ストレス完治への道

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1 ストレスとは何か?

皆様もご存知のように、仏教は「心」のことを説いています。魂のことでも神のことでもなく、心のことを細かく説明しています。説明だけではなく、具体的に悩みや苦しみを解決して、心を清らかにする方法も教えています。なぜ苦しむのか、どうすれば苦しみの原因を減らせるのか、本当の幸福とはどういうものか、完全なる平安の境地とは何か、その境地に至るためにはどうすればよいのか、ということを、きめ細かく丁寧に説明しています。

ところが、これほど膨大な量で信じられないほど厳密に心の分析をしているのに、仏教にはストレスに該当する専門用語がないのです。言葉がないということは、ストレスは昔の人にはなかったもので、近年突然現れた病気だということでしょうか? 鳥インフルエンザやエイズヴィールスみたいに解決法のない、どうしようもない現代特有の病気なのでしょうか? このあたりを一度考えてみたほうがよいのです。
 
まず、「ストレスとは何か」ということを理解しましょう。現代心理学や医学には「ストレスはこういうもの」という明確な定義があるでしょうか。おそらく、ないと思います。なぜかというと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。民間療法や薬物療法、心理療法など治療方法はいろいろありますが、どれをとっても完全ではなく、「これっ」という的中した解決方法がありません。それぞれが「こーすればいいのではないか、あーすればいいのではないか」と暗闇のなかで模索している状態なのです。

たとえばストレスが原因で頭痛や胃炎が続き、医者に行ったとしましょう。医者はいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。常識で考えれば、病気の原因が分からないのに薬を出すというのは大変危険なことでしょう。でもストレスの場合は堂々とやっているようです。

したがって、このポイントの結論として言えるのは、私たちは「ストレスとは何か」ということを理解していないために、その解決方法も分からないでいるということです。


楽しいときにもストレスがある

それでは、どのようなときにストレスがかかるのでしょうか。一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスはかかるのです。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」と。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かける人も多いでしょう。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜めるのです。

それから、寝ることでもストレスはかかります。寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。

したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。


能率の低下

それから私たちは疲れたりイライラすると、今やっている仕事、あるいは、やらなければならない仕事を中断して、別のことをやりたくなる傾向があります。たとえば会社で仕事をしているとき、ちょっと疲れてくると、気分を変えるためにお茶やコーヒーを飲んだりします。そして仕事に戻りますが、少し経つと、タバコを吸ったりガムを噛んだりします。そしてまた仕事に戻りますが、十分や二十分ぐらい経つと、今度はとなりの人にしゃべりかけたり、携帯電話を見たり、新聞を開いたりするのです。それでまた仕事に戻るのです。このように、私たちは仕事に集中しないで、やることをしょっちゅう変えています。それでどうなるかというと、仕事が途切れ途切れになりますから仕事の流れが分からなくなり、やる気もだんだん薄れて能力がなくなってしまうのです。さらには、「自分にはこの仕事が向いてないのかなあ」と考えて、もっと落ち込むのです。

家庭の奥さんが夕飯のおかずに天ぷらを揚げているとしましょう。そのときに電話がかかってきたり、お客さんが訪ねてきたり、子供が泣きだしたりすると、そのたびごとに料理を中断しなければなりません。せっかく熱くなっていた油も、ほかの用事をしているあいだに冷めてしまい、また熱し直すところから始めなければなりません。このように仕事が途切れ途切れになると能率が下がりますし、このときにかかるストレスは結構大きいのです。


善いストレスと悪いストレス

私たちは「ストレス」と一言(ひとこと)で言っていますが、楽しいときにかかるストレスと、嫌なときにかかるストレスは同じものでしょうか? 退屈なときにかかるストレスと、忙しいときにかかるストレスは同じものでしょうか? 仲の良い友人と話しているときにかかるストレスと、会社の上司と話しているときにかかるストレスは同じものでしょうか? 

専門家のあいだでは、ストレスには2種類あり、心身に悪い影響を与える悪いストレスと、善い影響を与える善いストレスがあると考えられています。過労や不安、人間関係のトラブルなど嫌なことがあるときにかかるストレスが「悪いストレス」で、希望や目標をもって何かに取り組んだり、感動したり、楽しんでいるときにかかるストレスが「善いストレス」とみなされています。

しかし仏教の立場から見れば、先ほども説明しましたように、楽しんでいるときのストレスも「悪いストレス」のカテゴリーに入るのです。

そこで、仏教では次のように考えています。善いストレスとは、人格が向上する衝動のことです。「こんな調子ではだめだ、前進しなくては、成長しなくては」という、いてもたってもいられない状態になるのが善いストレスです。緊張感や緊迫感のようなポジティブな衝動で、破壊的な悪いストレスではありません。

