智慧と善行為

スマナサーラ長老 法話


        
2011年『パティパダー』 誌連載 


 ときどき、このような嘆きを耳にすることがありました。「現代の日本社会は冷たい。他人のことはあまり気にしないし、自分のことだけを考える利己的な社会になった」と。
 
 そんな中、2011年3月11日、東北地方で突然大きな地震が起き、大きな津波に襲われて、原発も壊れてしまい、立ち直れないほどのダメージを受け、ひどい災害が起こりました。
 そのとき日本社会に見えたのは、互いに心配し合い、助け合う姿です。とんでもない甚大な被害を受けたにもかかわらず、社会の秩序を失わずに、冷静で、忍耐強く励まし合う日本人。その姿は世界中の人々に強く印象付けられたようです。「最近の日本人は冷たいと言うが、そうではない。他人が困っているとき、苦しんでいるときは、すぐに手をさしのべて、すぐに助けてあげる精神がある。皆がお互い気遣って団結している」と。
 心の中に長いあいだ眠って隠れていた日本人の思いやりや気遣い、やさしさなどの善い面が、大震災と共にいきなり目覚めたのです。

 問題は、「善い性格は隠しておいていいのでしょうか」ということです。
 何か大きな出来事が起きて目覚めるというのは、とてもありがたいことですが、何も無いときは心が冷たくて、他人のことは気にせずに、わがままで生活していてよいのでしょうか。
 やはり、他人のことを心配する気持ちややさしさはいつでも表に出して生活したほうが楽だと思います。楽しく、楽に、明るく生きていられると思います。
 ひどい目に遭ったときに心のやさしさが出てくるというと、人がやさしいか否かを知るためには、その人はとんでもないどん底に陥らなければならないということになりますし、それはちょっとどうかと思います。


智慧が開発するか否か


 善行為って何でしょうか? 社会では「善行為をしましょう」ということは当たり前になっています。仏教でも、そのように言っていますが、仏教では善行為のことは、そんなに大げさにしていません。一番ポイントにしているのは「智慧が開発するか否か」ということです。仏教の教えは「智慧の教え」ですから、「智慧」のことばかり教えています。他にも道徳など教えは大量にありますが、智慧が一番上にあって、他の教えは飾りのようなものです。智慧が王冠です。智慧があれば、他のものはいっしょに付いてくるのです。

 なぜ、智慧が一番大事なのかといえば、これには理由があります。「智慧が無い」ということは「無知」ということです。無知で幸せになるということはありませんし、無知だから成功したということもありません。お釈迦様は、「災難や危害、苦難などの不幸というものはすべて無知、あるいは愚か者から生じるのであって、智者からはいかなる苦しみも起こりません」とおっしゃっています。ですから、この世の中で何か不幸なことや理不尽なこと、不公平なこと、人々に不幸を招くことが起こったならば、その手綱を握っているのはいつでも誰か愚か者なのです。

 世の中には危険なことがたくさんあります。テロ行為や戦争、暗殺、人殺しなどがありますし、強盗や詐欺、ごまかしなどもあります。いろいろな恐ろしいことがあります。きりがありません。そこで不公平なことや災難、苦難に陥る出来事があったならば、それは必ず無知な人の仕業なのです。

 では、そうした無知な人たちは知識がない愚か者なのでしょうか? たとえば綿密な計画をたててテロ行為をする人たちはバカでしょうか? 実は、彼らは結構勉強している優秀なエンジニアや科学者たちです。貧乏人でもありません。豊かで、勉強している知識人たちです。ですから、本当に愚か者でしょうかという疑問がでてきます。

 仏教では、大学で知識を学んだから、有名大学を卒業したからといって、智慧のある人だとは言いません。「やっている行為は何ですか」というところを見るのです。
 智慧というのは、科学や工学、経済学などの知識を学んで得られるものではありません。知識を得ても、愚かなままなのです。

 どこで愚かと決めるかといいますと、「生命にたいして慈しみがない、どうなってもいい」と生命のことを心配しない人のことを、「愚か者」というのです。

 たとえば原子爆弾を開発して、さらに高性能のものを開発した科学者たちは、私たち凡人よりはずいぶん勉強ができる知識人たちでしょう。彼らは一流の大学を卒業した人たちばかりですが、実際は極限的な愚か者です。なぜなら、人類に多大な危害をもたらしているのだから。彼らに関心があるのは、自分の研究だけで、研究データが出るか出ないか、それだけに関心があるようです。放射性物質があちこちに拡散したとき、言うことは「では、放射性物質がどのように人体に悪影響を与えるかを調べましょう」と、それだけ。「人類に多大な危害を及ぼすこんな恐ろしいものをつくってはいけない」とは言わないのです。

 ですから、大学の研究室でずっと研究しているからといって、肩書きが一メートルぐらいあるからといって、その人が智慧のある人だと絶対に思わないでください。
 生命のことを心配するか、生命のために何か役立つことをするか、人類の模範になるような人物か、若者たちがモデルにした方がいい人間か、必要なのはこうしたことなのです。


智慧のある人とは


 善い人か悪い人か、智慧のある人か愚か者か、ということは、「生命にたいしてどれぐらい慈しみの行為をするか」というところで測られます。
 どんな大学を出たかではありません。博士号を三つも持っているとか、肩書きはどうでもよいのです。大学を卒業していなくても、大勢の人々のために役立つ活動をする人はいくらでもいますから。

 共に生きている仲間をどれぐらい助けてあげるか、人々の生活をどれぐらい楽にしてあげるか、人々の苦しみをどれぐらい減らそうと頑張っているか、このように自分のことを後回しにして頑張る人というのは、当然立派な人です。その人のことを「智慧のある人」というのです。

 定義は簡単です。「慈しみのある人が智慧のある人で、慈しみのない人が愚か者」ということです。

 世の中で犯罪を起こす人たちも、当然、俗世間の知識はあります。知識がなければ、テロ行為はできないでしょう。高度な知識がなければ、計画をたてたり組織をまとめたりすることはできないのです。

 愚か者か智慧のある人かということは、一般世界ではいろいろな定義があるでしょうが、仏教では「慈しみがあるか否か」というところで測ります。

 生命を慈しむ人が、智慧のある人です。何の差別もなく、民族的にも、宗教的にも、経済的にも、何の差別もしないで、とにかく生命を慈しむ、それこそが立派な人間なのです。


善行為の目的


 「善行為」ということについて、どの宗教でも、一般社会でも、「善行為をしましょう」と言っています。仏教でも「善行為をしましょう」と言っています。しかし、仏教の場合はちょっと違います。「智慧を開発しなければ意味がない」と言うのです。
 いわゆる、いくら善行為をしても、やっただけでは意味がありません。
 何かをやるならば、何らかの目的が必要ですし、その目的に達しなければならないのです。
 たとえば飛行機でハワイへ行って、次の便で日本に戻って来たとしましょう。それで「私はハワイに行って来た」と言う。
 でも、それでは何のためにハワイに行ったのかわかりません。意味がないのです。
 ハワイに行くなら、何か目的があるはずです。ビジネスで行くのか、観光で行くのか、どこを訪問するのか、何を見るのか、どんな遊びをするのか、そこで計画をたてて行って、行った目的を達成したなら、その人には「私はハワイに行って来た」と言えるのです。飛行機に乗って往復しただけでは何の意味もありません。

 同様に、善行為をしただけではあまり意味がありません。何か目的を設定して、その目的に達しなければ意味がないのです。
 仏教が設定する目的は、「智慧を開発すること」です。もし、善行為をしたけれども智慧は何も開発しなかった、というならば、「ご苦労様」ということで終わってしまうのです。


調和し、補い合い、協力する

 
 最初に、二つ問題を出します。一番目の問題は、善行為・悪行為というのは本当に世の中にあるのでしょうか? ということです。
 皆さまはおそらく考えたことがないと思います。この答えはいったん置いておいて、次の問題にうつります。
 「生きる」とは、どういうことでしょうか?

