故人の供養

スマナサーラ長老 法話

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今回のタイトルは「渇愛と不死」です。仏教では 大変重要なテーマです。サブタイトルは「生存欲を 乗り越える涅槃への道」です。

 「不死」は、パーリ語でアマタ(amata)といいます。 この同義語がいくつかありますので紹介しましょ う。

・涅槃(Nibbaana)
 不死と涅槃は同義語です。不死とは涅槃のことで す。いわゆる、解脱や覚りのことなのです。

・仏道
 仏道全体や、仏教そのものにたいしても、「不死」という言葉を使います。例えば「アマタダンマ」 (amata dhamma)。「ダンマ」(dhamma)とは法の ことで、「不死のダンマを説いている」として使われ ます。仏道は、不死の道ともいわれているのです。

・安穏(khema)

・不死(amata)

・無畏(abhaya)
 何の恐怖も、何の不安もない境地です。

・軽安、 寂静(passaddhi)
 何の重さもなく、すごく軽い心の状態です。

・寂滅(nirodho)
 寂滅というのはどういうことかといいますと、生 きることは轟々と燃えている火事に例えられます。 お釈迦様の最初の五人の弟子の方々が預流果に覚り ました。でも、阿羅漢にはならなかったのです。そ れでお釈迦様は五人をある静かな丘に連れていき、 「燃える」というタイトルの教えを説かれました。 「すべては燃えています。眼は燃えています。なぜ 燃えているのでしょうか。貪・瞋・痴で燃えていま す。眼・耳・鼻・舌・身・意が燃えています。また色・ 受・想・行・識という五蘊も貪・瞋・痴で燃えています……」 これを聞いた五人の方々は、自分にたいする執着 を捨てることができたのです。それで大阿羅漢にな りました。このように、恐ろしく燃えている存在が、 寂滅します。火が消えた状態のことを、寂滅という のです。

 これらの言葉の定義は『増支部経典』に記されて いるものです。
Anguttara Nikaya Navakanipata, 6-1 khemavagga


安 穏


 安穏(Khema)とはどのような境地でしょうか? 比丘が修行して、第一禅定から第八禅定に入りま す。その後、一切の煩悩をなくした「滅尽定」という 阿羅漢が入る禅定があるのですが、その禅定に達することが「安穏」(Khema)なのです。
 不死とは、涅槃のことです。あるいは仏道を修行し て、集中力を高めて禅定をつくり、煩悩を減らして、 最終的に煩悩を滅する道が、「不死の道」なのです。


資格者と失格者


 同じ経典のグループの中に、「Bhabba」という言 葉が出てきます。これは、「資格」という意味です。
 仏道で、「不死に達する資格のある人」は誰でしょ うか?
 欲、怒り、無知、瞋恚、恨み、偽善、欺瞞、嫉妬、惜しむこと、 この九つがない人が、阿羅漢に達するための資格 者だと説かれています。

  仏道で、「不死に達する資格のない人」とは誰で しょうか? 欲があり、怒りがあり、無知があり、瞋恚があり、 恨みがあり、偽善があり、欺瞞があり、嫉妬があり、 物惜しみがある人が失格者です。

 「Bhabba」は英語で「qualified」という意味です。 仏教用語で「qualified person」とは阿羅漢のことで す。聖者のことなのです。九つの汚れがない人が、 阿羅漢に達する資格があります。それから、阿羅漢 に達するために修行しなくてはならないのです。 「不死」 の見性・体験 不死というのは、見性するものです。経験し、体験するものなのです。自分が達するものです。自分 が達する境地です。いわゆる解脱であり、涅槃のこ となのです。

 "Amatam tesam, bhikkhave, sacchikatam yesa]mkayagatasati sacchikata."
 (Anguttara Nikaya, Ekanipata, Ekadhammapali
1-16-8-24)


 「身至念を完了する(作証する、覚る)人は、
  不死を完了(作証)したことになります」

 この言葉の意味を理解しましょう。身体について気づきの実践を完了することが出来たなら、その修行者は「不死の境地」に達したことになるのです。

 皆様ご存知のヴィパッサナー瞑想は、『サティパッターナ・スッタ』(念処経)から教えられているものです。結構、長い経典です。この念処経で、お釈迦様は「身体に気づきなさい、感覚に気づきなさい、心の働きに気づきなさい、それからものごと・諸々の現象にも気づきなさい」と教えられています。これを「身・受・心・法」と言います。先に引用した経典では、その一つ、身体への気づき「kqyagatqsati」を取りあげています。

