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WHAT DOES A BUDDHIST DO? 
by Ashin Kelasa
ミャンマー、マハガンダーヨン僧院在住 ケラサ師

Q 仏教徒は、お釈迦さまのことを神として信仰しているのですか?

A. いいえ。仏教徒は、お釈迦さま自らがヴィパッサナー実践によって目覚められ、完全に悟られた方であるという理由で、お釈迦さまを信じているのです。お釈迦さまは実際、この世で生存していらっしゃった方で、肉体的には人間の身体を持っていましたが、精神的には、この宇宙すべての生命とひき比べても、想像を絶するくらいに偉大な方でした。しかしお釈迦さまは、ご自身のことを「唯一の者」とおっしゃったことはありませんでした。お釈迦さまはよく、「心の汚れを完全に滅した勝利者はみな私と同じです」とおっしゃいました。

お釈迦さまは、人々に畏怖心を持ってもらいたくなかったのです。お釈迦さまの悟りが本物か偽りかということを確かめることでさえ、人々に奨励されました。また、「宗教に従おうとする人たちはもともと恐れを持っていることが多いものです。しかし、何も恐れる必要はありません。『恐れる』のではなく、ものごとを『理解する』ために適切に調べることが必要です」とおっしゃいました。私たちはお釈迦さまの「お告げを受ける」のではなく、お釈迦さまから「学ぶ」のです。



Q お寺では、仏像の前で祈ったり礼拝している人々を見かけることがあります。これにはどのような意味があるのですか。また、ひたいのまん中に両手を合わせて深く礼をするのはなぜですか。お釈迦さまに祈っているのですか?

A 仏教徒は「祈る」ことはしません。でも、私はすべてのお寺を訪れたわけではありませんから、もしかすると祈っている人々もいるかもしれません。私はマハガンダーヨン僧院の修行僧で、お釈迦さまの正しい教えを人々に伝えています。お釈迦さまに祈ることや、祈る方法を教えたことは一度もありません。

仏教徒が仏像の前で礼拝するのは、私たちを真理、涅槃へと正しく導いてくれる精神的な師として、またお釈迦さまの悟りと智慧を思い起こして敬意を払うために礼拝しているのです。悟りを開かれたお釈迦さまにたいして尊敬と感謝を表しているのです。



Q 仏教徒は仏像の前で3回、礼をしています。最初の1回はお釈迦さまに対してだと思いますが、あとの2回は誰に対して礼をしているのですか

A 仏教徒は、仏・法・僧の三宝にたいして確信を持っています。おわかりだと思いますが、「仏」(Buddha)は、世界中すべての仏教徒の師である仏陀です。

「法」(Dhamma)とは、お釈迦さまの教えのことで、普遍的な真理のことです。身体と心に現れて消えていく現象のことも法といいます。たとえば怒りも法です。なぜかというと、それは誰にでも起こるものだからです。怒りが生まれて消えていくという現象は、どんな生命にも共通しています。また、その結果も共通しています。心に怒りが現れたら、イライラしたり、興奮したり、ときには血の色が顔に現れて真っ赤になります。怒りをコントロールするのが難しい人は、喧嘩をしたり悪い行為をします。でも、怒りというものも、遅かれ早かれ、いつかは消えてなくなってしまうものではないでしょうか。自然の法則によれば、消えていくものなのです。ですからお釈迦さまは、法を理解するようにとおっしゃいました。

忍耐や慈悲、智慧を理解すれば、清らかな心が自ずと生まれてきます。清らかな心が現れてくれば、怒りは小さくなり、やがてはなくなってしまうでしょう。そして穏やかな気持が現れます。ですから私たちは、お釈迦さまの教えである法に敬意を払うのです。

3つ目の宝は、お釈迦さまの弟子である「僧団」(Sangha)です。僧侶たちは、真理の道を歩む者たちすべての手助けをします。サンガはお釈迦さまの教えを学び、戒定慧の3つの実践に励み、また人々に、心を清らかにする道を教えています。それから、心を成長させるために必要な、布施(dana)、戒律(sila)、心の訓練・瞑想(bhavana)の実践方法を教えています。布施、戒律、心の訓練・瞑想という3つの実践をすることによって、最終的には身体と心すべての苦しみから解き放たれるでしょう。サンガは、お釈迦さまに祈ることは教えません。しかし仏法僧を理解し、その理解によって三宝に敬意を払うことを教えているのです。



Q なぜ仏教徒はろうそくを捧げるのですか?

