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Buddhist Reflections on Death by V.F.Gunaratna


 
多くの人は「死」について人と話したり、考えたりすることを極力避けています。死は恐ろしいもので、重苦しく、まるで最大の「禁止用語」のひとつのように考えています。人は皆、それぞれが 『自分』 という小さな穀に閉じこもり、その中で 『自分』 の感覚を喜ばせるために、限りなく刺激や楽しみを追い求めています。しかし、喜びや刺激の対象はやがて消えてしまいます。しかし、我々は「消える」というとを真剣に考えようとしません。

 死はもうそこまで来ているのですから、欲に溺れているのではなく、死についてもっと真剣に考えてみてはいかがでしょうか。大切な両親や妻、子供など、身近かな人が突然死んでしまったときには、愛するものを失った悲しみで心に強いショックを受けるでしょう。そして欲の虜になっていた愚かな自分の生き方に初めて気づき、人生の最も厳しい現実である『死』に目覚めるのです。そして、ようやく目が開かれ、「人はなぜ死ぬのだろう。死から逃れることはできないのか。人生の楽しみを奪い取ってしまう苦しい死が、なぜ起こるのだろう」などと自分自身に問いかけはじめるのです。

 死の光景に直面したとき、多くの人の心にはたいてい深い疑問が生じてくるものです。「今まで活発的に、エネルギッシュに行動してきた身体が、今では冷たくなり、感覚もなくなって、息も途絶え、死体となって横たわっている。生きる価値とは何なのか。かつては喜びで目を輝かせていたのに、今は二度とその目が開くことはない。すべての動きを失ってしまった。人間はいったい何のために生きているのだろうか。死は、生きることをすっかり奪い去ってしまった」と考え始めるのです。もし忠実にこの探究を続けていくなら、最終的には真理を発見し、人間本来の可能性が開かれるでしょう。

 さて、ふつうの人々が触れようとしない死の問題について、仏教ではどのような見方をしているのでしょうか。
 実は、死こそが、人生の謎である「何のために生きるのか」という問題を解く鍵なのです。「死」を理解できれば、「生」を理解できるのです。広い視点から見ると、「死」は、「生」という過程の一部なのです。また別の視点から見れば、生と死は、ひとつのプロセスの裏と表とも言えるでしょう。もしプロセスの一面(死)を理解できれば、もう一面(生)もまた理解できるのです。このように「死」を理解することは、同時に『生きる』意味を理解することになるのです。

 やがて必ず自分にやってくる『死』を見つめ、深く向き合い、熟考すれば、死ぬ運命にある世界のすべての人のあいだの差別、つまり人種・信条・カーストの壁はなくなるでしょう。そして慈しみと哀れみのきずなで結ばれ、頑なな心は和らいでゆくでしょう。『死』は偉大なる平等主義者です。生まれ、地位、富、権力などの差別は、死の前ではすべてうち砕かれ、焼き尽くされてしまいます。どんなものも、決して死に勝つことはできません。
 「死の平等性」を表す詩をご紹介いたしましょう。
  
  王笏や王冠も朽ち果てる
  鎌や鋤も朽ち果てる   
  そこには何の違いもない
  (王様も百姓も、最後には死ぬ。何の違いもない)

 死を深く自覚していくと、生に対する姿勢は、どのように変わっていくのでしょうか。
 快楽に溺れることがなくなり、自己中心性が打ち砕かれ、間違いだらけの価値観は、調和のとれた健全な思考に変化し、目的もなくあちこちとさまよっている散漫な心は、明確な方向づけと、落ち着きのある強い精神へと変わっていくのです。
 お釈迦さまは弟子たちに「死の瞑想」(marananussati bhavana)を強くすすめられました。死の瞑想を修習したい人は、ある一定の時間を決めるか、あるいは特定の時間は決めずに日常の生活の中でいつでも 「死が訪れる」と心で念じます(maranam bhavissati) 。清浄道論(Visuddhi Magga) には、死は、最も基本的な瞑想対象のひとつであると論じられています。悟りに至るためには正しく瞑想しなければなりません。すなわち、気づき(sati ) ・緊迫感(samvega) ・理解(nana) をもって実践することです。 たとえば、多くの若者たちは「どんな瞬間にも死ぬ可能性がある」という事実に鋭く気づくことができず、「死は遠い将来、自分が老いてから訪れるものだ」と考えています。このような考えは、あまりにも明晰さに欠けています。悟りを得ることもできませんし、何の役にも立ちません。輪廻転生が延々と続くだけなのです。

