故人の供養

スマナサーラ長老 法話

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 精神の栄養剤


 ムディター(Muditaa)とは、精神を成長させる栄養剤です。この栄養剤は外から取り入れるものではありません。心がつくりだすものです。少々訓練さえしておけば、ムディターという栄養剤はいくらでもつくれます。成長に必要な栄養に困っていなければ、人が成長するのは当たり前の話でしょう。 

 どんなものにも何らかの副作用があるのは当然です。しかし、例外もあるのです。身体を健康に保って成長させるために、私たちは栄養に富んだ食べものを食べています。しかしこの食べものが持つ副作用によって、身体が成長するとともに、壊れていったり、病気になったりもします。一部の人間は、ハイになるために痲薬を服用します。結果は早いですが、危険性はあまりにも大きいのです。

 しかし脳と身体を刺激して活発にするために、脳は脳の中で痲薬に似た化学物質をつくります。そちらに副作用はありません。身体を治して活発にしてくれるだけです。「脳はデータを処理して身体を管理するだけでなく、薬を製造することも行なっている」と聞いたことがあります。脳がつくる薬には、危険な副作用はないのです。自分の身体にぴったり適合する薬なのです。

 このように説明したのは、ムディターは心がつくりだす栄養剤なので、心が成長するためにぴったり適合する薬である、ということを理解していただくためです。要するに、ムディターはあればあるほどよいものなのです。これから、ムディターとはどのようなものか、どのようにムディターを製造するのかを考えていきましょう。

 まず、ムディターとは何なのかと理解しましょう。ムディターとは「喜び」という意味です。喜びなら、知っていますね。それはどうでしょうかと疑問です。みんな喜びの意味を知っているならば、悩んだり苦しんだり失敗したり後悔したりして人生にダメージを与えないでしょう。人はだれでも、大成功を収めることでしょう。私たちが知っている喜びと、心の栄養剤である喜びは、もしかすると少々違うのかもしれません。似ているところはありますが同じではない、と理解したほうがよいのです。ムディターを学ぶ前に、ムディターの敵について学んでみましょう。
 

「嫉妬」という細菌

 ムディター(Muditaa)というのは、「喜び」のことです。ムディターの反対が「嫉妬」で、イッサー(issaa)と言います。誰にでも経験がある感情です。嫉妬によってみじめな思いをした経験は誰にでもあるのです。仏教が嫉妬は悪いと声を高くして言う必要はありません。嫉妬はよくない感情であると、世間も一般的に認めているのです。

 皆が知っている概念に定義をするのは余計なことですが、仏教はどんな用語にも定義をしてから説明するのです。言葉の意味が曖昧だったら、理解も曖昧になります。理解が曖昧だったら、思考も話す言葉も行う行動も曖昧になります。何ひとつ正しくおさまらなくなります。ですから嫉妬を定義しましょう。「相手の幸福・喜び・成功・長所などを素直に認める気持ちにならないこと」が嫉妬です。相手の幸福に対して嫌な気持ちが生まれるので、嫉妬とは怒りの変身なのです。


発見できない嫉妬

 自分の心に嫉妬があるかないかと知るためには、他人と人間関係を結ぶ必要があります。人間関係によって、嫉妬が表れるのです。孤独生活をすると、嫉妬という敵に顔を出すチャンスがなくなります。表に出ないで敵が隠れていると、敵を倒すチャンスも失います。

 ときどき独りで生活している出家のお坊さんがいますが、それは結構やばいのです。独りで生活していると、自分に嫉妬心があるかどうかがわからないんです。発病しなければ、治療することもできません。ここは、出家の世界では気をつけなければならないところです。冥想しても手応えのある成長がない、というケースもあります。それは自分の心で睡眠状態にある汚れが表れてこないからです。修行者は、自分の心には汚れがないと錯覚します。必要な対策も講じることができなくなります。孤独生活をする場合は、起こる可能性がある嫉妬に、表に出てくるチャンスがなくなるのです。そこで心の成長にストップがかかります。修行者は、成長がないことに悩むのです。

 出家修行する人びとは、俗世間的な煩悩を抑えています。それはよく知っているので、表われないように正しく気をつけているのです。問題は潜在煩悩です。活性化していませんが、潜在煩悩があることに気づかなくてはいけないのです。仏教は完全な孤独生活を認めないようです。出家は孤独生活をする、と言いつつも、サンガとして調和を保って仲良く活動するようにと戒めているのです。それは真理を知り尽くしたお釈迦様の完璧なアドバイスだと思います。潜在煩悩が表に出るためには、人間関係は欠かせません。他人と一緒に生活すると、二人の怒り・嫉妬・欲・落ち込み・後悔などが出てくるのです。社会生活を捨てて出家生活をする比丘たちに、お釈迦様がサンガという社会組織を提供しました。完全孤独にはなりません。それはお釈迦様の、「出家した皆が解脱に達してほしい」という慈しみの心だと思います。

 微妙にでも嫉妬が出てくるケースを考えてみましょう。森の中でお坊さんたち数人が一緒に生活しているとしましょう。ちょっとしたことなのですが、そうじをするとき、他のお坊さんを見て、「あの人はそうじがとても上手ですね。自分にはあんなにうまくできません」と思ってしまうのです。自分も上手に掃除したいという気持ちであるならば、悪い気持ちではないのです。自分の腕をあげる気持ちもないのに「あの比丘は掃除が上手です」と思う気持ちのなかに、嫉妬が隠れている可能性があります。ですからその瞬間でその比丘は、自分の心に表れた感情が汚れた感情か清らかな感情かとチェックしなくてはならないのです。

 声が美しいお坊さんがいるとしましょう。そうすると、在家の方々はそのお坊さんのところに行って話を聞くようになります。自分のところには誰も来ない。自分には明確に質問に答える能力もあって、仏教を学んで憶えているのです。しかし皆、声が美しい比丘を訪ねるのです。面白くない気持ちが起きてきます。「私の答えは仏教に合っているでしょうか?」くらいでも、自分に訊いてくれても構わないだろう、という気持ちが起こるのです。これは、このお坊さんにとっての赤信号です。微妙に嫉妬が表れているのです。その嫉妬を直ちに処理しなくてはいけないのです。

 このように、ちょっとしたところで嫉妬が表れますが、嫉妬している当人にたいして、「それ、嫉妬だよ。気をつけろよ」とはなかなか言いづらいものです。俗世間の嫉妬とは違って、ものすごく微妙な嫉妬ですから。言ったとしても、その人は「これは嫉妬じゃありません。あの人は仏教のこと、あんまり学んでいないでしょう。仏教のことをよく知っている先輩の長老たちがいるのに、なんであの人が在家の方々に説法をしたり、質問に答えたりしているんですか。長老たちをばかにしているのではないですか。私は正しいことを言っているだけです」と自分を正当化するのです。これは嫉妬を隠して嘘を言っているわけではありません。自分の心に表れたいやな気持ちは、相手の比丘にたいする哀れみ(karuzq)の気持ちだと思っているのです。俗世間の嫉妬ならばわかりやすいのですが、この微妙な嫉妬の発見はむずかしいのです。しかし微妙であろうが強烈であろうが、嫉妬は心のヴィールスです。破壊力は同じです。俗世間では、微妙な嫉妬は時間をかけてゆっくり精神を破壊します。解脱を目指して修行する比丘たちにとっては、大変危険な感情です。修行しているのに、解脱に達するどころか精神的に成長することも止まってしまうのですから。直ちに処置しなかったら、精神破壊は免れません。


役に合わせて衣装替えする煩悩

 煩悩とは、心の汚れのことです。人が期待する幸福を壊して、不幸に陥れる働きを担っているから、煩悩と言うのです。心の汚れは、貪瞋痴の三つです。憶えやすいのです。一般的に、三毒とも言います。解脱に達しない限りは、心の中に貪瞋痴が活動しているのです。皆だいたい自分の心に貪瞋痴があることを認めています。しかし四六時中、欲・怒り・無知に絡まれて生活しているとは思っていません。たまに欲が出ます、たまに怒ります、たまに無知なこともします、とこのように思っているのです。皆の経験だから、それはそのとおりかもしれません。しかし、欲が欲の顔ではなく、別の顔になって悪さをする場合もあります。怒りも無知も、場合によって別の顔を出すのです。煩悩は一五〇〇あると一般的に言われています。詳しく調べれば、煩悩は一五一〇あるのです。それは、貪瞋痴という三つを合わせて一五一〇の顔を持っている、という意味です。
 
 別の顔を出すと言うと、少々理解がむずかしいので、たとえを変えます。貪瞋痴が「衣装替え」をして別々の仕事をするのです。欲は、欲以外の仕事をするとき、その仕事に適した衣装替えをするのです。それで一五〇〇種類の衣装替えになります。心を清らかにすることを目指す場合、一五〇〇種類の煩悩を理解しておけば、敵退治はうまくいくのです。
 
 今回のテーマはすべての煩悩ではなく、嫉妬という煩悩です。怒りが、怒る仕事ではなく、他人の幸福を認めないという仕事をするのです。衣装替えしてるのです。それが嫉妬ということです。嫉妬とは、衣装替えした怒りのことなのです。
 
 貪瞋痴の衣装替えは、修行者にとっては大きな問題です。理解しなかったら大変なことになります。煩悩の衣装替えについて学ぶことは、出家者だけではなく一般の方々にも役立ちます。先ほどだした声のきれいな出家者の例をもう一度考えましょう。その人のところにたくさんの在家者が集まって説法を聴くことにたいし、同業者である比丘が嫉妬したのです。しかし本人は嫉妬が生まれて心が汚れたと気づいていないかもしれません。汚れた嫉妬ではなく、清らかな哀れみ(karuzq)が生まれたと勘違いすることもあり得るのです。他の人が尋ねたら、「一方的に説法するのではなく、長老たちのアドバイスも訊いて、よく学んでから説法したほうがいいと思っている」と答えます。本人が勘違いしているのです。
 
 煩悩は衣装替えをする、形を変える、注意しておかないと発見できない、と理解しなくてはいけないのです。

 もう一つ例をだしましょう。人間は何か失敗したら、「後悔」します。でも、それは悪いことだと思っていません。誇らしげに「私は後悔していますよ」と発表するのです。後悔は自慢するべき感情ではありません。怒りが衣装替えをしたのです。「後悔とは怒り?」と疑問に思うでしょう。そのとおりです。衣装替えがあまりにも上手で、本当の姿が見えなくなっているのです。また後悔とは反省だと、勘違いもしています。ですから、煩悩の衣装替えについて学ばないと、心を完全に綺麗にする仕事ははかどらないのです。 


