Sotapatthi samyutta
Mahānāmasuttam



預流果に至る条件

マハーナーマ経」 ブッダと在家聖者との対話

スマナサーラ長老 法話





 預流果に至る条件


 今回ご紹介する経典は『Sotapatthi samyutta』というセクションの『Mahānāmasuttam / マハーナーマ・スッタ』という経典です。

 Sotapatthi(ソータパッティ)というのは「預流果になる」という意味で、お釈迦様の時代では、多くの在家の方々が預流果に覚っていました。預流果に覚ることは、それほど珍しいことではなかったのです。

 そこで、多くの人が預流果に覚っていますから、預流果についての理解や解説などに個人差がでてきます。覚りそのものには差がありませんが、「あなたはどのように理解していますか」と聞くと、それぞれ表現の仕方や言葉が少々変わったりするのです。

 そこで、「預流果というのはこういうものである」ということをいったんまとめたほうがいいのではないかということだろうと思いますが、お釈迦様が教えられたさまざまな実例やデータが、このサンユッタニカーヤにまとめてあるのです。

 今回はその中の経典の一つ、預流果のセクションの第三章です。

 Ekam samayam bhagava sakkesu viharati kapilavatthusmim nigrodharame.

 ある時、世尊は釈迦国のカピラ城ニグローダラーマに住んでおられました。

 カピラワットゥというのは国の首都の名前で、お釈迦様が生まれた故郷です。このカピラワットゥに、ニグローダーラーマというお寺がありました。

 Atha kho mahanāmo sakko yena bhagava tenupasankami. Upasankamitva bhagavantam abhivadetva ekamantam nis]di. Ekamantam nisinno kho mahanamo sakko bhagavantam etadavoca: 

 その時、釈迦族のマハーナーマが世尊を訪ねました。それから世尊に礼拝し、傍らに座りました。座ってから、マハーナーマは世尊にこのように告げました。

 「世尊よ、このカピラワットゥという街は幸福で大変豊かな街です。人口が多く、混雑しています」

 街が豊かということは、人口が多いということです。人口が多いということは、それなりに問題も多いということです。これは今も昔も同じで、街が経済的に発展すると、そこに人が集中しますから、ごちゃごちゃして、ややこしくなるのです。

 「それで私は、世尊や親愛なる比丘方と親しく付き合います。夕方、カピラ城に戻ると、興奮している象に出くわします。興奮している馬に出くわします。興奮している人に出くわします。その時、世尊、私の心から世尊にたいする気づきが無くなります。法にたいする気づきも無くなります。サンガにたいする気づきも無くなります。その時、私はこのように思います。『もし私がこの瞬間に死んだら、私は何処へ往くのでしょう。私の死後、どうなるでしょう』と」

 これから少々説明しましょう。インドは現代でも、身動きできないほど混雑している国です。街に限ったことではなく、田舎でも同じ状態です。昔のカピラ城も同じでした。人が大勢いましたから、品物を運ぶために走り回っている人々や、店をたたんで商売道具を荷車にのせ、早足で家に帰る商人などで混乱していたのです。
 その上、興奮して管理できない動物たちが道路をあちこちうろついています。飼われている動物ですが、街で動物たちが興奮して歩いていると、人間にとっては結構迷惑なのです。日本では経験することがないでしょうが、インドやスリランカでは動物たちが道路を歩いていて、牛は牛の勝手で道路を渡っていますし、車のクラクションを鳴らしても、まったく意味がありません。車が止まって、牛が移動するのを待つしかないのです。

 そこで、マハーナーマさんはついさっきまで穏やかな雰囲気の中、心清らかなお釈迦様やお坊様たちと話をし、幸せな気分でいたのに、夕方、街に入ったとたん、環境がガラッと変わってしまい、人の多さと管理不可能な動物たちでごったがえし、頭が混乱したというのです。今までお釈迦様のことを思い浮かべたり、教えを思い浮かべたり、比丘サンガのことを思い浮かべたりして、たいへん幸せな気分でした。その気持ちはきれいさっぱりなくなって、心は混乱してしまったのです。おそらく、興奮した象や馬が暴れている状況なので、怖くなったのでしょう。「踏み潰されたら、一巻の終わりだ」と逃げ回っているマハーナーマの心は、身の安全をはかることで精一杯です。仏法僧のことを思い浮かべる余裕はないのです。それでも、象に踏まれたり馬に蹴られたりして、死ぬかもしれません。このような状況のなかで死んでしまったら、自分の死後、どうなることかと心配したのです。


いま死んだらどうなる?


 命拾いしたマハーナーマが、「あのとき死んだら、どうなるのか」と心配した気持ちが、このエピソードでよく分かります。一般の人が災難に遭遇して命拾いしたならば、おそらく「神仏のご加護で助かった」という気持ちになるでしょう。しかしお釈迦様の教えに慣れている人の気持ちは違います。「あのとき死んでしまったら、どうなったことか」と、転生することに恐怖感をおぼえるのです。混乱した心で死ぬことは不幸です。恐怖感に陥った心で死ぬことも不幸です。解脱に達することができなかったなら、せめて清らかな心で死にたいものです。このように思うことは、仏教徒の特色かもしれません。清らかな心で死にたいと思う人は、常に心を清らかに保つことに励むのです。このように励むことは、悪い感情に誘惑されないようにするために、たいへん有効な方法です。

 これにたいし一般の人は「絶対、死にません」という前提で生きています。死ぬかもしれません、という気持ちがあると、一般の人には仕事をすることも、家を建てることも、旅に出ることもできません。何もやる気が起こりません。ですから「死」という単語は一般社会では使用禁止なのです。人は死ぬのではなく、天国に召されると言うのです。または他界すると。これは眼を見張るほど明るい言葉です。それほど良い状況であるならば、みな宝くじが当たったような気分で死を迎えればいいのに、現実は正反対です。極力、死を避けるのです。死について考えることも避けるのです。私たちはいろんなことから逃げまくって生活しています。切羽詰ったときには、夜逃げまでします。いくら逃げ上手であったとしても、「死」からは絶対に逃げられません。一般人は「死」という現実を、無いことにするのです。それは正しい対応ではありません。逃げることができないというのは、必ずその現実に遭遇するという意味です。それなら、遭遇したらどのように対応するべきかと構えていたほうがいいのです。