 死を深く考察することは、どれほど重要で、有益なことでしょうか。
 清浄道論に、その徳が記されています。

「死の瞑想に専心している弟子たちは、いつどこでも気づきがあり、いかなる形の喜びをも得ようとはしません。来世を渇望することもありません。悪行為を避け、日常生活の諸々のことに対する執着から離れています。どんなときでも無常を理解し、存在の本質である虚しさと、魂や我などといった実体はない、という真理を理解します。さらに、死ぬ瞬間が来たときには、少しも怯えることなく、気づきと意識をしっかり保っていられます。たとえ今生で涅槃に至ることができなくても、身体が壊れたときには、幸福な次元に生まれ変わることができます」

 このように、日々の生活の中で死を観察することは、心を清らかにするだけではなく、死ぬことへの恐怖や怯えも取り除いてくれるのです。さらに最後の息を吐く瞬間には、毅然として、穏やかに、落ち着いて、死に直面することができるのです。死を念じることで、落ち込んだり、気力を失ってしまうことは決してありません。いつ死が来てもいいように死ぬ準備をして、待ち受けている状態なのです。 そのような人こそ、 「汝(死)の苦しみはどこにあるのか」 と心から発することができる人なのです。

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 お釈迦さまは、増支部経典(Anguttara Nikaya) で次のように説かれています。
 「比丘たちよ、10の思考があります。これらを成長させ、成熟させれば、良い結果が得られ、涅槃に至るための偉大な徳が得られ、最終的に涅槃に至ります」と。
 これら10の思考のひとつに「死」があるのです。死・老い・病気などの普遍的な苦しみを考察することは、探究や瞑想を通して最終的に真理に至る長い道のりの、明確でわかりやすい出発点になります。 まさに、これがお釈迦さまに起こったできごとです。老人、病人、死人の光景が、優雅な宮廷生活を営んでいたシッダッタ王子に、妻、子供、家、国の後継の地位を放棄させ、生老病死を解決する道へと向かわせたのです。最終的には、存在の苦しみをすべて克服し、この上ない幸福である涅槃に至り、正自覚者仏陀としての栄光に輝いたのでした。

 ふつうの人は、「死」に注意を向けることをいちじるしく嫌います。死の話題が持ちだされるといつも嫌悪し、顔を背け、追い払いたくなるのです。それは、人間の心の弱さ、たとえば恐怖や渇愛やわがままなどのせいですが、その根底にはいつでも無知(avijja)が働いています。
 「死を認めたくない」という感情は、病気にもかかわらず検査を受けることを嫌がっている患者の心の状態に似ています。私たちは本気で「死」という現実に直面する価値を学ぶべきです。真理の中にしか、安らぎはないのです。心を向上させるために必要な方法を講じて死に直面すれば、すぐに安らぎを経験するでしょう。
 「知らぬが仏」という諺がありますが、これは仏教にはあてはまりません。死を無視して生きることは、愚か者の楽園で生きることなのです。清浄道論には次のように記されています。
 「怠ることなく常に死を念じている賢者は平安である」

 さて、これまで、死を念じることはいかに有益であるか、ということを見てきました。 さらに死の考察を続けていきましょう。
  まず最初に、「生命はなぜ死ぬのか、死の原因は何か」という疑問がありますが、これを生理学者にきいてみましょう。生理学者らは「身体の機能が停止するから」と答えます。
 では「なぜ身体の機能が停止するのか」とたずねてみると、「心臓の鼓動が停止するから」と答えます。病気は、その進行を止めないかぎり、身体の臓器や各部分を徐々に悪化させ、やがて破壊させる。それゆえ、身体中に血液を循環させている心臓に過度の負担がかかる。結論として、心臓が停止するのは病気が原因である」と言います。
 では、「なぜ病気になるのか」と聞いてみると、「身体機能に異常が起こったり、不規則な生活をしたり、事故に遭ったりするせいである」と答えます。それらが原因で、身体の一部、あるいは全体に健康を損ね、病気になるのだと言います。
 さらに「なぜ身体に病原菌が入ったり、生活が不規則になったり、事故に遭うのですか」と聞いてみると、生理学者らは「それについてはわかりません」と言うのです。生理学者は、この段階において死の原因を説明することができません。なぜなら、問題が生理学の領域を超えて、道徳の領域に入るからです。