怒りの顔

 怒りの顔は主に四つあります。怒り(dosa)、嫉妬(issaa)、物惜しみ(macchariya)、後悔(kukkucca)です。怒りが、この四種類の顔を持っているのです。もとは同じ怒りです。でも変身して、嫉妬になったり、物惜しみになったり、後悔になったりするのです。もとの怒りが、その場の状況に合わせて衣装替えします。衣装替えをすることで、別の役柄に変わるのです。

 嫉妬とは、怒りが化けたものです。ですから、役柄に惑わされないようにしなければなりません。王様の衣装を見て「王様だ」と思うのではなく、「衣装には惑わされません。王様に化けているだけです。本人はこの人です」と理解することが大切なのです。          


共通点は反抗的態度

 怒り、嫉妬、物惜しみ、後悔には共通点があります。それは、怒りであろうと、嫉妬であろうと、後悔であろうと、物惜しみであろうと、「反抗的な態
度」をとるということです。「反抗的な態度」というのが、怒りの本性なのです。
 私たちにはいつでも「自分」という軸があり、この「自分」を中心にしてすべての煩悩がまわっています。それで仏教は、「自我の錯覚をなくしなさい」
と教えているのです。錯覚をなくすと、煩悩がすべて落ちます。ですからこの「自分」という言葉に気をつけなくてはなりません。「自分」があるから、さ
まざまな怒りが生まれてくるのです。


○怒り(気に入らない)

 「自分」がおかれている状況や環境、周りの人たちが気に入らない、と思っている場合、そのときの反応は、「怒り」です。「気に入らない」「いやだ」「合わない」と思ったら、それは正真正銘の怒りなのです。


○嫉妬

 「自分」よりも他人のほうが優れていると感じたときの反抗的態度は、「嫉妬」です。
 だいたい「自分」よりも他人のほうが、きれいだったり、かっこよかったり、仕事がうまかったり、優れていると感じたりすると、おもしろくないという
気持ちが生じます。それが嫉妬です。「私よりもあの人のほうが偉い、能力がある」と思うことが事実であるならば、一向にかまわないのです。しかしそれによって自分に「気に入らない」という暗い気持ちが起きたならば、嫉妬になります。人の能力を認めることで、明るい気分になります。人の能力が気に入らないと、暗い気分になります。自分の能力もさらに減ってしまうのです。


○物惜しみ

 「自分」が優位な立場にあり、他の人にその能力や物、財産などが必要なとき、「物惜しみ」で反抗することです。
自分がよい立場におかれている場合には、周りのことを心配しなくてはなりません。後輩のことを心配したり、知らないことを教えてあげたり、いろいろアドバイスをしてあげなくてはなりません。自分が物や財産を持っているなら、持っていない人に必要なものを分けてあげなくてはなりません。
 このとき、物惜しみが割り込んでくるのです。それで反抗的になり、「私が苦労して勉強したのに、なんで教えてあげなくてはいけないのか」、「私が一生懸命働いて稼いだ大事なお金を、なんでこの人たちにあげなくてはいけないのか」という態度をとるのです。自分が優位な立場にいるのですが、分け合いたくないのです。これを仏教では「物惜しみ」と言います。怒りが化けているのです。

○後悔

 「自分」が何か失敗したりミスしたとき、「後悔」で反抗することです。
 仕事があまりうまくいっていないとしましょう。間違った判断をしたり、失敗したりしています。私たちはその失敗にたいして反抗的な態度をとります。「なんで私がこのような失敗をするのか。なんでこんなことをやってしまったのか」などと考えると、心が暗くなります。犯した失敗にたいして怒りがこみ上げてくることを、「後悔」というのです。
 このように、怒りが衣装替えをして、主に四つの感情に化けます。でも四つだけではありません。まだたくさんありますが、この四つは代表的なものなのです。


怒りの原因

 そこで、この怒りのおおもとの原因はなんでしょうか?


○自分が偉い存在だと思う錯覚

 どんな生命も、本能的に「自分は偉い」と思っています。思っていると言うと、間違いです。本能として、その気持ちがあるのです。思うことよりも、根深い。誰でも「自分が偉い」という前提で生きています。あまりにもそれがあたりまえになりすぎているため、そのことにもう気づかないのです。
 すべての生命には、ある精神的な病気があります。それは、「自分が偉い」「自分は唯一の存在である」と、自分を高く評価することです。これはなかなか消えません。どんな生命も、このような態度でいるのです。これは病気です。だから治療しなければ治らないのですが、誰も治療しようとしません。なぜ治療しないかというと、自分がそんな態度で生きているということに気づかないからです。「我こそ偉い」という態度で生きていることに、全然気づかないのです。


○生命を平等だと認めないこと

 人はいつでも差別をしています。「生命は平等だ」と言っていますが、それは口先だけで、本心では認めていません。生命が平等であることは認めていませんし、差別意識が強い。結局のところ、自我を肯定したいのです。


○無明から起こる妄想

 まず、私たちには「真理を知らない」、「ありのままの事実を知らない」という「無明」があります。真理を知らないから、妄想するのです。お釈迦様は妄想しません。必要に応じて論理的な思考を働かせますが、そのときも「このような思考が生まれました」と、しっかり知っているのです。
 私たちは、「自分が妄想している」ということも知りません。妄想しなければ、生きていられないほどです。無明があるかぎり、かぎりなく妄想が回転しつづけるのです。
 「無明」というのは、自我の錯覚のことです。無明があるから、「私が偉い」と思うのです。でもよく観察してみると、一切のものは無常・苦・無我ですから、そこには何も実体はありません。「私」というのは、錯覚です。でも、錯覚ということは知らないでしょう。それで「自分がいる」と考えて、妄想を回転し始めます。妄想の結果、怒りや嫉妬、後悔、落ち込みなど、いろいろなものが出てくるのです。


「自分探し」は時間のロス

 お釈迦様が説かれた真理を理解して実行すること以外に、「無明」を治療する方法はありません。世の中の何を勉強しても、治らないのです。最近まで日本の社会では、よかれと思って「アイデンティティ探し」や「自分探し」などをやっていました。若者たちに、「自分の好きなように生きなさい」と言い、それで結局どうなったかというと、社会で生きられない、だらしない性格の若者たちが増えてしまったのです。仕事ができません。社会や経済の影響で仕事がないということは個人にはどうしようもないことでしょうが、仕事をしてもすぐにやめてしまうとか、続かない、やる気がない、怠けたい、というのは、能力がないということなのです。

 若者たちが、存在もしない「自分」探しのほうへ行かずに、「努力して能力を向上させ、社会に貢献することが仕事である」と正しく考えることができるなら、能力は出てくるものです。能力がどんどん冴えてくると、仕事があります。社会が変わっても、経済状況が変わっても、新しい仕事は生まれてくるものです。心配することは全然ありません。
 ですから、自分のアイデンティティという、へんなものを探しているのだから、能力がなくなってしまうのです。時間のロスです。これは人間が自分のし っぽを探しているようなものです。いくら探しても、もともとしっぽなどないのですから、見つかりっこないでしょう。それで死ぬまで探す羽目になるのです。
 「自我があるはず」とへんな前提をつくって、「自我がある」と、いきなり言うのです。宗教の本を並べてみてください。まず「魂や霊魂があります」と言っているものが多いでしょう。へんな屁理屈で、「ある」ということから言い始めるのです。

 でも、すべきことはまず、「ある」ということの証拠を出すことです。科学者なら、ちゃんと証拠を出します。データを探して、調べて、その結果「あるだろう」と言うのが普通なのです。
 「データはない。でも自我はある」と考えて、それから「データのない自我」について話すというのは、あまりにも変です。「証拠はないが、自我は存在する」「証拠はないが、神はいる」と平気で言うのです。これが無知ということなのです。


貪瞋痴は生命の本能

 むかしから、「嫉妬は悪い性格だ」ということは誰でも知っていました。にもかかわらず、人の心から嫉妬がいっこうになくなりません。なぜでしょうか?
 それは、嫉妬の治療法を知らないからです。なぜ知らないのかといいますと、これは自我の問題です。生命には貪瞋痴(欲・怒り・無知)があります。

 貪瞋痴が心の本能なのです。生命の本能は、貪瞋痴であり、この本能のせいで嫉妬の治療法を発見することができないのです。

 そこで、本能の問題を解決するためには、抜本的な改革が必要です。本能を治療するのですから、相当大変でしょう。医学の世界の遺伝子研究のように、非常に複雑なことなのです。人間のゲノムまで変えて治療するといったら、これは相当大変で困難な仕事です。同様に、本能を治療することも大変困難な仕事なのです。


土台は壊せない

 私たちは、貪瞋痴の土台の上で生きています。自分が立っている土台ですから、この土台を壊すことはできません。できるはずがないのです。
 ですから、「嫉妬を発見しました。だから嫉妬しないようにしましょう」と思ったとしても、実際のところ、どうすればいいのかわからないのです。それで結局、嫉妬する羽目になるのです。
 私たちはいつでも貪瞋痴に基づいて生き、貪瞋痴の本能にしたがって、貪瞋痴の衝動で生きています。貪瞋痴から生じる嫉妬などの感情をなくそうとしても、できるはずがないのです。


煩悩を正当化することが問題

 ほとんどすべての宗教が、煩悩を正当化しています。煩悩をなくせるとも、なくすべきとも思っていないのです。
 たとえば、神を信仰する宗教では「永遠の天国がある」「永遠の魂がある」「神を信じる者だけが救われる、信仰しなさい」などと言って、自我を正当化しています。
 それで信者さんたちは「自分たちだけが救われる、特別だ、勝利者だ」などと優越的な気分になって威張ったり、「どうだい、私は幼稚園のときから洗礼を受けているんだよ」と自慢したりするのです。また、信仰していない人のことを軽視する人もいます。私たちから見れば、なんでそんなことするのか、もっと理性的に生きたらどうか、と思うのですが。

 神を信仰する人は、よく社会で慈善活動を行なっているようです。でも、自分の心の煩悩をなくそうとはしません。
 どこかの貧しい国の人々を積極的に助ける活動はしているようですが、あれはキリスト教の教えから見れば違反でしょう。神の失敗を直しているのですから。神を信じる人たちに聞いてみてください。「全知全能の神が創造したこの世界に、なぜ不幸があるのでしょうか? なぜ差別があるのでしょうか? なぜ苦しんでいる人がたくさんいるのでしょうか?」と。
 そうすると、彼らはこう答えるでしょう。「神はあなたがたの愛を試しているんです」と。
 助ける側は試されても問題ないでしょうが、不幸の立場に置かれた側はどうでしょうか? 残酷でしょう。誰かの愛を試すために、もし自分が一生不幸を背負って生活しなければならないとしたら、それはひどい話です。
 神を信仰する人はボランティア活動をよくやっているかもしれません。でもそれは、神に認められたい、褒められたい、という気持ちからやっていることが多いのです。そして自我をどんどん膨らませていきます。煩悩をなくすことや、心を清らかにすることは管轄外にしているのです。ヒンドゥー教も同じです。