 人はいつどこでどのように死ぬのか、さっぱり分かりません。それならば、常に死に出会う構えが必要です。仏教徒は、死を嫌うことも、死から逃げようとすることもしません。その代わりに、構えるのです。その方法はいたって簡単です。「私は今の瞬間、今の心境で死んでしまったら、大丈夫でしょうか?」と自分の心を観るだけです。「私は今、心置きなく死ねるでしょうか?」と、一人一人が内緒で思ってみてはいかがでしょうか。そう思ってみると、構えがあるかないかを発見します。いろいろあることでしょう。子供が独立するまで死ねないとか、娘の花嫁姿を見るまで、孫の顔を見るまで死ねない、などなど思い浮かぶでしょう。それは構えがない、という意味です。しかしこのような期待が叶ったところで、心置きなく死ねるのかと言えば、そうではないのです。娘の花嫁姿を見たとしても、次に「孫の顔が見たい」などの新しい期待が生まれます。期待には終わりがないのです。期待や希望がいくらあっても、人はあっけなく死ぬのです。

 死ぬときに、欲のない、怒りのない、無数の希望にたいする執着のない明るい心なら、文句はないでしょう。そのような心で、日常を過ごさなくてはなりません。ですから、「今なら心置きなく死ねます」と言える人の明るさには、誰もかなわないのです。

 ここまでで何が勉強できるかといいますと、「私たちはいつ死ぬかわかりませんから、常に気をつけていたほうがいい」ということです。
 怒りっぽくて、嫉妬ばかりして、人を憎んで、そうやって四六時中いるべきではないのです。たまたま怒ったとしても、その怒りは即座に消して善い心でいなければなりません。なぜかというと、いつ死ぬか分からないからです。汚い心で死を迎え、次に幸福なところに生まれ変わるということは、理屈に合いません。死ぬときにカンカンに怒って、怒りの感情で染まっている人が天国に行くということは、理屈が成り立たないのです。

 私たちは弱いものですから、いきなり怒ったり、嫉妬したりすることも、しょっちゅうあるでしょう。だからといって、その感情を引きずるべきではありません。「はい、もう終わった。いつ死ぬかわかりませんから、清らかな心でいなくてはならない」と、常に心を制御して管理しなければならないのです。

 お釈迦様はマハーナーマにこのように言いました。

 Mā bhāyi mahānāma, mā bhāyi mahānāma apāpakam te maranam bhavissati, apāpikā kālakiriyā. 

 「恐れるなかれマハーナーマ、恐れるなかれマハーナーマ、なんじは不幸な死には至りません。幸福に逝くでしょう」

 パーリ語の「bhaya」は、恐れること、怖がること、心配すること、という意味で、お釈迦様はこの言葉を二回くり返して言います。
 「Apāpakam te maranam bhavissati」は 「あなたの死は、不幸な死にはなりません」という意味です。「Pāpaka」は、専門用語では「不善」や「罪」という意味ですが、この場合は「不幸」や「悪い」の意味で理解しなければなりません。たとえば、何か仕事をして失敗してしまったとき、パーリ語では「pāpakam」と言います。いわゆる「失敗だ、ダメだ、うまくいかなかった」ということです。ここでは罪という意味ではなく、不幸や悪いという意味です。それから、この語には「a」という否定の意味の接頭辞が付いていますから、「悪くない」「不幸ではない」となり、文全体の意味としては「マハーナーマよ、そんなに心配するな。あなたの死は悪いことにはなりません。不幸にはなりません」となるのです。
 「apāpikā kālakiriyā」も同義語で、「あなたが亡くなっても決して不幸にはなりません」という意味です。
 でも、この言葉だけを聞くと、ちょっと宗教的な話にも聞こえ、ただ信仰すればいいのではないか、と思う方もいるかもしれません。ここで気をつけなければならないのは、マハーナーマという人は世間一般の人とは違い、お釈迦様の親戚でもありますし、お釈迦様に頻繁に会って説法を聞いていた熱心な仏教徒です。ですから仏教の理解や修行というのは、私たちよりも遥かに上なのです。

 お釈迦様は次に、なぜマハーナーマにそのように言ったのかと、理由も述べます。仏教はいつでも証拠や理由を出して話すのです。

 Yassa kassaci mahānāma, dīgharattam saddhāparibhāvitam cittam, sīlaparibhāvitam cittam,sutaparibhāvitam cittam, cāgaparibhāvitam cittam, paññāparibhāvitam cittam, tassa yo hi khvāyam kāyo ruupī cātummahābhuutiko mātāpettikasambhavo odanakummāsuupacayo aniccucchādanaparimad–danabhedanaviddhaṃsanadhammo, tam idheva kākā vā khādanti, gijjhā vā khādanti, kulalā vā khādanti, supānā vā khādanti, sigālā vā khādanti, vividhā vā pānakajātā khādanti, yañca khvassa cittam dīgharattam saddhāparibhāvitam, sīlaparibhāvitam, sutaparibhāvitam, cāgaparibhāvitam, paññāparibhāvitam, tam uddhamgāmī hoti visesagāmī.

 「マハーナーマよ、人の心は長きにわたって信(確信)によって鍛錬しているならば、戒(道徳)によって鍛錬しているならば、学習(聞)によって鍛錬しているならば、施し(施捨)によって鍛錬しているならば、智慧によって鍛錬しているならば、その人の、地水火風で出来ている、両親によって生まれた、ご飯や穀物によって支えている、無常でつねに修復せねばならぬ、壊れるものである、この肉体は、ここでカラスや鷲や禿鷹や犬や狐、また虫たちが食べます。しかしその人の長きにわたって信、戒、学習、施し、智慧によって鍛錬された心は、上方に超越に赴くのです」

 この一つの段落で、お釈迦様は膨大なことを教えています。
 まず一行目のYassa kassaci mahānāma というのは、「マハーナーマよ、誰かにこれから説明する条件が揃っているならば」という意味になります。その条件とはどういうものか、これから勉強しましょう。


① Saddhāparibhāvitam cittam
 「信」によって心を育てる


 Dīgharattam saddhāparibhāvitam cittam は「長いあいだ信によって心を鍛錬している」という意味です。ここで「信」(saddhā)という言葉について注意しなければなりません。といいますのも、仏教と他宗教では「信」の意味が異なるからです。英語では「信仰」のことを「belief」と言い、これには二つのニュアンスがあります。一つは「日常的な信仰」、もう一つは「宗教的な信仰」です。


○俗世間の「日常的信仰」
 「日常的な信仰」にはいくらか証拠が必要です。たとえば一般的に夫婦間では旦那さんは奥さんのことを信じているでしょうし、奥さんは旦那さんのことを信じているでしょう。そこにはいくらかの証拠があります。60~80パーセントぐらいは証拠があるのです。でも100パーセントではありません。これは長いあいだ一緒にいて相手の性格をよく知っている、という程度に信じているということです。なんらかの証拠はありますが、ピッタリ100パーセントとは言えませんから「ま、信じています」という程度です。100パーセント信じ切るというのは、人間の世界ではほとんどありえないでしょう。