 生きている上での行為です。生きている人が善行為や悪行為をするのですから、「生きている」ということが一番大事になります。
 「生きている」ということを忘れてはなりません。世の中の人々はそこを忘れているようです。それでさまざまな犯罪が現れてくるのです。

 「生きている」ことが土台であって、その土台を壊すべきではありません。土台を壊すことは、明らかに愚かな行為でしょう。これは、立派な家を建てて、そのあと家の下から穴を開けて土台を壊すようなものです。土台を壊すと、建物全体が崩壊します。それでは話になりません。

 私たちは何をやるにしても、まず「生きている」のです。シンプルに聞こえるかもしれませんが、これはとても大事なことです。生きているから話します。何を話すかというのは、後の話で、生きていなければ話すという行為もありません。善行為も悪行為もないのです。


「生きる」ことの中身


 そこで、「生きるとは何か」ということをまず考える必要があります。でも、むずかしく考えたら困ります。世界の誰にもその答えを見つけることはできませんでした。お釈迦様以外、誰にもできなかったのです。

 「生きる」ということは「行為をする」ということです。私たちは無数にさまざまな行為をしています。意識的であろうが無意識的であろうが、さまざまな行為をしているのです。
 呼吸をする、生きているからです。体内に血液が流れる、生きているからです。生きていなければ、そんな行為はありません。
 見る、聞く、話す、すべてが行為です。座る、歩く、食べる、寝る、考える、呼吸する、大小便する、運動する、働く、休む、いろんなことをやっています。これらは全部、生きているからやっていることです。

 「生きる」ことの中身を見てみると、「行為」しかないのです。行為以外は何もありません。

 ですから、「生きる」ということの箱を開けて、その中身を見てみる必要があるのです。
 私たちは箱のふたを開けないで、「命は神様から授かったものだ」とか「尊い魂だ」などと言っています。
 箱を開けないでいて、箱の周りでいろいろな意見を言っても、それはまったく意味がないのです。

 そこで、箱のふたを開けてみます。そうすれば一発で中身がわかるでしょう。もう推測する必要も議論する必要もありません。

 お釈迦様は「生きる」という箱のふたを開けてみたのです。開けてみたら、すべて行為のみ。呼吸することも行為ですし、考えることも行為、見ることも行為、聞くことも行為です。私たちはそれに「生きる」と言っているのです。血液が流れることも行為ですし、細胞一個一個がいろんな行為や働きをしています。その働きが止まったら「死」です。

 ですから「生きる=行為」です。たくさんの行為があるでしょう。行為をするのは、生きているからなのです。


その行為は善か悪か?


 次に、行為は善か悪か、ということを判断しなければなりません。判断は簡単です。生きることを破壊する行為は悪行為です。たとえば、「生きる」というシステムの中で一個の組織、あるいは一個の細胞だけが調和を乱して勝手に反対の行為をするとしましょう。どうなるでしょうか? 
 全体が徐々に壊れていくのです。生命は「生きる」という行為の箱の中で、呼吸をしたり、食べたり、消化したりなど、さまざまな行為をしています。あらゆる行為が互いに調和して支え合い、補い合って働いているのです。
 どんな細胞にも酸素が必要です。もしすべての細胞が酸素を探しにどこかへ勝手に行ってしまったらどうなるでしょうか? 
 困ります。身体に細胞がいなくなってしまいますから、身体全体が機能しなくなってしまうのです。

 細胞にはそれぞれ仕事があって、それぞれ別々の役割を担っています。たとえば、肺は酸素をとり込んで二酸化炭素を排出するという働きがあります。そこで調和して仕事をしているのです。
 肺には酸素が入りますが、その酸素を身体中に運ぶものが必要になります。その役割を、血液が担うのです。細胞が生きるためには栄養素も必要です。もし細胞が「お腹がすいたからどこかへ食べに行くぞ」と言って、勝手に自分の持ち場を離れてしまったら、話にならないでしょう。何かが栄養素を運んであげなければなりません。そこで、運送屋の血液が栄養素も運ぶのです。
 では、廃棄物はどうしますか? それも血液が排出器官まで運んでくれます。このように血液はものの見事に酸素や栄養素を運び、いらないゴミは体外へと運んでくれるのです。
 もし、この血液がストを起こしたらどうなるでしょうか? 仕事しなかったら? 自分の仕事をストップした時点で、そちらの細胞は壊死してしまうのです。

 これでおわかりになると思いますが、身体の中の行為がお互いに調和して、補い合って、協力し合って働いている場合、私たちは何のことなく健康で無事に生きていることができます。
 このシステムにちょこちょこと異常が起きてしまうと、健康は崩れてしまうのです。

 正常な細胞には、寿命というものがあります。自分の役割を終えたら死滅し、新しい細胞と入れ替わるのです。
 しかし、ときどき新しい細胞が次から次へと生まれる場合もあります。古い細胞と入れ替わるためではなく、勝手にどんどん増え続けるのです。これが「がん細胞」と言われるものです。がん細胞のほとんどは、死滅することなく激しいスピードで増殖を繰り返していくのです。
 「成長する」ということは一般的に悪いことではありませんが、がん細胞が成長するのは困ります。なぜかというと、がん細胞は他の細胞と調和していないからです。
 たとえばケガをしたとき、その傷口では新しい細胞がすごい勢いでできあがって、みるみるうちに傷口を補ってくれます。それはすごい速さです。それから、ストップします。傷口がきれいに治ったところで、ストップするのです。そこに調和があります。
 もし新しい細胞が生まれるは生まれるは、きりがなく生まれて止まらなかったら、でっかいデキモノができます。これを「がん」と言うのです。


調和することは善行為


  「生きる」ということは「行為をする」ことで、その行為は互いにネットワークをつくって、調和し、補い合い、協力し合って働くということが決まっています。そうでなければ、生命は壊れてしまいます。そこで、「善行為・悪行為」ということが成り立つのです。これが、最初に出した質問「善行為・悪行為は本当にありますか?」の答えです。

 善行為・悪行為は本当にあります。成り立ちます。生きることは行為をすることであり、その諸々の行為が調和して働いている場合は「善行為」、調和していない場合は「悪行為」なのです。

 私たちは毎日ごはんを食べなければなりませんが、何を、どれぐらい、どのように食べればよいのでしょうか? 
 ちゃんと調和して食べなければならないのです。もし「今日は腹いっぱいお肉を食べよう!」と、食べ過ぎて具合が悪くなって病気になった。これは悪行為です。調和を壊してしまったのです。
 また、おいしいからといってチョコレートやケーキなど甘いものばかり食べていると、調和が崩れて糖尿病などの病気になります。ですから、欲張って食べることは悪行為です。
 仏教は結構厳しいのです。皆さまは、大胆に他の人々を助けることだけが善行為だと思っているかもしれませんが、食事の量を適量に抑えることも善行為です。食べ物を身体に適量摂ることで、身体はうまく調和を保って働くことができます。これが善行為です。多食や偏食は悪行為なのです。

 この「調和を保つことは善行為である」ということを理解することが、智慧です。ですから、世の中でやっている大胆な善い行為だけが善行為ではありません。どこかの施設にいる子供たちに匿名でランドセルを50個送った、というのは当然善い行為ですが、善行為はそれだけではないのです。

