能力を奪う五つの障害


サンガーラワ経 
Saṅgāravasuttaṃ


スマナサーラ長老 法話

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 能力を奪う五つの障害  


なぜ覚えたことを忘れるのか?


 
今回ご紹介する経典は、相応部経典(Sanyutta Nikāya)の第五巻『マハー・ワッガ・パーリ』(V.Mahā vagga pāli)の第二章『ボッジャンガ・サンユッタ』(2.Bojjhaṅga saṅyutta)『ボッジャンガ・ワッガ』(6. Bojjhaṅga vagga)の『サンガーラワ経』(5.Saṅgārava sutta)PTS.S.V.121 です。


 サンガーラワという名のたいへん頭の良いインテリなバラモン人が、お釈迦様に次のように質問しました。(これは質問の一部です)

īgharattaṃ sajjhāyakatāpi mantā nappaṭibhanti. Pageva asajjhāyakatā.

ときどき、長いあいだ唱え慣れた聖句を思い出すことができません。唱え慣れていない聖句に関しては、言うまでもありません。(なぜこのようなことが起こるのでしょうか?)
 
 サンガーラワさんはインテリでしたが、現代のインテリとは少々違います。現代のインテリというのは、世界のありとあらゆる本を集めて本棚に飾り置き、必要なときに取り出して、それを参考にして話しますが、昔のインドでは、学問はすべて自分の頭で覚えておかなければならず、覚えておかないと学んだことにはならなかったのです。膨大な量の本を持っているからといって、インテリにはなりません。それだったら本を持っている人はみんなインテリになってしまいます。本の内容を理解しないで本を持っているだけでは、知識人と言わないのです。

 さらに、暗記するだけでなく解説もしなければなりません。誰かに質問されたら、頭からサッと必要なデータを取り出して解説し、答えを出さなければならなかったのです。ですから昔のインドのインテリというのは相当な能力を持っていたのです。


脳をとことん働かせる


 一方、現代人の多くはデータをなんとなく理解して、あとはすべて本まかせ。覚えておく必要はありません。そういう人の脳細胞はあまり活発に働いていませんから、年とともに衰えていく傾向があります。データを入れていない脳細胞は不安定ですから、年をとるにつれて死滅していき、ボケにつながることもあるのです。医療研究者たちは、なぜ脳細胞が死ぬのかということを研究し、それを防ぐ物質を開発しようとしているようですが、脳の治療はむずかしいですし、薬を飲んでも注射しても脳細胞の死滅を防ぐことはできないのです。しかし、よく学び、学んだことを脳にインプットし、いつも頭を働かせておくと、脳細胞はしっかりします。ですから、脳を使って勉強し、ものごとをよく覚えておいた方がよいのです。勉強するのに遅いということはありません。たしかに年をとると物忘れが多くなりがちで、人の顔は知っているのに名前を思い出せないとか、電話番号や駅名を思い出せないなどということがよくあります。だからといって勉強できないかというと、勉強すればできるのです。ただ、今さら名前や電話番号、駅名なんか覚えなくてもいいのではないか、という気持ちがあるから、なかなか覚えられないだけで、覚える必要があるものに関しては、一発で記憶できるのです。

 ですから、学ぶのに遅いということはありません。逆に、年をとって学び始めると良い面もあります。人生に必要なものだけ覚えておいて、ほかのくだらないことは全部捨ててしまうからです。どちらかというと若いときはくだらないものばかり覚えておき、大事なことは全部落としてしまう傾向があります。これは能力が未熟ということです。ですからインド文化的に「明日死んでも今日は勉強します」という気持ちで、脳だけはとことん働かせたほうがよいのです。


サンガーラワさんの問い


 サンガーラワさんは大変な知識人で、図書館二つ分ぐらいの大量データを頭の中にインプットしている人でした。ところが、子供の頃からずっと暗記している聖典なのに、ときどき思い出せないことがあるというのです。サンガーラワさんはトップグレードのバラモン人でしたから、法要のときなど堂々と始めるのですが、途中で「あれ、次は何でしたか……」と分からなくなり、引っかかることがあったりするというのです。よく学んで慣れているはずなのに、忘れてしまうことがあると。またあるときは、ちょっとしか学んだことがないことでも、明確に思い出せることがあるというのです。
 これを分かりやすく言いますと、ときには鋭くシャープで明確に頭が働きますが、ときにはどうしようもなく鈍くて頭が働かない、これはどうしてでしょうか、という質問です。


お釈迦様の答え方


 お釈迦様はすごい方で、「思い出せないのは身体の調子が悪いからです」などといった、いい加減な答えは出しませんでした。お釈迦様が答えるときはいつでも、人類すべてに役に立つ「普遍的な真理の答え」を出すのです。これが正自覚者である仏陀たるゆえんであり、修行を完成させて悟ったということは、そういうことなのです。お釈迦様がおっしゃった真理は、たとえ時代が変わっても、国や場所が変わっても、真理は真理ですから変わることはありません。

 お釈迦様の答え方の特徴として

◎ 質問の内容に応じて、相手が理解できるように、さまざまな方法で答える。
◎ 質問に答えるだけでなく、その人が人格を向上させ、解脱できるようにアドバイスする。


 お釈迦様は、相手の質問に答えるだけでなく、質問した人が人格を向上させ、解脱するためにこれから何を学ぶべきか、というところまで教え導きます。相手の質問は一つですが、その質問の答えのみならず、一切の質問の答え、つまり「一切の問題を解決する方法」まで教えるのです。

 このように、お釈迦様の答え方には二つの次元があります。一つは俗世間の次元で、相手の質問に対する答え。これは誰でも納得できる、俗世間の立場から見れば完璧な答えです。もう一つは出世間(世間を乗り越えた)の次元で、解脱するためのアドバイスです。聞いた人は「なるほど、こういうふうに修行するのか。頑張って悟りに達しなくてはならない」というレベルのアドバイスです。

 お釈迦様は世間で理解できるレベルと、世間では理解できないレベルを、いっしょに教えました。一つの教えの中に、意味が二つ入っているのです。


能力の細菌


 では、サンガーラワさんの問い、「ときどき頭が鋭く働きますが、ときどき全然働きません。なぜでしょうか?」という単純な質問に、お釈迦様はどのように答えたのでしょうか。

 お釈迦様は、「人間の能力に障害が入るからです」と答えました。
 障害が入ると、頭が働かなくなるのです。勉強もできませんし、すでに勉強したことも思い出すことができません。皆さんも、勉強しても頭に入らないとか、仕事がはかどらないとか、もういやだ、やりたくないなどと、頭が働かないことがときどきあるのではないでしょうか。このとき、心に何か障害が入っているのです。この障害は非常に迷惑なものです。障害は細菌みたいなもので、たとえば風邪をひいたとき、身体の中に細菌が入って、頭が痛くなったり熱が出たり、身体が弱って頭も働きません。
 お釈迦様がおっしゃる細菌とは、「能力の細菌」です。私たちの能力に細菌が入っているから、能力が鈍り、発揮されないのです。


身体は衰えても 頭は明晰に


 この経典は、別の言葉で言えば、「どうすれば頭が良いままで生きていられるか」という話しです。現代人が心配している病気の一つに、認知症があります。これは癌よりも危ない病気だと思います。私は、癌になって立ち上がれなくなっている人を見てもそんなにかわいそうとは思いません。なぜなら頭はしっかりしていますし、考えることができますから。その人は残りの人生の計画をしっかりたてて、明るく、人間らしく、理性を保ち、人間としてのプライド持って過ごすことができます。

 でも、認知症になったらどうしますか。理性が低下し人間性まで衰えたりするのです。これは大変悲しいことです。認知症になるのは、私たちから見ればだいたい年上の方でしょう。ですから尊敬したいのですが、でも当人は知性も理性も社会性もほとんどなくなっている場合が多く、自分の子供の顔さえ忘れているほどです。病気ですからしょうがないのですが、だからといって人間に生まれたのに人間としての尊厳を失ってしまうということは、けっして良いことではないのです。ですから、頭だけは衰えないように気をつけたほうがよいのです。身体は衰えても気にすることはありません。足が動かなくなったら車いすに座っても、ベッドに横になってもよいのです。人と話したり、本を読んだり、文章を書いたりして、人間として堂々としていることが大切なのです。もし手が動かないなら、口で話せばよいのです。身体は衰えても、頭だけは衰えないように気をつけたほうがよいのです。