○俗世間の「宗教的な信仰」
 もう一つの、神を信仰するという場合の「宗教的な信仰」のほうは、証拠がないのに無条件で完全に神を信じることです。証拠を探すと、それは信仰になりません。もしも探したりでもしたなら「あなたの信仰は汚れている。疑いが入っている。信仰は本物ではない」などと非難されたり、「地獄に落ちる」などと脅されたりするでしょう。このような宗教の信仰には、証拠は何も要りません。証拠があるなら、それは信仰ではなく、当たり前の事実になるのです。
 このように、「神を信じます、魂があると信じます」という場合の「信」と、「私は旦那/妻を信じます」という場合の「信」とは、意味が異なるのです。
 では、仏教における「信」とはどのようなものでしょうか? これも二種類あります。


○仏教の「一般的な信」
 一つ目は、一般的な「信」です。お釈迦様の話を少しずつ聞いていくと、「お釈迦様の教えは理に適っている」ということがだんだんわかってきます。それで「私はどちらかというとお釈迦様の教えを信じます。証拠に基づいて話しているのだから」などと言うようになるでしょう。この程度の「信」です。
 これはちょうど私たちが病気になったとき、医者の言うことを信じるようなものです。患者は医者を信じて治療を受けたり、アドバイスを聞いたり、クスリを飲んだりします。100パーセントではありませんが、ある程度は証拠と実績がありますから、信じるのです。


○仏教の「確信」
 もう一つの「信」は、お釈迦様の教えをどんどん理解して、いろいろ疑問を持ったり、徹底的に調べたりして、その結果「やっぱり事実でした。これは間違いがない」と深く納得した上での「信」です。別の言葉でいいますと「確信」です。長いあいだ時間をかけて仏教を学び、勉強し、理解していくと、やがてこの確信が得られるのです。
 たとえば「欲は悪いもので、煩悩で、苦しみのもとである」という教えを聞いたとき、私たちはそれをすぐに理解できるでしょうか? 理解できるはずがないのです。なぜなら、実際のところ私たちは欲を喜び、楽しんでいるのだから。ですから、教えを本当に理解するためには、自分自身でいろいろ研究する必要があるのです。では実験して調べてみましょうと。それで実験して、研究して、実践していくうちに、やがて「欲は苦の原因である」ということが自分で発見できるのです。そして「なるほど、教えは真実である」ということが納得できます。これが仏教の「信」、いわゆる「確信」なのです。 
 真理にたいする確信が現れたときから、仏教徒と言うことができます。それまでは仏教にたいする確固たる確信がまだありませんから、仏教徒ではありません。ただ仏教に興味や関心があるだけなのです。

 ときどき、「仏教は簡単だ。私は仏教のことをよく知っている」などと言う人もいますが、それは明らかに嘘だと思います。そんなに簡単に仏教を理解できるはずがないのです。なぜかといいますと、仏教の思考と私たちの思考は正反対だから。仏教の教えは真理であり、俗世間とは正反対のものです。たとえば、俗世間では「私は死ぬはずがない」という生き方をしているのにたいし、仏教は「今の瞬間にも死ぬかもしれません。無常だから」という生き方をしています。俗世間では「永続する魂がある」という固定概念をもって生きているのにたいし、仏教は「無我です。何もありません。シャボン玉と同じです」という態度です。このように「お釈迦様の道」と「俗世間の道」はまったく正反対なのです。ですから仏教を理解して納得するためには、かなりの研究と実践が必要です。教えをただ鵜呑みにするのではなく、「本当にそうなのか」と徹底的に研究して実践しないと発見できるものではないのです。

 それから、仏教徒になるために、洗礼などのような儀式はありません。真理を理解して納得し、確信することで、仏教徒になるのです。この「理解して納得し、確信する」ということは相当な力です。あらゆることを研究して、調べて調べて確信する、これはものすごい力なのです。世間においても、人はいろいろな分野で研究しているでしょう。あらゆるデータをとって調べて、どんどんプロになっていきます。これはとても強い力なのです。たとえその人が何かの病気になったとしても、いったん深く納得したものを完全に忘れてしまうということはほとんどありません。たとえば国際的な数学のプロの学者がいて、ある日突然事故を起こして病院に運ばれ、もうどうにもならないほど頭が朦朧としているとしましょう。数学の論理を解説するどころか、人と話すのも大変な状態です。でも、そういう状態だからといって、頭が完全におかしくなることはないのです。あの状態が治ると、また数学者に戻ります。たとえ一時的に頭脳が機能しなくなっても、それはどうということはありません。その人は長い間その分野で訓練してきたのだから、そう簡単に忘れてしまうことはないのです。

 経典に戻りますが、一行目の「dīgharattam saddhāparibhāvitam cittam」というのは、「長いあいだ信(saddhā)によって心を育てている」ということです。これは、教えをただ鵜呑みにして盲信しているのではなく、調べて納得することによって心が成長している、ということです。人格的に成長しています。仏教の「信」を育てるだけでも、人格が大きく向上するのです。


②Siilaparibhāvitam cittam
 「戒(道徳)」によって心を育てる
 
 条件の第二番目は「siilaparibhāvitam cittam」です。
 「siila」とは道徳的な生き方のことです。
 世の中には「戒律を守るなんて、まっぴらごめんだ」と言う人が、結構います。でも本当は戒律を守って道徳的な生き方をすることこそが、人格を向上させる道であり、人の心を自由にさせる道なのです。
 心の自由とは何でしょうか? 
 それは、何があっても落ち着いていられる心のことです。道徳を守って生活していると、世の中のどんなことにも足を引っ張られなくなる強い心が育つのです。
 世間では「自分の心の声に従って生きましょう」と言い、そのように生きることが自由だと考えているようですが、本当にそうなのでしょうか? では皆さま、ご自分の心に「自分は本当は何をやりたいのか?」と正直に聞いてみてください。
 心の声に従うとひどいことになるということがおわかりになるでしょう。心というのは、本当は自分を不幸にするようなことしか考えていないのです。欲張りたい、酒を飲みたい、嘘をつきたい、怠けたいなど、心のままに生きることこそが、不幸で不自由になる道です。そこで幸福で自由になりたいなら、私たちは心の声に逆らって生きるべきなのです。
 在家の方に薦めている戒律は、たった五つしかありません。
 ・殺生しないこと
 ・盗まないこと
 ・嘘をつかないこと
 ・淫らな行為をしないこと
 ・酒や麻薬を摂らないこと
の五つです。これらは実践です。
 長いあいだ戒律を守って正しい生き方をしていると、人格が大きく向上していきます。そして自由に、気楽に、幸福に生きていくことができるのです。周りの人たちからも信頼されるようになるでしょう。
 「仏教の戒律は厳しくていやだ」と言う人がいますが、厳しいどころか、本当は戒律ほど人に親切な教えはないのです。