 では、その人の行為が私たちにとって派手に大きく見えるのはなぜでしょうか? 
 それは、私たちがあまりにもお金にべったり執着しているからです。本当は他人に1000円もあげたくないほどケチなのです。
 それで「誰かがランドセルを50個も送った」と聞くと、びっくりしてニュースになり、派手に大げさにそれを報道する。
 寄付した側からすれば、自分にはお金がちょっと余分にあるから子供たちに何か買ってあげたほうがいいんじゃないか、とそのぐらいの気持ちでやったことだと思いますが。

 善行為は、大胆な行為だけではありません。自分の身体に必要な量だけ食べること、これも善行為です。反対に、必要な量よりも多く食べたなら、それは悪行為なのです。

 「生きる」ということは「行為をする」ということです。そして、その諸々の行為は互いにネットワークをつくって働かなくてはなりません。行為というものは、いつでもそのように働いているのです。

 私たち一人一人は、社会ではたいしたことをやっていません。会社で仕事をしていても、一人一人は本当につまらないちっぽけなことしかやっていないのです。でも全体的に見ますと、社員が互いに調和して仕事をすることによって、会社という大きなシステムができあがっているのです。

 たとえば航空会社は大規模な会社ですが、一人一人を見ますと、それぞれはほんの小さな仕事しかやっていません。機内の乗務員さんたちがやっていることは何かというと、ドアを開けたり閉めたりするとか、アナウンスをするとか、飲み物や食べ物を配るとか、お客さんがシートベルトを締めているかチェックするとか、その程度のことです。ものすごくつまらない仕事でしょう。でも、その仕事がないと全体が壊れてしまうのです。
 もし乗務員さんがいなかったら、お客さんは勝手に座って足をあげたり、俺は恐くないからシートベルトはしないぞと言って立ち歩いたり――。そんな勝手なことをすると、大変危険です。ですから乗務員さんはとても大切な仕事をしているのです。
 それから飛行機から全員降りたところで、今度は清掃員さんたちが乗ってきます。サッと掃除をして機内をきれいにし、忘れ物でもあったら所定のところに届けます。これもつまらない仕事ですが、全体的に見ますと、なくてはならない仕事なのです。

 同様に、私たちの身体の内部でも一個一個の臓器が働いていますが、それぞれはたいした仕事はやっていません。でも全体的なネットワークになりますと、それぞれが欠かせない仕事をしているのです。
 たとえば心臓は収縮と拡張の動きをただ単調にくり返すだけのポンプの働きで、本当につまらない仕事しかしていません。でも全体的に見ますと、全身に血液を送りこむという命に直接係わる大変重大な仕事をしているのです。
 そういうことで、つまらないことだと思われる行為でも、システム全体からみると欠かせない役割を果たしていることがわかります。

 それで、会社であれ、社会全体であれ、この一個の身体であれ、一つ一つの行為が全体的なシステムを支えているということが理解できます。
 個人の人生のみならず、社会全体が調和して平和に繁栄しつつ生き続けるためには、私たちは自分に与えられている小さくてつまらない行為を大事に行わなくてはいけないのです。善行為とはこのようなものだと理解してください。
 会社でつまらない仕事を割り当てられても、なんでこんなくだらない仕事をやらなくちゃいけないのかと考えて仕事をさぼったり、腹を立てたり、いい加減にやったりすると、それは明らかに悪行為になります。家庭でも同じことが言えます。社会全体の調和と繁栄を壊す行為は、当然、悪行為なのです。


善行為で「生きる土台」を支える


 人生は善行為をするか悪行為をするかということで成り立っていて、「善行為をすべき」ということは言うまでもありません。善行為をすると、人生はうまくいきますし、他との調和もきちんと保たれるのです。

 しかし、誰かがこの調和を崩してしまったら、そこから全体が崩れていきます。世の中には悪行為をする人々を裁くために軍隊や警察、法律など、いろいろな組織があります。なぜ社会に法律なんかあるのでしょうか? 軍隊って何のためにいるのでしょうか?

 それは人間が悪行為ばかりして「生きる土台」を壊しているからです。
 たとえば、知人に「あなたの家に一晩泊めてください」と頼まれて、泊めてあげたとしましょう。そうしたら、その人は薪を持ってきて家のど真ん中で火を付けようとしている。「なぜそんなことをするのか」と聞くと、「私は暖房が好きじゃないから」と言います。

 自分勝手に身体を暖めようとカーペットの上で薪を燃やしたら、家が丸ごと燃えてしまうでしょう。自分だけでなく、周りにいる多数の人々にも多大な不幸を与える行為になるのです。

 この例は、常識ではありえないと思えるかもしれませんが、私たちの生き方はそのようなもので、ほんとに愚かな生き方をしているのです。だから軍隊が必要ですし、警察も裁判制度も必要になっています。理解しにくい、ややこしい法律も、次から次へと制定しなくてはいけなくなっているのです。どこまで私たちの生き方が制御されて抑えられてゆくのか、推測することさえできません。それで生きることが無茶苦茶、苦しくなっているのです。

 国境を越えて外国に行くためには、誰でもパスポートが必要です。みんな地球に生まれた地球人なのに、何のためにパスポートが必要なのでしょうか? あれは外国の人に「入るなよ」と言うためではないでしょうか。ひどい世界です。鳥はパスポートがなくてもどこでも飛んで行けますが、人間はそうはいきません。皇族も外国に行くときには、ちゃんとパスポートを持っていかなければならないのです。

 なぜこのようなややこしくて息苦しいシステムばかりができるのかといいますと、人が悪行為をするからです。人は本来、善行為をするのが当たり前のことで、一人一人が調和を保ち、生きる土台を支えるべきなのです。でも、私たちはその土台を自ら壊し、苦しんでいます。これはまるで木に登って枝にまたがり、またがった枝のつけ根を自分で切り落とすようなものです。そうすると、落ちてケガをするだけでしょう。悪行為をするということは、自分で自分を苦しめることなのです。


善行為は呼吸のようなもの


 仏教は「善行為は呼吸と同じで、やるのは当たり前」という立場をとっています。これは仏教でしか言わないことで、他宗教では善行為のリストは社会の情勢や時代によって変わっています。「平和がいい」と言うときもあれば「戦争が正しいことだ」と言うときもあり、これはしょっちゅう変わるのです。

 仏教は変わりません。善行為のリストは、今も昔もこれからも変わらないのです。
 そこで「善行為は特別なものではなく、呼吸のように当たり前のことである」ということをよく理解するなら、智慧がだんだん開発していきますし、善行為をするのも難しくなくなります。智慧のある人にとっては、善行為をするのは自然なことであり、悪行為をするのはとんでもない難しいことです。世の中はその反対で、悪行為なら進んでやりますが、善行為は脅さないとなかなかやらないのです。
 ですから最初から「善行為をするのは当たり前」と、しっかり理解しておくことが大切です。善行為はけっしてイヤなことではありません。やるべきもので、やればやるほど自分も幸福になりますし、周りも幸福になるのです。


世の中の「善行為・悪行為」の概念


 では、なぜ俗世間に善行為・悪行為という概念が現れたのでしょうか? みんな無知で覆われているのに。人格を完成して覚りを開いた仏陀しか善行為・悪行為の定義はできないでしょう。でも、仏教が生まれる以前から、昔も今も、どんな人でも、その人なりの善行為・悪行為という考え方を持っています。あれはどこから来るのでしょうか? みんな「悪いことはしてはいけません」と平気で言っています。無神論者も言いますし、唯物論者も言います。唯物論的に見れば、悪いことなんかあるわけないはずです。でも「悪いことはしてはならない」と平気で言うのです。

 なぜ、人間の心に善行為・悪行為という概念ができあがったのでしょうか? 智慧があるからでしょうか? 