障害1:愛欲(kāma rāga


この世・あの世で勝利を得る道

 宗教の有無にかかわらず、私たちは生きているあいだ、できるかぎり善いことをやり、悪いことをやらないようにしなければなりません。「自分は宗教を持っていないから、やりたい放題悪いことをやる」というのは成り立たないのです。あるいは「私は輪廻転生を信じない。死んだらすべて終わりだ。だから人生、好きなことをやって生きる」と勝手に思っていても、その人に強盗する権利はありませんし、他人に害を与える権利もありません。
 宗教があってもなくても、善行為をすべきなのです。社会に非難されることや自分の良心に恥じるような悪い行為を避け、いつもニコニコと元気で明るく、「私はちゃんと義務を果たして生きています。なんか文句ありますか」という調子で生きるべきなのです。この「なんか文句ありますか」という調子で生きるためには、相当立派に生きていないとできるものではありません。だからといって、その人は全然威張っていないのです。ほんとにすごいことをやっている人というのは、威張ることなく、自分の義務をなんのことなく果たしながら生きています。その人こそ、他の人々に「しっかりしなさいよ」と言える心の強さを持っているのです。

 私たちは善行為をしなくてはなりません。これには宗教や信仰は関係ありません。人間として生まれたなら誰でも、立派に生きていなければならないのです。

 そこで、立派に生きている人は人生を順調に生きることができますし、また世間の人々からも信頼されますから、今生でおのずと幸福になります。もし輪廻転生があって来世がある場合でも、地獄や苦しみの次元に落ちることはありません。必ず、幸福の次元に生まれ変わるのです。ですから仏教は、善行為はこの世で勝利を得る道であり、あの世で勝利を得る道であると教えています。

 他方、何かの宗教を熱心に信仰していても、裏で悪行為をしているなら、その人は因果法則によって必ず不幸になります。大事なことは「信仰することではなく、善行為をすること」なのです。


善とは何か?

 では、善とはなんでしょうか? これは能力や智慧にかかわることです。能力がある人は悪いことをしません。悪いことをするのは能力のない無知な人たちです。ですから能力があって頭がびしびし働くことが「善」であり、頭が鈍くて働かないことが「悪」なのです。客観的で、具体的で、理性に基づき、人間らしく生きていることが「善」で、判断力がなく、優柔不断で、人の言うことをなんでも鵜呑みにするだらしない性格は「悪」です。善か悪かは「能力」で決まるのです。ですから、たとえ宗教に興味がなくても、能力があり、理性的で頭が鋭いなら、その人はおのずと人の役に立つ善い行為をします。それでその結果、幸福に生きることができるのです。

 このような理由から、私たちの「能力を奪う障害」について、よく学んだほうがよいのです。


愛欲のウィルス

 そこで、サンガーラワさんの質問にたいするお釈迦様の答えです。

‘‘Yasmiṃ kho, brāhmaṇa, samaye kāmarāgapariyuṭṭhitena cetasā viharati kāmarāgaparetena. Uppannassa ca kāmarāgassa nissaraṇaṃ yathābhūtaṃ nappajānāti, attatthampi tasmiṃ samaye yathābhūtaṃ na jānāti na passat. Paratthampi tasmiṃ samaye yathābhūtaṃ na jānāti na passati, ubhayatthampi tasmiṃ samaye yathābhūtaṃ na jānāti na passat. Dīgharattaṃ sajjhāyakatāpi mantā nappaṭibhanti. Pageva asajjhāyakatā.


 「バラモンよ、心はときどき愛欲に抑えられ、愛欲に支配されることがあります。このとき、愛欲から解放される具体的な方法を知りません。自分のため(幸福)になることを具体的に知りません。他人のため(幸福)になることも具体的に知りません。自分と他人の両方のため(幸福)になることも具体的に知りません。
 長いあいだ唱え慣れてきた教えも思い出せません。唱え慣れてない教えに関してはいうまでもありません」

 障害の第一番目は「愛欲」(kāma rāga)です。愛欲は日常生活のなかで結構頻繁に生まれてくるものですから、愛欲が生まれたとき、それを取り除く方法を知らないと、とても危険です。

 私たちはときどき風邪をひいたり、頭が痛くなったり、病気になったりすることがあります。身体があるかぎり病気になることはどうしようもないのですが、このときちゃんと治療法を知っていれば、何も問題はありませんし、心配することもないでしょう。でももし医者へ行っても原因が分からず、治療法も薬もないとなると、どうなるでしょうか? 絶望的です。

 同様に、私たちの心もときどき「愛欲」という病気になりますが、このとき、もし治療法も薬もないとなると、もうお手上げなのです。

 「愛欲」に感染すると、
・自分のために何をすればいいか分からなくなります。
・他人のために何をすればいいか分からなくなります。
・皆のために何をすればいいか分からなくなります。

 いわゆる道徳が分からなくなるのです。愛欲というのはとてもきつい感情で、重い病気です。愛欲が入った瞬間で人がやることというのは、自分にも、他人にも、人類にも、迷惑になる悪い行為です。お釈迦様はこのようにおっしゃいました。「愛欲が入ったら、自分に不幸になる行為をし、他人に不幸になる行為をし、皆に不幸になる行為をする」と。

 ときどきニュースなどで、立派な教授が性的な問題を起こしたり、電車のなかで痴漢をして逮捕された、ということが報じられています。ふつう教授という立場の人は学生たちに「先生、先生」と呼ばれて尊敬されている人でしょう。頭が鋭く、学生たちは怯えながら授業を受けたり指導を受けたりしています。

 しかしそういう立派な人でも、心に愛欲が入ったら、だらしない人間になるのです。なんの智慧も、なんの判断力もない、若者を指導する資格はその瞬間でまるっきりない、どうしようもない愚か者になるのです。それでその人の人生は台無し。後で「やってはいけないことをやってしまった」と後悔しても、もう手遅れ。その一瞬の行為で、すべて自滅です。かわいそうです。

 なぜそういうことになるかといいますと、ある瞬間、愛欲(性欲)にやられてしまったのです。その瞬間、すべての能力がなくなってしまったのです。
 どんなに知識を持っていても、どんなにインテリでも、悟ってないかぎりは愛欲というウィルスにときどき攻撃されて感染するものです。私たちは生身(なまみ)の人間ですから、愛欲に感染することはどうしようもありません。だからといって、そのままにしておいては人生が台無しになります。そこで、解毒剤を用いることが必要なのです。感染したら、サッと解毒剤を飲んで、解毒します。これで身が守られるのです。


愛欲の解毒法

 では、どのように解毒するのでしょうか? 
 それは「愛欲は危険である」とよく理解しておくことです。これさえ覚えておけば、それほど問題は起こらないでしょう。愛欲が生じたとき、すぐにそれを発見し、「危険だ。ひどい病気に感染した。いま自分は獣(けもの)のような行動をするかもしれない」と明確に理解するのです。このように、しっかり理解することによって、愚かな行動を避けることができるのです。

 環境を変えて、まったく別のことをやることも効果的な方法です。音楽を聞いたり、公園へ行って全速力で走ったりするなど、何か別のことをやるなら、多くの場合、愛欲のウィルスは頭の中から消えてしまうでしょう。

 ここでいう愛欲とは性的な欲望のことです。家族を愛することも一種の欲望ですが、仏教では病気として扱いません。愛欲とは性的な欲望のことなのです。


ウィルスに勝つ免疫力

 このように、愛欲が生じるたびにそれを排除することによって、「智慧」が育ちます。愛欲という強い細菌に打ち勝つのだから、その智慧は相当なものです。そうすると、愛欲に感染したことも悪くなくなります。ウィルスに感染したけどそれを乗り越えた、ということはどういうことでしょうか? ウィルスがなくなったら何が残るでしょうか? 免疫力です。つまり「愛欲にたいする免疫」が心に生じるのです。これはとても善いことです。ウィルスに負けたら病気になりますが、勝ったら免疫が生じます。私たちはときどき愛欲菌に感染しますが、ちゃんと排除すれば、免疫ができるのです。この免疫によって、次に感染したとき、軽症ですむようになりますし、また、だんだんそれに感染しなくなるでしょう。 

 「愛欲」という感情は、とても強い感情で、重い病気です。心に愛欲が入った瞬間で人がやることというのは、自分にも、他人にも、人類にも、迷惑になる悪い行為です。お釈迦様はこのようにおっしゃいました。「愛欲が入ったら、自分にたいして不幸になる行為をし、他人にたいして不幸になる行為をし、皆にたいして不幸になる行為をする」   