③Sutaparibhāvitam cittam
 「学習(聞)」によって心を育てる
  
 条件の第三番目は「sutaparibhāvitam cittam」です。
 「suta」は真理の教えを聞くこと、勉強すること、学ぶことです。
 お釈迦様の話を聞いたり、また他の人々の話もいろいろ聞いたりして、比較対照し、学び、勉強していると、頭の良い人間になっていきます。七覚支とは何かとか、五蘊とは何か、煩悩にはどのようなものがあるか、因縁とはどういうものかなど、いろいろ勉強することが必要なのです。勉強しなかったら覚れないということでもありませんが、「人は勉強するべき」という態度は、仏教は一貫して言っています。
 宗教の中には、「いかなる場合でも他宗教の教えを聞いてはならない、学んではならない」と教えている宗教もありますが、そのようなことでは永久的に無知で終わってしまうでしょう。
 仏教にはそういうことはありません。自由に勉強しなさいと教えています。ただ、世の中には勉強するものが無数にありますから、「何を勉強するか」ということを選択しなくてはならないということが当然必要になってきます。選択するときは、自分に役立つものを選択し、役に立たないものは、やめるべきでしょう。
 では、どんな勉強が私たちにとって役に立つ勉強なのでしょうか?
 俗世間でお金を儲けることも役に立つといえば役に立つでしょうが、それは一時的なことにすぎません。やはり「人格を向上させること」が、人間にとって最も役に立つ勉強なのです。人格向上に役立つものは、とことん勉強してください。その勉強を長いあいだ続けていると、それによって人格が向上し、頭も良くなります。また、長いあいだ勉強したものは、一瞬にしてすべて忘れるということもありません。


④Cāgaparibhāvitam cittam
 「施し(施捨)」によって心を育てる

  
 条件の第四番目は「cāgaparibhāvitam cittam」です。 
 「cāga」というのは「施し」で、欲や執着なく、人々に協力したり、社会のためにいつでも何かしてあげたりすることです。「手のひらを握って生きるのではなく、手のひらを開いて生きる」という文学的表現がありますが、いつでもそのような気持ちで、長いあいだ奉仕の心を育てるのです。一生に一度だけ他人に親切にしてあげただけでは、人格が向上するはずがありません。毎日のように奉仕活動をしなければならないのです。そうすることによって、人格が向上していくのです。


⑤Paññāparibhāvitam cittam
 「智慧」によって心を育てる

 
 もう一つ条件があります。
 第五番目の条件は「paññāparibhāvitam cittam」です。「paññā」とは智慧のことです。智慧によって心を育てている、ということです。
 智慧というのは、真理の目で物事を見ることで、真理とは「無常・苦・無我」です。そこで、このことを勉強したり研究したりして、まず自分で真理を発見しなければなりません。それから、自分の生き方を変えていくのです。いわゆる物事を評価するとき、「無常・苦・無我」という基準で評価し、その基準に基づいて生活するのです。paññā とは「無常・苦・無我が真理である」と知り、理解して、それに基づいて生きることなのです。
 また、苦集滅道の「四聖諦」を発見し、四聖諦は真理であると理解して、その四聖諦に従って物事を判断し、生活することも、智慧です。
 真理に基づいて生活することは、そう簡単に実践できることではありません。長いあいだの訓練が必要なのです。


 さて、五つの条件をまとめますと、
①信(確信): ものごとの真理を理解して納得すること
②戒(道徳): 道徳的に生きること
(一日だけ戒律を守ったからといって道徳的な人間とは言えません。一生涯、守らなくてはならないのです)
③学習(聞): 勉強して理解能力をどんどん深めていくこと
④施し: 奉仕的な生き方をすること
(けちで暗い生き方ではなく、惜しまずに他の人々や生命を助ける生き方をすること)
⑤智慧: 智慧を開発すること
(真理に基づいて生活し、あらゆることにおいて物事の見方を本格的に正しく改革すること)

 これら五つの人格を向上させることが、仏教の目標です。これはかなり高い目標で、毎日精進しないと達することはできません。小さなことを一回やっただけで人格が向上すると思わないでください。
ちょっと他人に親切にしただけで、「私って結構立派な人間だ」などといい気分になるべきではないのです。
 そこで、長いあいだ心を育てている仏教徒も、普通の人たちも、社会の中ではいっしょに生活しています。表面的には何も変わらないように見えるでしょうが、心のほうはものすごく違うのです。仏教徒は長いあいだ訓練をして人格を改革していますから、普通の人とは心の性質が異なっています。汚れた心で物事を見る俗世間の見方や思考の仕方とは、似て非なるものなのです。


続いて、お釈迦様は「肉体」について説かれました。私もヴィパッサナー瞑想を指導するとき、肉体というのは生ゴミのようなものだから肉体のことは気にしないでくださいと言いますが、その根拠はこちらにあるのです。
 肉体とはどのようなものでしょうか? お釈迦様は次のように説かれました。

肉体は物質でできています。(物質とは地水火風のことです)

・父親と母親によってできたものです。(父親の肉体の一部と母親の肉体の一部をほんの少しずつもらってできた肉体です)

・ご飯や穀物など毎日いろいろな食べ物を注入して膨らました肉体です。(ときどき「私の体格はいい。背も高いし、筋肉も鍛えてある」などと肉体自慢をする人もいますが、それはただ食べ物をどのくらい注入したかということです。肉が多いだけで、そんなのは本当は自慢にならないのです)

・肉体は毎日毎日、瞬間瞬間変化しています。(変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです)