 そうではありません。それは、エゴイストだからです。私たちはみんなエゴイストなのです。「自分は偉い」というエゴがあり、このエゴのせいで、他人の行為が自分にとって好ましいものか嫌なものかということができあがり、それで他人に何か不快なことをされると、それは「悪行為」と決めます。こうして世の中に「悪行為」という概念ができあがったのです。残念ながら、智慧でできたわけではありません。

 世の中では、嘘をついてはいけない、うわさ話をしてはいけない、怒ってはいけない、他人の物を盗んではいけない、欲張ってはいけないなどと普通に言っているでしょう。仏教も同じことを言っていますが、そのスタンスは全く違うのです。

 世の中で「怒ってはいけない」と言っているのは、自分が怒られるのが嫌で、怒られると自分の気分が悪くなるからです。だから相手に向かって「怒ってはならない」と言うのです。相手にたいしては、怒ってはならないと誇示しますが、自分のことになると態度は甘いのです。

 怒ってはいけない、という道徳は、自分から始めに実践して、必要があるときだけ、他人にも「私の経験から見れば怒らないほうがいいですよ」と言うべきなのに、そのようにはなりません。怒ってはならないと、他人に命令するのです。この存在の中で、一人の存在が、もう一人の存在に対して命令する権利は成り立ってないのです。
 誰かに騙されると、騙された自分はすごくプライドが傷ついて不機嫌になります。だから他人にたいして「嘘をついてはならない」と言うのです。その他人にたいして言った言葉をまとめてリストアップして、世の中で「善行為・悪行為」または「道徳」などとしています。要するに、世の道徳とは、自我・エゴを守るための注意書きにすぎないのです。このリストは仏教の道徳と似ているようですが、実際はまったく異なるものなのです。仏教で「嘘を言ってはならない」と教えるのは、嘘を言ったら、その人は社会のシステムを壊すからです。社会は互いに調和することによって成り立っているにもかかわらず、他人にたいして嘘を言うことは、ごはんですよと言ってプラスチック製の模型のごはんを出すようなものです。日本では多くのレストランの店頭に本物そっくりの模型の料理が置いてありますが、模型のほうが色鮮やかですし、本物よりも美味しそうに見えます。嘘をつくことは、あの模型を出すようなもので、おいしいですよと言って、プラスチックの模型の料理を出すようなものなのです。明らかに嘘でしょう。

 他人に嘘をつくと、信頼を失いますから、社会で生きていられなくなります。私たちは「生きる」ことを支えなくてはなりません。システムを壊すのではなく、調和を保たなくてはならないのです。ですからお釈迦様は「嘘をついてはならない」と教えられたのです。

 他宗教や社会でも同じように「嘘をついてはならない」と教えていますが、理由は持っていません。ときどき頭の良い子が「なんで嘘ついてはいけないの?」と聞くことがあります。大人は誰も答えられないのです。以前、ある子供の質問で日本中の大人たちが大騒ぎしたことがありました。ある男の子が「なんで人を殺してはいけないの?」と聞いたところ、誰にも適切な答えを出すことはできなかったのです。ですから、世の中に言葉や概念があるからと言って、実際に道徳を実践して正しい考え方を持っている人はほとんどいないのです。


世間の道徳は「エゴ」でできている


 世間の道徳の始まりは、自分が殴られるのが嫌だから他人にたいして『殴ってはいけない』と言うような、自我を守る目的でできたものだと説明しました。世の中の道徳とは、他人に命令するばかりで、いい加減なものなのです。

 しかしそれだけではありません。さらに悪いことには、人に「殴ってはいけない」と言いつつも、自分が腹を立てたときには相手を殴るということです。他人にたいして「殺してはいけない」と言いますが、自分は魚を釣って食べています。魚釣りはやってもいいと考えているのです。自分の命を守るために他人を殺すことは正当防衛だと言い、殺人だとは言いません。政治家たちは「国は自由であるべきだ」と謳っていますが、他国が独立しようとすると、それを妨げたり邪魔をしたりするのです。

 これは道徳でしょうか? 私たちはだいたいネコやイヌにたいしてはやさしく親切にしますが、野生の動物や魚、虫はへっちゃらで殺します。世間の道徳というのは、人間のエゴからできているのです。エゴで、自分にとって好ましくない行為はすべて「悪行為」としているのです。

 世の中で「殺してはいけない」と言っているのは、結局のところ「私を殺すなかれ」と叫んでいることと同じです。でも、自分に関係のない虫や魚に関しては「殺してもいい」と言うのです。他人にたいして「嘘をついてはいけない」と厳しく言いますが、自分の立場が悪くなると、へっちゃらで嘘をつくのです。

 世の中にあるのは、霧みたいな道徳です。霧は遠くから見るとかたまりとして見えますが、霧の中に入ったら何も見えません。世の中の道徳はそのようなもので、ただ自分たちの都合のいいように口先で言っているだけで、普遍的で確かなものではないのです。ですから、いまだに世の中から戦争は消えていませんし、人殺しも消えていません。強盗も、詐欺も、嘘も消えていないのです。

 ただ、人は誰でも自分の身を守ることは一生懸命やっていますから、無茶苦茶、非道徳にはならないだけです。お金がないとき、本当は強盗したいかもしれませんが、強盗すると家族や親戚、社会から追い出されますから、やらないでいるのです。あるいは強盗しようとしても、うまくやれずに結局は警察に捕まるということがわかっていますからやらない、という程度の戒めで、体力と技術があって他人に見つからなければ、やる可能性はあります。言葉は悪いですが、私たちが道徳を守っているのは腰抜けだからということもできるでしょう。本当はやりたいという気持ちが、心に潜んでいるのです。


仏教の道徳


 仏教は、このような人間や社会の都合でコロコロ変わるような役に立たない道徳は教えていません。仏教が教える道徳や善行為は、普遍的なものであり、実践すれば誰でも智慧が開発され、必ず幸福になるものなのです。


道徳が乗っ取られる


 世の中の道徳に関して、もう一つ矛盾点があります。たとえば自分にライバルがいて、自分の親友がそのライバルを騙してひどい目に遭わしたとしましょう。そのときは「騙してはいけない」と言うのではなく、「よくやった!」と喜んで、騙したことを褒めて賛成するのです。ふだんは「騙してはならない」と言っているにもかかわらず、自分のライバルや嫌いな人にたいしては「騙してもいい」と言う。この場合、騙すことが正しくて善い行為だと考えるのです。他人を殴ってはならないと言いながらも、ライバルや敵にたいしては殴ってもいい、と。このとき、殴ることは善い行為だと言うのです。神は「人を殺してはならない」と言っていますが、聖戦だと言って戦うことが神聖な行為とする宗教もあるのです。
 世間にある道徳とはこのようなものです。全部エゴでできていて、自分の利益になることしか考えていません。自分にとって嫌な行為はすべて「悪行為」としています。でも実際には全く自分の利益にならないのですが。

 さらに悪いことには、このエゴでできた世の中の道徳に、いろんな分野の人たちが割り込んでくるということです。
 一番昔から割り込んで来たのは、宗教です。おかしいですね、宗教が道徳に割り込んできて、道徳を乗っ取ったのです。世の中の宗教というのは、それが現れたときから差別主義で排他主義でした。仲間意識のみで、他人を排除するためにつくったようなものです。反人間的です。嘘だと思うならご自分で勉強してみてください。それぞれの宗教はどんな教理で、どんなことを教えているかと。たとえばユダヤ教はどんな宗教でしょうか? 一部の人間だけが偉いというための教えではないでしょうか。選民思想を謳い、自分たちだけが選ばれた特別な人間だと考えています。ということは、他の人たちは家畜動物も同然でしょう。彼らは差別をして最初から道徳を犯しています。なのに、どうして道徳を乗っ取れるのでしょうか? 