分かりやすい例をあげますと、夜、家ですやすや寝ているとき、やけに熱さを感じて目が覚めたとしましょう。目を開けると、壁やタンスに火がついてパチパチと燃えています。あっちこっちから火が燃え上がり、家の消火器ではもう手遅れ。もう手に負えません。そのとき、普通の人は混乱して動揺して、消防署の電話番号まで忘れてしまい、どうすればよいのか分からないまま、ただうろたえるだけでしょう。そこで、頭のよい落ち着いている人はどうするかというと、状況を瞬時に把握して、安全な場所を見つけだし、さっと逃げるのです。この「逃げよう」という緊張感が善いストレスなのです。仏教の世界では、説法するとき、時々ものすごくストレスがかかるように話をすることがあります。脅迫するような感じで、聞いている方々に、いてもたってもいられなくなるような状態をわざとつくるのです。「では、あなたはどうしますか」と。そうすると、勇気のある人は「逃げる」気持ちになるのです。解脱を決めるのです。それで解脱するのです。このときにかかるストレスは並大抵ではありません。究極のところまで追い込まれて、巨大なストレスを感じないと、悟りには至れないのです。

したがって「人格を向上させよう、心を清らかにしよう、善い行為をしよう」と自分を奮い立たせるポジティブな衝動が「善いストレス」で、それ以外のストレスは「悪いストレス」だと仏教では考えています。

冒頭でお話した「なぜ仏教にはストレスに対する専門用語がないのか」という質問に対する答えをお出ししましょう。仏教から見れば、(悪い)ストレスとは、貪りと怒りと無知のことです。ですから、仏教にはあえてストレスに対する専門用語がないのです。「ストレス=貪瞋痴」だと理解すれば、ストレスを明確に理解することができますし、それを解決する方法も見えてくるのです。


2 ストレス = 貪瞋痴

ストレスと老化

ストレスの多い人は早く老化する傾向があります。とくに内臓が早く老化します。表面的に老けるのはどうということはありませんが、内臓の老化は無視しないほうがいいでしょう。たとえば実際の年齢が四十歳なのに、医者に「あなたの肝臓の年齢は六十歳です」と言われたら、気をつけたほうがいいのです。最近では、このようにして身体を部分ごとに年齢で言い表すことがあります。心臓の年齢、血管の年齢、脳の年齢、骨の年齢、肌の年齢などと。これ、おもしろいと思います。実際の年齢が四十歳なのに肝臓の年齢が六十歳ということは、肝臓がかなり老化しているということです。いったん老化したら、残念ながら元に若返ることはありません。生きるということは、別の言葉で言えば、老化するということですから、私たちは老化の流れを逆戻りさせたり、停止させることはできないのです。

でも、その進行スピードをゆるやかにしてノーマルスピードに戻すことは、ある程度できます。心と身体をよく管理して、気をつけて生活すればよいのです。そうすれば七十歳や八十歳になったとき、内臓もだいたいその年齢にいるでしょう。


ストレスは行為の結果

ストレスは、行為の結果生じている現象です。自分が何か悪いことをやっているのです。商売をするのは悪いことではありませんが、怒りと欲でやっているからストレスが溜まるのです。子育ては別に善いことでも悪いことでもなく単なる自然の行為なのですが、これを強烈な愛欲と執着でやっているから全部罪になってしまうのです。悪い行為には必ず悪い結果があります。この悪い結果がストレスなのです。それでじわじわと高血圧や胃潰瘍、うつ病、自律神経失調症などの病気になり、ひどいときには腎臓の機能が停止したり、癌に侵されることもあります。内蔵が異常を起こして、どうにもならなくなるのです。

貪りと怒りと無知で行動すれば悪いエネルギーが溜まりますが、反対に、貪らず怒らず智慧をもって生活すれば、善い行為の結果として善いエネルギーが溜まります。身体が健康になり、顔色も明るくなり、行動は素早く、やるべきことをテキパキやれるようになるのです。活発で素早いのですが、老けるスピードはゆっくり。実際の年齢よりもだいたいは若く見えるものです。でも多くの人はこれとは逆で、仕事は遅いし失敗ばかり。何度もやり直さなければなりませんから時間がどんどんなくなります。なのに老けるスピードだけは速い。これは貪りと怒りと無知の衝動で行動しているからなのです。

大昔、人間の寿命がすごく長い時期があったという話が経典にあります。青年期が四万八千年、中年期が四万八千年、老年期が四万八千年の寿命だったと。パーリ語で「四万八千」いう数字は大変響きのよい数字でして、おそらくそれぞれの時期をきちんと四万八千年間生きたという意味ではなく「かなり長く生きていた」という意味ではないかと思います。でも、百年の寿命を四万八千年まで延ばすことはないでしょうが。