 生命は変化しているがゆえに、「生きる」ということが成り立っています。母親のおなかの中に生命が芽生えたとき、細胞はたった一つでした。その一つの細胞は、細胞分裂を繰り返しながら絶え間なく変化し続け、肉体をだんだん大きくしていきます。やがて、おなかの中の居心地が悪くなり、おなかから外へ出て行きます。外へ出て行った後も、成長は止まることなく、さらに成長を続け、大きくなっていくのです。
 このように、肉体はずっと成長・変化を続けます。でも、その変化のスピードは死ぬまで同じなのです。
 一般的に私たちは「子供は成長するのが早いが、大人になったら成長は止まる」などと考えていますが、そうではなく、子供も大人も同じスピードで変化しています。ただ、子供の変化には「成長する」という言葉を用い、大人の変化には「老化する」という異なる言葉を用いているだけで、その変化のスピードは子供も大人も同じなのです。
 それから、肉体は変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです。たとえばおなかがすいたら、そのたびに何か食べなくてはなりませんし、のどが渇いたら、そのたびに何か水分を補給しなくてはなりません。体調が悪くなれば、薬を飲んだり運動したりしなくてはなりませんし、ケガをすれば、治療しなくてはなりません。このようにして、肉体はずっと修理し続けなくてはならないものなのです。
 肉体は、死ぬまで修理中です。機械の場合は、故障するのは時々でしょうが、肉体の場合は弱くて脆いものですから、一生故障中で一生修理中の状態です。ですから、機械としても相当価値が低い。たとえば車の場合は、毎日使っていても修理することなく数年は使えるでしょうが、肉体の場合はそうはいきません。しょっちゅう風邪をひいたり、胃腸が悪くなったり、ケガをしたり、あちこち痛くなったりします。もし肉体が機械なら、最低で最悪の機械ということができるでしょう。なぜなら、できあがった瞬間から修理しなければならないのだから。
 さらには、その修理がいつ終わるのか、終わる瞬間はありません。最終的には、修理不可能という瞬間になって、壊れて死ぬのです。
 このように、肉体は壊れるものなのです。
 
 ここで「壊れる」という言葉に注意しなければなりません。「壊れる」ということには二つの意味があります。一つは「悪い状態に壊れる」ということ、もう一つは「良い状態に壊れる」ということです。
 たとえば、筋肉が痛いとしましょう。これは「悪い状態に壊れる」ということです。それで、マッサージをして筋肉をほぐしたり、あたためたりして、痛みが和らいだとします。これは「良い状態に壊れる」ということです。
 このように、ある側面から見ますと「壊れる」ということは「良かった」という意味にもなるのです。ただ、これはあくまでも「良い状態に壊れる」ということで、言い換えれば「別の状態に変化する」ということであり、「元の状態に戻る」ということではありません。多くの方は、元の状態に戻ると思っているようですが、それは勘違いで、筋肉の状態が別の状態に変化するだけです。元の状態に戻るということはありえないのです。
 ケガをしたり病気になったりして身体の具合が悪くなると、私たちは病院へ行ってお医者さんに治療してもらいます。しかし、たとえ治療してもらって元気になったとしても、元の状態に戻るということはありません。別の状態になるだけです。いったん壊れたら、壊れたのであり、このようにして私たちの肉体は壊れっぱなしなのです。
 私たちは「壊れること」の一部を喜び、一部に腹が立っています。仏教では、「どちらにしても『壊れる』ということに変わりありませんから、腹を立てることにも意味がありませんし、喜ぶことにも意味がありません」と教えています。
 しかし、私たちはだいたい「病気になる」という状態に壊れると腹を立て、「病気が治る」という状態に壊れると喜びます。
 でも「病気が治る」といいましても、正しく言えば「別の状態に壊れる」ということであって、「壊れる」ということに変わりないのです。
 肉体は、このように「壊れる」性質のものなのです。

・死んだ肉体(死体)は、烏や鷲、禿鷹、犬、狐、虫類に食べられます

 日本の仏教文化では一般的に「人は死んだら仏様になる」などと考えているようですが、鳥や動物たちが人間の死体を見たらどう思うのでしょうか? 仏様だと思うのでしょうか? 
 思わないのです。ただ「肉がある、おいしそう」と思って食いつくだけです。死体は、だいたい数日間、何もせずに放置しておくと、虫が大量に湧いてきます。ときには死体の表面がびっしり埋めつくされるほど虫が涌いてくるときもあります。どこから来るかはわかりませんが、死体を食べ尽くしていくのです。
 肉体というのはそんなもので、私たちは「これは私の大事な身体だ」と執着していますが、鳥や動物、虫類にとっては「死体はただの肉」でしかなく、餌として食べるのです。


 このように肉体は汚くて醜い生ゴミですから気にすることはありません。

 お釈迦様はマハーナーマにこのように言いました。
 「肉体が壊れても、長いあいだsaddhā(確信)・siila(道徳)・suta(学び)・cāga(奉仕)・pannā(智慧)によって心を育てているなら、心は上方に赴き、下に落ちることはありません」
 これら五つの人格を向上させているなら、死ぬことはただ肉体が壊れるだけのことであって、些細なことにすぎません。心の進化は止まることなく、今の状態よりもさらにステップアップするのです。

 このことを、お釈迦様は分かりやすい例え話を用いて、次のようにマハーナーマに話されました。

 たとえば、ある人がサッピsappi(牛乳からとれる油で、白い色をし、バターよりも少しやわらかいもの)を壷の中に入れ、その壷を深い湖の底におろして、そこで割ります。どうなるでしょうか? 壷の破片は下に沈みますが、油は上に浮き上がってきます。  
 そのように、人が深い湖の底で生活しているとしましょう。肉体は素焼きの壷のように脆いものですから、ちょっとしたことで簡単に壊れます。でも心を成長させ、油のように軽く清らかにしているなら、肉体が壊れた瞬間(死の瞬間)、心は上に上がっていきます。だから肉体が壊れることを気にする必要は全くありません。心に五つの条件を育てているなら、「死」を心配する必要はないのです。
 サッピは普通の油より軽いのです。もし人が心を確信・道徳・学び・施し・智慧で育てることなく、欲・怒り・嫉妬・憎しみ・無知といった心を重くするもので育てたならば、砂利でいっぱいになった壺が水の中で壊れたように、上方に赴くことはまったくないのでしょう。

 マハーナーマは確信・道徳・学び・施し・智慧という五つの性質をすべて身につけた人格者であり、仏教の在家信者としては長老格で立派な方ですから、街で興奮している象や馬、人々を見て恐くなっただけで「今死んだらどこに逝くのだろうか」と死後のことを心配する必要はありません、とお釈迦様はマハーナーマにおっしゃいました。マハーナーマはすでに「心を育てたプロ」ですから、心はそう簡単に堕落しないのです。

 これも預流果に達した人の特色の一つです。確信・道徳・学び・施し・智慧の五つの性質が揃っているなら、預流果の覚りに達しているということであり、その人に堕落はないのです。

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 これまで預流果の特色をお話してきましたが、預流果の特色は「確信・戒律・学び・施し・智慧を長いあいだ育てていること」だけではありません。預流果に覚っている人のなかには、「私は勉強はそれほどやっていない」という人もいますし、「施しはそんなにやっていない」という人もいます。では、その人たちは預流果ではないかというと、そうではなく預流果に覚っているのです。別の条件が身に付いているのです。