 イスラム教では、女性は顔や肌、髪の毛をベールで隠していないとふしだらだと見なされ、生活の様々な面で女性が差別されています。以
前フランスで、公共の場において女性が顔や全身を覆い隠すベールを着用することを禁止するという法律が施行されましたが、イスラム教徒たちはそれに猛反対し、大騒ぎしています。宗教が差別を正当化しているのです。
 男性は割礼をしていないと地獄に落ちると教える宗教もあります。最後の審判のときに男性たちをみんな調べてみるそうです。他の宗教では、そのようなことはどうでもいいと言っています。地獄に行くのはどちらでしょうか。

 宗教はものすごくたくさんあって、紀元前四千年以上も前からもあります。古代マヤ文明の宗教では人間を生贄にして人殺しを正当化していました。仲間の繁栄のために、他の村の人々を敵にまわし、戦争を仕掛けて人々を殺すか、捕まえて来て、神の前で一人一人殺して心臓を抉り取り、なまの心臓を神に捧げるという非人間的なことをやっていたのです。
 人は自分の都合や状況によって人殺しに賛成しますし、動物を生贄にすることにも賛成します。そしてそれが正しい行為であり道徳だとするのです。

 多くの宗教が道徳を乗っ取っています。そして「あなたはこうしなさい、ああしなさい、あれはやってはいけない、これは禁止」などと道徳をいろいろ変えながら、自分たちの排他主義を肯定します。ですから、宗教によって道徳のリストはそれぞれ異なるのです。
 
 いろんな宗教が道徳を乗っ取っています。そこで勘違いしないでほしいのは、宗教があるから人間が社会で道徳を守っている、というのは間違いだということです。実際に社会を観察してみると、宗教が自分の都合のいいように道徳を乗っ取って、社会を支配していることがわかります。これは株取引でどこかの会社の株を大量に買ったら、その会社は買った人のものになるようなものです。

 たとえば、日本には昔から墓参りをする習慣があり、墓参りをすることは善い行為だと考えている人が多いようです。そこで誰か権力のある人が強引に「墓参りをやめなさい」と禁止命令を出したとしても、国民はやめないと思います。それほど墓参りは大事にされていて、日本文化に浸透しているということです。そこでそれを見た日本の新興宗教家たちは、一貫して「墓参りをしなさい」と謳うのです。新興宗教の中には「仏壇を壊せ、仏陀を拝むな、私こそ仏陀だ」と言っているものもありますが、「墓参りだけはしなさい」と教えているようです。彼らは日本人の習慣をうまく乗っ取って、あたかも自分たちの教えであるかのように演出し、日本人を引き付けているのではないかと思います。


宗教は政治や法律、娯楽も乗っ取る


 西洋の国々では、宗教は道徳だけでなく、法律や政治、社会全体の生き方まで乗っ取っています。結婚や離婚など個人的なことにも割り込んで支配するのです。
 アメリカは世界で最初に政教分離を憲法に記した国であるにもかかわらず、大統領就任式という国家の公式行事においては、新大統領はキリスト教の聖書に手を当てて宣誓しなければなりません。なぜそのようなことをするのでしょうか? キリスト教が社会を乗っ取っているからでしょう。

 イスラム教の国々では、政治・法律と宗教とを切り離すことができないくらい、イスラム教がすべてのところに関わっています。一日に五回礼拝しなければなりませんし、断食月には断食しなければなりません。結婚するときも契約書を作ります。生活のすべての面がイスラムのコーランに基づいているのです。

 それから、どの宗教でも人はだいたい音楽が好きなものですが、宗教はそれも乗っ取ります。だから宗教組織で音楽演奏会などをやっているのです。人々はそれに引っ掛かってしまいます。だって音楽が好きですから。
 このように、宗教は道徳だけでなく、力が強い場合は、人々の生活や娯楽、社会全体まで乗っ取るのです。


政治・法律が道徳を乗っ取る


 道徳には、宗教だけでなく他の様々な分野の人たちも割り込んで来て口出ししています。たとえば政治。政治家たちが割り込んできて、一般の人たちに命令するのです。とくに独裁政治家たちは国民の自由をことごとく奪い、思考までも統制しようとします。数十年前、カンボジアの首相ポル・ポトは共産主義化を強引に推し進めました。多くの知識人の命を奪い、市場を廃止し、企業をすべてつぶして国民の仕事を奪い、農作業や土木工事の労働だけをさせました。恋愛も禁止し、音楽も禁止しました。このように、政治が自分勝手に思想をつくりあげ、その思想を人々に強要したのです。

 文化も道徳を乗っ取っています。私たちはいろいろな文化を守らなければなりません。日本ではお盆や墓参り、初詣、七五三などいろいろやらなければなりません。それらをきちんとやる人は道徳的な人だと社会から褒められるのです。
 知識人や哲学者たちも、道徳に口を挟んであれこれ言い、道徳を変えています。
 このように、宗教だけでなく様々な分野の人たちが世の中の道徳に口出ししているのです。


善悪を判断する智慧


 道徳というのは社会になくてはならないものです。それをいろんな組織や人々が自分たちのエゴで乗っ取っているのです。それで問題が起こります。それぞれの人たちが、自分にとって嫌なものは悪行為に決め、自分にとって好ましいものは善行為にと、エゴで決めていることです。

 私たちは「何が善で、何が悪か」ということを知りません。善悪を判断する智慧は、もともと持ってないのです。生まれてから親や親戚、周りの人たちの言うことをそのまま受け入れて従ってきただけで、正しく善悪を判断する智慧や知識は持っていないのです。

 そこで、善と悪の概念はなんとなく頭にありますが、本当にそれが善いことか悪いことかということは、はっきり理解していません。
 たとえば、子供に「宿題をやりなさい」と言うと、子供は嫌がるでしょう。子供はゲームをやっていたほうがおもしろいと思っているからです。宿題はやりたくありません。ときどき大人が「勉強しなさい!」と注意すると、子供は「その勉強、将来役に立つの?」と訊くこともあります。大人は答えられません。それで子供に負けてしまいます。結局のところ、私たちはしっかりした道徳を知らないのです。

 私たちには霧のような曖昧な道徳観はありますが、「何が善で、何が悪か」ということは知りませんし、「なぜそうなのか」という理由も知らないのです。

 たとえば、誰でも自分が持っている能力を発揮して明るく仕事をしたいでしょう。では皆さま、ご自分の心に聞いてみてください。自分の能力は何か、どんな仕事をすれば自分の能力が100パーセント発揮できるのか、と。おそらくわからないと思います。自分のことだからわかるはずなのに、わからないのです。

 以前、ある子供に「私はこれから何を勉強すればいいんですか? 将来何になればいいんですか?」と訊かれたことがあります。その子とはそれまで面識がありませんし、初めって会ったばかりで、その子が何者か、どんな能力を持っているのか、私にはわかりません。何を勉強すればいいのかということは本人のことでしょう。でも自分のことなのに本人もわからないのです。これはエゴの悲しい結果です。エゴがありますが、エゴは自分にとって何が善いことか何が悪いことか、自分にどんな能力があるのか、何をすれば幸せになるのか、などということはわからないのです。