 身体の動きにたいする気づき(身至念)を体験する人は、「不死」を体験したことになるのです。
 いわゆる皆様が実践している気づきの瞑想が成長すると、いろいろな経験をします。その経験によって、何かしら「不死の境地」を体験していきます。でも、それを頭で理解することはできませんし、最終ステージに行くまでそんなに実感することもできないでしょう。しかし、頑張って実践することで、不死を体験することができるのです。

 続けて、お釈迦様の言葉を紹介します。

 
"Yo ca vassasatam jive, apassam amatam padam;
  Ekaham jivitam seyyo, passato amatam padam
."
                 (Dhammapada 114)


 「不死を見性せず、百年生きるよりも、
  不死を見性して、一日生きることが勝るのです」
                  (ダンマパダ114)

 百年長生きするよりも、「今日死んでもかまわないから覚りに達する」ことのほうが勝れている、ということです。「生きる」ということは、輪廻転生することです。限りない苦しみが続くことなのです。ですから、限りない苦しみを選ぶのか、今日一日で苦しみを終わらせるのか、ということになるのです。

 お釈迦様がおっしゃるのは、人はただ長生きするだけでは意味がありません。欲や怒り、憎しみ、嫉妬で苦しみ、悩むだけです。でも、もし煩悩をなくして、心を安らかにしたなら、命がたとえ一日だけでも、それはすばらしい有意義な生き方になるのです。

 この場合も、不死という言葉を使っています。


アマタンパダン
(amatam padai


 パダン(
padai)という言葉は、パーリ語でいろいろな意味があります。足跡という意味もありますし、一歩という意味もあります。それから、ステップや境地にも使います。言葉や単語という意味でも使います。「不死」というのは、私たちが達する一つの境地なのです。いわゆる最終的に達する究極の境地に、「不死」という言葉を使っているのです。


「不死」に達する道


 「身・受・心・法」を随観することが、不死に達する道です。不死の境地に達したければ、「念処経」にあるヴィパッサナー瞑想を実践するしかありません。

"Tassa kaye kayanupassino viharato yo kayasmm/ chando so pah]yati.
Chandassa pahana amatam sacchikatam hoti."

(Samyuttanikaya,Mahavagga
,3.
Satipatthaanasamyutta,4. Ananussutavagga,7. Chandasutta


 「身体について観察すると、
  身体にたいする執着が消えます。
  執着が消えることで、
  不死を体験したことになります」

 たとえば身体のことを観察していると、身体は瞬間瞬間、変わっているのがわかります。新しいものが生まれてきます。このプロセスが、観えてくるのです。そうすると「なんだこれは。身体、身体と思っていたけれど、そうではない。瞬間瞬間、変化して消えていく流れだけだ」と覚ります。

 「固体的な身体というものはない」ということが理解できると、チャンダ(chanda)・執着が消えます。執着が完全に消えると、「不死」を体験するのです。この場合、執着というのは「渇愛」のことです。

 私たちは肉体にたいしてすごい愛着を持っています。「肉体がある」と思っているのです。でも、肉体をしっかり観察してみると、「肉体がある」とは言えなくなります。「これが肉体だと示せるものがない」ことを発見するのです。肉体はずっと変化しています。このことが発見できれば、執着や渇愛は消えていくでしょう。


2 不死と死(Amata & mata)


Evam vutte so bhikkhu bhagavantam etadavoca-" ama t am, ama t a ' n t i , b h a n t e , v u c c a t i .
Katamam nu kho, bhante, amatam ., katamo amatagqmimaggo"ti? "Yo kho, bhikkhu, ragakkhayo dosakkhayo mohakkhayo - idam vuccati amatam. Ayameva ariyo atthangiko maggo amatagqmimaggo, seyyathidam - sammaditti …pe…sammqsamadhi,
(SN. Mahavaggo, Magga Samyutta, Avijjavaggo 1-1-7)

 「尊師、『不死、不死』と言います。何が不死なのですか? 不死に達する道は何ですか?」
と比丘たちがお釈迦様に尋ねました。

 お釈迦様は答えました。
 「貪瞋痴の滅尽が、不死です。不死とは貪瞋痴を残りなく、なくすことです。聖八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)が不死に達する道です」