そこでなぜこんなに寿命が長かったのかといいますと、その当時の人たちは怒ったり、欲張ったり、嫉妬したり、怨んだり、後悔したり、嘘をついたり、不倫したりすることがなく、自然の流れのまま、明るく穏やかに生きていたらしいのです。夫婦間で子供をつくるときも強烈な欲情や執着はなく、ただ「子孫を残さなければならないから」という感じで。このように、何のストレスもなく穏やかな心で生活していたから寿命がものすごく長かったらしいのです。


頭の中にインプットされているもの

一般的に私たちは貪りと怒りと無知(貪瞋痴)の行為しか知りません。貪らず怒らず智慧の行為(不貪・不瞋・不痴)は知るよしもありません。ですから皆さんに「欲は苦しみのもとです。捨てたほうがいいですよ」と説法すると、だいたいの人は「欲のない人生なんてつまらない」と、ちょっと嫌な顔をするのです。また「人の役に立つことをしなさい、困っている人を助けてあげてください」ということを話すときも、結構苦労します。多くの人は、ボランティアをしたり他人の役に立つ行為をすることは、ある特定の人がやる特別の行為だと思っているものですから、このようなことを話しても、すんなり理解していただけないのです。電車の中でお年寄りの方に席を譲るときでさえ「本当に譲らなければいけないでしょうか」と考えて考えて考えて、大変なことをするというぐらい悩むのだから。

では、なぜそこまで悩むのかというと、私たちの頭の中には「善いことをする」というプログラムがインプットされていないからです。不貪・不瞋・不痴という考え方が存在しないのです。

分かりやすく言いますと、たとえば道端に変わった形の小石が落ちていると、好奇心旺盛の子供たちは足を止めて、おもしろがって、それをじっと観察します。大人はこうはいきません。そんなものには目もくれず、小石があることすら気がつかないで通り過ぎていくでしょう。でもそこに百円玉が落ちていると、すぐに足を止めて拾うのです。これは、大人にはお金に対する欲望がインプットされていますから、お金を見ると自動的に反応するのですが、1円の価値もない小石のインプットはありませんから、まったく無反応になるのです。このように、私たちは貪瞋痴に対しては自動的に反応しますが、不貪・不瞋・不痴の考え方は無いために、善い行為をするとき大変苦労するのです。


どうやって能率をあげるか?

世の中では、従業員の能率が高まり、営業成績が上がって会社が儲かるなら、貪瞋痴はよいものだと考えています。以前テレビで見たのですが、ある会社で従業員のやる気を引き出すための対策として、いちばん営業成績の悪い従業員に、会社の従業員全員のボーナスを袋に入れるという仕事をやらせていました。Aさんには20万円、Bさんには30万円、Cさんには50万円というふうに。それで自分の名前の袋はたった5万円だけ。なぜこのようなことをやらせるのかというと、成績の悪い従業員にわざと悔しい思いをさせて、やる気を引き出すためだというのです。確かにこのようなやり方をすれば、できの悪い従業員は刺激されて、頑張って仕事をするようになるかもしれません。でも、その頑張りはどこから来ているのでしょうか? 怒りと悔しさからです。「部下が50万円も貰ったのに、なんで自分は5万円しか貰えないのか」と。このように、従業員の怒りや悔しさを煽って、やる気を起こさせるのは大変危険です。経営者と従業員の双方に過剰なストレスがかかり、会社がうまく機能しなくなるのです。

逆に、従業員の中には「自分はダメだ、自分は会社で必要とされていない」と考えて、意欲を失い、落ち込んで、仕事が手につかなくなる人もいるでしょう。従業員が仕事の意欲を失えば、それは会社にとって大きな損失です。そのようなとき、経営者は態度を一変させてこう言うのです。「悔しがらずに頑張りなさい。怒りは悪いものだ。怒りを捨てて仕事に集中しなさい」と。怒りや悔しさを煽ったのは自分なのに、もしそれがうまくいかず、従業員のやる気が向上しなければ、今度は正反対のことを言うのです。

これが世の中のやり方です。貪瞋痴によって仕事の能率が上がるなら「貪瞋痴はよいもの」とし、能率が下がるなら「貪瞋痴は悪いもの」とするのです。会社の都合で、あるときは味方に、あるときは敵になるのです。仕事を頑張るなら欲と怒りと無知は味方になり、仕事をしないなら敵になるのです。


火に油を注ぐ危険

世間では「ストレスのあるところに、さらにストレスを加える」という恐ろしいやり方をとっています。これは火に油を注ぐようなもので、事態をいっそう複雑にするのです。以前、ある方から「会社に行けなくなった、どうすればいいでしょうか」と相談を受けたことがあります。話を聞いてみると、その人は大変な怒りを抱えていて、上司が嫌だ、同僚が嫌だ、嫌な仕事が山積みになっている……と不平不満を並び立てるのです。私はその人に何のアドバイスもできませんでした。なぜならその人は私に「別の怒りを作ってほしい」と考えていたことが分かったからです。つまり「あなたは悪くありませんよ、嫌な人間関係に負けないで頑張りなさい」というふうに。この類のアドバイスは世の中の心理カウンセラーたちが一時的な対処法としてやっていることであって、仏教では、怒りを正当化して人のやる気を起こさせるようなことはやりません。