 それで、感情で決めてしまうのです。感情とは欲や怒り、嫉妬、憎しみなどのことです。いわゆる刺激が入る方向へ行ってしまうのです。刺激がいっぱい得られるものにたいして「これこそ私の道だ」と決めるのです。たとえば、カラオケで友だちとはしゃいで歌ったところ、みんなに「上手ですね」と褒められたとしましょう。それで「よし、将来は歌手になろう!」と決めるという具合に。このように刺激で決めるのです。若い子たちはタレントになりたい子が多いようです。人気があって、かっこよくて、子供なのにお金も稼いでいます。そんな姿をテレビなどで観て、じゃあ、私もタレントさんになりますと、単純に刺激で決めるのです。

 このように、子供たちを見るとわかりやすいと思います。大きくなったら何になりたいのかと聞くと、自分が刺激を受けたもの、あるいは刺激がいっぱい入りそうなものになりたいと答えるのです。しかし、刺激や感情のエゴで決めたことが、うまくいくことはありません。


世間は感情で善悪を判断する


 大人も同じです。私たちにはエゴがあり、自分の感情や好み、欲、怒り、嫉妬、憎しみなどで善悪を判断しています。魚を食べるのが好きな人は「殺生は悪いことだが、魚釣りは悪くない」と平気で言います。ものすごい屁理屈です。それはあなたの感情でしょうと言いたいのですが……。

 以前、日本で人気のある有名な仏教の先生がこのようなことを話しているのを聞きました。「人間は他の生命たちを食べなくては生きていけない。魚や動物は自分を犠牲にして人間の栄養となり糧となってくれる。魚をとって焼いて、阿弥陀様に感謝して、ありがたくいただきますという気持ちで食べてください。ゴキブリが来たら、阿弥陀様ありがとうございます、感謝いたします、と言ってつぶしてください」と。
 これが仏教でしょうか。自分のエゴで生きなさいと言っていることでしょうに。それで私はこの先生に言ったのです。「ということは、自分の嫌いな人は包丁で刺して、阿弥陀様ありがとうございます、感謝します、とそれでいいということですか?」と。そう言ったら、その方は機嫌を悪くして怒ったのです。まったく話になりませんでした。

 このように、多くの人が自分のエゴや感情で世の中の道徳を決め、さらにはその嘘を他の人々にも教えています。これはとんでもない大きな問題なのです。


「自我は迷惑」という道徳

 「世の中の道徳は人のエゴ(自我)でできている」のだから、結局のところ「道徳を守ることは自我をはる」ことになります。自我をはると、そのたびに周りの人に迷惑がかかります。たとえば、釣りたての新鮮な魚が食べたいと思った時点で、魚にとっては大変な迷惑でしょう。あるいは、特定の何かが大好物だという人は、その食材が店に入るたびに飛んで行って買い溜めするかもしれません。そうすると他の人はそれを買うことができなくなってしまう。だから、自我をはると周りに迷惑がかかるのです。

 そこで問題が起こります。「自我をはる人は迷惑な人だ」と考えた周りの人たちが、「自我は悪である」という新たな道徳をつくることです。これは前号までで説明してきた世間の「嘘をついてはならない」という道徳、つまり「自分が騙されるのが嫌だから、他人にたいして嘘をついてはならないと言う」ことと同じ法則で、「嘘をついてはならないのは自分自身」ということが後回しになるのです。そして、他人が自我をはると自分に迷惑がかかるから、他人にたいして「自我をはってはならない」という新しい道徳が現れるのです。いわゆる、世間における「自我をはるなかれ」という道徳は、自分ではなく、他人に向かって言っている言葉なのです。

 このような道徳ができあがると、自我をはる人は困ります。なぜなら自分は自我をはって好き放題に生きていきたいのに、周りの人たちはそうさせてくれませんから。社会は自我をはる人を煙たがり、叩き潰すものです。自分の本心としては働かないで他人のお金を盗んだりして怠けて生活したいのだけど、周りの人たちはそうさせてくれません。それで自我をはる人にとっては道徳を守ることがものすごく苦痛になるのです。

 お釈迦様は、戒めによって精神を苦しませる道徳は止めて、「智慧で物事を見てください」とおっしゃいました。「智慧で観察した結果、現れる道徳」を守ることほど楽しいことはないのです。


行為は命に影響を与える


 「真理としての普遍的な道徳」には、命が係わっています。たとえば、雨が降って山の上にある岩が一つ転がって落ちたとしましょう。そこには何の道徳もありません。ただの自然の現象です。でも岩が転がって、下にいた人の頭の上に落ち、その人が死んでしまったとすると、それは大変な問題になります。人々は「この辺は山の岩が崩れないようちゃんと管理されていたはずなのに、管理者は手抜きしていたのではないか」とか「人間の安全をもっと真剣に考えるべきだ」などと訴えたりして、いろいろ問題が起きます。それで大きなニュースになって国会で議論になったりもする。なぜでしょうか? それは人の命が係わっているからです。

 そういうことで、道徳には必ず人の命が係わっています。私が石を一つ投げたからといって、それは善でも悪でもありません。投げた石が隣の家の窓に当たってガラスが割れてしまったら、それは悪行為になります。弁償もしなければなりません。あるいは、投げた石が壁にぶつかって跳ね返って自分の頭に当たってケガをしたら、それも悪行為でしょうし、周りの人は自業自得だと言うでしょう。

 そういうわけで、「私」が行為をしています。その「私」がやっている行為はすべて「私の命」に影響を与えます。ですから、小さな行為から巨大な行為まですべて善と悪に区別して理解すべきなのです。


ネットワーク


 私たちには本当は自由というものがありません。命はあらゆる行為のネットワークで成り立っています。ネットワークで成り立っているということは、「自由がない」ということでもあります。「私は酸素なんか吸いたくない。窒素を吸いますよ」というような自由はありません。道徳を犯すことはこのようなもので、「私は道徳なんか守りたくない」というのは、とんでもない勝手なことなのです。
 私たちは周りの人の協力によって生きています。周りに迷惑をかける自由はありません。周りに迷惑かけて、楽しく好き勝手に生きようとしても、それは上手く行きません。迷惑を受ける周りより先に、自分自身がこわれて破壊してしまうのです。ですから仏教ははっきりと「自業自得」という言葉を使っているのです。
 他宗教では、「神様が罰を与える」などと証拠もない嘘を言っています。でも、歩いているとき石につまずいて転んでしまったら、それは自分の責任であり、自業自得なのです。わざわざ誰かが転ばせる必要はないでしょう。


自業自得


 自分に栄養を与えてくれている社会のシステムを壊すと、自分に栄養が入らなくなるだけです。栄養が入らなければ、自分が壊れます。社会にたいして嘘をついたり嫉妬したりすることは、自分に栄養を与えてくれているチャンネルを閉めることです。そうすると自分に栄養が入りませんから、当然、自分が壊れてしまいます。ですから仏教ははっきりと「自業自得」と言っています。これは意味深い言葉です。皆さまは何か失敗したとき「自業自得ですね」などと冗談まじりで使っているようですが、本当の意味はそんなに軽々しいものではなく、とても深い意味が含まれています。冗談ではなく、文字どおり論理的に「自業自得」ということなのです。

 善行為をすると自分が繁栄して幸福になりますし、社会も幸せになります。反対に悪行為をすると、社会から切り離されて、あなただけサヨウナラをすることになります。社会に迷惑かけても、社会は巨大なシステムですから、すぐに立ち直るのです。

 たとえば、福島の原発が破壊して放射能があちこちに飛び散りました。人間にとっては脅威ですが、地球全体にとっては痛くも痒くもないのです。なぜなら地球は巨大ですから。福島第一原発から半径20キロ圏内は立入禁止となり、人間は入ることができなくなりましたが、原発のそばにある桜の花はなんのことなく満開に咲いたのです。