 預流果の心の状況は、別の表現でもあらわすことができます。そこで、前の経典と同じフォーマットを用いて、もう一つの預流果の特徴を説明するのです。

 二番目の経典ですので、一番目と同じところは省略し、ポイントになるところだけお話いたします。

 マハーナーマがニグローダ精舎を訪れ、お釈迦様にお会いし、説法を聞いて、家に帰ります。帰る途中、街は興奮状態で、マハーナーマの頭は混乱し、仏法僧のことはきれいさっぱり忘れてしまい、そのとき心に不安がよぎりました。「もしこんなに汚れた心で死んでしまったら、死後どこへ逝くのだろうか」と。このことをお釈迦様に告げたところ、お釈迦様は「心配することはない」と言い、次のように理由を述べられました。

 「マハーナーマよ、四つの性格が身に付いている仏弟子は、涅槃に向き、涅槃に傾き、涅槃に引かれている」

 この二番目の経典では「預流果に覚った人は四つの性質が揃っている」と説いています。そして四つの性格が揃っている仏弟子は「涅槃の境地に向き、傾き、引かれている」と教えています。たとえば、高い所から何か物を落とすと下にストンと落ちるように、四つの条件が揃っている仏弟子は涅槃の方へまっすぐ向かうのです。では、その四つとは何でしょうか?

①仏陀にたいする揺らぎない信

Idha mahānāma, ariyasāvako buddhe aveccappasādena samannāgato hoti:

 「マハーナーマよ、ここで聖なる仏弟子は仏陀にたいして揺らぎない信を持っている」

 一番目は「仏陀にたいして揺らぎない信を獲得すること」です。「仏陀」という場合は、ある個人的な人間という意味ではないのです。「完全に覚っている方」という意味での仏陀です。お釈迦様は覚りを開いた瞬間から「ただの人間」であることを超えたのです。お釈迦様はご自分を示すときは「如来」という語を使うのです。如来とは、真理に達した方・真理を発見した方、という意味です。

 当然、お釈迦様にはゴータマ・シッダッタという固有名がありました。しかし、経典ではお釈迦様にたいして固有名を使わないのです。それはたまたまそうなったという話ではありません。スッドーダナ王の息子であるゴータマ・シッダッタという人が、修行の結果、完全たる覚りに達し、その瞬間から、人間だけではなく、生命という次元を超えたのです。仏陀になったのです。仏教徒はお釈迦様が人間であることと、仏陀であることは明確に区別して理解しています。信の対象になるのは、仏陀です。師匠として仰ぐならば、人間・釈迦牟尼仏陀でも構いません。一般的に我々は、いろいろな人に弟子入りします。その場合は、ある特定のことをその師匠から学ぶのです。師匠が別の面でダメな人間であっても、弟子にとっては関係ないことです。また、師匠はある一つの分野のプロであれば充分です。すべてを知っている必要はないのです。
 仏陀を信の対象にする場合は、わけが違います。その場合は、人格完成者、智慧の完成者に頼って導きを請うのです。信の場合は、心の揺らぎ、疑問などがあったらダメです。師匠として仰ぐ場合は、師匠の性格の短所について、批判の目を向けても構わないのです。というわけで、仏教では人間としてのお釈迦様と、釈迦牟尼仏陀が別々なのです。仏陀の場合は、揺るぎない信を確定しなくてはいけません。これは弟子入りするほどたやすいものではないのです。仏陀が確実に仏陀であることを調べて納得行かなくてはならないのです。仏陀の教えを学んで、教えが真理であることを確かめなくてはならないのです。また、説かれた教えを実践し、説かれた通りの結果になるのかと確かめなくてはならないのです。確かめられたところで、仏陀にたいする信が確定します。その人は、覚りの道の預流果という境地に達しているのです。
 
 次に、信を確定する人は何を確かめるべきか、ということが語られます。

 Itipi so bhagavā araham sammā sambuddho vijjācaranasampanno sugato lokavidu anuttaro purisadammasārathii satthā devamanussānam buddho bhagavā ti.
 
「世尊は阿羅漢であり、正覚者であり、明行具足者(智慧と道徳の完成者)であり、善逝(正しく涅槃に到達し、善く修行を完成し、正しく善い言葉を語る方)であり、世間解(宇宙・衆生・諸行の三つの世界を知り尽くした方)であり、無上の調御丈夫(人々を指導することにおいて無上の能力を持つ方)であり、天人師(人間と超次元的存在である神々たち一切衆生の唯一の師)であり、覚者(真理に目覚めた方、仏陀) であり、世尊(すべての福徳を備えた方)である」

 このように、仏陀には九つの特色があります。この特色を「まさにその通りである」と自ら確かめているなら、心は明晰になり、確信が得られるのです。もし微妙にでも「仏陀もいいけどイエズス様もなかなかいい」と思っているなら、それはまだまだ本物の信ではありません。世の中にはそれなりに立派な人と言える人はいますが、その人たちに欠点がないかというと、そうではなく、あちらこちらに問題は見つかるのです。
 ですから、その程度の人格者ではなく、「人々を見事に導き、わずかにでも欠陥がなく、真理を覚っている完全なる人格者」といえば、一人しかいません。仏陀です。仏陀以外ほかにいないのです。
 そこで、この仏陀にたいして一〇〇パーセントの信を確定していることが、預流果の性質の一つです。ただなんとなく信じています程度の信では、簡単に揺らいでしまいますから、不十分です。明確に確定することによって、一番目の条件が調うのです。


②法にたいする揺らぎない信

 二番目は「法(教え)にたいして揺らぎない信を獲得すること」です。

 Svākkhāto bhagavatā dhammo, sanditthiko, akāliko, ehipassiko, opanayiko, paccattam veditabbho vinnuhii ti.

 「世尊の説かれた法は、善く正しく教えられた(教理、実践方法、論理、言語だけでなく、修行の結果においても完全である)。実証できる、いつでも誰でも体験することができる教えである。普遍性があり、永遠なる教えである(真理なので時と場合によって訂正する必要はなく、また即座に結果が得られる教えである)。「来たれ見よ」と言える教えである(「誰でも確かめて試して見てください」と言える確かな教えである)。実践者を涅槃へ確実に導く。 賢者によって各自で覚られるべき真理(解脱)である」

 これら六つの法(教え)の特色を「まさにその通りである」と自ら確かめて、法にたいして揺らぎない信を獲得すること、これが二番目の預流果の条件なのです。

③サンガにたいする揺らぎない信

 三番目は「サンガ(僧・僧団)にたいして揺らぎない信を確定すること」です。

Supatipanno bhagavato sāvakasangho. Ujupatipanno bhagavato sāvakasangho. Nāyapatipanno bhagavato sāvakasangho. Sāmicipatipanno bhagavato sāvakasangho. Yadidam cattāri purisayugāni attha purisapuggalā esa bhagavato sāvakasangho. āhuneyyo pāhuneyyo dakkhineyyo anjail karaniiyo anuttaram punnakkhettam lokassā ti.

