生きることは当てになりません。死こそが確実なものなのです。「なんとしてでも生きるべきだ」と、そんなこと言っている場合ではないのです。
 

 もし、世界中のすべての人々が「自分は死ぬものである」ということを本当に理解したなら、世の中から罪や悪はすっかり消えてなくなるでしょう。だからといって全世界を相手にして教えを説いても意味がありませんから、仏教は一人ひとり個人に向かって教えています。「死ということを理解してみてください。そうすれば、あなたは悪い行為をすることがなくなるでしょうし、道から外れることもないでしょう。それで苦しみがなくなって、完全に守られますよ」と。


 これは、世の中にあるような偉ぶった思想ではありません。世界には「汝、生命を愛しなさい。誰かがあなたを殺そうとしても、あなたはその相手を殺してはならない。赦しなさい」などといった思想もありますが、これには少々傲慢な気持が含まれていますから、周りの人から見れば、なんかイヤな人だなあと思いたくもなります。

 そうではなく、お釈迦様がおっしゃったように、「生きているものは誰でも死にます。私も必ず死にますよ」と観察するなら、自分を殺そうとしている相手を殺す気にもなりませんし、傲慢になることもありません。見栄を張ることも、威張ることもなく、謙虚に、正しく生きていられるのです。


Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.



 お釈迦様は、人々が道から外れないようにと考えて、「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」と観察してくださいと説かれました。
 ここで、お釈迦様のお考えがよくおわかりになると思います。途轍もない慈しみと深いあわれみをもって、私たちが間違った道に行かないように、正しい方向へと導いてくれているのです。道から外れないよう、そのお守りを教えてくれているのです。


好きなものにたいする酔い


 常に観察すべき五つの項目の第四番目は、「好きなものから離れること」です。


‘‘Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘sabbehi me piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā?


女性も男性も在家も出家も「すべての好きなものから離れなければならない。好きなものはすべて変化する」と観察するのはなぜでしょうか? その意味はなんでしょうか?


Atthi, bhikkhave, sattānaṃ piyesu manāpesu yo chandarāgo yena rāgena rattā kāyena duccaritaṃ caranti, vācāya duccaritaṃ caranti, manasā duccaritaṃ caranti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato yo piyesu manāpesu chandarāgo so sabbaso vā pahīyati tanu vā pana hoti.


生命は、自分の好きなものや愛するものがあると、そういうものにたいしてものすごく愛着が生まれます。パーリ語のchandarāgo という言葉は「愛着」という意味です。chanda は「すごく気に入る」「すごく喜びを感じる」という意味、rāgo は「欲」という意味で、この二つを合わせてchandarāgo は「愛着」という意味になります。

 このchandarāgo(愛着)があるせいで、私たちは身体で悪い行為をしたり、言葉で話してはならないことを話したり、頭で考えてはいけないことを考えたりします。心は愛着に捕らわれて、支配されているのです。


 ところで、皆さんは何にたいして愛着を持っているでしょうか? ちょっと考えてみてください。子供や奥さん、旦那さん、マイホーム、お金、財産、土地……などではないでしょうか。親戚がいるなら親戚にも愛着があるかもしませんし、イヌやネコを飼っているなら、イヌやネコにも愛着を持っているかもしれません。仕事にやりがいを感じている方は、仕事に愛着しているかもしれませんし、会社を経営している方は、会社に愛着を持っているでしょう。


 しかし、いくら愛着していても、それらをずっと持ち続けることはできるでしょうか? 


 できないのです。どんなものも変化しますし、いつか必ず離れなければなりません。愛するものが自分から離れて行く場合もあれば、愛するものを置いて自分が離れて行かなければならない場合もあります。これは普遍的な真理であって、けっして変わらないことです。永遠に離れないということはありえないのです。


Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘sabbehi me piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.