 前号で、「念処経」にあるヴィパッサナー瞑想を実践すれば覚れますと言いましたが、こちらでは八正道なのです。この二つは別のものではありません。同じものです。お釈迦様は「四念処を実践している者は、八正道を実践している。八正道を実践したいと思う者は、四念処を実践すべきである」と説かれていますから、同じものなのです。
 「不死」とは涅槃のことです。いわゆる、貪瞋痴がない状態に「不死」というのです。


不放逸=不死


 Appamado amatapadam,
 pamado maccuno padam;
 Appamatta na m]yanti, 
 ye pamatta yatha mata.
   (Dhammapada21)

 不放逸は、不死の道。
 放逸は、死の道。
 不放逸を実践する人は死なない。
 放逸の人は既に死んでいるに等しい。
         (ダンマパダ21)
 
 放逸(pamada)とは「死」という意味です。その反対の不放逸(appamada)が「不死」の道です。「放逸=死」であり、「不放逸=不死」への道です。
 「不放逸を実践する人」は死にません。不死になるということです。反対に「放逸の人」は既に死んでいるに等しいのです。

 では、放逸と不放逸とはなんでしょうか?
 不放逸とは、気づきを実践する人だけに使います。ヴィパッサナーを実践している人は実況中継しています。実況中継がサティ(sati)ではありません。あれはただ言葉を回転させているだけです。でも、言葉を回転させると、現在の現象についての気づきが現れてくるのです。「手を上げます、上げます、上げます」という場合は、手が上がっている感覚に気づいているのです。身体という物体が移動していることに気づいています。この気づくことが、不放逸なのです。

 他の人はいつだって放逸です。いつでも妄想しているでしょう。妄想は、ものすごく放逸的な生き方です。いわゆる「今」の瞬間にいないのですから。今、晩御飯のことを考えているなら、もう放逸です。
 今の瞬間からとびだして過去や将来に心が行ったら、お釈迦様はその人は「死んでいる」とおっしゃるのです。
 私たち一般人は「今に気づく」ということをほとんどしていません。お釈迦様から見れば、みんな死人だらけなのです。死人は何も知りません。ただ臭いだけです。放逸の人間も、死人のようなものなのです。
 そういうことで、サティの実践、気づきの実践を行なっている場合は、不放逸です。その瞬間、生きているのです。
 「手を上げます、上げます、上げます」「下げます、下げます、下げます、」「右足、上げます、運びます、下ろします」「左足、上げます、運びます、下ろします」と実況するその瞬間、確実に生きているのです。
 それでサティが身につき、サティの実践が成功したら、不死の境地です。いわゆる覚りに達しているのです。
 時間的にいえば、常に今の瞬間にいることが不死であり、時間がずれると、死人になるのです。


不死という言葉



 これから仏教的な見方を解説します。少し詳しく「不死」という用語の意味を説明しましょう。

 アマタ(Amata)というのは「不死」という意味で、涅槃や解脱に使う同義語です。一般社会で究極的によいものとされている「至福、安穏、寂静、無為、涅槃、不死」などの単語が、解脱を示すために使われているのです。

 お釈迦様は一般社会で使われている言葉を使われました。人間が、究極の幸せだと思っていることに使った言葉は何かと考えて、それを使ったのです。

 インドには結構、哲学者がいました。「生きるということは苦しいものである、大変なものである、生きることに意味があるのか」と考える人たちは、だいたい「人間にとって究極の幸せとは何か」ということも考えるものです。

 そこで、ユートピアという考え方をつくったのです。何でもそろっている世界。搾取は一切ない世界です。病に罹ることも、老いることも、死ぬことも無い世界です。人間はそれに、永遠の天国とも言うのです。仏教から見れば人間の希望的妄想であって、絶対にありえない場所です。

 それでお釈迦様は、人が妄想する意味ではなく、その単語だけを使うことにしたのです。「不死の境地」という言葉も、「涅槃」を示す同義語として使われました。そのようなわけで「涅槃」にはたくさんの同義語があるのです。

 もしお釈迦様が二十世紀や十九世紀後半あたりで生まれたならば、「ユートピア」という言葉を使ったかもしれません。ただ一般人が妄想するイメージではなく、「究極の幸福」という意味で、一般社会で使われている単語を使うのです。