 「世尊の弟子たるサンガ(僧・僧団)は、正しい道を実践するものであり、 まっすぐの道(涅槃への直道)を歩むものであり、 涅槃を目指して修行するものであり、尊敬に値する道を実践するものである。これらは四双八輩(*註)と呼ばれる八類に属する聖者の位を得た世尊の弟子たちを指す。これらの仏弟子僧団は、遠くから持ってくるものを受けるに値する。来客として接待を受けるに値する。徳を積むために供えるものを受けるに値する。礼拝を受けるに値する。世の無上の福田である」

 これら九つのサンガ(僧・僧団)の特色を、まさにその通りである」と自ら確かめて、サンガにたいして揺らぎない信を獲得すること、これが三番目の預流果の条件なのです。

 サンガにたいして信を確定するときも、お釈迦様と同じく個人と公人の差が出てきます。一人ひとりの仏弟子を個人的に師匠にすることも、仲良くすることもできます。当然、仏弟子であっても人間として気に入らないところがあり得るのです。師匠の対象になっても、信の対象にはなりません。信の対象になるのは、サンガなのです。サンガとは、真理を体験した人々にたいし、個人扱いを取り消して一つの組織としてみなすことです。仏弟子の第一人者は、サーリプッタ尊者です。たくさんの仏弟子たちがサーリプッタ尊者のところに弟子入りしました。しかし、それは信の対象としてではなく、師匠としてです。サーリプッタ尊者を大阿羅漢の一人として見るときは、サンガの一員です。そのときは個人ではないのです。サンガが信の対象になるのです。ややこしく感じるかもしれませんが、仏教における信の場合は大事なポイントです。なぜなら、仏教の信は宗教の信仰とまったく違うからです。いままで説明した差は、同じ人であっても個人と公人の差と似ているのだと理解すればよいのです。


④道徳を守る揺るぎない決意

 四番目は「道徳を守る揺るぎない決意を獲得すること」です。ここでいう道徳とは、聖なる戒律のことです。戒律・道徳などは、誰にでも分かるものだと思っているようです。人は簡単に戒律・道徳・規則などを作ったりもします。人間がそのつど考える戒律や規則などは、普遍的な道徳になりません。真理に達した人・仏陀が、心を清らかにするために人がやめるべき項目と、守るべき項目を真理に基づいて語るのです。真の戒律とは、仏陀が説かれた戒律のことです。世間が作る戒律では、いろいろ問題が起きます。社会で衝突も起きます。守らない人を脅したりもします。
 真の戒律の場合は、守る人々の心は必ず清らかになります。戒律を守る人がいるだけでも、その社会は平和になります。預流果に達した人は、仏陀が教えられた戒を完璧に守るのです。その戒律にたいして、微塵も疑いを持ちません。戒律を改良する気持ちも、たまに緩める気持ちも起きないのです。

 Ariyakantehi siilehi samannāgato hoti akhanfehi acchiddehi asabalehi akammāsehi bhujissehi vinnuppasatthehi aparāmatthehi samādhisamvattanikehi.

 「聖者が認める、賢者に称賛される、執着を無くす、サマーディに導く戒律を、破れないように、穴がないように、斑点が入らないように、汚点がないように、自由意志で成就する」

 たとえ仏陀の説かれた戒律であろうとも、中途半端な気分で、半信半疑で守ろうとするなら、守れないと思います。何か決めたことをしっかり守り通すためには、精神力が必要です。預流果になる人にとっては、戒律を守り通す精神力があるのです。ふつうの気持ちで戒律を守ると、注意が足らなかった瞬間で破れてしまうことはたびたびです。仏教では戒律を守る人が何かの規則を破ってしまったら、それを修復するのです。服のたとえで考えると、服が破れるたびに繕って修復する。もしたびたび服が破れるならば、その服はつぎはぎだらけのものになります。預流果に達した人の戒律には、そのようなことがないのです。服のたとえで言えば、破れたところも、落ちない染みも、色が変わって斑点がついたところも、ないのです。

 その気になれば、儀式的に、形式的に、道徳項目を守ることはできると思います。しかし、それは預流果の特色にならないのです。預流果に達した人は、自由に喜んで戒律を守っています。心が戒律によって、落ち着きに達しているのです。戒律によって、性格が変わっているのです。性格が変わったから、戒律を守ることは何の無理もない自然な生き方そのものになっているのです。

 お釈迦様はマハーナーマに次のように尋ねました。

 「たとえば、ある木が東の方に向き、東の方に傾き、東の方に傾斜しているとする。その木の根を切ると、どの方向に倒れるか?」

 「世尊よ、傾いている方(東)に倒れます」

 「マハーナーマよ、同様に、この四つの性質をよく実践する聖なる仏弟子は、涅槃の方に向き、涅槃の方に傾き、涅槃の方に傾斜する」


 このように「預流果の性質」は、仏法僧の三宝に対する揺らぎない信を確定していることと、戒律を汚点なく守っていることの四つです。一見、簡単なように見えますが、これには条件があります。それは「決して揺らがない」ということです。「何があっても揺らがない」という堅固で確定した信が、預流果に覚るためには欠かせない条件なのです。そして四つの性質を育てた聖なる仏弟子は、必ず涅槃に達するのです。
    
 多くの方が仏法僧を信じていますし、戒律も守っています。でも「あなたの信は確かですか? 揺らがないのですか?」と聞くと、「私はちょっと自信がありません……」と言う人がほとんどです。
 もし、いかなる場合でも「私の仏法僧にたいする信は変わらない」という自信があり、「誰に、どんなに誘惑されても、私は戒律を破りません」という決意があるなら、預流果です。この「破るはずがない」という堅固な信、それがあれば預流果なのです。「状況によって、どうするかわかりません。破るかもしれません……」というのは、なさけない生き方です。「今日は嘘をつきませんが、明日はわかりません。時と場合によって嘘をつくこともあります……」と言うならば、人格的にはまだまだしっかりしてないということです。人格者というのは「破りません」と、はっきり決まっているのです。
 預流果に覚っているなら、「仏法僧にたいする信」が揺らぐはずがありません。戒律に関しても、誰に何を言われても、「絶対に破りません」という堂々たる態度です。恐い上司に脅されても、「私はやりません」と、はっきりしています。では、殺されそうになったら?
 冗談じゃない。たとえ自分が殺されそうなっても、戒律を破ることはありません。そのぐらい堅固な確信があり、そのように生きているなら、預流果の境地なのです。
 預流果に覚ったら、解脱は確定です。堕落することはありません。地獄に落ちることも決してないのです。天界など幸福な次元に生まれ変わるのですが、どこに生まれ変わっても解脱の方へ引かれ、解脱の方へ進んでいきます。ですから、仏教徒は誰でも「預流果に覚ること」を目指して頑張るのです。