濁った水に顔を映す

 お釈迦様は次のような喩えを用いて、わかりやすく教えられました。
 「容器に水を入れて鏡の代わりに自分の顔を見ようとします。しかし、この水は青や黄、赤などの色で染まっています。このとき水が濁っていますから、自分の顔は見えません」

 むかしの人たちは鏡を持っていませんでしたから、自分の顔や服装を見るときは、容器に水を入れ、その水を覗いて自分の姿を映し見ていました。
 そこで、容器に水が入っていますが、その水は青や黄、赤などの色が混ざって濁っています。このとき、自分の顔ははっきり見えるでしょうか?
見えません。水が濁っていますから、見えたとしても、それはもとの姿をそのまま映しているのではなく、水が青色なら顔は青っぽく見えますし、黄色なら黄色っぽく見えますし、赤色なら赤っぽく見えるのです。これでは鏡の役割は果たしていません。水が濁っているから役に立たないのです。

 同様に、私たちの心に愛欲という色が入ったら、心は濁り、能力も鈍り、頭も働かなくなるのです。


愛欲と知恵は正反対のもの

 例をあげますと、ある学生が勉強をする一方で、恋人をつくって恋もするとしましょう。勉強に集中しているときは恋人のことは忘れていますから頭がしっかりしていますが、勉強中ふと「次のデートはどこにしようか」と考えたり、メールや電話をしたくなったりすると、全然勉強が頭に入らなくなってしまうのです。

 このように愛欲と知恵は正反対のもので、闇と光のようなものです。愛欲が生まれると知恵は消えてなくなります。愛欲があまりにも強すぎると、心が硬くなり、柔軟性がなくなり、判断力も鈍くなって、人生は不幸のほうへ傾いてしまいます。そこをよく理解して、私たちは人生の多くの時間を知恵に使うよう、しっかりスケジュールを立てて生きていかなければなりません。知恵に使っているあいだは、人は明るいですし、美しいですし、やさしいのです。当然幸福にもなります。


◎障害2 : 瞋恚 (byāpāda

 能力を奪う五つの障害のなかの二番目は「瞋恚」(byāpāda)です。瞋恚とは、異常な怒りのことで、敵意やライバル意識、理由もないのに激しく怒ることをいいます。

 私たちには、なぜかわからないけど腹が立ってしょうがないとか、むかっとするとか、いらいらするという byāpāda の病気があります。誰に怒っているのか、なぜ怒っているのかも分からず、ただ腹が立ってしょうがない。何もかもがいやで、人にやさしくされても腹が立ち、もうどうにもならないというときがあるのです。

 最近、日本では、突然だれでもいいから殺したくなったとか、理由がないのに放火したとか、そういうニュースをときどき聞くのではないでしょうか。
 当人に「なぜ殺したのか?」と聞くと、「ただ人を殺したくなった。誰でもよかった」と言うのです。
 これは恐ろしい心の病気です。もし長いあいだずっと相手にダメージを与え続けられ、恨みが溜まって、もうどうすることもできずに殺してしまったというのなら、それにははっきりとした原因や理由があります。しかし、いま日本やアメリカ、イギリスなどの先進国で頻繁に見られるのは、そういう原因や理由があるものではなく、ただ外へ出てその辺にいる
人を無差別に殺すといった事件です。これは恐ろしい異常な怒り(byāpāda)の病気です。

 しかし、この「異常な怒り」は、特別なある一部の精神異常者だけにかぎられた病気だと考えるのはよくありません。これは誰にでも生じうる病気なのです。ふつうに仕事をして、ふつうに生活している人にも、ちょっとしたことがきっかけで異常な怒りが生まれるときがあるのです。ですから私たちは怒りの感情が生まれないよう、よく気をつけなければなりません。怒りが生まれたときには、解毒剤を使って、怒りのウィルスをすぐに除去することが大切なのです。


怒りの菌を繁殖させない

 怒りの解毒剤とは、怒りが生じた瞬間、すぐにそれを見つけて明確に理解することです。そうすると、その瞬間、怒りは消えてなくなるのです。

 また、環境を変えて別のことをすることも有効です。怒りの感情をそれ以上膨らませないよう、たとえば外へ出て全速力で走ったりするなら、身体からどんどん汗がでて、呼吸も激しくなり、疲れ果てて、もう動けなくなってしまいますから、さっきの猛烈な怒りは吹っ飛んでしまうのです。これで頭の中の毒が消えます。しかし私たちはだいたい怠け者ですから、そういうことはやろうとしません。ただ悶々と考え続け、怒りの菌を繁殖させるのです。


勝負の相手は?

 「怒りは、自分も他人も周りも破壊する猛毒である」ということを理解して、怒りに感染したらすぐに解毒するようにしてください。

 怒りがあると、私たちの能力や才能は跡形もなく沈んでしまいます。学校や塾でいくら勉強してもいっこうに成績が良くならないという子供がいますが、それはなぜかといいますと、その子はクラスにライバルを作っているのです。ライバルに勝つことばかりが気になって、自分の勉強に手がつかなくなり、そのせいで自分の頭が悪くなってしまうのです。

 ですから、ライバルを作らないようにしてください。「あいつに負けたくない」と考えた瞬間、自分の勉強ができなくなるのです。仕事でも同じです。
「あの人に負けません」と思ったときから、能力が鈍って、自分の仕事がだんだんできなくなってしまうのです。

 ですから「誰かに勝つ」ことではなく、「自分に勝つ」ことを目標にしてください。「私はしっかり頑張って能力をフルに生かします。自分には負けません」と思うことです。「他人ではなく、自分に負けません。自分で『よくやった!』と思えるように頑張ります」と。これで怒りの毒から守られるのです。

 怒りは破壊力です。怒りに感染すると、もう二度と能力が現れなくなるほど能力が消えてしまう可能性があります。欲もダメージを与えますが、怒りほどダメージを与えません。たとえば、ある男性が妻子がいるにもかかわらず他の女性が好きになり、そのせいで一時的に愛欲におぼれて頭がバカになって、動物みたいな愚かな行動をしたとしましょう。
 しかし、しばらくして熱が冷めて愛欲が消えたら、だいたいの場合は、知性はまた戻ってくるのです。
 でも、怒りはそうではありません。火で焼いたように能力を焼き滅ぼしてしまうのです。怒りは破壊力です。怒りを長時間、心に持っていると、能力はどんどん死滅していくのです。障害どころではありません。たとえ怒りが静まっても、いったん死滅したら、死滅したものを修復することは不可能です。
 ですから怒りはとても危険なものなのです。


煮え立った水に顔を映す

 お釈迦様は「怒りの障害」についてこのような喩えを用いて教えられました。

 「容器に水を入れて鏡の代わりに自分の顔を見ようとします。しかし、この水は火に熱せられ、沸騰してブクブクと泡が立っています。このとき水が泡立っていますから、自分の顔は見えません」

 愛欲の障害の喩えと同様に、自分の顔を見ようと、水の入った容器を覗きました。しかし、中の水が沸騰してブクブク煮立ち、自分の顔が見えません。容器の下に火がついているのです。このまま沸騰し続ければ、水はどんどんなくなっていくでしょう。同様に、怒りの火を沸騰させたまま放置しておけば、私たちの能力はどんどんどんどん消えていくのです。


障害③:昏沈睡眠(thinamiddha

 能力を奪う五つの障害の第三番目は「昏沈睡眠」(thinamiddha)です。
「昏沈」(thina)は心の力が鈍くなり弱くなっていることで、行動したくない、何もしなくない、という状態のこと。「睡眠」(middha)は眠くて、最終的に寝てしまうという状態のことです。
 昏沈と睡眠はよくいっしょにあらわれてきますので、二つ合わせて「昏沈睡眠」と呼ばれています。両方とも、やる気と行動力がなくなっていく暗いエネルギーです。

 ときどき私たちは身体が重くてだるくて、もう動きたくない、何もやりたくない、横になって寝ていたい、という気分になることがあるでしょう。これが昏沈睡眠で、簡単に言うと、怠けのことです。このとき、頭も悪くなっているのです。