 日本にはたくさんの宗教があり、さらに新しい新興宗教もあらわれています。でも、どんな宗教が出てきたとしても、「心を清らかにする方法」を知っている人はいないのです。
 日本では、先祖供養しなさいとよく言っています。なかには、先祖成仏供養というものをつくって、信者さんから多くのお金を貰っている宗教もあるようです。「あなたのひいおじいさんが成仏できないでいるから、あなたがいま不幸になっている。成仏させなくてはいけない」などと言われると、信者さんたちは、いとも簡単に信じてしまいます。それで多額のお金がなくなってしまうのです。

 以前、私はある人からこのような質問されたことがあります。「不幸を追い払うために先祖供養をしたほうがいいと言われたのですが、かなりお金がかります。どうしたらよいでしょうか?」と。
 私はこのように言いました。「あなたの先祖が、死んでからもあなたを怨んで不幸にしているような性格なら、そんなちっぽけな供養をしたぐらいで、性格は直りませんよ。ほうっておきなさい。それよりもお金があるなら、なんで被災地に行って寄付しないんですか。お金や物品を寄付したり、自分にできることをして何か助けてあげて、その功徳を先祖に回向してください」と。

 ポイントは、誰も「心の汚れをなくす方法は説いていない」ということです。ヒンドゥー教では、心の汚れを落とせば梵我一如になります、と言っていますが、その方法を見ると自我を肯定する修行を説いているのです。「私」が神と一体になるということですから、相当の自我です。嫉妬とは、自我から現れる一つの枝です。自我をなくすのではなく、肯定する方法を説くと、嫉妬をなくすことが不可能になるのです。宗教家も一般の人々も、嫉妬はよくないと一貫して認めています。嫉妬がよくないと分かっただけで消えて無くなってしまうものなら、そんなに嬉しい話はありません。


世の中は弱肉強食

 生存欲と自我愛着が強い生命は、弱者を壊して生き続けます。「生きる」ということは、いつでも弱者をつぶして、いじめることなのです。これはなかなか治りません。人間は、魚や鳥を食べています。魚も鳥も、人間より弱い生きものでしょう。だから簡単に殺して食べます。もしニワトリがライオンのように強かったらどうでしょうか? 追いかけられたら、もうどうしようもありません。捕まえられて、こちらが食べられてしまうでしょう。

 弱者は強者に嫉妬か恐怖を抱く相手が弱者なら、つぶします。イワシやサンマなら、取って丸焼きにして食べます。では、サメだと? こちらが脅えて逃げるのです。これが生命のやり方です。サメには恐怖を感じるのです。
 サバンナで自分勝手にひとりで散歩したところ、ライオンに出くわしたら、ものすごく怖くなって、足がすくんで、恐怖を感じるでしょう。それは、ライオンが強者で、人間が弱者だからです。

 では、人間同士ではどうでしょうか? 人間のあいだでも、強者と弱者がいます。相手が弱いなら、いじめたり、貶したり、こきつかったり、きりがありません。相手が強いなら、怖くなって逃げるか、嫉妬するのです。
 会社の同僚に強者(成功者)がいたら、その人にたいして嫉妬します。「同じ時期に入社したのに、なんであいつだけ昇進するんだ」と考えて、嫉妬するのです。壊すこともつぶすこともできない相手にたいしては、嫉妬や恐怖感を抱くのです。これが人間の生きるパターンです。
 ここまでの説明で、嫉妬はどのように現れるものかと理解できたと思います。弱肉強食の存在の中では、強者(成功者)に対して恐怖感か嫉妬がおのずと現れるようになっているのです。

 嫉妬をなくすためには、嫉妬が現れる原因を理解する必要があります。自我をなくせば全ての問題は解決しますが、それは時間のかかる修行になります。お釈迦様が推薦する「ムディターの実践」が、嫉妬をなくす唯一の方法です。ムディターを実践すると、まず嫉妬がなくなります。それから、エゴという錯覚も徐々に薄れていきます。ムディターとは、一切の生命に対して喜びを感じることです。
           
 
すべての煩悩が同時に機能するわけではない

 私たちには誰でも、貪瞋痴の煩悩があります。この貪瞋痴は一五一〇種類の衣装替えをします。でも、ひとりの人間が一五一〇の煩悩すべての衣装替えをしているわけではありません。嫉妬は誰にでもありますが、人類みながいつでも嫉妬しているので
はないのです。憎しみは誰にでもありますが、すべての人間が常に憎んでいることはありません。欲は誰にでもありますが、すべての人が欲で頭がいかれているのではありません。煩悩は一五一〇種類ありますが、機能するのは一部だけなのです。


状況によって悪い性格が表れる

 貪瞋痴は、その都度その都度、何かに変身して表れるものです。人を殺したことがない人でも、もしかするとその状況に嵌められた場合、殺してしまうことはいくらでもありうるのです。
 たとえば、夜寝ているとき家に泥棒が入ったとしましょう。「大変だ、見つかったら殺される」と脅えて押入れかどこかにじっと隠れる人もいるでしょうし、「やばい、こいつを追い出さなくちゃ」と包丁を持って凶暴になる人もいるでしょう。どんな煩悩が表れるかは、人によって異なるのです。

 「コラッ、何しているんだ!」と泥棒にたいして野球バットを振りまわし、脅して追い出そうとしたところ、泥棒が包丁を持っているのを見たとします。包丁を見た瞬間、思いっきり泥棒を殴るのです。ほどほどにしましょう、ということはありませ
ん。力いっぱいぶん殴り、それで相手を殺してしまう可能性もあるのです。

 私たちの心は、そのようなものです。いろいろな状況や環境によって、一五一〇の煩悩が「私の出番だ」と役に合わせて衣装替えをし、表れてくるのです。
 一度も嫉妬したことのない人が、七十歳になって嫉妬する可能性もあります。ある男性が定年になり、足が弱くなって車椅子の生活をしなければならなくなったとしましょう。一方、奥さんのほうは元気です。友だちとどこかへ出かけたり、社会でいろいろな活動をしたりして、全然家にいません。そうすると、旦那さんは嫉妬する可能性があるのです。

 自分の奥さんだから家にいてほしいし、自分のそばにいてほしい。でも、奥さんは社会で元気に活動しています。それで嫉妬するのです。これまで一度も奥さんにたいして嫉妬したことがなかったのですが、あるとき嫉妬が顔を出します。状況が変わったのです。

 このように、状況によってどんな煩悩が出てくるかは、わかったものではありません。ですから、これは危険だと思ったほうが一番正しいのです。どんな感情やどんな気持ちが生まれてくるかは、わからないのです。


繰り返すと心は慣れる 

 欲、怒り、嫉妬、落ち込みなどが繰り返し生じると、心はそれに慣れてしまいます。これはとても危険なことです。性格というのはそのようなもので、繰り返すことによって「個」の性格が成り立っています。簡単に破壊の悪循環に陥るのです。

 自分よりも強い人を見たら、嫉妬します。自分よりもかっこいい人を見たら、また嫉妬します。自分よりも仕事のできる人を見たら、また嫉妬します。このように嫉妬の感情が繰り返し起こると、嫉妬のプロになるのです。

 映画やテレビドラマで悪役ばかりを演じている俳優さんがいるでしょう。いつでも悪役を演じていると、その役柄がどんどん上手になっていきます。やがて、悪役のプロになるのです。正統派の役柄もそれなりに演じられるでしょうが、仕事はありません。あるのは悪役だけです。それで悪役だけをワンパターンで演じるのです。いつでも悪役の仕事がまわってきますから、とても腕のいい上手な役者になります。その人にかなう人はもういません。悪役の専門家になるのです。いとも簡単に悪役をやってみせます。主役よりもインパクトが強い場合も結構あるのです。

 これと同じように、心で同じ感情を繰り返していると、その感情に慣れていきます。ある環境で怒ったら、それと似た環境で怒る、とプログラムされます。心は簡単にプログラムされてしまうのです。

 「寒いのはいやだ」と思ったら、寒くなるたびにいやな気分になります。ときどき寒くないにもかかわらず、「寒い、寒い」と言う人もいますが、温度計を見ると二十度もあるんです。でも、「寒い」とプログラムされていますから、頭が鈍くなって「寒い」と感じるのです。

 同様に、嫉妬を繰り返すと、心が嫉妬に慣れます。慣れると、自動モードで次の場面でも嫉妬するようになります。そうやって自分の性格になっていくのです。そうすると、どうでもいいものにたいしても嫉妬するようになり、他のことはできなくなります。これは恐ろしい悪循環です。一回嫉妬したら、二回目は簡単に嫉妬します。三回目はもっと簡単に嫉妬できます。四回目からは嫉妬せずにいられなくなるのです。嫉妬そのものになってしまいます。これはすごく恐ろしい煩悩の働きなのです。

 怒りや嫉妬、憎しみは、破壊のエネルギーで、自己を破壊します。いったん壊れたら、もうどうしようもありません。原発が壊れたようなものです。
 人間の心は「歩く原子炉」のようなものです。よく注意して扱わなかったら、どうなるかわかりません。心はウランのように連鎖反応を起こして同じことを何度も繰り返してしまうのです。

 貪瞋痴で生きているあいだは、この連鎖反応を制御することはできません。この貪瞋痴の反対の「自己制御」を教えているのが、仏教です。お釈迦様はいまだかつて誰にも発見することができなかった「制御の仕方」を発見され、人々に教えられました。苦行や断食は結構誰でもやっていることですが、それでは自己制御にならないのです。


「嫉妬はよくない」という世論に説得力はない

 世の中ではよく「嫉妬はよくない」と言っています。でも、その言葉に説得力はありません。なぜ説得力がないかというと、ただ「よくない」と言っているだけで、嫉妬の原因を発見していないからです。

 母親は子供に「嫉妬してはいけません」と言いますが、その母親の言葉には説得力がありません。その証拠に、子供はずっと嫉妬しているでしょう。母親は「嫉妬はよくない」とわかっていますが、「このような原因で嫉妬します」ということを知らないのです。ですから子供に「嫉妬してはいけない」といくら言っても、子供は聞き流します。「これから嫉妬しないように頑張ります」と思うことはないのです。

 私たちは他人にたいして簡単に嫉妬を抱きますが、嫉妬されるのはいやなんです。なぜかというと、嫉妬する人は自分のいないところでどんな噂話を流すのか、どんな落とし穴を掘るのか、わからないからです。それで、危険を感じるのです。