 「涅槃」(ニッバーナ/ニルヴァーナ)という言葉は、インドの宗教にありました。サマーディという言葉もありました。でも誰も経験していないのです。

 それから、「ブッダ」という言葉もありました。これは「ブッディ(智慧wisdom/知識knowledge)」という言葉から作った名詞です。「ブッディ」というのはある状況のことで、「ブッダ」というのは人のことです。「ブッディ」(智慧)のある人を、「ブッダ」というのです。「サンマーサンブッダ」というのは、「完全な、何も欠けているところはない、パーフェクトの智者」という意味です。

 「ブッダ」という考えはあったのですが、経験した人はいませんでした。青い鳥や火の鳥みたいなかんじで、考えはありますが、誰も会ったことはありませんし、経験したこともなかったのです。

 それでお釈迦様ははじめて世の中に「ブッダになりました、修行を終了しました、知るべきことは知り終えました、煩悩をなくしました、不死なる境地に達しました」と、堂々と発表されたのです。

 疑った人もいました。結構いたと思います。だから仏教が広がったのです。疑った人たちは、今と違って隠れて裏で悪口を言うのではなく、行って、直接会って、話すのです。現代だったらインターネットでニックネームを使っていろいろ聞いたり、暴言を吐きたい放題吐いたりしています。そのような態度ではなく、堂々と目の前で、「あなたはブッダだと言っていますが、なぜそのように言うのですか」としっかり質問するのです。
 それでお釈迦様が説明したら、その人は理解して仏教徒になるのです。

 「ブッダ」とか「涅槃」という言葉はインドにもともとあったものです。でも、言葉だけで誰も経験していませんでした。お釈迦様は言葉だけでは意味がない、そこに達することができないのかと調べて、実践し、その境地に達したのです



3 「不死」と「不生」

 仏教の「不死」とは、一般的に考える「死なない」という意味ではありません。私たちが間違えるのは、この部分です。「不死」と聞いたとたん、「死なない」と考えるのです。そこが間違っています。

 私たちは、「死んだ後もどこかで生まれたい」とか、「この世の中で死なない状況がほしい」と思っています。これは他の宗教に見られることです。

 たとえば、キリスト教ではイエズス様がまたこの世の中に復活し、神を信じる人の完璧な世界をつくると言っています。でも、神がいつ来るのかは誰もわかりません。言っているのは、神が来てこの世の中で永遠の世界、いわゆる不死の世界をつくるとい
うことだけなのです。

 でも、人間は死にます。洗礼を受けても、毎日教会に行っても、お祈りしても、病気になるし、年をとるし、死にます。これが普遍的な事実なのです。

 イスラム教も、永遠の世界について教えています。イスラム教の一部の国々では、苦難が尽きません。お金はあるかもしれませんが、平和も、安らぎも、幸せもないのです。それでその人たちはこう考えます。「この世の人はみんな死にます。死んでから、天国に生まれ変わります。そこは不死の境地で、死ぬことはありません」と。

 このような考えはあまりにも事実からかけ離れています。生まれたものは必ず消えるのですから。「生きている」ということは、「消える」ということなのです。

 生きているから、お腹がすきます。ご飯を食べると、満腹になります。空腹が消えたのです。前の自分と今の自分は違います。変わったのです。満腹になったら、身体がだるくなるかもしれません。それで寝ます。身体が変わります。目が覚めると、またお腹がすいてご飯を食べます。このように、ずっと変化しているのです。この変化に、私たちは「生きている」と言っているのです。

 そこで、「死なない」とは、「変化しない」という意味になります。変化しないなんて、ありえるでしょうか?

 ありえません。歩いたり、話したりしたら、「変化した」ということです。神は永遠なり、と言っていますが、神は復活したり、いろいろなことをすると言っているのではないでしょうか。それは変化しているということです。したがって、永遠ではないの
です。

 ですから、あまりにもものごとを知らず、あまりにも欲や感情が強かったために、人々は「永遠」というおかしなことを考えました。本当は、「自分が死にたくない」だけなのです。それは認めたくありません。

 では、なぜ死にたくないのでしょうか? 
 それは、肉体に愛着しているからです。それで妄想して、「不死」という境地をつくるのです。


無常のおかげで生きている


 そこで、「自分は死にたくない、生きていきたいと思っているが、それはなぜか?」と少し考えてみると、「無常のおかげで生きている」ということがわかるでしょう。

 たとえば、つまらなくなったり落ち込んだりしたとき、音楽を聴きます。音楽の振動が耳に触れるたびに、脳の中で聴覚をつくって、気持ちよくしてくれるのです。これは、変化したということです。反対に、さっきまで笑っていたのに、別れの歌や悲しい歌などを聴くと涙が出ます。プロの歌を生〔なま〕ででも聴いたなら、涙が流れます。変化したのです。前の自分と今の自分が違うのです。