 そこでお釈迦様は、「好きなものから離れなければならないという真理を、ありのままに観察して、『好きなものは自分のものではない。いつか離れていくものである』ということを常に観察するように」と教えられました。このことを常に観察しているなら、好きなものにたいして「絶対離しません」とか「死ぬときも持っていくぞ」とか、そういうへんな愛着は消えてなくなるでしょう。それで心が落ち着いて、やすらぎが生まれてくるのです。そして本当に離れなければならないときが来たとき、常に観察している人はショックを受けることも、喪失感で心がズタズタに引き裂かれることもないでしょう。心は大きなダメージを受けないですむのです。


 ですから、女性も男性も在家も出家も、「好きなものから離れなければならない。好きなものはすべて変化する」ということを常に観察するようにしてください。常に観察することによって、罪を犯すことなく、道を間違えずに、正しく生きることができるのです。


 ところで、仏教では「悟りに達するためには愛着を捨てなければならない」と教えています。では、先ほどお話した家族や財産、仕事などにたいする愛着を捨てれば悟れるのか、というと、残念ながらそうではありません。悟るためには、愛着を捨てなければならないことは事実ですが、今までお話してきたレベルの愛着は、世俗レベルでの愛着であって、悟りに達するレベルのものではないのです。


 では、悟りに達するために取り除くべき愛着とはどのようなものかといいますと、それは眼・耳・鼻・舌・身・意に入る対象、すなわち色・声・香・味・触・法にたいする愛着です。レベルが相当上がります。色・声・香・味・触・法にたいする愛着を完全に捨て去ったとき、悟りの世界が現れるのです。


業の観察


 常に観察すべき五つの項目の最後、第五番目は「業」です。


‘‘Kiñca, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘kammassakomhi, kammadāyādo kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇo, yaṃ kammaṃ karissāmi – kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā – tassa dāyādo bhavissāmī’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā ?


私は業であり(kammassakomhi)、私が相続するものは業であり(kammadāyādo、私を生んだのは業である(kammayoni)。このkammayoni は、言い換えれば「私は業によって生まれた」という意味です。少し説明を加えますと、カンマヨーニkammayoni の後ろの部分ヨーニyoni は、女性が子供を産むところ(女性器)を示す言葉です。ヒンドゥー教では一般的にシヴァ神を拝むとき、その象徴として男性の性器を拝むという信仰がありますが、女性の性器(ヨーニ)を拝むこともしているようです。しかしこれは何かいやらしい考え方ではなく、むかしのインド人は「生まれる」「現れる」「発現する」などの現象を哲学的にとらえて、それを表現するために使っていました。思いついたことはあまり品のあることではありませんが、言っていることは「生命や森羅万象、あらゆるものが生まれる源」のことを表していますから、それなりに哲学的に考えていたのです。
 したがって、kammayoni の意味は「私を生んだのは業である。私の生みの親は業である」という意味になります。


 次の言葉 kammabandhu は「業を親戚とする」という意味、そしてkammapaṭisaraṇo は「頼れるものは業である」という意味です。生命が頼れるものは自分の業なのです。(これに関しては以前すでにご説明しましたので、ご参照ください)


 それから、何か行為をしたら、それが善いことであれ悪いことであれ、その結果は自分が相続します。「自分=業」なのですから、業が業を相続するのは当たり前のことです。もし「私が業と別のもの」なら、ちょっと措いておきますといって措いておくこともできるでしょうし、もし業が「私の業」であるなら、その業を忘れることもできるでしょう。しかし「私=業」なのですから、措いておいたり忘れたりすることは成り立たないのです。


 どのような意味を考えて、私はこのようなことを言ったのでしょうか。いわゆる「私は老いるものである。老いを乗り越えていない」と朝昼晩、常に観察することの意味はなんでしょうか?


思ったことをも業になる


Atthi, bhikkhave, sattānaṃ kāyaduccaritaṃ vacīduccaritaṃ manoduccaritaṃ. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato sabbaso vā duccaritaṃ pahīyati tanu vā pana hoti.


 そこで、なぜこの「業」のことを朝昼晩、常に観察すべきかといいますと、観察することによって、人は身体で悪いおこないをすることがなくなるからです。言葉で悪いことを話すことがなくなり、頭で悪いことを考えることもなくなります。それで罪を犯さなくなるのです。


 もし罪を犯せば、自動的にその罪を「次の生」に持っていく羽目になります。これがいわゆる「私」の一部になるのです。ですから遊びででも「あいつが憎い。あいつを殺してやりたい」なんて思わないこと。ちょっと何かを考えただけでも、その結果は必ず受けなければならないのですから。誰も自分がやった行為の結果からは逃れることができないのです。同様に、ちょっと話しただけでも、ちょっと行為をしただけでも、その結果からは逃れることができません。