 私たちは平気で他人のことを嫉妬しますが、自分が嫉妬されるのはいやなものです。それで「嫉妬はよくない」と言うのです。はっきり言うと、みんなが言っていることは、「あなた」は嫉妬をしてはいけない、ということで、「私」は嫉妬をしてはいけない、ということではないのです。宗教が言っているのはそういうことでしょう。神は「汝、殺すなかれ」と言っていますが、神やその信仰者は残酷に人を殺しています。これっておかしいのです。

 世論というのは、「汝、するなかれ」です。母親が息子に「嫉妬してはいけません」と言ったとき、もし息子が母親に「お母さんは誰にも嫉妬しないの?」と聞くと、たいがい母親は怒るのです。

 世の中の道徳とはそのようなものです。「お前がやりなさい、私はやらなくてもいい」と。これは道徳ではありません。ですから過言になるかもしれませんが、他人に道徳を押しつけることほど非道徳的な行為はないと言えるのです。


嫉妬で地獄に落ちた女性の話

 誰でも嫉妬はいやなものだということを知っています。嫉妬する人は、何をするかわかりませんから。 
 このような物語があります。

 ある金持ちの男性が、大好きな女性と結婚しました。しかし、なかなか子どもが生まれません。当時は奥さんを何人もらってもかまわなかったのですが、この男性は奥さんのことが気に入っていて、この人だけでいいと思っていました。でも両親や親戚、王様はゆるしませんでした。莫大な財産を持っていましたから、後継ぎをつくらなくてはなりません。「後継ぎがいないと困ります。あなたは財閥で、金持ちですから、後継ぎがいないのはよくありません。もうひとり、奥さんをもらいなさい」と説得しました。それで新しい奥さんをもらったのです。
 前の奥さんはこのように考えました。「夫は新しい妻が子供を産んだら新しい妻のことを好きになり、私よりも大切にするでしょう。なんとかしなくては」と。そう考えて、ちょっと触れただけでものすごく痛くて痒くなる葉っぱがあるのですが、その葉っぱを粉にして、ベッドのシーツの下に撒いておいたのです。
 新しい奥さんは何も知らずにベッドに横たわると、その葉っぱの粉のせいで身体中が痒くて、あれて、炎症を起こしました。お医者さんを呼んで薬を塗って治療しました。お医者さんに「薬を塗れば治りますからゆっくり休んでください」と言われ、女性がベッドに横になると、また身体が痒くなるのです。前の奥さんの仕業ということはばれていません。
 これはものすごい嫉妬です。一番目の奥さんが考えたのは、新しい奥さんの皮膚があれて、痒くて、できものがあると、旦那さんは離れていくだろうと計算したのです。

 この女性がした嫉妬の行為は途轍もなく危険です。それからその女性は地獄に落ち、その罪を償いました。でも、輪廻転生するたびに先天的にひどい皮膚病に罹ることになったのです。


5 嫉妬は能力を萎縮させる


 ときどきこのような質問を受けることがあります。人間は欲があったほうが成長するのではないか、ライバル会社にたいして敵意を持ったほうが自分の会社が発展するのではないか、学校でライバルがいたほうが勉強できるようになるのではないか、と。

 これは、とんでもない邪見です。この邪見を持ちながら怒りをなくしたい、嫉妬をなくしたい、といっても、それは無理な話です。

 学校の仲間をライバルだと思ったら、その瞬間から相手のことが気になって、怖くなったり、嫉妬したり、恨んだりします。そのせいで、脳のエネルギーが全部使い果たされてしまうのです。勉強するエネルギーは、もう残っていません。ですから大きな損害なのです。

 夫婦間では、欲や怒りがあったほうがいいとか、旦那に嫉妬したほうがいいなどと平気で言っています。それだったら、あなたは旦那が不倫しないように旦那を管理することができますかと聞きたいのです。逆です。旦那のことを嫉妬すると、旦那は不倫します。「自分は結構もてるんだ」と勘違いして、高慢になり、外でためしてみたくなるのです。

 そうではなく、「私は結婚相手を間違えました。失敗しました。もっといい男がいるのに。あんたはたいした男じゃないんだから勝手に不倫しなさい」と言うと、男ですから奥さんに認めてもらうために一生懸命頑張る可能性は大いにあります。「認めてほしい」ということは、だいたい誰にでもありますから。

 ですから、「嫉妬がいい場合もあります」という、そんな邪見に陥ったら、ひどい目に遭うのです。
  
 これから経典に入ります。お釈迦様がある居士に話した経典です。

 Idha, mānava, ekacco itth] vā puriso vā issāmanako hoti; paralābhasakkāragarukāramānanavandanap[janāsu issati upadussati issaṃ bandhati.
 So tena kammena evaṃ samattena evaṃ samādinnena kāyassa bhedā paraṃ marazā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ nirayaṃ upapajjati.
 No ce kāyassa bhedā paraṃ marazā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ nirayaṃ upapajjati, sace manussattaṃ āgacchati yattha yattha paccājāyati appesakkho hoti. Appesakkhasaṃvattanikā esā, māzava, paw ipadā yadida/̶issāmanako hoti;  paralābhasakkāragarukāramānanavandanap[janāsu ssati upadussati issaṃ bandhati.

 「居士よ、ある男性または女性が嫉妬の心で生活します」

 Issāmanako(イッサーマナコー)は、意訳ですが、「いつでも心を嫉妬で回転させる」という意味です。

 paralābhasakkāragarukāramānanavandanap[janāsu issati upadussati issaṃ bandhati.

 「他人が受ける利益や尊敬、名誉などにたいして嫉妬します、嫌な気分になります、嫉妬の関係を持ちます」

 他人が尊敬されたり、褒められたり、利益を得たりしたとき、嫉妬するのです。嫉妬に慣れて、嫉妬の関係になります。「あの人が」と聞いたとたん、嫉妬の感情が生まれてくるのです。

 So tena kammena evaṃ samattena evaṃ samādinnena kāyassa bhedā paraṃ marazā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ nirayaṃ upapajjati.


 「その人は嫉妬を優先した生活をして、死後不幸に、堕落した境地に、地獄に生まれます」

 嫉妬の性格だったら、直行で地獄に行きます。でも、ちょっと嫉妬しただけで地獄に落ちるわけではありません。そこはお釈迦様がすごく気をつけたところです。嫉妬するわ、するわ、するわ、嫉妬が癖になり性格になって、嫉妬から心が離れない状態になった人が、地獄に行くんです。たまたまちょっと嫉妬したけれども、すぐに忘れた、というのは大丈夫です。それはちょっとした一個の罪で、芽が出る可能性もありますし、出ない可能性もあります。そうではなく、嫉妬漬けになると、地獄に直行するのです。

 ですからどんな悪の場合でも、性格になってしまったらもう話になりません。次は必ず苦しい地獄の世界に落ちるのです。
 でも、ちょっとした嫉妬なら、心配する必要はありません。誰でも嫉妬した経験はあると思います。それがダメということではなく、嫉妬ばかりして、性格そのものが嫉妬になって、嫉妬と離れないようになってしまったら、死後地獄に行くということです。

 「地獄に落ちることなく、人間として生まれたなら、微力の、無能の人間になります」

 もし地獄に落ちないで人間界に生まれたなら、何の力もない、無能の人間として生まれるのです。

 「他人の利益、尊敬、名誉などに心を痛める、悩む、嫉妬する、嫉妬の性格は、居士よ、微力の、無能の生命になる道です」

 ある人がお釈迦様に尋ねました。

 「お釈迦様、人間にはなぜ様々な人がいるのでしょうか? 長寿の人がいて、短命な人がいます。美しい人がいて、醜い人がいます。ものすごく迫力のある、威力のある、偉大な人がいて、存在感のない、ちっぽけな、虫けらのような人もいます。なぜでしょうか?」と。

 これと同じ質問をもし皆様にしたなら、「神様がそう決めた」と答えるかもしれません。

 お釈迦様は、「心がこのように働くと、このような結果になります」と明確に説明されました。これまでお話した居士への説法は、その長い経典のなかの一部です。偉大な力のある人に生まれ変わるか、まったく力のない無能の人間に生まれ変わるか、この二つは嫉妬するかしないかで決まります。これは「中部経典」(Majjhima nikqya)に記されています。


嫉妬しない人

 過去世で嫉妬する癖があったならば、存在感のない無能な人間になるという話です。
 
 人間のなかにはいろいろいます。いまさらどうすることもできません。過去世で強い嫉妬をしていたなら、何の力もありません。存在感はないのです。
 
 テレビに出る有名なタレントさんたちは、かなり存在感があるでしょう。その人が来た瞬間、待っていたファンたちが「キャーキャー」と歓声を上げ、拍手して、その場の雰囲気が急に明るくなります。あれはすごいパワーでしょう。
 
 世界的に有名な人もいますし、地方で有名な人もいます。芸能人を目指して無茶苦茶頑張っているにもかかわらず途中であきらめて挫折する人もいるでしょう。反対に、たいした笑いもできないのに売れっ子で、レギュラー番組を持っている人もいます。あれは迫力なんです。存在感なんです。カメラマンから見れば、カメラに写ったらかっこいいというか、カメラ写りのいい、インパクトのある人を撮ると、気分がいいのです。それで、そのような人をレギュラーに選ぶのです。
 
 小さいときから、子役として活躍して、無茶苦茶稼いでいるタレントさんがいるでしょう。そのような人は、過去世で嫉妬していないんです。嫉妬しないで、人々と仲良くしたから、その結果、いまも皆に喜びを与えて自然に有名になっています。活躍した結果、人気も、名声も、お金も入ってくるのです。
 
 容姿が美しい人、容姿がそんなにかっこよくなくても性格が明るい人、能力のある人は、楽しい雰囲気をつくりだすオーラを持っています。
 
 嫉妬する人には、そのようなオーラがまるっきりありません。ゼロです。ゼロではなく、マイナスで、自分の持っている能力も衰えていくのです。心に嫉妬が入ったら、心がどんどん萎縮して力が弱くなり、衰えていきます。その人がいてもいなくても、誰も気にしない状態になるのです。


6 欲・怒りは成長と発展の起爆剤になる?


 嫉妬する人には、明るく美しいオーラがまったくありません。ゼロです。ゼロでもなく、ゼロ以下のマイナスです。嫉妬は、心をどんどん萎縮させてしまうのです。

 心に嫉妬が入ったら、心がどんどん萎縮して、力が弱くなり、衰えていきます。その人がいてもいなくても、誰も気にしない状態になるのです。

 ときどき壁にものすごく小さな虫がとまっているでしょう。誰も気にしません。もし、人間でありながらも自分の立場がその虫のような立場になったらどうでしょうか? 