 「死なない」ためには、スチールのように、今の感情や身体が変化しないことにならなければなりません。そうすれば、身体は百年ぐらいはもつでしょう。

スチールも変化しますが、人間の身体と比べれば、変化のスピードはかなりゆっくりで、長い時間かかるのです。

 人間の身体はちょっとしたことで壊れるようにできています。ものすごくもろくて、空気を数分吸わなかっただけでも死んでしまうほどです。

 それで私たちは、この身体が壊れないように頑張っています。その頑張ることに、「生きている」というのです。

 俗世間から見ると、スチールは変化しないように見えますが、そのスチールも変化しています。すべてのものは変化するのです。

 むかし生きていた生物は、今、化石になっています。化石は石です。動物ではありません。動物の物質が全部溶けて消えてしまい、そのかわりに他の成分が入って石になっています。それで同じ動物の化石になるのです。化石は、私たちに見える変化はありませんが、ゆっくり壊れていきます。一万年くらいは残るでしょう。


 俗世間では「生は善」「死は悪」「不死は最善」


 俗世間では、生きることは善いことで、死ぬことは悪いこと、不死は最善とみています。みんな、「生きることはすばらしい」と思っているのです。では、死ぬことは? 
 「死ぬという言葉は使わないでください!」と言います。亡くなりましたとか、天国に行きました、極楽に行きました、往生しましたと言ってください、と言うのです。「死」という言葉はものすごく悪い言葉で、使ってはいけない、と思っているのです。

 このように、俗世間では「生きることはすばらしい、死ぬことは悪い、不死は究極的にすばらしい」と思っているのです。

 でも問題は、生きることは本当にすばらしいのか、ということです。

 そこでお釈迦様は、生きるとはどういうことか、結論に達するまで調べられました。そして、「生きることは苦である」ことを発見されたのです。「生きることが苦」なら、「不死は永遠の苦」になります。


仏教では「生も死も苦」


 仏教では、生も死も苦しみである、と教えています。この生と死を乗り越えることが「涅槃」であり、「不死」なのです。

 生と死とは、生まれた日と死ぬ日のことではありません。誕生を示す言葉は別にあります。子供が生まれるときのことをパーリ語で「ウッパッティ」と言います。その単語ではなく、似ていますが、ここでは「生」という意味の「ジャーティ」(jaati)という単語を使っているのです。

 死の場合は、何のおしゃれもなく、「死」という言葉を使います。

 仏教では「生」も苦であり、「死」も苦です。死ぬことだけが苦しいのではありません。生きることも苦しいのです。だったら、生死を乗り越えなくてはなりません。いわゆる、「不死」だけでなく、「不生」でなければならないのです。

 哲学者たちが間違えたところはここです。「不死」を謳いましたが、「不生」は謳いません。

 仏教では、涅槃とは「不死」だけでなく、「不生」にも使うのです。

 生きるということは「生」と「死」の連続です。何かが死んで、何かが生まれ、死んで、生まれ、死んで、生まれ、死んで、生まれ……この絶え間なく連続している流れにたいして、私たちはおおざっぱに、「生きている」というのです。


4 「命」の構成


 生きるということは、「生・死・生・死・生・死……」の流れです。「生まれたときの人」と「死ぬときの人」は別人です。「母親のお腹の中にいる赤ちゃん」と「生まれた瞬間の赤ちゃん」は違うのです。「生まれて外に出た」ということは、厳密に言うなら、お腹の中にいた赤ちゃんが「死んだ」ということなのです。死んで、瞬時に新たな赤ちゃんが生まれます。その赤ちゃんも、死にます。死んで、成長していきます。生まれて、死んで、生まれて、死んで、このようにずっと新たなものになり続けるのです。これがかなりのスピードで起こります。あまりにも早いですから、私たちには変化していることに気づかないのです。