仏教は「完治する方法」を教えています。ストレスを完治させるためには、心を客観的に観察しなければなりません。

ですから、彼にアドバイスできることといえば「心を客観的に観てください。怒っているのはあなたではないですか。悪いのは、怒った人です」ということ。でも残念ながら誰も「自分が悪い」ということは認めたがらないのです。


3 感情の入れ替え

感情の分別

では、どのようにストレスを観察すればよいのでしょうか? 
ただ漠然と「ストレスが溜まっている」と観察しても意味がありません。「どんな感情でいるとストレスが溜まるのか」と、ストレスを生み出している感情を観察するのです。
たとえば仕事でストレスが溜まっているとしましょう。その場合、忙し過ぎるのか、焦っているのか、イライラしているのか、つまらないのか、浮わついているのか、とその時その時の感情を観察するのです。また、月曜日から金曜日まで毎日ストレスがあるのか、朝会社に入ったときから出るときまでずっとストレスを感じているのか、と細かなところまで観察するのです。これはちょうどゴミを分別するようなもので、ゴミを出すとき私たちは、生ゴミ、プラスチック、金物、ビン、缶、ペットボトルと、きちんと分別して出さなければならないでしょう。これと同じように感情も、これは怒り、これは貪り、これは焦り、これは怠け、などときちんと分別して観察することが大切なのです。

分別ができましたら、次に因果関係を観察します。たとえば「上司に褒められたい」という気持ちがあって仕事を懸命に頑張っているとしましょう。この「上司に褒められたい」というのは「欲」ですから、まずその「欲」に気づき、観察します。そして「欲があるからストレスが生じ、そのために苦しんでいる」という因果関係を発見するのです。

このようにして、その時その時生じてくる貪瞋痴に気づいて、「貪瞋痴で行動をすればストレスが生じる」という因果法則を理解することによって、心は落ち着き、ストレスも緩和してゆくのです。


貪瞋痴を入れ替える

さて心が落ち着いたところで、次に発見すべきものは、「同じ仕事は貪瞋痴がなくてもできる」ということです。お金を儲けるぞと踏ん張らなくても、他社にライバル意識を燃やして勝とうとしなくても、仕事はできるのです。むしろ貪瞋痴がないほうが効率がいい良い仕事ができるのです。
この貪瞋痴がないエネルギーを「不貪、不瞋、不痴」といいます。これから3つのエネルギーについて具体的に説明いたしましょう。


発見の手助け

■ 不貪(献身・貢献

「不貪」とは、貪りや欲、執着の反対のエネルギーのことで、貢献的、献身的なエネルギーのことです。1円でも多く儲けたいとか、上司に褒められたいとか、いい仕事をして皆を驚かせてやろう、というのは明らかに欲です。

そういう金銭欲や名誉欲、見栄で仕事をするのではなく、「これは皆のためになりますからやります」と、献身的な気持ちで行動するのです。見返りを求めずに、自分の行為によって社会や他の人々が助かること、自分が役立つことを大切に考えて行動するのです。そして終わったときには「皆の役に立ててよかった」と、そこでストップしてください。「こんなにやったのだから給料を上げてくれ」と、欲を出すところまでいかないように気をつけてください。見返りを求めれば、そこから苦しみが生まれてくるのだから。

それから、手抜きをしたり、ごまかしたり、わざと安い材料を使ったりすることも悪行為になります。本当は40万円かかる仕事なのに、経費をとことん切り詰めて20万円に抑えようとするのは、明らかに欲であり罪です。その結果どうなるかというと、さらにお金と時間を費やす羽目になるのです。なぜなら中途半端で不完全な仕事をすれば、いずれは必ずばれるでしょう。そうすると否応なしに修正ややり直しを要請されます。さらには、やり直しを要請した相手のことが「自分を攻撃する敵」のように見えてきます。これで大変なストレスがかかるのです。

ですから、献身的に仕事をすることが大切です。献身的な気持ちでまじめに仕事をすれば、相手側は「いい仕事をやってくれました。ぜひ次の仕事もお願いします」と喜んでくれるでしょう。それで互いに「よかった、よかった」と気持ちよく終われるのです。敵も作らずにすみますし、早くお金をくれと請求しなくても相手は喜んでお金を支払ってくれるでしょう。これが不貪の行為なのです。


■ 不瞋(慈しみ・調和)