 この真理を発見できた人は、ものすごく怖くなって「悪いことだけは絶対ごめん」という気持ちが自ずと生まれてきます。その人は「いったん行為をしたら、どんな言い訳をしても、どんな弁解をしても、それは無駄なことだ。公でやった行為も、こっそりやった行為も、ただ頭のなかで考えたことも、友達と何気なくしゃべったおしゃべりも、やった行為の結果からは逃れることができません」ということを明晰に理解して、悪い行為からきれいさっぱり離れるのです。結果として、その人は幸福になります。このようにして、人は守られるのです。


完全に安全な道


 「老・病・死・離別・業を常に観察すること」が、私たちの生きるモットーであり、生きる路線です。
 しかし、俗世間から見ますと、そんなの生きるモットーではない、と思うかもしれません。でも、この五つの対象を観察することこそが、これまでお話してきましたように、「人がどう生きるべきか」という問いにたいする答えであり、完全に安全な道なのです。


 それから、「常に観察すること」が生きるモットーであって、そこに何か特別な目的はありません。もし何か目的を付けてしまったら、違う道に進んでしまう可能性があります。天国に行くことや神と一体になること、俗世間でお金持ちになること、事業で成功することなど、何か目的を持ってしまったら、間違った方向へ進んでしまうのです。これは大変危険なことです。


 たとえば旅行をする場合、目的を決めたとたん、その目的の方向へ進んで行くことになります。仮に東京から博多へ行くとしましょう。そうすると、博多行きの電車に乗らなければならないということが、おのずと決まってしまうのです。


 そこで、もし自分勝手に何か生きる目的を決めてしまったら、その勝手な目的の方向へ進んで行くことになります。金持ちになることを目的にしたなら、それが叶うかどうかは別として、その方向へ向かって進んで行くことになるでしょうし、一流大学に入ることを目的にしたなら、その方向へ向かって進んで行くことになります。ダイエットをして美しくなることを目的にしたなら、日常生活のなかでそのことばかり考えて生きることになるでしょう。それで「人間として持つべき本来の目的」を忘れてしまうのです。これは大変危険なことです。


 仏教の道は安全です。危険をすべてカットした安全な道を教えています。危険がまったくない、完全に安全なる道を教えているのです。


仏陀の道を歩む人


 これまでのセクションでは、「女性も男性も、在家も出家も、五つの対象(老・病・死・離別・業)を常に観察すべきである」ということで、すべての人を対象にして説かれていました。


 次のセクションでは「ariyasāvako」(アリヤサーワコー)と記されてあり、いわゆる「仏陀の道を歩む人」にたいして説かれた教えになっています。前のセクションよりもレベルがかなり上がって、次元が高くなるのです。

 お釈迦様は「仏陀の道を歩む人」にたいして次のように教えられました。


‘‘Sa kho so, bhikkhave, ariyasāvako iti paṭisañcikkhati – ‘na kho ahaññeveko jarādhammo jaraṃ anatīto, atha kho yāvatā sattānaṃ āgati gati cuti upapatti sabbe sattā jarādhammā jaraṃ anatītā’ti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato maggo sañjāyati. So taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni sabbaso pahīyanti anusayā byantīhonti.



 仏陀の道を歩む仏弟子たちは、観察の仕方が、俗世間の観察の仕方とは大きく異なります。観察の対象はどちらも「老・病・死・離別・業」の五つと同じなのですが、その観察の仕方が異なるのです。
 たとえば「老い」の場合、俗世間では「私は老いるものである。老いを乗り越えることはできない」と自分だけを観察することを教えていましたが、聖なる仏弟子は次のように観察します。
 「私だけが老いるのではなく、一切の生命が老いる性質のものである。一切の生命は老いを乗り越えることができない」と。
 これは、俗世間のレベルよりもかなりスケールが大きくなって、「自分だけでなく、すべての生命は老いるものだ」と観察するのです。


 しかし、これを観察するには、まず「私は老いるものである」と、自分自身のことを観察しない人に、このレベルの観察をすることはできません。したがって、第一番目のステージ(自分を観察するレベル)を実践した人が、第二番目のステージへと進み、「老いるのは自分だけではない。あの人もこの人も誰もがみんな……一切の生命が老いるんだ」と観察すると、智慧のレベルがものすごく高くなるのです。