 家や職場にいても、小さな虫一匹くらいの存在感で、誰も気にならない、ほっとけばいい、という感じだったらどうでしょうか?

 あまりにも惨めなのです。嫉妬するたびに、心の能力が衰えていきます。これは相当怖いことで、嫉妬したら、能力が低下します。別の人にたいして嫉妬したら、また能力が低下します。もともといくら能力があったとしても、知ったことではありません。どんどん減っていくのです。

 嫉妬は、すごく危険なものです。私は小さいころから、どんな悪さをしても嫉妬だけはしません、と心に決めていたのです。嫉妬する場面もときどきありましたが、そのとき「この人に嫉妬して腹を立てるか、それとも助けてあげるか」と自分で考え、「助けたほうがいい」と決めるのです。助けてあげたところで、自分の能力がただで上がっているのです。

 嫉妬すると、能力が下がってしまいます。オーラも、威力も、消えてしまうのです。


始めたら、終われない

 嫉妬には「始めたら終われない」という現象があります。いったん嫉妬が生まれたら、限りなく増大していきます。至って簡単です。ウィルスや細菌のようにどんどん繁殖していくのです。
 
 花を美しく咲かせるのは大変でしょう。カビだったらどうでしょうか? 自分勝手に成長します。嫉妬はカビのようなもので、自分勝手にどんどん増殖していくのです。


嫉妬の矛盾

 嫉妬は、他人の善いところを認めない、美徳がいや、我慢できない、という暗い感情です。他人の美徳を「どうかな」とケチをつけることです。「そのとおり」と認めたくありません。

 でも、嫉妬のおかしいところは、本当は心のなかで認めているということです。だから嫉妬するのです。これは相当の無知です。文章で書くときには「認めたくない」と書かなくてはなりませんが、実は他人の美徳を「認めすぎ」て、腹が立っている状態なのです。


嫉妬のプロセス

 私たちには他人と自分とを比較する傾向があります。嫉妬は、次のような流れで生じます。
 
 相手のなかに自分よりも優れている点を見つけ、相手と自分とを比較します。そして「自分は無能だ、能力がない」と考えて、怒ります。この怒りが嫉妬なのです。
 
 相手に美徳を見つけ、それが気に入らない、という状態です。でも、本当はもうとっくに認めているのです。それで自分の心を見ると、自分にはその美徳がない、と考えます。それで怒るのです。なんで自分にないのか、と。この怒りが嫉妬です。とても単純なプロセスなのです。
 
 生命は平等ですが、同一ではありません。能力はさまざまです。ですから、他の生命と自分とを比較すると、自分にない能力はいくらでも無限に見つかるものです。ここがポイントです。自分と異なる能力のある人を見て嫉妬すると、いくらでも嫉妬する情報はあるのです。どんな人間を見ても、どんな生命を見ても、自分と違う能力、自分が持っていない能力を持っているものです。生命は同一ではないのですから。
 
 嫉妬し始めたら、いくらでも嫉妬することができます。Aさんは自分よりもかっこいい、Bさんは自分よりも仕事ができる、Cさんは自分よりも頭がいい、などと考えてしまうと、これにはきりがありません。
 
 他人の能力にたいして嫉妬する癖がついてしまったら、嫉妬の感情は増大するばかりです。まわりを見たり聞いたりするたびに嫉妬していたら、もうどうにもなりません。末期状態になるのです。


嫉妬は楽しくはない

 誰でも嫉妬していますが、嫉妬することは楽しいことではありません。心の萎縮は決して楽しいものではないのです。
 
 身体の筋肉が萎縮する筋ジストロフィーという病気がありますが、これは身体が相当痛いと聞いたことがあります。心の委縮も、この身体の委縮と同じように、相当痛むのです。嫉妬ばかりしていると、心が委縮して能力が低下するだけでなく、痛いのです。我慢できないくらいの痛みです。それで身体も壊れてしまうのです。
 
 嫉妬する人は心が衰えますから、身体も老けやすくなります。嫉妬が身体に悪い影響を与えて、衰えやすくするのです。
 
 年齢よりも若く見える人は、たいてい徳が高いものです。八十歳ですが、その年齢に見えない人はけっこう徳が高いんです。いわゆるオーラがあって、実際の年齢よりも若く見えることはよいことなのです。
 
 反対に、年齢よりも老けて見える人もいます。
 二十歳なのに四十歳や五十歳に見える人もときどきいます。身体が老けていますし、心もなかなか成長しません。嫉妬する人は、早く老けてしまうのです。
 といっても、身体が早く老ける原因は嫉妬だけではありません。ストレスが溜まっていたり、仕事で問題を抱えたり、責任の重い仕事をしていたりなど、別の原因で老ける場合もあります。でも、嫉妬も早く老ける原因の一つなのです。
 
 ここで注意しておきたいのは、この話を聞いて、勝手に他人を判断しないようにしてください。「あの人は年齢よりも老けているから嫉妬深い人だ」などと判断して差別すると、差別した当人がとんでもない悪行為をしていることになりますから。
 「この原因で、今このような結果になっている」と言うためには、相当な能力が必要です。簡単に判断できることではありません。


相手はこつこつ努力しているだけ

 嫉妬の対象の相手はどんどん成長していきますが、自分は衰えていきます。
 たとえばAさんにたいして嫉妬したとしましょう。Aさんには他人の嫉妬は関係ないので、ふつうに成長するのです。他人に嫉妬されるぐらいの能力だと理解するなら、さらに努力する勇気も湧いてきます。ですから嫉妬する人が自己破壊の道を歩むだけで、それは嫉妬された側には何の関係もないのです。

 しかし嫉妬する人のほうは、相手がどんどん成長している、自分を追い越している、と判断して、さらに嫉妬の強度を上げるのです。これはとても残念な状況です。誰かに対して嫉妬を抱いたら、その相手に限って着々と成長して成功していくように見えてしまうのです。それも主観的な妄想ではなく、客観的な事実になります。

 ということは、嫉妬される存在になれば着々と成長する、という話ではありません。嫉妬がない人は、普段どおりに努力して成長しているだけです。この仕組みを簡単な例で説明します。AさんとBさんという二人がいるとしましょう。Aさんの能力もBさんの能力も十であるとしておきます。しかしAさんは勘違いしてBさんに嫉妬します。その結果、自分の能力が弱くなって、能力度は十から九に下がります。そこで差がつきました。それは現実なので、Aさんの嫉妬がさらに強くなります。そうなると、能力度は九からどんどん下がっていきます。Aさんの能力度が五になっても、Bさんの能力度はもとの十なのです。しかし能力の差が広がっています。嫉妬すると、心の能力はゼロになって、それからマイナスにまで下がるので、嫉妬した相手と自分の差がどんどん広がってしまうのです。相手の能力が上だと感じるたびに、Aさんの嫉妬が強くなるのです。

 しかしBさんの能力度は十のままです。上がったわけではありませんが、嫉妬した相手からみれば上がったように見えます。Bさんが自分の能力を十以上に上げたければ、それなりに頑張らなくてはいけないのです。

 この喩えで、嫉妬の仕組みを簡単に理解できると思います。嫉妬する側は、自己破壊への道を歩みます。嫉妬される側には何の関係もないのです。ですから、自分のことを他人が嫉妬していると分かっても、それに対して何もしないで無関心でいたほうがよいのです。ですが、嫉妬されたことを放っておくことができない気が弱い人間もいます。嫉妬した人に対して、怒ったり、批判したり、落ち込んだりするのです。それで自分の能力が下がってしまうのです。それは明らかに、自業自得です。

 嫉妬してきた人に対して、逆の態度を取ってみては如何でしょうか? その人にやさしくしてあげたり、必要な時に協力をしてあげたり、助けてあげたりするのです。そうすると、自分の能力がじわじわと上がります。自分が善行為をしているのです。自分自身で善行為をしているだけでなく、嫉妬してきた相手の心もじわじわと治しています。嫉妬した相手が不幸に陥る危険性から守っていることになるのです。もし嫉妬してきた相手の心から嫉妬が消えたら、自分が本当に人を助けてあげたことになるのです。
    

7 「喜」は嫉妬の解毒剤


嫉妬の協力隊

 嫉妬する人は、嫉妬だけでなく、憎しみや恨み、怒りも増大していきます。嫉妬にはすごく強力な仲間が応援に来るのです。応援というよりは、協力隊です。嫉妬する人に、憎しみが寄って来て徹底的に協力します。恨みが出てきて徹底的にサポートするのです。他にもたくさんの悪感情がサポートに来ます。ですからいったん嫉妬を始めたら、怒り関係の大量の協力隊がサポートに来るのです。


周りの人は離れていく

 一方、周りの人は嫉妬する人から離れていきます。これが嫉妬の結果です。

 嫉妬する人は、最初はちょっと嫉妬しただけです。でも、どんどん怒りが出てきて、どんどん憎しみも出てきて、どんどん落ち込んで、どんどん引きこもりになり、顔色も悪くなり、能力も減り、他人に怒鳴られるようになって、暗くなっていきます。
 オーラが消えてしまうのです。オーラが消えて、暗くなり、精神的に臭くなるのです。精神的な悪臭を放ちます。それで周りの人は嫉妬する人から離れていくのです。
 世界最大の花にショクダイオオコンニャクという花があります。これは、ひどい悪臭を放つ花なのです。一、二週間くらい放置した死体が発する臭いと似ています。花は美しいのですが、誰も近寄りたくないのです。
 嫉妬すると、この悪臭を放つ花のように、誰も近寄りたくありません。吐き気がするくらいひどい臭いですから、みんな逃げていくのです。
 でもこの花が悪臭を放っているのは、自分が生き残るためであり、腐ったものが好きなハエをわざと呼び寄せて、受粉してもらうためです。その代わりに、チョウチョウやミツバチなどは来るなよということなのです。

 嫉妬するということは、チョウチョウのような美しい人間は来ないでください、ということです。美しくて、役に立つ、性格のよい、頭のよい人間はみんな出て行ってください、と追い出して、汚い連中なら、どうぞ来てください、と呼んでいるようなものです。嫉妬する人は、当然煙たがられるのです。