怒りの替わりには「不瞋」です。不瞋とは、簡単に言いますと、怒らないことです。他の生命に対する慈しみや優しさ、いたわる気持ち。世界は1つのシステムでつながっていて、皆互いに協力して生きているのだと、そこをとても大事に考えるのです。これが「不瞋」です。不瞋は非常に強いエネルギーで、「怒り」よりも大きなエネルギーです。「怒らない」ということは、無力で、だらしなくて、弱いという意味ではありません。力強く、明るいエネルギーなのです。

ですから、ライバル会社や同僚に勝ってやろうという怒りではなく、互いの協力や共存を重視することを大事に考えて行動してみてください。そうすればストレスなんかひとかけらもなくなるでしょう。


■ 不痴(探究・理解)

理解しにくいのは「不痴」です。不痴の替わりには、探究する心、発見する心、ものごとを理解したり、新しいことにチャレンジしようとする前向きなエネルギーのことです。だらだらして生きるのではなく、自分から積極的に試したり、調べたり、考えたり、チャレンジするという活発なエネルギーです。「人に言われたからやる」のではなく「自分がやりたいから、面白いから、勉強になるからやる」という気持ち。ほとんどの人は、会社や誰かに命令されたから、あるいはマニュアル通りに仕事をしています。私たちは「言われたからやる」という人生を送っているのです。これは無知の働きです。

そうではなく、勉強になるから、やりたいから、やってみたいから、面白いから、という気持ちでものごとに取り組んでみてください。これは非常に明るいエネルギーですから、仕事が終わった後には「あーよかった、いろいろ勉強になった」と、心に充実感が生まれてくるでしょう。

 
ロープを針の穴に通す

「金持ちが天国に行くのはらくだが針の穴を通るより難しい」という有名な聖書のことわざを皆さんもご存知だと思います。らくだが針の穴を通るということは絶対不可能なことなのに、金持ちが天国に行くということは、それ以上に無理だというのです。聖書はこの譬えをもって「あなたがたはいくら天国に行きたがっていても、天国に行けるような生き方をしていない。道が違いますよ」と私たちに忠告しているのです。

仏教では、さらに別の見方を持っていて、天国に行けるか行けないかはお金の有無に関係なく、その人の心の状態で決まると教えています。心が善良なら、善行為の結果として死後は善い境涯に生まれ変わるでしょうし、心が邪悪なら、悪行為の結果として死後悪い境涯に生まれ変わると。


ストレスの仕組み

そこで、この「らくだの譬え」を少々変えて、仏教的に「ストレスの仕組み」を説明してみたいと思います。「らくだ」のところを「ロープ」に入れ替えて「ロープを針の穴に通す」と考えてみてください。らくだが針の穴を通るのは絶対不可能なことですが、ロープですといくらかは通る可能性が出てきます。まったく不可能ではありません。でも、かなり困難。縫い物用の細い糸を針穴に通すときでも、結構ストレスがかかるでしょう。なのに、太いロープをあの小さな針穴に通そうとすれば、膨大なストレスがかかります。ロープを針穴に通そうとすること、これがストレスなのです。

次に「ロープ」のところを「思考」だと考えてみてください。私たちの思考は、ロープのように何本もの線が複雑に絡み合って、かなり太くなっているのです。

それから「針の穴に通す」のところを「行為する」と想像してください。私たちは24時間何らかの行為をしています。仕事をしたり、勉強したり、人と話したり、料理をしたり、子育てをしたり……。私たちは針穴にすっと通したいのですが、ロープが太過ぎてなかなか通すことができません。つまりスムーズに行動したいのですが、思考がごちゃごちゃに絡まっているため、うまくできないでいるのです。何かをやろうとしても、頭の中では「やりたい、でもやりたくない、できるかしら、できなかったらどうしよう、成功したい、でも失敗するかも、面白そう、つまらない……」などあれこれ妄想して、感情が複雑に絡み合っているのです。心が定まっておらず、一つの行為に集中できません。そういう曖昧な状態でやっているから、何をやってもうまくいかず、ストレスが溜まってしまうのです。


4 心は優柔不断

どっちが本当か?

では「面白そう」と「つまらない」とでは、どちらが正しいのでしょうか?「やりたい」と「やりたくない」では、どちらが本当の気持ちなのでしょうか? 