「老い」は普遍的なもの

 宇宙にはさまざまな種類の生命が生存していますが、どんな生命も「老いる」という性質をもっています。神々も年をとるのです。多くの方は、神々は老いることがなく、ずっと幸福に生きていると思っているようですが、そうではなく、神々も老いるのです。


 人間の場合は年をとったらどうなるかといいますと、背骨が曲がったり、足腰が弱くなったり、ひざが痛い、腰が痛いなど、身体のあちこちが痛くなったりします。そうなるのは、身体を持っているからなのです。


 しかし、すべてのお年寄りがそうなるわけではありません。背筋をピンと伸ばしている方もいらっしゃいますし、足腰が痛くならない方もいらっしゃいます。リウマチにならない方もいらっしゃいますし、身体がやわらかい方もいらっしゃいます。


 でも、どんなお年寄りにも必ずあることがあります。それは、若いときよりも人生がおもしろくなくなるということです。音楽を聞いて楽しいとか、おいしいものを食べて楽しいとか、あちこち旅行をして楽しいとか、楽しいと思うことがだんだん減っていくのです。若いときほど物事がおもしろくなくなるのです。これは年をとったときの精神的な状態です。たとえ肉体が若く見えたとしても、心は大人というか、もう老人なのです。もう一度おもしろくなりましょうということは無理な話で、後戻りはできません。どうにもならないのです。

 たとえば、子供のときテレビの「幼児向け番組」を見てすごく喜んで、大人になってからあの気持ちに戻ろうと思っても、もうその状態に戻ることはできません。逆に、戻れるのは相当頭が悪いといいますか、そんなのおもしろくない、というのが正常な人の頭でしょう。

 これは年をとったときの精神的な状況です。そんなのはもう結構、という気持ちです。周りの人から「映画を見に行きましょう」とか「旅行に行きましょう」などと誘われても、「そんなのつまらない」「めんどうだ」ということで、精神的に老いるのです。

 神々の場合は、まさにこれです。天界がおもしろくなくなってしまうのです。それで、服装や髪の毛がちょっと乱れたりして、パッと消えるのです。いわゆるこれが神々にとっての「死」なのです。神々も、老いや死から逃れることはできません。

 そこで、聖なる仏弟子は、自分だけのことを観察するのではなく、「すべての生命は老いるものである」と観察します。あの人もこの人も、あの生命もこの生命も、生命は誰でも老いるものである。老いから逃れることはできません」と常に観察するのです。

 そうやって観察していると、次のステージに進み、「ではどうすべきか」ということが見えてきます。いわゆる「別の次元にいかなければならない」ということが発見できるのです。


観察によって煩悩が消える 


Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni sabbaso pahīyanti anusayā byantīhonti.


 「生命は誰でも老いるものである」ということを常に観察していると、その人は「道」を発見します。「道」には「仏弟子の道」と「俗世間の道」があり、この二つは次元が異なります。


 俗世間の道は、ただ単に「安全な道があります」ということだけで、あくまでも輪廻の中での安全な道ということにすぎません。この道を歩めば、確かに幸福で安全に生きることはできるでしょう。しかし、輪廻の苦を完全に乗り越えることはできないのです。


 他方、仏弟子の道、いわゆる「老いるのは自分だけではない。すべての生命が老いるのだ」と観察を続けていると、別の次元がその上に見えてきます。この観察を続けることによって、煩悩がすべて消えていくのです。表面的な煩悩も、潜在的な煩悩も、一切の煩悩が消えていきます。最終的には究極の悟りに到達し、輪廻の苦を乗り越えることができるのです。 


「病気」は普遍的なもの


 「病気の観察」も、前回お話しました「老いの観察」と同じように観察します。
 お釈迦様はこのようにおっしゃいました。「仏陀の教えを学ぶ仏弟子たちは、『病気になるのは私だけではない。生命は誰でも病気になるものである。病気を乗り越えることはできない』と常に観察してください」と。