 怠けは非常に強いウィルスで、私たちの心には常に「怠けたい、怠けたい」というウィルスが潜んでいます。たとえば仕事をしているとき「明日やろう」と後回しにしたり、ちょっと手を抜いてみたり、サボったりしがちです。家庭の奥さんなら、掃除や洗濯をしたくない。できればおせんべいを食べながらのんびりテレビを見ていたい、と思うことも結構あるのではないでしょうか。子供たちは宿題をなかなかやろうとせず、「あとでやるから」とぐずぐず言いながらゲームに夢中になっています。

 そこで怠けの結果どうなるかといいますと、仕事も家事も勉強もすべてのことが中途半端になり、失敗に終わるのです。

 瞑想する人たちも「明日瞑想します。今日は忙しいからやりません」と言ったり、あるいは瞑想していても、ただボーっとしていたり、眠り込んだりしています。このように、私たちは怠けのウィルスにかなり攻撃されているのです。

 このとき当然、自分のために何をすべきか、他人のために何をすべきか、皆のために何をすべきか、と考えることはできません。それだけでなく、すでに学んだことも思い出すことができないのです。


苔だらけの水に顔を映す

 お釈迦さまは「昏沈睡眠」について次のような喩えを用いて教えられました。
 「容器に水を入れて鏡の代わりに自分の顔を映し見ようとします。しかし、この水は苔や水草でいっぱいです。このとき、自分の顔を見ることはできません」

 水の中で繁殖する苔は、水を換えずに放置しておくと、あっという間に繁殖して、水の中が苔でいっぱいになります。これと同様に、怠けのウィルスを取り除かずに放置しておくと、どんどん繁殖して、心は怠けでいっぱいになり、そのせいで、ものごとを正しく考えることができなくなってしまうのです。


怠け菌の退治法

 では、どうすれば怠け菌を退治することができるのでしょうか。それは、自分の心に「気づく」ことです。たとえば仕事をしているとき、疲れてやめたくなっているなら、その瞬間「私はいま疲れて、やめたくなっている」とありのままに気づくのです。いやになっているなら「今いやになっている」と気づくのです。ありのままに気づくことによって、自然に正しい方向へ進んでいけるようになるのです。


障害④:掉挙・後悔(uddhacca kukkucca

 能力を奪う五つの障害の第四番目は、「掉挙(じょうこ)・後悔(こうかい)」(uddhacca kukkucca)です。

 「掉挙」(uddhacca)は、心がうわつき、あせっている状態、あがっている状態、集中力がなく、混乱して興奮している状態のことです。
 掉挙があると、何をやってもうまくいきません。仏教では、人が悪いことをするとき、その瞬間の心は混乱状態にあるといいます。理性がなく感情だけで動いていますから、自分が何をやっているのかまったくわかりませんし、当然、善悪判断もできません。この状態のときに考えること・話すこと・行動することはなんでも悪い行為で罪なのです。

 「後悔」(kukkucca)は、自分がやったことを思い出して「あー、なんであんなことをやってしまったのか。やってはいけないことをやってしまった。私は罪人だ」などと考えて心を暗くすることです。
 仏教では、後悔はとても悪いことだと教えています。罪を犯したらそれは当然、悪ですが、それを後悔すると、悪が2倍、3倍、4倍……と膨れ上がっていくのです。後悔するたびに、犯した罪のイメージが頭の中で再現されますから、悪が強化され、さらには新しい悪を作っていることになるのです。

 そこで仏教は、後悔ではなく、懺悔するようにと教えています。「すいません、間違えました」「私が悪かった、認めます」と懺悔するのです。懺悔は、みじめなことではありません。後悔することが、みじめなのです。人間は誰でもいろんな失敗をするものです。腹が立って誰かを殴ってしまうことも、もしかするとあるかもしれません。このとき、自分の過ちをすぐに認めて謝罪することが大切なのです。もし謝っても相手が許してくれないなら、堂々と警察に行って「私は○○さんを殴りました」と謝罪し、それなりの法的処置を受ければよいのです。この場合、罪を犯しましたが、それを正直に認めていますから、人間としての人格にはそれほど問題がないのです。

 私たちは誰でも、日々気づかぬうちに何か悪いことをしていると思って生活したほうがよいでしょう。そうすると心の傲慢が消えて、謙虚に、気をつけて生活するようになります。「過ちを犯すかもしれない」という緊張感がないと、どんな人でも危険な存在になりうるのです。ですから朝晩、謙虚な気持ちで、正直に懺悔する習慣を身につけるようにしてください。

 ただ、「懺悔すればいい」とか「懺悔したからもう大丈夫だ」と考えて、開き直って同じ悪を繰り返すというのでは意味がありません。懺悔するときに大切なのは「いま犯した過ちと同じ過ちを二度と犯しません」という決意です。決意することによって、罪の悪果が軽減されるのです。

 正しく懺悔する人は、失敗の経験から何かを学び、それを今後の生き方へつなげようとする明るく前向きな心を持っています。ですから心は成長していきます。他方、後悔する人は、過去の失敗に捕らわれ、それについて妄想し、悩んだり落ち込んだりして心がどんどん暗くなっていきます。後悔の心でやる行為はすべて悪行為なのです。ですから心が成長することはありません。


波が立ち、渦が巻いている水に顔を映す

 心に掉挙・後悔があるときは、私たちは何にも集中することができません。このとき、すでに知っていることも思い出すことができませんし、新しいことも学べないのです。

 お釈迦さまは「掉挙・後悔」について次のような喩えを用いて教えられました。

 「容器に水を入れて鏡の代わりに自分の顔を映し見ようとします。しかし、この水は風にあおられて波が立ち、渦を巻いています。このとき、自分の顔を見ることはできません」

 風にあおられて波が立ち、渦が巻いている水に、自分の顔を映して観察しようとしても、ありのままに見ることはできません。この喩えのように、掉挙・後悔は自分の心が波立ち、渦が巻いている状態のことです。このとき自分のために何をすべきか、他人のために何をすべきか、皆のために何をすべきか、ということは分かりません。知っていることも思い出すことができないのです。


障害⑤: 疑 (vicikiccha)

 能力を奪う五つの障害の第五番目は「疑」(ぎ)です。

 仏教は、疑はとても怖い病気だと見ています。疑とは「YES」「NO」がはっきりしない状態のことで、頭に入ってくる情報をしっかり受けとめないことです。私たちの頭にはいろんな情報が入ってきますが、それらをちゃんと受けとめずに、「あ……どうでしょうか……」と、YESもNOもはっきりしないことです。

 たとえば「この音楽はとてもきれいですよ」と言うと、疑のある人は「……」と、YESもNOもありません。そこで「では、ちょっと聞いてみてください」と音楽を聞かせてあげても、返事は「……」。結局、何も聞いてないのです。

 他方、YES・NOがはっきりしている人は、「あなたはその音楽がきれいだと言いますが、そう言っても私は信じませんよ。だから一度聞かせてください」と言うでしょう。それで実際に自分で聞いてみるのです。聞いた結果「そうですね、きれいですね」とYESの答えを出したり、あるいは「私はあんまり好きではありません」とNOの答えを出したりするのです。

 YES・NOがはっきりしない状態が「疑」です。
 情報やデータを調べようとせず、頭から否定する性格のことです。この性格は、私たちに結構あります。はっきり調べようとも、知ろうともしないで、いきなり却下するということが。
 ときどき「私は仏教が大嫌いだ」と言う人もいます。その人に「あなたは仏教を勉強したことがあるんですか」と聞いてみると、「生まれたときから仏教は嫌いだ」と言うのです。勉強もしていないのに、どうやって嫌いと決められるのでしょうか。そういう人は心に鍵をかけていますから、真理を理解するどころか、探そうとすることさえできないでしょう。
 また、いきなり却下することだけでなく、鵜呑みにすることも「疑」です。
 疑のある人は精神的に不安定ですから、智慧は育ちません。


善い疑

 ところで「疑」には、善い疑もあります。善い疑とは、入ってきたデータにたいして「これは事実だろうか」と理性的に考え、疑問をもって自分で調べたり、確かめたりすることです。いきなり却下したり鵜呑みにしたりすることはしません。

 これはとても大事なことです。とことん調べてから「これはこういう理由で信じません」などと判断することは正しい態度であって、心を育てる善い行為なのです。

 東洋でも西洋でも、一般的に占いが好きな人が多いようです。私は個人的に占いをまったく信じていません。だからといって、いきなり捨てるのかというと、そうではありません。結構調べてみるのです。どのように占うのか、どういう論理でこういうことを言うのか、をきちんと調べてみます。そうすると、その占いはまったくインチキだということが明確に分かるのです。必ず自分で一度調べてみるのです。