A 仏法僧にたいして確信を持つ人々が、お釈迦さまにろうそくの灯を捧げるとき、法(お釈迦さまの教え)を思い起こします。

お釈迦さまが悟られる前のこと、この世界は欲と怒りと無知に覆われ、暗闇と混乱のなかにありました。お釈迦さまは心に深く根づいていた無明という暗闇を、智慧をもって根絶されました。そして悟りを開いたあと、お釈迦さまは、この世の中が欲望で染まり、暗闇に覆われていることを明確に観ました。そこで長く苦しんでいる生命たちを見、哀れみを感じました。そしてついに、この暗闇の世界に、ご自身が悟られた「真理の道」を教えることにしました。貪りには与えることを、怒りにはやさしさを、迷いには確かな道を教え、あたかも暗闇の中に燈火をかかげるように、お釈迦さまは真理を明らかにされたのです。

仏教徒はたいてい智慧を光にたとえます。お布施から始まる「仏道」を実践することによって、彼ら自身に智慧の光が現れることを望みます。そこで、お釈迦さまにろうそくの灯を捧げるときには心の中で法と智慧の光を思い起こし、静かに、「私に智慧の光が現れますように」と望むのです。さらに、ろうそくが少しずつ短くなり、やがて灯が消えてしまうのを観察し、「永遠のものはない。私も少しずつ歳をとり、いつかは死ぬ。だから死ぬ前に、お布施をし、道徳を守り、心を清らかにしよう」と考えるのです。


Q 線香や花にも意味があるのですか?

A 線香の香りがあたり一面に広がり、人々が心地よく満たされる様子を、善行為(功徳)があたり一面に行き渡り、人々に幸せや平和がもたらされる様子になぞらえて、また、それを心から望み、線香を捧げるのです。花についても同様です。

もちろん、これらのことを気にしない人々もいるでしょう。何の考えもなく注意も払わず、ただ伝統に従ってやっているだけの人もいます。このような人は世界中に数多くいると思いますが、仏教国であるミャンマーには、お釈迦さまの教えに確信を持ち、専心している人々がたくさんいることを私は知っています。人々はこの仏教の国で、互いに仲良く、笑顔にあふれ、平和で心安らかな暮らしを営んでいます。

ミャンマーの仏教徒は、たいてい朝早く起きて料理を作り、誰もまだ手をつけていない最初の食事をお釈迦さまに捧げます。そして、「この徳のある行為によって、解脱への到達を助けてくれますように。この功徳によって、煩悩がなくなりますように」などの言葉を唱えます。

私たちは、愛する人と別れたり、嫌いな人といっしょに暮らしたり、お金をたくさん持っていても欲しいものが手に入らないなど、この世の中でどれほどの苦しみを味わっていることでしょうか。ですから、ほんとうに輪廻の苦しみを理解した仏教徒は、終わりなき欲の連鎖のなかで生き続ける意味はないと考えて、欲を絶つことができるよう、布施、戒律、心の訓練の3つを実践しながら智慧を育てています。布施をおこなうことにで欲や貪りから離れ、戒律を守ることで悪行為から離れ、心の訓練をすることで心の汚れが取り除かれる、ということに確信を持っています。心が充分に落ち着いてくると、自ずと明晰な智慧が現れてきます。これら3つを実践すれば、涅槃に至るか、もしくは来世で善き生に生まれ変わることができるのです。存在の苦しみを真に理解した仏教徒は、智慧を育てるために、瞑想に励みます。そして、心身に生じてくる現象を観察し、智慧が現れたとき、生きることがシンプルで、幸せなものになるでしょう。

人は、自分の心身を観察する方法を学ぶべきです。それは、私たち自身が実践し、他の人々にも奨励し指導している「ヴィパッサナー」と呼ばれるものです。これは、善い人生を生きるための最も簡単でかつ効果的な方法です。実践のときは、自分の身体と心の動きを観察すること以外、どんな方法もいっしょにおこなってはいけません。実践することによって、私たちは初めて真に生きることができます。普通、私たちは人生をしっかり生きていないのです。心はいつも暴れ回り、迷いのなかにいます。必要なときはもちろん考えなければなりませんが、ほとんどの時間、心は無意味にさまよい、そのために心は疲れ切っています。自分の心の舵をしっかりと握りたければ、ヴィパッサナーを学び、実践してください。遅かれ早かれ、自分の心をコントロールできるようになるでしょう。(了)

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WHAT DOES A BUDDHIST DO ? 
Dhamma talk by Ashin Kelasa,
Mahagandhayon, Myammer
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Japanese translation by Yoshiko Demura








   
生きとし生けるものが幸せでありますように
Translated by Yoshiko Demura