 そこで「あの人もこの人も、この人もあの人も……誰もがみんな病気になる性質のものである。すべての生命が病気になる性質を持っている」と観察を続けていると、心の状況が変わってくるのです。
 どのように変わるのかといいますと、その人に「歩むべき道」というものが見えてきます。「歩むべき道」が見えた人は、おのずとその道を歩むようになります。その道を歩んでいくと、心の煩悩がすべて消えていくのです。
 ここでいう「道」というのは八正道のことで、いわゆる解脱を目指して修行する人に現れる「道」のことです。この道は特別な道で、この道に入ったら、もう逆戻りすることはありません。サッと解脱する、そういう聖なる道なのです。
 私たちがそこそこやっている八正道というものはただ「正しい道」とそれだけで、その道を歩めば、確かに輪廻のなかで間違いなく、失敗なく、地獄に落ちることもなく、安全に、幸せに生きていられるでしょう。しかし、それは輪廻の中で延々と生き続けるだけであって、輪廻そのものから解脱することはむずかしいのです。
 一方、聖なる仏弟子(アリヤサーワコー)の「道」が現れたら、サッと解脱します。この道は、逆戻りせず、究極の悟りに達することを目的にした道、いわゆる「解脱の道」なのです。
 お釈迦様の教えでは、一般社会の人たちに教えられた道と、仏陀の道を歩む人たちに教えられた道と、この二つを区別しています。アビダルマでも註釈書でも、区別しているのです。
 そこで、仏教徒でなくても実践できる仏陀の教えがあり、また仏教徒でないと実践できない仏陀の教えがあります。それは何かといいますと、結局は同じもので、「八正道」です。仏教徒でなくても実践できるのが八正道であり、仏教徒にしか実践できないのも八正道です。何が違うのかといいますと、そのレベルです。仏陀の道を歩む人の道のほうは、一般社会の人の道よりもかなりレベルが高くなっていて、「解脱を目指す道」になるのです。


「死」は普遍的なもの


 「死の観察」の場合も、病気の観察や老いの観察と同じです。
 生命の本質は「死」です。生命なら誰でも「死」の性質を持っています。ですから、仏陀の道を歩む仏弟子たちは常に、「すべての生命は死ぬものである。死を乗り越えることはできない」ということを念頭において生活します。そしてそのように観察を続けていると、「解脱の道」が現れてくるのです。


「離れること」は普遍的なもの


 「愛するものから離れること」も同様に、自分だけのことではなく、すべての生命がこの性質を持っています。
 人も、神々も、虫も、動物も、みんな愛するものに囲まれて生きていますが、残念ながら永遠にいっしょにいることはできません。いずれ必ず離れなければならないのです。
 そこで、このことを客観的に常に観察していると、「道」が現れて、悟りに達するのです。


「業」は普遍的なもの


  「業」についても、他の四つの対象と同じように、普遍的なものであることを常に観察します。
  「一切の生命は、業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存する。善いことも悪いことも、行為をしたなら、その結果を相続する……」と常に観察を続けていると、「道」が現れて、解脱するのです。


終わりに


‘‘Byādhidhammā jarādhammā, atho maraṇadhammino;

Yathā dhammā tathā sattā, jigucchanti puthujjanā.

‘‘Ahañce taṃ jiguccheyyaṃ, evaṃ dhammesu pāṇisu;

Na metaṃ patirūpassa, mama evaṃ vihārino.

‘‘Sohaṃ evaṃ viharanto, ñatvā dhammaṃ nirūpadhiṃ;

Ārogye yobbanasmiñca, jīvitasmiñca ye madā.

‘‘Sabbe made abhibhosmi, nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;

Tassa me ahu ussāho, nibbānaṃ abhipassato.

‘‘Nāhaṃ bhabbo etarahi, kāmāni paṭisevituṃ;

Anivatt bhavissāmi, brahmacariyaparāyaṇo’’ti.


 (生命には)病と老いの本質があり、また死の本質があります。
 本質のごとく、生命は生きています。
 この本質を、世間の人々は厭い嫌います。
 しかし、たとえ厭い嫌っても、
 これが生命の本質なのだから、結局はそうなります。
 ゆえに、それを厭い嫌うことは、ふさわしいことではありません。
 そこで、常に法を観察して生きるなら、
 無執着の真理を了知して、健康にたいする酔いと、
 若さにたいする酔いと、命にたいする酔いがなくなります。
 一切の酔いを乗り越えます。
 すべてのものから離れること、それこそが安穏であると見て、
 涅槃を目指し、精進を起こします。
 今の私には、俗世間に戻り、欲を喜ぶことはできません。
 私は逆戻りしない道に入りました。
 修行を完成する道に入りました。
     

 (了)



編集・文責/出村佳子










     
 
 
sabbe satta bhavantu sukhi tatta 

編集:Yoshiko Demura