曖昧さを美とする日本文化

 日本文化には、曖昧なものこそ良いことである、という感覚が濃厚にあるように思います。曖昧なことは格好いいことで、YES・NOをはっきり言うことは下品で失礼なこと、という価値観を持っている人が多いようです。
 しかし「曖昧」ということは、結局、無知を喜んでいるのだから、良いことではありません。こんな状態では世界に負けてしまうでしょう。

 なぜ、ものごとをはっきり言わないのでしょうか? それは「はっきり知らない」からです。ですからよく調べて「これはこれです」「こういう理由でこうです」と、はっきり知ることが大切です。曖昧で中途半端な態度はよくありません。

 この曖昧や中途半端、優柔不断な態度は、仏教を学ぶと治っていきます。明確にしっかりと判断できるようになるのです。もちろん、そのためには大変な訓練をしなくてはなりませんが……。ものごとを細かく分析して、頭が明晰になるように心を磨いていかなければならないのです。


暗闇で濁って揺れ動いている泥水に顔を映す

 お釈迦さまは「疑」について次のような喩えを用いて教えられました。

 「容器に水を入れて鏡の代わりに自分の顔を映し見ようとします。しかし、この水は濁って、揺れ動き、泥が入って、そのうえ暗い所に置いてあります。このとき、自分の顔を見ることはできません」

 この「疑の喩え」は、これまでの五つの喩えの中で最悪の喩えです。水に泥が混じり、それがごちゃごちゃ動いている状態です。それだけでなく、容器が暗いところに置いてあるため、自分の顔はかすかにでも見えません。泥水ならなんとか歪ん
ででも映るかもしれませんが、暗闇の中だと、もう何も見えないのです。ですから、疑は障害の中でいちばん智慧にダメージを与える障害なのです。

 このとき、自分のために何をすべきか、ということは分かりません。他人のために何をすべきか、皆のために何をすべきか、ということも分かりません。知っていることも思い出せないのです。


能力障害は罪

 今回のテーマ「能力を奪う五つの障害」は能力についての話だから若い人たちだけが学べばいい、と思っている年輩の方々もいらっしゃるかもしれません。しかし、それは間違いです。障害というものは罪ですから、年齢に関係なく、若者も子供も年輩の
方も、どんな人も能力に障害があってはならないのです。

 この五つの障害に心が支配されると、理性がなくなりますから、心は不浄になります。それで、考えることも、話すことも、行動することも、すべて悪行為で罪になるのです。

 ときどき「障害や煩悩は人間にもともと備わっている。人間なら誰でも欲があり、怒りがあり、混乱がある。これはしょうがないことで、どうすることもできない」と考えている人もいるようです。こういう人は、五番目の障害「疑」に完全にやられています。障害や煩悩が人間に固定的に備わっている、というのは間違いです。そうではなく、そのときそのとき現れたり消えたりするものなのです。ですから「どうすることもできない」と、あきらめるのではなく、障害が現れないように気をつけることが大事なのです。


智慧を完成させる七覚支

 これまでお話してきましたように、お釈迦さまはサンガーラワさんに「なぜ能力がなくなるのか」ということを教えました。
 私たちは五つの障害(愛欲・瞋恚・昏沈睡眠・掉挙後悔・疑)に、次から次へとやられています。それで頭が悪くなり、能力がなくなっているのです。ですからお釈迦さまは「障害の危険性をよく理解して、障害が現れないように気をつけてください」とおっしゃったのです。

 しかし、お釈迦さまの説法はそれだけで終わりません。サンガーラワさんが質問したのは、「ときどき頭が悪くなりますが、それはなぜですか」と、それだけです。でもお釈迦さまはその質問に答えるだけでなく、さらに「智慧を完成させる方法」まで教えたのです。つまり「私たちの能力を奪う障害」についてのみならず、「能力を向上させ、智慧を完成させる方法」もプラスして教えたのです。


念覚支 (Satisambojjhaṅga)


 能力を向上させ、智慧を完成させる方法とは、「七つの覚支」です。「覚」とは完全な智慧のこと、「支」とは部品のことです。智慧は七つの部品で成り立っていて、この七つの部品を完全に育てるなら、「悟り」という完璧な能力が現れるのです。

Sattime, brāhmaṇa, bojjhaṅgā anāvaraṇā anīvaraṇā cetaso anupakkilesā bhāvitā bahulīkatā vijjāvimuttiphalasacchikiriyāya saṃvattanti.

 バラモンよ、心の蓋(ふた)を開け、障害を除去する七つの覚支があります。心に汚れなく、それらを育てあげ、熟練させるならば、智慧によって解脱を体験することができます。


今の瞬間に気づく

 正しく悟るための第一番目の覚支は「念覚支」(Satisambojjhaṅga)です。
 これは「気づく」という意味です。いわゆる、あれこれいろんなことを考えないで、今の瞬間のことだけに気づくという意味です。そうすると、心は過去にも将来にも走ることなく、現在に留まることができるのです。

 生きるということは、今の瞬間しかありません。勉強することも、仕事をすることも、話すことも、話しを聞くことも、本を読むことも、すべて何でも「今、今、今……」です。今失敗すると、人生は失敗してしまうのです。

 ですから今やっていることに気づくことが大切です。本を読んでいるなら「今本を読んでいる」、話しを聞いているなら「今話しを聞いている」、お茶を飲んでいるなら「今お茶を飲んでいる」と、このように絶えず「今」やっていることに気づくのです。

 しかし、ふだん私たちはほとんど「今」のことに気づいていません。皆さんは歩いているとき、歩いていることに気づいているでしょうか? だいたいの時は何かを考えながら歩いているのではないでしょうか。昨日の会議のことや数か月前に友人と喧嘩したこと、今晩の夕飯のこと、明日の予定や一年後の予定、仕事のことや子供のこと、妻や夫のこと……いろんなことを考えながら歩いていると思います。ということは、つまり「今に気づいていない」ということです。

 食事のときはどうでしょうか? 食べながら、テレビを見ながら、新聞を読みながら、家族や友人とおしゃべりしながら、携帯電話で話しながら……という方も多いのではないでしょうか。これはまったく「今に気づいていない」状態です。これでは結局、何の番組を見たのか、何の記事を読んだのか、何の話しをしたのかはわかりません。何を食べたかということもわかりません。たとえ栄養やカロリーをきちんと計算して、一日に必要な量を摂取したとしても、脳細胞は健全に働くことができませんから、身体に入ってきた食べ物をどう処理すればいいのかわからず、うまく消化吸収することができないのです。食べ物を正しく消化吸収するためには、脳が「何を食べたか」ということを明確に知る必要があるのです。

 そこで、あまり栄養のない食べ物でも、「これを食べます」ということをよく知って、それから「噛みます、味わいます、のみこみます……」などとよく確認して食べると、脳はきちんと認知できますから、消化吸収も適切にスムーズにおこなわれます。食べ過ぎることもなく、適量で自然にストップすることができるでしょう。


妄想が能力をむしばむ

 過去や将来のことを考えると、現在のことがおろそかになり、現実離れになって心は妄想し始めます。妄想すると、どんなに能力がある人でも能力がなくなって確実に堕落するのです。頭のいい人は頭が悪くなり、仕事ができる人は能率がダウンし、美しい人は醜くなり、体力がある人は体力がなくなります。このように、妄想すると確実に堕落するのであって、成長することは少しもありません。

 そこで、妄想をやめるためには「今に気づく」しかないのです。今に気づいていると、智慧が現われて、心の汚れや障害がなくなります。頭も良くなります。今の瞬間に気づくだけで、心がきれいになるのです。


気づきは一秒単位で

 智慧を完成させるためには、七つの覚支を完全に揃えなくてはなりませんが、このとき第一番目の念覚支、いわゆる「気づき」を正しく十分に実践していると、残りの六つは自然に現われてきます。つまり「念覚支」一つだけを完成させると、残りは自然に寄ってきて、智慧が完成するというシステムなのです。ですから第一番目の「気づき」をよく実践することがとても大切です。