嫉妬と慢は別のもの

 嫉妬は恐ろしい精神病です。心の成長をガクンとストップさせ、そのうえ心を衰えさせますから、仏教では軽く見ない心の汚れです。怒りよりもかなりやばいのです。

 自分と他人とを比較すると、慢(maana)という煩悩も生まれますが、慢は嫉妬ほど破壊力がありません。「あの人は私よりも偉い、仕事ができる、カッコイイ」と思うこと、これが慢です。でもそう思っても、嫉妬はしていません。
 慢も他人と比較することによって生まれてくるものですが、慢の怖さと嫉妬の怖さは大きく異なります。嫉妬のほうが、桁違いに危険なのです。
 慢の場合、慢をうまく使って優れた人に近づこうと努力するなら、心が成長する可能性はあります。
 たとえば、美徳がいっぱいある誰かと自分とを比較し、嫉妬せずに「このままではいけない、自分もあの人と同じようにならなくちゃ」と慢を使って考え、頑張って努力するなら、そうなる可能性もあります。今より勉強したり、能力を上げたり、修行したりして頑張るなら、等しくなる可能性があるのです。ですから慢は使い方によって、役に立つ場合もあります。
 でも、嫉妬の場合、能力が向上することはありません。悪しかないのです。嫉妬は高濃度の核廃棄物のようなものです。何か使い道があるかと調べても、何もありません。

 慢も煩悩ですが、使い方によってはなんとか使えるものになるのです。


ムディター(喜) は嫉妬の解毒剤

 今回のテーマは、ムディターです。ムディターは嫉妬の解毒剤です。誰にでも嫉妬はあります。ですから、このムディターの解毒剤を使う必要があるのです。
 ムディターは、嫉妬にたいする特効薬です。仏教の他の実践法も嫉妬をなくすために有効ですが、ムディターは嫉妬と正反対のもので、抜群に効果があるのです。

 お釈迦様が説かれたどんな方法を実践しても、心は清らかになりますし、嫉妬はなくなります。慈悲の冥想をしても、呼吸の冥想をしても、冥想をせずただ五戒だけ守っていても、だいたい嫉妬はなくなります。
 しかし嫉妬に感染して、常識的な精神状態が壊れてしまい、病んでいる人の場合は、五戒を守るなどの方法の効き目は弱くなる可能性があります。特効薬を使わなくてはいけないのです。その特効薬とは、ムディターの実践です。


嫉妬漬けの人

 ムディターは特効薬ですが、嫉妬漬けの人には実践できなくなるケースもあります。ずっと嫉妬ばかりしていて末期状態になっている人には、ムディターの実践は無理だと思います。嫉妬はあまりにも破壊的ですから、何かに挑戦する能力さえもなくなっているのです。そのような人たちには別の方法が教えられています。特効薬は使えません。精神が健康状態に戻るまでは、時間がかかるのです。

 精神病に陥るほどの激しい嫉妬でない場合には、特効薬であるムディターの実践を実行するべきです。ただちに嫉妬から解放されます。
 したがって、嫉妬が末期になる前に、初期段階でムディターを実践するほうがよいのです。嫉妬はガンや筋ジストロフィーと同じようなもので、どんどん悪い方へ進行していきます。ですから病気が進行する前に、たまに嫉妬する程度のところから、ムディターの実践を始めたほうが効き目があるのです。


喜びを感じる訓練
 
 これからムディターはどういうことかと、勉強してみましょう。ムディターとは、「喜びを感じる訓練」です。実践する前に、喜びとはどのようなものかと発見しましょう。

 たとえば、金がある、家族は楽しい、出世できたということなどで、私たちは喜びを感じるものです。自分の子供が大学に合格したなら嬉しいでしょうし、喜びを感じるでしょう。その喜びなのです。

 この場合、嬉しさ、喜びを引き起こした原因を気にする必要はありません。なぜならば、原因はどうであっても、心に現れる喜びという気持ちは同じだからです。会社で昇進が決まったときに起こる喜びも、自分の子供が大学に合格したときに起こる喜びも、同じ気持ちなのです。ただ、強弱の差があるだけです。健康な精神を目指して、ムディターを実践しようとする人は、まず心に起こる喜びという気持ちを理解して味わってみるのです。喜びを引き起こ
した原因に引っかかると、正しく理解することができなくなります。さまざまな原因で、同じ気持ちがおこるということを理解するのです。そんなにむずかしいことではありません。旦那の給料が上がったというと、奥さんは「あー、よかった」と喜びます。

 課長や部長などに昇進したなら、結構気分がいいでしょう。このように、喜ぶことはいくらでもあるのです。
 でも、昇進して給料が上がったことに喜んでも、心は清らかになりません。成長する保証もありません。会社で旦那が出世したら、課長になり、部長になり、今度はニューヨークの支店を任されるようになったりしたら、奥さんは喜びを感じるでしょう。

 でも、それによって心が清らかになるどころか、逆に、どんどん気持ち悪い性格になる可能性もあります。贅沢をしたり、金の無駄遣いをしたり、見栄を張ったり、子供の教育をダメにしたり、そういう可能性もあるのです。喜びは喜びですが、心が清らかになる保証はありません。


喜びは悲しみに変わることもある

 世の中は無常です。ですから、財産や名誉などがなくなった場合、喜びは悲しみに変わるのです。
 世俗的な喜びでは、安定した安らぎは得られません。旦那の出世を喜んでも、安定した安らぎではないのです。ニューヨークの支店を任されたとしても、会社がダメになったところで、また普通に仕事をする羽目になったりします。出世して喜ぶのはいいのですが、問題もあるのです。

 子供が大学に合格したなら嬉しいのですが、それは安定した安らぎではありません。大学に入ったあと、いろいろ悩みが出てくることもあるのです。ときどき高校までまじめに勉強して一流大学に入ったのはいいのですが、途中で中退するというケースもあるでしょう。一流大学に入って母親は喜ぶのですが、あの喜びは安定したものではないのです。

 このように、世俗の喜びでは心が清らかになる保証はありませんし、状況が変わったとき、とんでもなく落ち込んでしまうのです。理性が無く、感情的に喜ぶことは、精神的な安定を壊す原因になります。ですから、原因を気にすることなく、心のなかに起きた「喜び」という気持ちをまず発見するのです。喜び・嬉しさなどの気持ちは、決して悪いものではないと分かります。人は元気になります。活発になります。

 次の問題は、この喜びという気持ちを成長させたり、持ち続けたりすることです。しかし人が自分のやり方でその気持ちを育てようとすると、危険な結果に陥る可能性が大いにあります。お釈迦様が説かれた、副作用のない方法があります。それはムディターの実践です。
    

8 ムディター「喜」の実践法

 自分以外の生命」を選ぶことを推奨されました。自分が昇進したり給料があがったりすると嬉しいでしょうが、それは瞑想になりません。 瞑想するときには、自分以外の生命の幸せを選ぶのです。これは大切なポイントですから、よく聴いて勉強してください。パーリ語のテキストを読んでも見つかりませんから。


自分の喜びを感じる

 まず、自分の喜びを感じたり経験したりします。
 自分もこれまで喜びや楽しみを感じたことがあるでしょう。それを思いだして経験してみるのです。


他人の喜びを感じる

 それから、他人を観察して、自分の心に喜びが生まれるようにします。ここがポイントです。他人を観察して、他人の喜びですが、それを自分の喜びとして感じてみるのです。
 たとえば、映画や舞台で悲しい場面を見ると、全部演技にもかかわらず、見ている人は涙をポロポロだして泣いています。そして最後にハッピーエンドになると、喜ぶのです。このときの「喜び」の機能は、他人の喜びで、自分とは全然関係ありませんが、自分がそこでインスピレーションを受けて、心に喜びを感じるのです。

 そこで、誰でもいいですから、誰か喜んでいる人がいたら、「楽しそうだなあ」「どんな気分かなあ」「あの人は幸せだろうね」などと自分もその喜びを感じてみるのです。簡単でしょう。
 私も、たまに高級レストランの前を通ったりすると、ちょっと片目で中の様子を見たりすることもあります。私は出家ですから、在家の方々に説法をするとき、在家の情報を知らないと話せません。それで、外からちょっと見て、データをとるんです。そこでキャンドルのついたテーブルで男女が向かい合って座っているのを見ると、「けっこう楽しい気分でしょうね」と感じるのです。


「喜びを感じる」色眼鏡

 他人を観察するとき、「喜びを感じる」という色眼鏡をかけて見ることです。一般的に、色眼鏡をかけて見ることは悪いと言われていますが、ムディターの実践では、喜びを感じる色眼鏡をかけるのです。ですから、喜びのデータしか入りません。

 生命には、いろいろな感情があります。先ほどの例で、若い男女が高級レストランでおいしくディナーを食べているかもしれませんが、男性のほうが経済的にけっこう無理しているのが見える場合、そこを感じると、もう喜びは感じないでしょう。ですから色眼鏡をかけ、そこはカットして、「あの二人は相当楽しいだろうな」と、喜びだけ心に入れるのです。


心に敢えてバイアスを付ける
 
 心に、喜びのバイアスを付けたほうがよいのです。これは簡単です。なぜなら私たちはいつでも心にバイアスを持っているからです。ありのままに、ものごとを見ていません。バイアスで、主観で、見る能力がもうすでにあるのです。とんでもない能力ですが、それをうまく使えばよいのです。喜びだけを見るようにするのです。

 人と会話するときには、「今日、何か楽しかったことはある?」とか、もし相手が「楽しいことはなかったけど、いやなことが……」とネガティブなことを言い始めたら、「いえ、それではなく、何か楽しかったことは?」と、喜びのバイアスで聞くのです。相手がネガティブなことを言いだしたら、「あまり興味がありません」と。


狭い見方?
 