 三番目の経典があります。これはこれまで説明してきました一番目と二番目の経典と同様、釈迦族のマハーナーマさんのエピソードを用いて、別の表現で「預流果の特色」を説明している経典です。
 経典の初めのところは同じですので省略いたします。

 マハーナーマさんが、同じ釈迦族のゴーダさんのところへ行き、質問するところから始まります。マハーナーマさんもゴーダさんも預流果に覚っていましたから、預流果同士の会話です。ただ同じ預流果でも、人によって言葉の表現上、微妙に個人差があるのです。でも中身や内容は同じで、預流果に覚っているという事実に変わりありません。それをこの経典で説明しているのです。

 釈迦族のマハーナーマが釈迦族のゴーダのところへ行き、このように言いました。
 「ゴーダよ、あなたはどのように思うか。どのぐらいの特色(能力)が身に付けば預流果だと言えるか。堕落せず確定して解脱へ向かうのか」

 ゴーダは答えました。
 「私は三つだと思う。三つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信と、法にたいする揺らぎない信と、サンガ(僧・僧団)にたいする揺らぎない信を確定していることである」

 ゴーダさんは「仏法僧にたいして揺らぎない信が確定していれば預流果です」と言いました。いわゆる、仏陀の九つの特色と、法の六つの特色と、サンガ(僧・僧団)の九つの特色は「そのとおりである」と、しっかり確信していることです。ゴーダさんは自分が預流果に覚っていて、自分の経験から語っているのであり、他人から聞いた話をただ言っているわけではありません。自分の預流果の状態を、そのように説明したのです。

 次に、ゴーダがマハーナーマに尋ねました。
 「あなたはどう思うか。どのぐらいの特色が身に付けば預流果だと言えるか」

 マハーナーマは答えました。
 「私は四つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信、法にたいする揺らぎない信、サンガにたいする揺らぎない信を確定していること、そして戒律を守っていることである。壊れることなく汚れることなく破れることなく、戒律を守っていることである」

 このように、二人は意見がちょっと異なりました。ゴーダさんは「三つの条件が揃えば預流果だ」と言い、マハーナーマさんは「四つの条件が揃えば預流果だ」と言いました。ただ意見が異なっても、二人は仏教徒で預流果に覚っていますから、ごちゃごちゃくだらない喧嘩や言い争いはしません。

 そこで意見が分かれましたが、それぞれがしっかりした意見ですから、これは二人にとっては解決することができません。それでゴーダさんはこのように言いました。

 「マハーナーマよ、待とう。これについてはお釈迦様にお尋ねしよう。どちらの意見が完成された正しい意見かは、お釈迦様しか分からないのだから」

 そこで、マハーナーマさんとゴーダさんはお釈迦様のところへ行き、礼拝して座りました。マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、先にお釈迦様にこれまでの二人の意見の違いについて話し、続けてこう言いました。
 「あることに関して、比丘サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」

 すべての比丘サンガが一貫して述べる意見であっても、それがお釈迦様の意見と違っている場合は、マハーナーマさんは何の躊躇もなく、お釈迦様の意見が正しいと決めるのです。つまり、マハーナーマさんはそこまで仏陀のことを信頼しているということなのです。さらにマハーナーマさんは続けて言います。

 「あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
 あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
 あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
 あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員、すべての神々、悪魔、梵天、沙門、バラモン等、すべての生命が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」

 この経典で何が言いたいのかといいますと、「仏法僧にたいする揺らぎない信を確立する」とは、このぐらいの自信があるということなのです。神々、梵天、悪魔であろうが、比丘・比丘尼サンガ全員であろうが、在家の男性・女性全員であろうが、誰であろうが、皆が一つの意見をもっていて、お釈迦様が別の意見を言うなら、私は「お釈迦様が正しい」と、お釈迦様に従います。これは口先だけでなく、自分自身でしっかりと「お釈迦様が正しい」と理解して確信しているのです。これが「揺らぎない信」ということです。

 このように、マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、自分がどれほどお釈迦様を信頼しているかということを言いました。世界の生命すべてが「違う」と言ったとしても、私は「お釈迦様が正しい」ということを、そこまで確信していますよ、と。

 では、なぜマハーナーマさんは先にそのようなことをお釈迦様に言ったのでしょうか? ゴーダさんとマハーナーマさんの意見はそれぞれ違っていました。それでもし万が一お釈迦様が、ゴーダさんの答えが法に合っていますと言われたならば、王家であるマハーナーマさんの立場が悪くなります。それでも、お釈迦様はマハーナーマさんの立場などを全く気にせず回答してください、と言いたかったので、マハーナーマさんは仏法僧に対する揺らぎない信があることを発表したのです。

 お釈迦様はマハーナーマさんの言ったことに、何も言いませんでした。そしてゴーダさんにこう聞きました。
 「マハーナーマがこのように言っているが、あなたはマハーナーマにたいし、何か言いたいことはあるか?」

 ゴーダは答えました。
 「何も言うことはありません。(マハーナーマのお釈迦様にたいする揺らぎない信は)すばらしい。見事です」と言いました。

 ここで経典は終わっています。中途半端なようですが、わざと終わっているのです。ゴーダさんの言ったことについて、お釈迦様は何も答えていません。

 そこで結論は何かと言いますと、「マハーナーマさんの言うことはその通りである」ということです。「預流果の条件は四つで、戒律は必要」ということなのです。

 だからといって、ゴーダさんの意見が間違っているということではありません。これは言葉上の問題だと思います。ゴーダさんも預流果ですが、戒律の条件は言いませんでした。それはおそらくゴーダさんにとっては戒律を守ることは当たり前で基本的なことで、誰でも守らなければならないもので、特別に預流果の条件として出さなくてもいいのではないか、仏法僧にたいする揺らぎない信を確定することの方を強調した方がいいのではないか、という気持ちがあったからかもしれません。

 しかしマハーナーマさんはそうではなく、「戒律を守ることも預流果に覚る条件である」と、はっきり言い、お釈迦様も「その通りである」と示されたのです。(了)


(*註)四双八輩…預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道・阿羅漢果の八つの覚りの段階のいずれかに入っている聖者のこと。

(編集・文責 :出村佳子) 






     
 

 
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