 今に気づくということは、そんなにむずかしいことでしょうか? むずかしいことではないと思います。今に気づくということは、わかりやすく言いますと、「今の一秒だけに気づく」という意味です。今の一秒だけなら、とても具体的で単純ですから、気楽に、きちんと気づくことができるでしょう。座っているなら座っていることに気づき、寒いなら寒いということに気づき、腰が痛いなら腰の痛みに気づくだけです。歯を磨いているときには歯を磨いていることに、顔を洗っているときには顔を洗っていることに、歩いているときには歩いていることに気づくだけです。

 過去や未来のことで頭を混乱させずに、今よりも一秒前のことにも、一秒先のことにも引っかからずに、ただ、今の一秒、今の一秒、今の一秒……と、今の一秒だけに絶えず気づいていると、結果として想像を絶するほど智慧のある人間になります。それで他の能力も自然に付いてくるのです。

 逆に、過去や未来に渡ってあれこれ妄想ばかりしていると、心は混乱して人生は失敗に終わるでしょう。


妄想にどう対処するか

 と言いましても、心は非常にややこしい働きをするものですから、いくら妄想をしないようにと踏ん張っても、すぐに妄想が出てくるものです。すぐに余計なことを考えてしまうのです。とくに坐る瞑想をしているときは、妄想がぐるぐる回転して悩まされるでしょう。瞑想をしているのか妄想をしているのかわからないほど、しょっちゅう妄想が出てくるのです。

 このとき、できるだけ早く「妄想していることに気づく」ことが大切です。妄想が出るたびに、それに気づき、確認するのです。妄想を否定するのではなく、すばやく妄想を確認する、これがポイントです。もし確認をしないで「また妄想してしまった、集中できなかった、考えごとに吸い込まれてしまった……」などと否定的に評価して落ち込んでしまったなら、その人
は修行を怠けていたことになります。

 瞑想中、妄想は次から次へと出てくるものです。大切なのは、妄想が出たとき、妄想に気づくことです。妄想はイヤだと嫌うのではなく、客観的に「今、妄想している」と明確に気づき、きちんと確認することが大切なのです。


②択法覚支(dhammavicaya sambojjhaṅga)


 悟るための第二番目の覚支は「択法覚支」です。パーリ語で dhammavicaya sambojjhaṅga (ダンマウィチャヤ・サンボッジャンガ) といいます。

 dhamma は、ありのままの事実という意味、vicayaは、調査という意味です。分かりやすくいいますと、dhamma はデータで、vicaya は調査です。この二つを合わせてdhammavicaya は「データを調査する」という意味になります。

 そこで、第一番目の念覚支(sati・気づき)を十分に実践していると、おのずと第二番目の択法覚支が現われてきます。
 今の瞬間の現象に絶えず気づいていると、「今何をやっているか」というデータがちゃんと揃ってくるのです。
 データが揃ったところで次に何が起こるかといいますと、データの調査です。データを分別し区別する能力が自動的に現われてくるのです。いわゆる、今の瞬間に常に気づいていると、「そのデータは何か」ということが理解できるようになるのです。


分析能力は自動的に現われる

 具体的にいいますと、まず「気づき」をもってさまざまな現象を確認します。膨らみという現象、縮みという現象、歩くという現象、座るという現象、立つという現象、見るという現象、聞くという現象……などを確認します。

 このように確認しているとき、たとえば耳に音が入ったとしましょう。その音について、あるときは「あれは鳥の鳴き声だ」「電車の音だ」「○○さんの声だ」などと判断して、心に波を作ります。妄想するのです。
 またあるときは、お腹の「膨らみ・縮み」をとても明確に確認しているので、音が聞こえたということはなんとなく分かったのだけど、心はそちらに引かれませんから、心に波は生まれません。音が耳に入ったことは入ったのだけど、意識は「膨らみ・縮み」に集中していますから、音の内容は聞いていないのです。このとき、現象の事実関係を発見することができます。つまり「聞こうという意識がなければ、聞こえない。逆に、聞こうという意識を向ければ、聞こえる。そして聞いた後、その音に対してなんらかの判断をしたならば、欲や怒り、嫉妬などの感情が生まれる」という事実関係が発見できるのです。耳に音が入ったとしても、そこに意識が働かなかったら、その音は聞こえません。心が波立つこともありませんし、それゆえ感情も生まれてこないのです。

 どんな現象も、さまざまな関係から現われています。単独で孤立して現われているものなど一つもないのです。 「見える」という現象は、目を開いていないと見えませんし、見える対象がなければ見えませんし、見えるという意識が働かなければ見えません。これら三つの条件が揃ったとき初めて「見える」という現象が生まれるのです。これらのうち一つの条件でもなくなれば、もう見えないのです。

 択法とは、データを「より明確に見る」「分析して見る」という意味です。といいましても、わざわざ分析する必要はありません。分析に神経がいくと、私たちは自分勝手な知識で分析してしまいますから、それは結局、妄想になってしまいます。

 ですから、わざわざ分析しようとしないでください。「気づき」が十分にできるようになると、分析能力は自然に生まれてくるのです。


因果関係の発見

 今に気づいていると、物事の因縁関係が見えてきます。世の中でいわゆるプロと呼ばれている人たちは、自分の専門分野において因果関係を知っている人たちのことです。車の修理のプロは、車の部品の因果関係を知っていますし、コンピュータのプロは、コンピュータの因果関係を知っています。料理のプロは料理に関する因果関係を知っています。科学でも物理学でも医学でもどんな分野でも、プロといわれている人たちはその分野の因果関係に長けているのです。

 そこで、因果関係は今のデータを観察していると自動的に現われます。「こうだから、こうなっている」と一秒一秒、常に気づいていると、おのずと見えてくるのです。


③精進覚支(viriya sambojjhaṅga)


 悟るための第三番目の覚支は「精進覚支」です。パーリ語でviriya sambojjhaṅga/ヴィリヤ・サンボッジャンガ)といいます。
 気づき(念覚支)からスタートして、分別能力(択法覚支)がついてくると、自然にやる気(精進覚支)が現われてきます。
 いわゆる、今の瞬間に常に気づいていると、因果関係が見えてきて物事が理解できるようになり、それでだんだん興味も湧いてきて、やる気も出てくるのです。興味が湧いてきたら、人は自然に先へ進もうとするでしょう。他人に言われなくても、自ら進んで頑張るようになるのです。


頭は妄想したがっている

 真剣に「気づき」を実践していれば、自然に「やる気」は現われてきますが、そのやる気はやがて消える可能性もあります。そこで、私たちは常に「もう少し頑張ろう!」という気持ちを持つことが大切なのです。

 生命というものは生まれつき怠け者で、すぐに堕落のほうへ傾いてしまいがちです。ですから、常に精進しないと何も成し遂げることはできないのです。
 今の瞬間に気づくためには、精進が必要です。精進することなしに、今の瞬間に気づくことはできません。 妄想に耽っているということは、精進していないということです。

 そこで、妄想したくてたまらないこの頭に、「今の瞬間だけに気づきなさい。今の一秒のことだけをやりなさい」と言うと、それは精進しないとできるものではありません。頭はすぐに妄想してしまいますから、生半可な気持ちでは「今の瞬間に気づく」ことはできないのです。


もう少し頑張ってレベルアップ

 それから、瞑想がちょっとうまくいっただけで舞い上がってしまい、そこでストップする人もときどきいます。いわゆる「瞑想は楽しい、気持ちいい」などといって、それ以上先へ進もうとしないのです。さらに悪いのは、私のところへ飛んで来て「瞑想でこういう体験をしました! こんなことがありました!」と、目を輝かせて報告に来ることです。
 そういう人は、私に「すごいですね。よかったですね。卒業証明書をあげますよ」と褒めてほしがっているみたいです。

 でも、それは仏教の世界ではありません。今までやってきたことで何らかの善い結果を得たなら、そこで止まらずに、さらに頑張ることが大切なのです。正しく頑張れば、必ずうまくいきます。うまくいったらどうしますか? もう少し頑張るのです。そうすると、その分レベルが上がります。さらに頑張ると、次のステップに行くのです。これが、智慧が現われる方法です。
 褒めてほしがったり、認めてもらいたがったりするのは、怠け者の考え方なのです。


頭では分かっているのに……

 それから、こういう場合もあります。気づきを実践して、択法覚支で物事の因果関係が見えてきました。にもかかわらず、やっぱりおいしいものが食べたい、ボケーっとテレビを見ていたい、朝遅くまで寝ていたい、瞑想をやめて遊びに行きたい……などと楽しいことに引かれてしまいます。欲を捨てることができず、欲に引かれてしまうのです。
 あるいは、人に何かいやなことを言われると、頭では「怒ってはいけない」とわかっていても、すぐに腹が立って怒ってしまう……。