 このようにバイアスを付けてものごとを見る話をすると、俗世間の人のなかには「その見方は狭い」「人間って大変だ、楽しいことばかりではない、幸福三昧ではない」などと偉そうなことを言う人がいます。
 仏教でも、「一切のバイアスをなくし、客観的に、ありのままに観察すれば、覚ります」と教えています。そうすると、この喜びのバイアスを付ける方法25 は、仏教に矛盾しているのではないでしょうか、と思う人もいるでしょう。
 でも、この実践は「生命の法則」に沿った正しい実践なのです。
 生命には法則があります。その中の一つに「誰もが喜びを目指し、喜ぶために、幸せになるために、頑張っている」ということがあります。生きるとき、みんなが期待し、目的にしていることなのです。ですから色眼鏡をかけて、他のことを遮断して、喜びで見たとしても、それはありのままに見ていないということにはなりません。それも一つのありのままの見方なのです。
 この実践法は、敢えて色眼鏡をかけて見ることです。ですから、八正道の正見ではなく、正思惟に入ります。八正道の一部なのです。


喜びを感じることの利益

 他者の幸せや成功を見て喜びを感じると、次のような利益が得られます。

・生命は成長する

・能力が向上する

・才能が発揮できる

・世の中の激しい変動に動揺することなく対応できるようになる

 落ち込みませんから、どんな変動があっても、地震が起きたとしても、対応できる能力が身につきます。落ち込んだら、とんでもないんです。行動できなくなります。心に喜びを感じるバイアスが入っているならば、災難などに遭遇しても「命が助かってよかった」と素直に喜べるのです。それから心が、災難から立ち上がる方向へ働きだすのです。落ち込みは生まれません。
 喜びを感じる訓練は、落ち込み・悩み・やり場のない気持ちなどに対する解毒剤なのです。喜びを目指すことは生命の基本的な法則です。喜びを感じるバイアスを入れることで、自分が真理から離れた人間にならないのです。ですから、ムディターを実践したほうがよいのです。喜びを感じる訓練をしたら、能力はどんどん上がり、どんどん成長します。どんどん才能が発揮されるのです。

・身体も心も健康になる

 当たり前です。心がいつでも喜びを感じているなら、身体も健康になります。

・落ち着く

 興奮しないで、落ち着いていられます。

・他人に好かれる

 よい香りを出していますから、他人に好かれます。

・自分に逆らう人やライバルがいなくなる

 今まで自分に逆う人やライバルがいたとしても、いなくなります。相手の気持ちが変わるのです。あの人には逆らえない、と。

・多くの人に囲まれて生活することになるが、それもストレスや苦痛にならなくなる

 皆様も人々に囲まれて生活しているでしょう。これ、けっこうストレスが溜まるものです。緊張もします。でも、ムディターの実践をする人は、ストレスが溜まりません。
 たとえば、甘い柿がたくさん実っている柿の木に、鳥たちが飛んで来て実を食べたり、猿も木に登って食べたりします。このとき、木にストレスが溜まってどうしようもないということはありません。木にしてみれば、食べてくれたほうがよいのです。おいしい実がいっぱい実っていますから、どうぞどうぞ食べていってください、という気分でいるのです。
 ムディターの実践をする人は、そのような人間になります。たくさんの人々に囲まれていますが、全然ストレスにはなりません。自由にいられるのです。

・ストレスと縁のない生き方ができる

 ストレスというのは、ものすごく苦しいものです。ムディターで、すべてのストレスがなくなるのです。

・知らないことを皆喜んで教えてくれるようになる心配する必要がなくなります。突然、外国旅行をしても大丈夫です。英語が話せなくても、周りの人が助けてくれますから。

・記憶力、理解力がスピーディに向上する

 記憶力が向上する訓練とは、喜びを感じる訓練なのです。

・集中力が向上する

・智慧が徐々に現れる

 一発では現れませんが、徐々に現れます。

・心の汚れが徐々に少なくなる

 汚れが知らないうちに落ちています。心が喜びでいっぱいですから、嫉妬や怒りや憎しみなどは、もう心に入らないのです。

・解脱の門が開く
 
 喜びを感じる訓練には、これくらいの利益があるのです。


9 ムディターの実践法とポイント


自分の喜びを感じる


 前回はムディター(喜び)を感じる訓練をしましょうということ、それからムディターを実践するとどのような徳があるのか、ということについて説明しました。これから、ムディターの実践法とそのポイントについて説明しましょう。


〇まず自分が気に入っている何人かを選ぶ

 ムディターの実践の対象となる人を選びます。いきなり調子にのって大勢の人を選ぶのではありません。普段から自分が気に入っている何人かを選ぶのです。もし何人もいなければ、一人だけでもかまいません。


〇人間がいなければ、ペットでも他の動物でもよい

 知り合いが一人もいない人もときどきいます。もし一人ぼっちで、でもペットを飼っているなら、ペットを対象にしてもいいですし、ペットを飼っていなければ、公園や道路などそこらへんにいる動物でもいいでしょう。


〇その生命のよいところを思い浮かべ、心の中で微笑んでみる

 外に出るとイヌを散歩している人をよく見かけます。私はあれを見ると楽しいと感じます。イヌには性格がいろいろあって、「このイヌはかわいいな」と、ちらちらと見て楽しくなるのです。一回すごくおもしろかったのは、小さなイヌが散歩していたのですが、歩くのがものすごく遅くて、あっちに行って止まり、こっちに行って止まり、とにかく遅いんです。それで甲州街道の大きな交差点に来たとき、私は、「この子はこのスピードだと青信号のあいだに向こうまで渡るのはちょっと間に合わないだろうな」と思いました。

 ところが青信号にかわったとたん、すごい勢いで横断歩道を走って渡っていくのです。飼い主がなんとかあとを追って行きました。 私は「なかなか賢いなあ」と思いました。甲州街道を横断するときには、寄り道したりよそ見をしたりしないんです。頭がいいでしょ。車にぶつかったら大変なことになりますから。そこでいったん横断歩道を渡ったら、またのろのろのろのろ歩くのです。
 飼い主はおそらくそこまで考えていないと思います。でも、そのように飼い主のことを見ると、喜びとは別の色眼鏡をかけて見ることになりますから、そこは無関心でいたほうがいいのです。私はあのイヌだけ見て、喜びを感じるんです。そうするとすごく楽しくなるのです。

 もし飼い主がイヌとニコニコと遊んでいるなら、「この人も楽しいだろうね、かわいいイヌを飼うことができて」と喜びを感じることもできるでしょう。感じたあと、心の中で微笑んでみてください。ゲラゲラ笑うと、周りの人から頭がおかしいと思われますからね。


〇次に、その相手がもっと幸せになったらいいな、と思う

 あのイヌの例で言うなら、これからも元気で楽しくいてほしいなとか、芸をいろいろ学んで飼い主を喜ばせ、もっとかわいがられたらいいなとか、そのように思うのです。

 まず他人の喜びを見て自分が喜びを感じ、心の中で微笑みます。その後、喜びをさらに拡張するのです。

 ムディターの実践法は、ここまでです。他に実践のポイントがありますので、説明いたしましょう。


実践のポイント


〇正しい対象を選ぶ

 初期段階では、相手を選ぶときには気をつけます。

・性欲や愛着を引き起こす相手を避ける

 ムディターの実践の相手として、男性が美人の女性だけ選ぶとどうなるでしょうか。「あの女性は腰が引き締まって、スタイルがよくて、美しい……」とそんなことを思って喜んでいたら、どうなるかわかりません。この点は絶対に気をつけなければならないところです。性欲を引き起こす相手はダメです。性欲も喜びを感じるかもしれませんが、これは欲ですからカットしなければならないのです。

 愛着もダメです。微笑むどころではなくなります。ですから、伴侶もよくありません。伴侶はやはり性行為の相手ですから、瞑想には適さないのです。
 それから、わが子も対象にしないほうがいいと思います。わが子にたいしては強烈な愛着があるのです。「この子はもっと頑張ればいいのに」と思うでしょう。これが怒りになるのです。わが子はかわいいですし、よく成長してほしいと思いますが、「もうちょっと頑張ったほうがいいんじゃない」と思うのです。ですから自分の子供も対象としてはよくないと思います。

・無垢の微笑みが起こるような相手を選ぶ

 先ほどの例のように散歩しているイヌを見て喜びを感じることは、愛着ではなく、微笑ましい喜びです。ただ「かわいいな、賢いな、もっと飼い主にかわいがられるといいな」と喜んで、それで終わるのです。

・感情を控えて冷静に見られるようにする

 無垢の微笑みや無垢の喜びを感じるような相手が見つからない場合は、感情だけ控えてください。ただ微笑めば十分です。
 自分の子供を対象にするのはよくありませんが、同じ年齢の他の子供たちを見てください。「かわいいな、元気に遊んでますね」などと。それで心の中で微笑めばよいのです。
 このとき、自分の子供と比較しようとしたら、すぐにカットします。比較すると、いろいろ感情が湧いてきますから。これでは正しい成長にはなりません。私も結構子供を見ますが、比較することはしないで、見て楽しむのです。


〇選んだ相手の美徳、よいところ、気に入って いるところ、長所だけを敢えて思い浮かべる

 相手を正しく選んだら、嫉妬するのではなく、「あの人はこれができていいな」とか、「料理がうまいですね」とか、「昇進できてよかったね」などと喜ぶのです。


〇短所が見えたら直ちに無視する

 喜びの色眼鏡で見るのです。レンズがおかしくなって短所が見えてしまったら、サッとふいて、すぐに直してください。


〇長所を拡大して見る

 ちょっとイマジネーションを使ってもかまいません。たとえば美人で、頭がよくて、歩き方も、話し方も完璧なお嬢様を見たとしましょう。「この女性ほんとにステキですね。これからもどんどんいろいろな人に愛されて、やさしい結婚相手が見つかって、幸せになってほしいな」とか、「この女性とよく似た子が生まれるとかわいいだろうな」などと、ちょっとイメージを拡大するのです。そうすると、自分の喜びが増えるでしょう。
ちょっと拡大して見るのです。そうすると、自分の喜びはあのイマジネーションで勝手に増えていくのです。


〇相手が喜びを感じることに共感して、微笑む

 たとえば、自分はウナギがあまり好きではないとしましょう。でも相手はウナギが大好きで、目の前でウナギをおいしそうに食べているのを見ています。このとき「結構楽しいでしょうね」とちょっと考えて、共感し、微笑んでみるのです。
 小学生の男の子のグループが遊んでいるとします。その年頃の男の子たちにとって楽しいのは、走りまわったり、蹴ったり、いたずらすることでしょう。「決闘だ!」と言いながら仲間同士でいろいろふざけるのが楽しいのです。大人から見ればまったく楽しくないのですが、そこを喜びの色眼鏡を付けて、「楽しいだろうな」と感じてみるのです。
 相手のことをきちんと見て、「喜ぶ」訓練をします。いわゆる、喜びに共感をつくる訓練をするのです。


10 美徳発見の探検


〇対象になる生命の数を徐々に増やす
 
 次に、ムディターの実践の対象になる生命の数を増やします。最初に一人か二人選びました。それから少しずつ数を増やしていきます。「友だちの友だちはみな友だち」でしょう。その方式で実践するのです。

〇人の数を増やし、心で感じる喜びを増大させる 
 
 自分には子供が一人しかいないとしましょう。でもその子には友だちがたくさんいます。そこで、子供一人分の喜びを楽しむのではなく、友だちが二十人いるなら、二十人分楽しむのです。みんなをわが子のように見て、「みんなかわいい。いたずらもするけど、まー楽しんでいるし、それで成長しますから。元気でよかったよかった」というように。人の数を増やして自分の喜びを増大させるのです。
 子供は一人かもしれませんが、その子には友だちがいて、その友だちにも友だちがいるのですから、この子供たちはみんな仲間だと考えて、自分の心の喜びを増やしていくのです。

〇リミットになるまで続ける
 
 だいたいは友だちの友だちでリミットになります。これ以上見つかりませんということになります。でもできるだけ広げて、喜びを増やしていくのです。
 それから次のステップがあります。