実は、私たちにはそんなこと分からないのです。面白いときもあれば、つまらないときもあり、やりたいときもあれば、やりたくないときもあるのです。「成功するぞ」と自信満々で仕事をしていても、ときどき「失敗したらどうしよう、やっぱりやめようか」という不安も生まれてくるのです。こんな優柔不断な気持ちで生活しているのだからストレスが溜まるのは当たり前でしょう。ストレスが溜まらないほうが不思議なくらいです。

私たちは、欲や不安、混乱、怒り、嫉妬、無知、恨み、高慢、焦り、後悔、眠気、怠け、疑などの線が複雑に絡み合った太いロープを、小さな針の穴に通そうと頑張っているのです。何度も何度も通そうとするのですが、いっこうに通りません。それでもあきらめずに、なんとか通そうと踏ん張っています。でも、やっぱり結果はゼロ。精神的に疲労するだけです。このように、何かスムーズに行動したいのですが妄想が多すぎてそれに集中できない状態、これがストレスなのです。


感情の裏と表

表面に現れている感情とは違う別の感情が裏に潜んでいるものです。たとえば「皆に好かれたい」と考えて、表向きには要領よく人とつきあっている人も、裏では「皆に嫌われるのが怖い」という不安があったり、「この商品はヒットするぞ」と期待して商品を開発していても、「売れなかったらどうしよう」という感情が裏に隠れていたりします。

それから、この表と裏の感情はしょっちゅう入れ替わります。裏の感情が表に出たり、表の感情が裏に沈んだり――。必要な機能をする感情が表に出て、機能しないものは裏で邪魔をするのです。感情はルーレットのように回転しています。ルーレットならやがて停止しますが、感情は停止することなくずっと回転し続けます。こんな状態だから、私たちはいつでも落ち着きがなく、何をやってもうまくいかないのです。

たとえばボールを投げるとき、腕をぐるぐる回しながら投げてもまっすぐには飛ばないでしょう。ボールがどこに飛んでいくか分かりません。これと同じように、仕事や家事、勉強をするとき、頭の中であれこれ妄想して感情を回転させながら取り組んでも、決してうまくいかないのです。それでストレスが溜まるのです。

「感情の裏と表」を分かりやすい別の言葉で言いますと、「本音と建前」です。しかしここでいう「本音と建前」の意味は、私たちが普段使っている意味とは少々違います。普通は「本音を言うとトラブルが起きるから、人間関係を円滑に進めるために建前を言う」というように使っています。そしてこのときはちゃんと「本音がある」ということを知っているのです。口では建前を言っていても本音は別にあるということを。本音を言うとやばいと。

しかし、私がここで言っている「本音と建前」は、自分さえ自分の「本音が何か」が分からないのです。仕事をやりたいのか、やりたくないのか、どちらか分かりません。やりたい気持ちもあるし、やりたくない気持ちもあります。この両方が表に出たり裏に潜んだり行ったり来たりするのだから、本音がどちらか分らないのです。分かるのは、そのときそのとき表に出ている感情だけ。それであるときは「やりたい」と言い、またあるときは「やりたくない」と言うのです。優柔不断です。この「優柔不断」という言葉も、俗世間で使われている優柔不断の意味とはちょっと違います。俗世間では、ぐずぐずしていて決断力が足りないというぐらいの意味ですが、ここで使っているのはその程度のものではなく、猛烈に優柔不断な状態です。感情錯乱というほうが正しいでしょう。優柔不断ではなく感情錯乱。私たちはいつも感情錯乱状態で生活しているのです。


エネルギーをピンポイントする

細い糸なら、針の穴に簡単に通ります。でも太いロープは通りません。心の場合も、何かをするのに必要な感情だけが機能するなら、うまく行動できます。そこに余分な感情がくっつくと、うまく行動できないのです。ですから、エネルギーをピンポイントして行動するようにしてください。やると決めたらやるし、やらないと決めたらきれいさっぱりやめるのです。ときどき「会社を辞めたいけど、やっぱりまずい。でも辞めたい。でもまずい……」と、きりがなく妄想して悩んでいる人がいますが、はっきり決めればよいのです。会社を辞めるか続けるかを。はっきり決めたら、たとえ会社を辞めてホームレスになったとしても、ストレスは溜まらないでしょう。明るく生きていられます。「お金ないからホームレスでいるんだ」と。それはその人にとって別に不幸なことではないのです。

行動するとき、それぞれの行動に対して必要な思考や感情というものがあるのです。それ以外のものはすべて邪魔になります。必要な感情だけなら心は強いのですが、必要のない邪魔な感情がくっつくと、心は弱くなるのです。


糸の種類を正しく選ぶ

糸の役目は、針に通して、ものを縫い合わせることです。糸にはいろんな太さや種類があり、それは「何を縫うか」によって変わってきます。ですから、目的に応じて糸を正しく選ぶことが大切です。適切な糸を選べば、ちゃんと針の穴に通りますし、きれいに縫えるでしょう。服を縫いたければ、服専用の糸で縫わなければなりません。靴用の太い糸や、手術用の細い糸を使ってもうまく縫えないのです。あの手術用の糸というものはだいたい細いものですが、身体の切った部位をきちんと締めてくれます。中には二週間から数ヶ月ほどで溶ける糸もあります。細くて溶けるからといって弱い糸かというと、そうではありません。私たちが身体を動かして運動しても大丈夫なようにしっかり留めてくれるのです。