 私たちは因果法則を知っただけでは、悟ることができません。心はすぐに欲や怒り、怠けのほうへ引っ張られてしまうのです。

 そこで「精進」が必要です。ボケーっとテレビを見たくなったときには、強引にでもテレビのスイッチを切らなければなりません。おいしいものを食べたくなったときには、そんなものには騙されませんと心を制御しなければなりません。音楽を聞きたくなったとき、やめます。横になって眠りたいのですが、眠らないで頑張ります。このように、強引に楽しみの世界をカットするのです。なぜなら、欲を断たないかぎりは、苦しみ続けることになるのだから。

 とにかく、因果法則を知っているのに、頭では分かっているのに、誘惑から逃れられない……という人は、とことん自分を戒めて、欲や怠けを断つ努力が必要です。このとき、非常に苦しいかもしれません。でもその苦しさというのは、あくまでも精神的な苦しみであり、自己に打ち克つ苦しみなのです。

 欲や怒り、怠けに負けないで、それらを乗り越えようとあらゆる努力をすること、そういう修行方法として「精進」があるのです。


④喜覚支(pīti sambojjhaṅga


 悟るための第四番目の覚支は「喜覚支」(ピーティサンボッジャンガ)です。パーリ語でpīti sambojjhaṅga といいます。

 ここまで、実践者は非常に厳しい「精進」を実践してきました。それはまさに自分の葛藤や誘惑に打ち克つ自分との戦いであって、途轍もなくつらい修行段階でした。しかしそれに負けずに精進を続けていると、次に「喜び」が現われてくるのです。
 この喜びは、俗世間の、おいしいものを食べて楽しいとか音楽を聞いて楽しいといった低次元の喜びではありません。非常に高いレベルの落ち着きのある静かな喜びなのです。
 おいしいものを食べている瞬間は楽しいかもしれませんが、それを食べ終わってしまえば喜びは消えてしまいます。音楽を聞いているときは楽しいかもしれませんが、同じ曲を一日中聞いていると、やがていやになって飽きてしまうでしょう。このように、五感を喜ばせて楽しいというのは一時的なものにすぎません。堕落の原因にもなりますし、副作用もいろいろあるのです。

 他方、「喜覚支」の喜びには副作用は一つもありません。精進をもって「今の瞬間に気づく」ことを頑張っていると、ものごとの因果関係が見えてきます。見えてくると「わかったぞ!」という喜びが湧いてきます。何か新しいことを発見すると、心はものすごく喜びを感じるのです。さらには、向上するための励みにもなります。人間の脳というものは、楽しみや喜びがないと、うまく機能しません。人生はつまらない、楽しくない、などと不平不満ばかり言っていると、脳はどんどん退化していくのです。
 私たちの脳には常に喜びが必要です。ですからいつでも笑ったりニコニコしたりして、何かいやなことがあっても全然気にしないようにしてください。たとえ自分の家が火事で燃えてしまったとしても、落ち込んではなりません。「ま、私の家は古かったからね」などと考えて、明るく軽く受け止めることが大切です。そうすると不幸にはなりませんし、脳もどんどん成長していくのです。


喜覚支もオートモード


 気づき(念覚支)からスタートして、分別能力(択法覚支)が身につき、頑張って精進を続けていると、非常に高いレベルの喜び(喜覚支)が自動的に現われてきます。喜びが現われると、さらに頑張るようになります。それで心はさらに成長するのです。人は歯を食い縛って頑張るだけでは成長しません。喜びが必要です。何事も喜びを感じながら、おこなうことが大切なのです。


⑤軽安覚支(passaddhi sambojjhaṅga


 悟るための第五番目の覚支は「軽安覚支」です。パーリ語でpassaddhi sambojjhaxga(パッサッディ サンボッジャンガ)といいます。これからは理解するのが少々むずかしいかもしれません。

 正しく実践して、心に喜覚支が十分に育ってくると、次に軽安覚支が現われます。これは心が宇宙空間にいるかのごとく、ものすごく軽くなることです。ふだん私たちは「あー、この仕事もやらなければならないのか」「めんどうくさいなあ」「なんで私がやらなくちゃいけないのか」などと、心はたいへん重く、硬くなっています。何かをやろうと思っても、身体が重くて動かないのです。

 そこで、瞑想をして第五番目の軽安覚支が現われたら、心と身体の重さはなくなって非常に軽くなり、まるで宇宙空間に浮いているかのごとく軽くなるでしょう。これは、今までずっと心を苦しめていた欲や怒り、怠け、興奮、混乱、後悔、迷いなどの重石がなくなった状態です。心に重石があると、当然、心は重い。そこでこれらの重石が全部取り除かれたとき、心は軽くなり、まるで宇宙空間に浮いているかのごとく軽くなるのです。そのぐらい軽くなったら、その人にできないものは何もありません。


冷静に軽く受けとめる

 日常生活のなかでは「何事も気楽に受けとめる」習慣を育てたほうがよいでしょう。「あー大変だ、どうしよう」ではなく、「あ、そう、なんとかしましょう」と軽く受けとめるようにしてください。何か問題が起きても「では、今できることをやりましょう」と軽くアプローチするのです。

 どんな問題が起きても、軽くアプローチするようにしてください。たとえば、誰かが心臓発作を起こして倒れたとしましょう。皆さんはどうしますか? もし驚いて動揺してしまったら、なんの意味もありません。このとき必要なのは、冷静なアプローチです。すばやく、では救急車を呼びましょうと電話をかけて「こういう状態で人が倒れています。この住所です」と伝えるのです。でも、たいていの人はただ慌てて混乱し、なんとか電話をかけることはかけるのですが、あせって動揺して「人が倒れているんだけど早く来て……」とそれだけ。言うべきことをちゃんと言わないのです。

 他方、電話を受けた救急隊のほうは、冷静に対応します。「何が起こったんですか、どんな状況ですか、場所はどこですか、倒れている人に意識はあるんですか、ないんですか、呼吸をしているんですか、していないんですか」など、順番に落ち着いて質問していきます。それで適切な判断をして、救急車の出動指令を出すのです。

 このように、落ち着いて軽くアプローチすれば、すばやく適切に行動することができるのです。

 ちょっと余談になるかもしれませんが、今の日本は救急車の中で人が死ぬ時代になったようです。救急車で病院に運んでも、病院で受け入れを拒否され、人が死亡するケースが相次いでいます。これって経済大国だと言えるでしょうか。貧しい国で治療ができなくて死んでしまったというのはどうしようもないことですが、こんなに医療が発展している日本で、どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。

 たとえば、妊婦さんの出産ぐらいは普通のお医者さんでも対応できるのではないかと思います。むかしは病院ではなく、ふつうの家で産婆さんがやっていた仕事でしょう。なのに大学で何年間も勉強して、あらゆる訓練を受けているお医者さんが「私の分野ではありませんから分かりません」「忙しいから」「ベッドがあいていないから」と平気で断るのです。

 やっぱり私たちは頭がおかしい。頭がいいつもりでいますが、仏教から見れば、それが頭が悪いということです。みんな緊張して、マニュアルがないと動けませんし、マニュアルどおりに動けばいいと思っているのです。これは「自己責任がない」ということです。

 スリランカの私の村の話しですが、ある子供が脳に問題があって、ときどき発作を起こすのです。いつ発作が起こるかはわかりません。それで、このことを知っている村の大人たちはみんな気をつけて、その子が井戸の近くで遊ぼうとしたら「そっちへ行ってはいけませんよ」などと注意するのです。もし井戸の近くで発作を起こして、井戸に落ちてしまったら大変ですから。
それから、村の子供たちにも注意しておきます。「この子をどこかへ遊びに連れて行って、もし発作が起きたら大変でしょ。だから危険なところや遠くに行ってはいけませんよ」などと。それでも、その子が他の子供たちについて行って、もしそこで倒れてしまったら、子供たちはすぐに大人のいるところへ走って行って、発作で倒れたことを知らせるのです。ですから安心です。みんな軽く見ているのだから。