 ですから、私たちが社会に迷惑をかけてやろうと思っても、それは余計なことで、迷惑をかけた当人が破壊するだけです。確かに迷惑は一部かかるでしょう。しかし社会は巨大ですから、打撃はほとんど受けないのです。自分が潰れてしまうだけなのです。


派手な行為


 次の問題です。善行為をするとき、私たちは「派手な行為を称賛する」ということがあります。行為が派手であれば派手であるほど善い行為であると考えるのです。
 今年スリランカでは、お釈迦様が覚りを開いて2600年になりましたと、国をあげて派手にお祭りをやりました。新聞で見たのですが、あるお坊さんが人々からお金を集めて大きな仏教センターを建て、その落慶式に2600人のお坊さんを招いてお布施をし、また大統領や政府関係者、宗教関係者、報道関係者も招いて大々的にお祭りをやったようです。彼らはそのように大げさにやることが善行為だと考えているのです。

 人は派手なことが好きで、行為が派手であればあるほど徳が高いと思っているところがあります。逆に、新聞にも載らないような地味な善行為は、善行為だとみなさないのです。

 日本でも、東日本大震災の被災者支援のために、某大企業の社長が自分個人の資産から百億円を寄付したことは大きなニュースになりましたが、千円や五千円寄付する人にとっては全く立場がありません。たとえば、ある男性が手持ちのお金を全部寄付したとしましょう。それはたいした金額ではないかもしれません。でも、その時その男性が持っていたお金全部を寄付しました。しかしニュースにはなりませんし、家に帰ると奥さんに褒められるどころか「全部あげたんですか! あんたは家族のことを全然考えてない。どうやって今月生活するんですか」と怒鳴られたりもします。男性は自分が持っていたお金を全部寄付したのに、金額が低いという理由でニュースにはなりませんし、褒められることもありません。それどころか奥さんに叱られて悲惨な目に遭うのです。

 真理の立場から見ますと、派手な行為だからといって善い行為というわけではありません。お釈迦様の在世中、インドでは神々へのお供え儀式の際、王様はバラモン人を百人、二百人ぐらい招いて盛大に執りおこなっていました。牛や羊、ヤギをそれぞれ百頭ずつぐらい殺して生贄にし、派手に祭りをやっていたのです。派手に祭りをすると、奴隷や家来たちは鞭で打たれながら強引に仕事をしなければいけないのです。
 お釈迦様は王様にこうおっしゃいました。
「自分がやった行為の結果は自分に返ってきます。大勢の人に迷惑をかけたなら、その行為の結果は自分が受けなくてはなりません。あなたは他の生命にどのぐらいの苦しみを与えたのか考えてみてください。それぐらいの結果をあなたは受けなければならないのです」

 それから、お釈迦様の在世中、苦行者と呼ばれる人たちがいました。死ぬ瞬間まで、あらゆる苦行をするのです。たとえば二週間、水一杯も飲まないでジーっとしているという苦行があります。これ結構派手な苦行でしょ。それで周りの人たちは「なんてすばらしい行者ですか」「偉大な仙人だ」などと褒め称えるのです。
 お釈迦様はこの苦行者たちにたいして、はっきりとこうおっしゃいました。「あなたがたは過去世で強盗でもやったでしょう。だから今あえて自分で苦しんでいる。本当は苦しむ必要などないのに」と。

 私たちは大きな勘違いをしています。一千万円寄付したら徳がすごく高くて、千円しか寄付しなかったらたいした徳ではないと考えています。金額や見た目の派手さで徳の大小が決まるという大きな勘違いをしているのです。


善悪の行為は意志で決まる


 生きるとは行為をすることです。行為は、どんな行為であれ、意志(心)がないと起こりません。食べたいという意志がなければ、食べる行為はありません。呼吸をするときも、ずっと意志が生まれ続けています。息を吐き終わった瞬間に息を吸っていますが、そこにも意志が働いています。すべての行為は意志でおこなっているのです。
 生きることは行為をすることです。そして行為はすべて意志から生まれます。立ちたいという意志がなければ立ちませんし、話したいという意志がなければ話しませんし、歩きたいという意志がなければ歩きません。

 それから、意識的にわかる意志もありますし、わからない意志もあります。呼吸をする場合は明確で、意識して呼吸をすることもできますし、意識しなくても呼吸はしています。意識する・しないかにかかわらず、意志はいつでも働いているのです。

  心臓も同じです。意志が働かないと心臓は動きません。でも私たちがいちいち意識して「はい膨らみましょう、次は縮みましょう」などと考えていると生きていられませんから、そこはオートモードになっています。意識的にわからないだけで、本当は意志が管理しているのです。たとえば、何か怖いことが起こると心臓はどうなるでしょうか? ドクンドクンとするでしょう。意志が管理しているからです。
 冥想実践する人々は、力を入れて意識の管理をします。冥想するという習慣は、仏教独自のものではありません。インドにあった宗教のほとんどは、冥想実践に興味を持っていたのです。彼らは意識を管理することによって、身体の機能を管理する実験もおこなっていました。集中力を高めて心臓の動きまで停止できる、という話もよく聞きます。
 仏教の冥想の目的は、肉体に不可思議な現象を引き起こすことではありません。しかし、インドの他の宗教家にできなかったことを一つ、阿羅漢になった聖者たちはときどきおこなっていたという話もあります。それは心臓の動きだけではなく、身体の動きを一切停止して、七日間そのまま居る禅定です。「滅尽定」と名付けられた禅定です。科学的に理解できる話ではありません。科学の世界では、心の働きを優先した研究はやって
いのですから。しかし理論は簡単です。興奮して、落ち着きがなくなると、身体の動きが激しくなったり、乱れたりします。逆に考えれば、心が落ち着くと、身体も落ち着き安定します。ですから集中力が上がれば上がるほど、身体の機能は静まっていくはずです。

 すべての細胞の動きは、意志がやっています。また、その行為は心と身体に影響を与えます。心と身体に善い影響を与えたいと思うならば、当然、善い意志で善い行為をしなくてはいけないのです。

 しかし、生命はもともと心が汚れていますので、自然に悪い意志を起こして、悪い結果を出す行為を簡単におこなっています。
 一般的に、「善行為に善果・悪行為に悪果」と言われていますが、お釈迦様がおっしゃっているのは、「善い意志でおこなう行為に善い結果。悪い意志でおこなう行為に悪い結果」という言葉です。行為そのものよりも、「意志」に注意したほうがよいのです。

 たとえば、義捐金として、ホームレスの人が千円寄付し、大企業の社長が一千万円を寄付したとしましょう。ではどちらの善行為が、より価値の高いものになるのでしょうか?
 この判断は、「善行為をしたい」という意志によって決めなくてはいけないのです。ホームレスの人の千円は、もしかするとその人の全財産かもしれません。ごはんも食べられなくなるかもしれません。ですから、寄附行為をするときは、強い意志が必要だと言えるのです。
 大企業の社長の場合は、全財産ではないのです。家計が苦しくなることも、飛行機に乗るお金が無くなることもないでしょう。ですから、それほど強い意志が必要ではないのです。
 金額は千円かもしれませんが、「全財産」をあげたホームレスのほうが善行為の価値が高くなるのです。行為の結果は表面的な形ではなく、内面的な意志によって決められるものなのです。

 したがって、派手な行為が善い行為というわけではありません。ニュースや新聞に載るか載らないか、そんなもので徳の大きさが決まるのではありません。自分の意志で決まるのです。


貪瞋痴の汚れ


 意志は重要な働きです。どんな行為も意志から生まれています。問題は、私たちの「意志が汚れている」ということです。人に会うときには、きれいな服を着てかっこよく見せたいでしょうし、ごはんを食べるときは、よりおいしいものが食べたいでしょう。欲しいものを買う場合は、できるだけ値段が安いものがいいですから店員さんに値切ったりもするでしょう。
 私たちには常に意志が働いていますが、その意志は貪瞋痴で汚れています。貪は欲、瞋は怒り、痴は無知です。意志が汚れていますから、私たちの行為はほとんど悪行為になります。貪瞋痴で生きているかぎり、行為はすべて悪行為になるのです。


貪瞋痴のブレーキ


 皆様も経験があると思いますが、善い行為をしようとすると、心にちょっとブレーキがかかるということが起こります。あのブレーキはなんでしょうか? たとえばお年寄りの方が電車に乗ってくると若者はタヌキ寝入りしますよと若者に悪口を言うでしょう。私はそう思っていません。日本の若者はそんなに悪くないんです。ではなぜタヌキ寝入りするのでしょうか? 

 どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と言えないのです。ポイントはそこです。あれが貪瞋痴です。他の人が見ていますし、もし「結構です」と断られたら恥ずかしくて立場がないですし、あるいは譲っても座らないでしょうとか、自分も疲れているからこのまま座っていてもいいんじゃないかとか、いろいろ理屈をつくって席を譲らないだけです。お年寄りなんか知ったことじゃないよ、とそんな気持ちはありませんし、別に悪い人ではないのです。でも善行為はしません。それは貪瞋痴がブレーキをかけているからなのです。

 そこで、東日本大震災のような大災害が起こると、もうブレーキがかけられない状態になって、みんな一斉にワーッと善いことをし始めるのです。ブレーキはもう機能しません。

 普段はすぐにブレーキをかけます。何か善い行為をしようとすると、恥ずかしくてどこかでためらってしまうということがあるのです。このためらう気持ちが貪瞋痴です。

 そこで「善行為をするたびに、自分の貪瞋痴を戒めている」ということを憶えておいてください。善行為をすることで、自我がなくなって、恥ずかしさも消えて、花が咲いたように明るくなります。お年寄りの方が電車に乗って来たら、「どうぞどうぞ座ってください」とサッと席を譲ることもできます。声をかけたところで相手の方に「次の駅で降りますから」と断られたら、「そのあいだだけでもどうぞ」と、すごく明るく言ったり、あるいは「私は立ちたくてたまらなかったんです」などと言うと、お年寄りの方も「若いのに、いい方ですね」と楽しくなります。お互い、すごくやさしい世界が生まれます。それで電車に乗っていた五分間は最高に幸福な五分間になるのです。

 そういうわけで、貪瞋痴を戒めなくてはなりません。そのために善行為をする。善行為をすると、智慧が現れてくるのです。


自利と利他


 善行為には二種類あります。一つは、他人を助けることです。これは世の中の誰もが善い行為と見なしています。
では、自分のために何かやることは悪いことでしょうか? 
 悪くありません。私たちは自分の幸福のためにいろいろなことをやる必要があるのです。

 では、「自分のために善いことをする」ことと「他人のために善いことをする」こと、どちらが善いことだと思いますか? 
 それは判断できません。自分のことはおいておいて他人のためにやることが善行為であり菩薩行だという考えもありますが、あれは間違いです。結局、この二つを区別することはできないのです。
 たとえば、若者たちがみんなおとなしく、自分のためだけにビシビシ勉強するとしましょう。ボランティアなど社会的な善い活動はしませんが、悪いことも何もしません。それで社会が悪くなると思いますか? 社会全体が明るくなるでしょう。私が私のためにまじめに勉強することは、自分のための自利の行為ですが、それで社会も豊かになるのです。
仕事の場合も同じです。自分の仕事をしっかりおこなうこと、これは自利の行為ではありますが、結局は社会全体の繁栄につながるのです。
 一人で静かに冥想したり、修行したり、戒律を守ったりすることは、他人や社会には関係がないことですが、そうやって立派な人間でいるだけでも、社会にとても善い影響を与えています。ですから、善行為は自利でも利他でもどちらでもよいのです。

 あるいは、私が千円しか持っていません。その千円でごはんを食べようと外に出ました。その途中、たまたま道路で義捐金を集めている人たちに出くわし、持っていた千円を寄付しました。ごはんを食べようと思っていたのに、ごはんが食べられなくなりました。これは自分を犠牲にしたことですが、私は喜びを感じているのです。「善い行為をしました、よかった、よかった」と楽しい気分になっているのです。千円でごはんを食べたら、それほど長持ちする楽しみは得られないでしょう。
 このように、他人のためにやった行為でも、その結果は自分に返ってきます。ですから、自利と利他は区別することができません。区別すること自体が間違いです。善行為をすることによって人格が向上しますし、また社会のためにもなるのです。


問題は心


 それから、行為は闇雲におこなうものではありません。すべての行為は意志でやっていますから、意志が汚れると行為も汚れます。たとえば十万円を誰かにあげたとしても、もし汚れた心であげたなら、善い結果にはなりません。十万円あげただけでは、善い行為にはならないのです。十万円を貰った人が、そのお金で麻薬を買ったり何か悪い行為をしたりすることを知りながらあげたならば、あげた人は罪を犯したことになるのです。義捐金として十万円を寄付することとは大きく異なります。ですから同じ「十万円をあげる」という行為でも、その人の意志で、善行為にもなりますし、悪行為にもなるのです。

 社会では「怒りは悪い行為」と決まっていますが、親・教師・コーチなどはよく怒ります。その方々は、相手のことを嫌って怒っているのではありません。「育てたい」「一人前にしてあげたい」という意志が強いのです。やさしい顔を見せたら成長しないだろうと思っているのです。
 ですから、親や先生の怒りは悪行為だと決めることはできません。親が怖かったから、先生が怖かったから、という理由で立派な大人になった人々は大勢います。子どもが貪・瞋・痴の感情で弱くなっていて、貪・瞋・痴と闘う気力も失っている場合、親や先生はその子を怒鳴ったり脅したりしなくてはいけないのです。そうしないと、その子は感情に負けて堕落してしまいますから。
親や先生のその行為は表面的には悪行為として見えるでしょうが、心は善い意志が働いているので、善行為になるのです。

 しかし、「善意なら怒っても脅してもいい」と決め付けるのは早計です。怒らなくても脅さなくても、人々を育てる方法がいろいろあります。それには理性と判断能力が必要です。仏教はこの問題を「優しい、厳しい」という言葉で解決します。お釈迦様は人を育てるとき、4つの態度をとられました。
 
・ やさしくする 
・ 厳しくする 
・ やさしくしたり厳しくしたりする 
・ 完全に無視する
 
 育つ見込みがまったく無い場合は、その人に余計な迷惑をかけないで無視します。弟子入りを認めないのです。

 人にたいして厳しい態度をとることは、必ずしも悪行為にはなりません。悪意で厳しい態度をとることは、悪行為に決まっています。悪意で他人にやさしく振る舞うことも、立派な悪行為です。ですから、意志に注意しましょう。意志は常に善であるように戒めることです。

 「意志が常に善であるように」と言われると、「それは無理。できるわけがない」という気持ちになるに違いありません。お釈迦様は、子どもからお年寄りまで誰にでも、簡単に、四六時中、意志を善に保つ方法を教えられました。
 それは「生きとし生けるものが幸せでありますように」という気持ちです。この言葉を常に念じて生きることです。「私は他の人々のおかげで生きているのだから、社会にたいして恩返しをしなければなりません」という気持ちでおこなう善行為は、すばらしい善行為になりますし、智慧も現れてくるのです。(了)

(編集/文責:出村佳子)





 
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