このように、糸の太さや種類は仕事によって異なります。大切なのは、用途に適した糸を選ぶことです。糸に余計なものが混じっていると役に立ちません。

世の中において「成功している人」というのは、「成功したい」という考えを明確に持っているものです。成功するのに必要な糸をちゃんと選んでいるのです。ごちゃごちゃ考えず、目的を達成するのにやらなければならないことだけを考えて、躊躇なく実行しているのです。そこには「疲れた」とか「なんでこんなことやらなくちゃいけないのか」といった余計な妄想がありません。思考が太いロープになってないのです。純粋な糸のままなのです。「やります」と、はっきり決めて行動するのです。それでなんのことなく糸が針の穴に通るのです。このように、目的に合った感情のみで行動すれば仕事はうまくいきますし、ストレスもありません。

反対に、余計な感情が入り込むと、いくら踏ん張っても成功できません。気持ちが曖昧で優柔不断になり、どうしようもなくなるのです。

料理が上手になりたければ、まず「料理が上手になりたい」という気持ちが必要です。これに「意欲」「意志」「思考」「集中力」の四つのエネルギーを合わせ、毎日繰り返し繰り返し料理を作ることによって、少しずつ料理が上達してゆくのです。でも「面倒くさい」とか「今日は忙しいから手抜きしよう」という怠けが入ると、上達することはできません。

仕事で営業成績をあげたいという人も同じです。怠けず、日々集中して、やるべき仕事に取り組んでいれば、成績はあがるでしょう。でも「これでいいのだろうか……」「自信がない」「上司に怒られたらどうしよう」と考え始めると、もうだめ。優柔不断になります。優柔不断は「疑」です。疑が入ると心は揺れ動きます。疑は悪いものです。「いい仕事をやってみんなを驚かせてやろう」という考えが入っても、感情が揺れて失敗します。それが障りになり、結果としてストレスになるのです。 


5 慈しみの心で人生を縫う

日々の仕事は単純

どうすれば「ストレスのない生活」が送れるのでしょうか? 
これは意外と簡単です。というのも、皆さんは銀行強盗をしたいとか、誰かを殺したいとか、そんな恐ろしいことは考えていないでしょう。他人の土地を奪いたいとか、税金をごまかしたいとか、そんな大胆なことは考えていないだろうと思います。毎日ごく普通に仕事をしたい、料理や掃除を手際よくやりたい、会社でリストラにあいたくない、人間関係のトラブルをなくしたい、そのようなことぐらいでしょう。ですからストレスのない生活を送るのはそれほど難しくないのです。ただ頭の中で「忙しい」とか「大変だ」などと妄想しているから、ストレスが溜まるのです。

そこで皆さんに理解していただきたいのは「私たちが日々やっていること、やらなければならないことというのは、単純である」ということです。たとえ大勢の従業員を雇っている大企業の社長であろうとも、毎日具体的にやっている仕事というのは非常にシンプルなものなのです。電話をかけるとか、部下の仕事をチェックするとか、取引先と話をするとか、会議をするとか、そのぐらいのことでしょう。それほど難しいことではありません。でも「大儲けしよう」などと余計な感情が入ると感情が錯乱し、責任重大だと考えて、ストレスが溜まってしまうのです。

ですから次の言葉をそのまま覚えて頭に刻んでおいてください。そうすればストレスも次第に和らいでゆくでしょう。
「自分が日々やっている仕事はシンプルです」


瞬間瞬間のプロセスを楽しむ

行動するとき、それぞれの行動に必要な感情だけを働かせていれば、ストレスは溜まりません。前にもお話しましたが、ストレスを溜めないように行動するには「意欲、意志、思考、集中力」の四つの感情が必要です。たとえばジャガイモの皮を剥くとき、「皮を剥きます」という意欲、意志、思考がなければ皮は剥けません。また、ちゃんと包丁の動きに集中しないと、手を切ったり怪我をしたりします。

それから「理解」と「喜び」も必要です。「今、自分は皮を剥いている」と、そのときやっている行為を理解し、そして、その行為に対して喜びを感じることが大切です。結果を喜ぶのではありません。ここは私たちがよく失敗するところです。良い結果を出してやろうと、結果ばかりを重視しがちですが、そうではなく、プロセスを重視してください。ジャガイモの皮を剥くプロセスを楽しむのです。結果を重視して「どうだ、こんなにきれいに剥けた、すごいだろう」と自慢していると、次の仕事はどうするのですか。次にすぐタマネギを切らなくてはならないのだから、自慢している暇などないのです。

ですから大事なことは、ジャガイモの皮を剥くときは、そのプロセスを楽しみ、きれいに剥けたら「できました」と確認する。そして次に「では、タマネギを切ります」とタマネギを切るプロセスを楽しむのです。そうすると楽しみがずっと続くのです。これがストレスのない生き方です。プロセスを楽しめばよいのです。