 でも、その子のお母さんはどうかといいますと、もう、最悪。子供を抱っこしているときにその子が発作を起こしたら、あまりにもびっくりして、緊張して、子供を落としてしまうのです。子供を落としたらケガをするでしょう。ある日、徹夜でお経をあげることになって、そのときその母子もいましたが、しばらくしてその子が発作を起こしたんです。その瞬間、周りのお母さんたちは「あぶない、この母親は子供を落とすかもしれない」と考えて、サッとその子を母親から取り上げました。次の瞬間、子供の身体が固くなって口から泡を出しましたが、周りのお母さんたちは冷静に対処しました。呼吸ができるように子供の口を開けてあげ、身体を温めてあげました。そうしているうちに、子供の発作はおさまったのです。

 緊張していると最悪です。緊張するのではなく、いつでも軽くアプローチして、「今なにができるでしょうか」と、一秒単位で物事を見るようにしてください。
 たとえ自分の家が火事で燃えてしまったとしても うろたえずに、「今なにができるのか」と冷静に軽くアプローチしていると、物事はスムーズに、うまくいくでしょう。


定覚支(samādhi sambojjhaṅga
 

 悟るための第六番目の覚支は「定覚支」です。パーリ語でsamādhi sambojjhaga(サマーディ サンボッジャンガ) といいます。これは禅定のことで、心が統一することです。

 第五番目の「軽安覚支」で、心と身体が宇宙空間に浮いているかのごとく軽くなったら、次はどんな仕事にもジーっと集中することができるようになります。たとえば、空気や水は軽くて柔軟ですから、どんなものにも、なんの抵抗もなく、スーッと入っていきます。同様に、心が統一したら、その心はどんなものにも見事に入っていくことができるのです。心があちこちに走り回ることなく、対象と一体になって活動を続けることができます。今やっている仕事と一体になり、仕事が終わるまでずっとやり続けることができるのです。緊張することも失敗することもなく、疲れることもストレスがたまることもなく、仕事をすることができるのです。これが「集中力」または「心の統一」ということです。

 この、心を統一することを「サマーディ」と言います。サマーディも、自動的に現われるものです。ですから、私たちがいくらサマーディ状態に達したいと踏ん張ったとしても、それは不可能な話なのです。

 七つの覚支の中で私たちが頑張るべきものは、「念」(今の瞬間に気づくこと)と「精進」の二つです。多くても三つで、「念」と「精進」に「択法」(調査)が加わるだけです。残りの覚支は全部自然についてきます。サマーディも自然についてくるものなのです。

 そこで修行する実践者にこのサマーディが現われると、その認識次元は一般常識レベルを超えます。サマーディが現われたら、普通の人間の認識範囲を超越し、次元を超えたものを知ることができるのです。


捨覚支( upekkhā sambojjhaṅga

悟りへの最終段階

 悟るための第七番目、最後の覚支は「捨覚支」です。
パーリ語でupekkhā (ウペッカー) と言います。残念ながら、このupekkhā の意味をあらわす適切な言葉は日本語にはないようです。

 upekkhāの意味は「極限に冷静、寂静」という意味です。すべての能力が揃うと、心は極限に冷静になるのです。これまでの修行で、実践者にはすでに相当の能力が身についています。気づきがあり、因果法則を見ることができ、努力精進し、心を統一する能力もあります。もう困ることは何もありません。また、見方も変わり、人格も変わっています。それで、第七番目の覚支「捨覚支」の段階へと進むのです。第七番目の覚支が現われたら、解脱します。いわゆる、極限に冷静になったところで解脱を体験するのです。


「冷静」ということ

 何かの「プロ」になったということは、その仕事にたいして身体が自然に動いてくれるということです。プロという人たちは、自分の仕事の分野において常に冷静で、常に最高の能力を発揮することができるのです。

 たとえば、大リーガーのイチローは野球のプロです。イチローはどんな試合でも緊張しません。よい緊張はするかもしれませんが、プレッシャーのような悪い緊張はしないようです。その次元は、もうとっくに乗り超えているのです。バッターボックスに立って球が自分のほうに飛んで来ると、その瞬間それに合わせてイチローの腕が自動的に動きます。右の方向へ打つのか、左の方向へ打つのか、ということを瞬時に判断して、相手チームの守備が待ち構えているところではなく、誰もいないところに上手に打つのです。だからといって、イチローはそんなこと一つも頭で考えていません。でも、正しい結果が生まれるのです。

 そこで、このイチローにある特色は何かといいますと「冷静さ」です。普段はふつうの人間ですが、グラウンドに入ったら冷静でいるのです。だから打つことでも守ることでも完璧。何も欠点は見えません。どう見ても、プロです。

 第七番目の捨覚支が現われたということは、「心が落ち着いた」「冷静になった」「プロになった」ということです。心は極限に冷静になり、自動的に物事をすることができます。自動的だからといって、けっしていい加減ではありません。ふつうの人には想像もできないようなことを、完璧に、しっかりとやるのです。イチローの例でも、分析してみると信じられないようなことを一瞬のうちにやっています。守備にしても、彼のところに飛んで来る球は確実にキャッチすることができるのです。どうやってやっているのでしょうか? それは、ただ冷静でいるのです。この「冷静さ」というのは、長い修行の結果生まれてくるものであって、ただ黙っておとなしくしていればいいと、そんな簡単なものではありません。野球をやったことのない人がバッターボックスに立って「じゃあ落ち着いているぞ」とかまえていても、球が飛んできたら、頭に当たって大ケガをするだけでしょう。手も足も出ないのです。
 ですから、愚か者の冷静さではありません。これは途轍もない訓練をした結果生まれてくる冷静さなのです。冷静さがあれば、仕事は完璧にできます。最終的に冷静になったところで、一人前のプロなのです。そこには何の感情もなく、何にも左右されることはありません。

 ヴィパッサナーを実践する人は、最終的に「世の中は無常・苦・無我である」ということを、極限的な冷静さで観察することができます。心は途轍もなく穏やかで静かなのです。先ほどのサマーディ(禅定)は、ただなんとなく気持ちがいいというだけで、心はそれほど静かではありません。壊れやすく、ちょっとでも「いま私はうまく瞑想ができている」とか「気持ちがいい」などと考えた瞬間、サマーディは壊れてしまいます。かすかにでも「うまく瞑想ができている」などと考えると、心の落ち着きは壊れてしまうのです。


智慧の完成

 七覚支には、低いレベルから高いレベルまでさまざまなレベルがあります。少し頑張った人には、少しの結果があり、まあまあ頑張った人には、まあまあの結果があり、一生懸命頑張った人には、それに応じた良い結果が得られます。俗世間のレベルででも、「頭が良くなりたい」とか「一流になりたい」「プロになりたい」と思う人は、そのレベルで七覚支を完成させる必要があるのです。

 出世間のレベルで「解脱に向かって七覚支を実践する人」、つまり五つの障害(愛欲・瞋恚・昏沈睡眠・掉挙後悔・疑)を取り除き、気づきを実践して、分別能力を身につけ、戒律による厳しい訓練などのプロセスを経て、さまざまな感情の壁を乗り越えてきた人には、最終的な捨覚支(ウペッカー・究極的な冷静さ)が現われます。
 最終的な捨覚支(ウペッカー)が現れた人には、完璧な解脱の智慧が身についています。これが最高レベルの智慧です。これで修行が完成です。瞑想を実践し、第七番目の捨覚支が現われたところで、智慧が完成します。この七つの覚支が揃ったとき、自動的に「悟りの世界」が現われるのです。


終わりに

 さて、この経典の始まりは何だったかといいますと、インテリのサンガーラワさんというバラモン人が、お釈迦さまに次のような質問をしたことから始まりました。

 「ときどき、長いあいだ唱え慣れた聖句を思い出すことができません。唱え慣れていない聖句に関しては、言うまでもなく思い出すことができません。なぜこのようなことが起こるのでしょうか?」

 これまで見てきましたように、お釈迦さまは、この質問にずばりとお答えになられただけでなく、さらには「七覚支」ということ、つまり「智慧を完成させて解脱に至る道」まで教えられたのです。

 過去でも現在でも未来でも、「智慧を完成させて解脱する」ためには、お釈迦さまが説かれたこの方法を実践するしかありません。いくら神頼みをしても、いくら秘薬といわれる薬を飲んだとしても、智慧はけっして現れないのです。お釈迦さまが説かれたこの方法以外、智慧が現れる方法はほかにありません。絶対的な真理を完璧に語ることができるのは、お釈迦さましかいらっしゃらないのです。
  
 (了)

編集・文責/出村佳子










 
 生きとし生けるものが幸せでありますように