呼 吸


 生きている人は誰でも、呼吸をしています。息を吸って吐き終わったら、それが「生」と「死」であり、一つの命なのです。
 
 吸うことにも、吐くことにも、「生」と「死」があります。生まれて消え、生まれて消え、生まれて消え続けているのです。息を吸い始めたら、吐く状況が消えたということです。新たな状況が生まれます。吸い終わったら、吸っていた状況が消えて、今度は吐くことになるのです。
 
 ものを「見る」ときも同じです。データが絶えまなく流れてきて脳に入り、そのデータをまとめて視覚にします。これはあまりにもスピーディに起こりますから、私たちには瞬間瞬間変化していることがわからないのです。

 脳の中ではものすごいスピードで電気が流れています。あちこちの神経細胞に信号を送り、また別のところで処理をして、それで視覚という幻覚をつくっているのです。本当は目に何が見えているのか、脳は知りません。

 そこで、集中力をつくるなら、「ものごとが生まれて死に、死んだらまた生まれる」ということがわかるでしょう。「死んだもの」と「生まれたもの」は同じではありません。ちょっと違うのです。

 誕生したときの私は、今もうここにいません。身体は生まれて死に、死んでまた生まれ、常に変化しています。生まれたものは死んだものと異なるのです。子供のときは結構早く成長しますから、変化がわかりやすいものですが、大人になると変化していることはほとんどわかりません。だいたい十年ぐらい経ってからやっと「身体が変化している」ことに気づくのです。

 いろいろな音が耳に入ってきます。そのたびに身体全体が変化します。空気が身体に触れるたびに、身体全体が変化します。光が目に当たるたびに、身体全体が変化します。映画を見ていると、身体がずっと変化しています。だから、映画の話に引き込まれて、のってしまうのです。気持ちがどんどん変化していきます。身体も変化しているのです。

 実際、私たちの「命」は、秒単位で減っています。毎秒毎秒、年をとっています。瞬間瞬間、変化しています。この変化に、「生・死」というのです。

 そういうわけで、「生」があったら次は「死」です。ものごとは「瞬間」しか成り立ちません。因果法則を発見し、理解すれば、このことがすぐにわかるでしょう。生まれて消え、生まれて消えているのです。
 
 ヴィパッサナー瞑想が上達すると、生まれて消えていることが明確に見えます。「生」と「死」が見えるようになっているときは、ほとんど「自分」という気持ちは消えています。このとき何を確認しているかというと、「生まれて消える」ことです。これを確認するのに、ものすごく忙しいのです。このように確認を続けていき、集中力が壊れなかったら、もう数分で覚りに達するでしょう。
 
 そこで何が言いたいかといいますと、前号でお話した、人間が抱いている「永遠」という概念、「天国かどこかに生まれて永遠に存在するという考え」はあまりにもおかしいということです。それは夢物語にすぎません。現象の世界では絶対にありえないことです。私たちは「無常」ということを理解できずにいます。生まれた者は必ず死ななければならないのです。


生死・命・魂・死後


 誰でも「生」を実体としてとらえ、「生きることは最善である」と信じて執着しています。生きることに愛着しているのです。
 
 他方、「死は最悪だ」と考えて、極端に怯えています。自分の大事な命が壊れると考えただけで、怯えるのです。でももし「命に実体があり、永遠のもの」であるならば、壊れるはずがないでしょう。
 
 仏教は、「魂や霊魂、アートマンなど絶対に変化しない、永遠不滅の実体があると信じることは誤解であり、錯覚である」と教えています。

 他の宗教では、絶対に変化しない実体がある、と言っています。でも、絶対に変化しないものがあるならば、何よりも先に、いたって簡単に見つかるはずでしょうが、どこを探しても見つかりません。
 
 私たちは「変化するもの」でできているのです。考え方も、気持ちも、感情も変化します。年齢も変化し、健康も変化し、すべてのことが変化します。ちょっと音が耳に入っただけでも、身体全体が変化するのです。

 ですから調べてみるなら、「存在するものはすべて変化する」ということがわかるでしょう。要するに、「変化が命」なのです。変化は限りなく続くものだと発見している人であるならば、命は絶えず続くものである、と言っても問題はありません。しかし、変化を発見した智者は、誤解を招きやすい単語を使わないのです。命とは永遠なものではなく、変化・無常を示す類義語であるべきです。変化しないものは何も見つかりません。お釈迦様は、「命」を分析して、徹底的に調べられたのです。

(続きます)



文責/出村佳子


 

 


   

Sabbbe satta bhavantu sukhitatta