でもそこに欲や怒り、怠けが絡んでくるとストレスが生まれてきます。ですから貪瞋痴が生まれる暇もなく、すごく明るく、瞬間瞬間のプロセスだけ楽しみながら仕事をしてください。そうすれば、結果も自ずと良いものになるでしょう。

先ほども言いましたが、私たちが日々やっている仕事はどんなことでもシンプルなものです。誰にでもできる簡単なことなのです。この「余計なことを考えずに瞬間瞬間集中して生きる」ということを専門的な言葉では、「自我を捨てなさい」とか「無心になりなさい」「日々是好日」などと言われています。私がよく言うのは「妄想を控えてください」ということです。妄想が貪瞋痴なのです。「控えてください」というのは、「やめてください」ということですが、やめられなければ、できるだけ控えるようにしてください。妄想が少なくなればなるほど、心も体も軽くなってゆくでしょう。


悩みに縁のない人になるために

もう一つ、ストレスを解消する方法があります。これは完璧な治療方法で、これでストレスが完治します。それは「人生の目的や衝動を慈しみにする」ということです。慈しみの衝動で生きているなら、心には自動的に善い感情が揃いますし、そこに悪い感情が入る余地はありません。ですからこれはすごく便利です。アビダルマを知らなくても、仏典を読んだことがなくても大丈夫です。慈しみを生きる目的や衝動にすれば、必要な感情しか揃わないのです。心は常に純粋な糸のままでいられるのです。ナイロンの糸になってほしいときは、心がきちんとナイロンの糸になりますし、絹の糸になってほしいときは、きちんと絹の糸になります。ですからずいぶん楽で便利です。このように慈悲さえあれば、ストレスがないどころか、失敗や悩みに縁のない生活が送れるのです。

ところが、このような素晴らしい慈悲に対してケチをつけたがる人たちが結構いるのです。正直に、素直に、単純に、慈悲を実践しないで「なぜ慈悲をやらなくてはいけないのか」とか「慈悲についてもっと説明してくれ」と屁理屈を言ったり、難しい哲学を聞きたがったりするのです。はっきり言いますが、慈悲は犬でもやっている簡単なことです。犬でもやっていることが、なぜ人間にできないのでしょうか? 犬はしっぽを振って、私たちにかわいい顔を見せてくれるでしょう。犬にとってはあれが慈悲なのです。だから何のことなく人間にかわいがられ、餌を貰っているのです。慈悲は犬にもできる簡単なことなのですから、難しく考えずに、すべての生命に対して慈しみの気持ちを持ってください。そうすれば人生はうまくゆくでしょう。


「役に立つか」をチェック

犬の場合はしっぽふるだけでもいいでしょうが、人間の場合はそうはいきません。いろいろなことをやらなくてはなりません。ですから何をやるときも、「これは役に立つか」とチェックしてください。たとえば部屋の掃除をしているなら「この行為は役に立つか」とチェックしてみるのです。このようにチェックするだけで、慈しみが機能するのです。


他人の幸福を喜ぶ

他人の喜びや幸福を、自分の喜びや幸福だと考えましょう。恨んだり嫉妬するのではなく、他人の幸福も「よかった、よかった」と自分の幸福として喜ぶのです。


嫌いな人にも慈しみを

それから、自分の邪魔をしたり、傷つけたり、足を引っ張ったりする人や悪事を働く愚か者たちに対しても、慈しみで対応できる優れた人間になることを目指してください。たいていの人はここで引っ掛かるのです。「人に優しくしたいのですが嫌いな人には優しくしたくありません」とか「足を引っ張る人に優しくしたら、さらに私の足を引っ張るのではないか」と、言うのです。しかし、自分を貶したり傷つけたりする人に対して慈しみの気持ちを向けることによって、私たちは立派な人間になれるのです。敵を許す人は、臆病者でも負け犬でも腰抜けでもありません。真に強い立派な人間なのです。敵を攻撃してつぶそうとするやり方は動物のやり方なのです。


慈しみの声に従う

たいていの人はいつでも世間体を気にして、皆と同じことをやっていれば安心だと考えています。でも、世間は無知なのです。皆、無知のかたまりなのです。そういう愚かな人々の話に耳を傾けたり、言いなりになったり、引きずったりするのではなく、「慈しみの声」を聞くことが大切です。そうすると優柔不断がなくなります。誰がなんと言おうと自分は人に優しくする、それが慈しみなのです。

結論としまして、もつれて太いロープになっている心をスマートにするために、慈しみを実践してください。そして慈しみの心で「ストレスのない人生」を縫いましょう。人生というものは一針一針縫っていかなくてはならないものです。その一針一針を慈しみの心で縫えば、すばらしい幸福な人生が縫い上がるでしょう。
(完)


編集・文責/出村佳子









 
 生きとし生けるものが幸せでありますように