〇親しくない、関係のない生命の美徳も感じる
 
 別に親しくなくても、自分に関係のない生命でもよいのです。他の生命にも広げてみます。たとえば公園や集会場、電車、コンビニ、デパートなどで挨拶をしたり、人と話をしたり、何か楽しい短い会話をしたり、冗談を言ってみてください。ちょっと相手を楽しませてあげるのです。それで自分も喜びを感じるのです。 
 このあいだ私はパンを買いに駅のそばのパン屋さんに行きました。閉店ぎりぎり前で、私が買おうとしていた小さなパンはもうなくなっていて、大きなパンが一つだけありました。「これスライスしてもらえますか」と聞いたら、店員さんが「いいですよ」と言い、「どのくらいの厚さにしますか?」と聞いたので、「普通の8枚切りの食パンくらいの幅にしてください」と言ったら、「はい、8枚切りの幅ですね」と言って、そのパンを16枚に切ったんです。普通の食パンよりも大きかったですから倍に切ればいいと計算したようです。かなり薄くてトースターに入れるとすぐに黒く焦げてしまう薄さです。
 それで、店の女の子が切ったパンを袋に入れようとするとき、私にパンを見せて「これでいいですか?」と聞いたんです。トースターに入れたら黒焦げになる薄さでしたので、16枚切のパンは私の立場から見たら期待外れでダメです。「役に立たないくらい薄くなってよかったよ」と冗談を言って笑いたかったのです。しかしパンを断ったら、店員さんが困ります。店じまいの時間は過ぎています。店はそのパンを捨てるはめになります。それしかなかったので、私にも買い物ができなくなります。自分も他人も嫌な気持ちになってはならないので、私は彼女に笑顔を見せて、大きい声で「これでよかったよ」と言ってあげたのです。失敗した店員さんの怯えが消えて、笑顔が戻りました。相手に喜びを与えたので、あの薄いパンを見るたびに、食べるたびに、私もよけいに楽しくなったのです。ふだん嫌な気分になるべき出来事が起きても、見方次第でそれは楽しい出来事に入れ替えることができます。

〇美徳発見の探検をする

 このように自分に関係ない人も観察して、美徳発見の探検をしてみてください。美徳を発見する探検隊になるのです。「私はこれからいろいろな生命の美徳を探検します」といって調べるのです。結構いい研究になります。やればやるほど楽しいのですから。
 あの人にはこれができてよかった、この人はこれが上手、あのイヌはなかなか頭がいい、このネコは毛がボロボロだけど元気だ、などと。ノラネコを見ても、ノラネコなのにしっかり頑張っている、精神的にすごく強そうだとか、とにかく美徳だけ探検するのです。

〇自分のことのように喜ぶ

 ポイントは微笑むことです。いつでも心のなかで喜んで微笑んでみてください。


智慧の登場

 関係ない人々や生命にもそれぞれ美徳があることが発見できました。探検はかなり成功しました。そうすると、どんな生命にも何か美徳がある、ということを発見するのです。
 皆さまはゴキブリにも美徳があると発見していないでしょう。私は発見しています。蚊の美徳を発見したことがありますか? 私は発見しています。ヘビの美徳は? これから発見してみてください。私個人の美徳発見の旅では、どんな生命であっても何かしらの可愛いところを持っている、という結論に達しました。
 たとえば、アルパカという動物を知ってますか?
 とても可愛いのです。人間に可愛いと思われる、ちょうどいい大きさなのです。見たら撫でたくなります。でも、問題があります。慣れてない人がアルパカを撫でると、「ペッ」と唾を吐きだします。その唾がものすごくくさいのです。ですから、誰もあまり近づきたがりません。くさい唾を吐くので、アルパカが嫌いだと思うと、それは嫌な気持ちです。唾を吐く習性まで可愛いと思わなくてはいけないのです。それでアルパカのそばに行って、話しかけながら様子もジーッと観察するのです。唾を吐く瞬間に、自分の身体をよけます。それで私は、「はずれ」と思って喜ぶのです。けっこう楽しくなるのです。ですから、人間にとってどんな嫌な生き物であっても、少々観察すると可愛いところが見つかるはずです。


結局、生命は平等

 このように美徳を見ていると、ある結論に達します。生命はそれぞれ何かしら美徳を持っているということです。その点で、生命は平等です。区別や差別をすることはできません。このことが理解できるのです。


嫌な生命は存在しない
 
 ゴキブリにも、蚊にも、どんな生命にも、美徳があり、かわいいところがあり、評価できるところがあります。この事実を身をもって理解することが大切です。観念ではなく、身をもって発見してほしいのです。

常識ではない
 
 これは常識ではありません。このムディターの実践をして感じる喜びは、常識ではないのです。普通の人に普通に経験できる喜びではありません。普通に生活していたなら、これほどの喜びを感じることはできないのです。頭の中や心の中が楽しくて楽しくて、喜びでいっぱいになっています。何を見ても楽しい。何を見ても心の中でニコニコとしています。ですから心の喜びは普通ではないのです。
               

実践しないのはもったいない


 一般の人は突然大きな喜びを感じたら、気を失ったり泣き崩れたりします。もし年末ジャンボ宝くじの一等賞が当たったら、喜びが大きすぎて倒れるかもしれません。びっくりして泣き崩れることもあるのです。

 普通の人の心は弱くて、耐久性がありません。ですから突然何かよいことや嬉しいことが起こると、耐えきれなくなり、泣いたりします。泣くというのは、怒りです。脳が処理することができなくなったということで、異常現象を起こすのです。でも、このお釈迦様のムディターの実践してみると、耐久性がしっかりできます。心がものすごく強力になり、大きくなるのです。

 宝くじに当たったという、そんなちっぽけな喜びではありません。ムディターの実践では、生命の数に等しい喜びを感じるのですから。この喜びは並大抵のものではありません。
 今回は、お釈迦様の喜(ムディター)の実践法を教えましたが、これはテキストに載っているものではありませんから、おおやけに出ていません。伝統的に知られてるだけなのです。

 これまで説明してきた方法が、完全に安全な喜の実践法です。危険はありません。世俗のやり方だと、たとえば男性が美人の女性の美徳を発見して喜ぼうとすると、欲が出て、結局とんでもない結果になるでしょう。このお釈迦様の方法は、そのようなことはありません。完全に安全な方法です。徐々に喜びを感じる範囲と量を増やしていくのです。それで喜びがどんどん拡大していくのです。

 無量の生命を認識して喜びを感じるようになると、無量の喜びが湧き上がってきます。これが常識範囲を超えているのです。普通の人には決して感じられない喜びです。人間がどんなに苦労しても感じられない喜びを感じるのです。アメリカ人がアメリカンドリームを実現しても、これほどの喜びは感じられないでしょう。


ボロボロの肉体から心が離れる


 この途轍もない喜びを肉体で感じるのは不可能です。肉体はボロボロですから力がありません。

 それで、心が肉体から離れて巨大化し、喜びを感じるのです。

 これは「禅定」(samādhi)という境地です。簡単に禅定に達することができるのです。瞑想して禅定をつくるためにはものすごく修行しなければならないのですが、この方法だと簡単につくることができるのです。


もったいない


 お釈迦様の「喜の実践」は誰にでもできるものです。
・これほど簡単に究極的な喜びを感じられる方法が あるのに、
・いじめ、虐待、差別、嫉妬、憎しみ、ストレスをな くす方法があるのに、
・「全知全能」の神のように生きられる方法があるのに、
・人間の超越した能力をあらわす方法があるのに、
 (人には超越した能力があるのです)
・誰にでも実践できるのに、
 ……実践しないのは、もったいない。


おわりに


 「喜」の実践は、自分からはじめて親しい人、知らない人、動物や虫にも、徐々に喜びの範囲を広げていくことだとお話しました。最終的には苦しんでいる人や凶悪な犯罪者を見ても、何かしら喜びを感じるようなことは可能なのでしょうか、と疑問に思うかもしれません。

 成長したら、可能です。でも、最初は絶対に無理ですし、やってはいけないのです。最初は簡単に喜びを感じる人を選んで実践してください。成功すると、「生命たる者には皆、何かしら美徳がある」ということが見えてくるのです。

 罪を犯した人を見ると、なんであんなことをしたんですか、なんで自分の大事な人生を台無しにしたんですか、なんで周りの人まで巻き込んだんですか、なんで他人を傷つけたり暴力をふるったり殺したりしたんですか、といろいろ考えるでしょう。

 でも、その犯罪者にまったく美徳がないかというと、そうでもありません。厳密に探してみれば、何かしら見つかるものなのです。


 今回は、「喜」の実践法ですが、他にも「慈」「悲」「捨」の三つの方法があります。「喜」の瞑想の場合は、凶悪犯罪者や難しい人を対象にしません。そこはカットするのです。

 でも、「喜」の実践が成功して一人前になったら、どんな人にも、凶悪犯罪者にも、美徳を探そうと思えば見つかるのです。

 皆様は簡単に美徳を感じる人から実践を始めてください。


 病気で苦しんでいる人にはどうすればよいでしょうか?

 この場合も、「喜」の実践はカットします。そのかわりに、慈悲喜捨の「悲」(カルナー)の実践をします。

 苦しんでいる人を見て、喜びを実践するのは無理でしょう。余計な無理をすると、瞑想になりません。苦しんでいる人の場合は、「この苦しみがなんとかなくなってほしい」というあわれみの心を育てるのです。

 ただ、「喜」の実践で成功して一人前になった人には、苦しんでいる人にたいしても美徳を探そうと思えば、探せます。病気の人には「よく病気と闘っている、よく頑張っている」ということが見えるのです。

 数年前、東北で大震災が起こりましたが、東北の方々が落ち着いて頑張っているところは見事だったでしょう。財産を失い、家族を失い、家も失い、すべてを失って、何もなくても頑張っていたのです。お互いに助け合い、支え合う、あの精神の強さは本当にすごいでしょう。それは美徳ですよ。

 このように、その気になれば何かしら美徳は見つかります。

 しかし実践上は、推薦しません。瞑想は遊びではないのですから。苦しんでいる人は対象にしないほうがいいですし、極悪犯罪者を対象にすることも推薦しません。お釈迦様は脳の手術をするような感じで、すごく丁寧に、性格を直す方法を教えられているのです。

 このシリーズで、私は精密に「喜」の実践法を教えましたから、その通りに実践したほうがよいのです。まだ心が成長していないのですから、簡単に喜の実践ができる人を選んでください。尊敬している人も、立派な人も、苦しんでいる人も、極悪犯罪者も、あの人もこの人もいっしょに見ていては、「喜」の実践はできないのです。

(了)



編集・文責/出村佳子


 

 


   
Sabbbe satta bhavantu sukhitatta