 ある2人の人が伝染病にかかりました。ひとりは抵抗力が強いのに死んでしまい、もうひとりは抵抗力が弱いのに助かりました。なぜこのような差が生まれるのでしょうか?
 また、3人で滑りやすい廊下を歩いていました。ひとりは滑って転び、頭を打って死にました。ひとりは滑りましたが、小さなケガですみました。もうひとりは滑ることもしませんでした。3人とも同じ廊下を歩いていたのに、なぜこのような違いが生じるのでしょうか?
 身体のみを研究している生理学者から、その答えを期待することはできません。また、人間の心理だけを研究している心理学者からも何ら満足のいく答えは期待できないのです。この問題は、生理学や心理学の範囲をはるかに超えて探究しなければならないものなのです。

 この理解しがたい違いを、納得のゆくように説明しているのが、仏教における 「業の法則」 です。これは 「因果法則」 や 「行為と結果の法則」 とも呼ばれています。この業の法則こそが、我々の探究にもっとも的確に応えうるものなのです。
 伝染病に感染したとき、死ぬ人もいれば死なない人もいるのはなぜか。3人で同じ廊下を歩いているとき、3人3様それぞれが異なった結果を経験するのはなぜか。これらすべてのことを決定しているのが、業なのです。業の法則は、厳密な会計士のようなものです。それぞれの人が現在得ている喜びや苦痛は、過去にそれぞれがおこなった善悪の行為に相応する結果です。それより多くも少なくもありません。また未来の幸福や不幸も、それぞれの人がおこなう善悪の行為によって、自分がつくりだしているのです。

  生命は業を所有し、
  業を母胎として生まれ、
  業に固く結びつけられ、
  業に依存し、
  善悪の業をつくってそれを相続する
        増支部経典
(Anguttara Nikaya)

 さまざまな行為から、さまざまな結果が生まれます。ですから、生きているときの行為や条件にしたがって、死因も異なってきます。どんな行為や原因にも、それにふさわしい結果があるのです。これが確固たる真理です。

 業の法則とは、「行為には必ずそれに値する結果を受ける」という確固たる秩序のことです。外部の支配者や組織などが法則を決めているわけではありません。
 また、自然も、法則によって成り立っています。マンゴーの実が木から地面に落ちるのは、神々などの外部の力がそうすることを命じているのではなく、地球の引力やマンゴーの重力が原因なのです。自然界にも一定の秩序が働いています。同様に、我々の日常の行為にも原因と結果の法則、または行為と結果の法則が必然的に働いています。この法則は、外部の独断的な力に依存しているのではなく、「ある行為が、ある結果を生み出す」という普遍的な真理なのです。

 人間の「生と死」についてはどうでしょうか。これも根拠のない外部の力で決定づけられているものではありません。木が成長し、やがて枯れることと同様に、法則に基づいているものなのです。「偶然」でもありません。
 あらゆる現象は、それ以前に自らがおこなった行為や条件の結果なのです。偶然が「生と死」を支配していることはありえません。私たちは原因がわからないときに「偶然」という言葉を使うのです。因果法則を発見することは「死」を理解することを助けてくれるのです。


 「外部の存在が、生命の業を形成しているのではない」ということがおわかりになったでしょう。
 業とは、自らの行為と結果のことです。
 'Yadisam vapate bijam tadisam harate phalam.'  「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなくてはならない」のです。
 また業とは、過去という密閉された箱から出てくるものではなく、いつでもつくりだされているものです。人生は因果法則によって成り立っており、私たちは瞬間瞬間、業を担って生きています。ですから、未来は、すべてが過去の行為の結果からつくりだされているのではなく、今の瞬間もまた未来の原因と条件をつくりだしているのです。

 もし、あなたが死を恐れているなら、良き未来を確保するために、今という時を賢く使ったほうがよいでしょう。死にたいする恐れ、怒りや怠けなどの悪い感情が、未来の幸福を妨げています。
 人々のなかには、道徳を守り、他の生命を害することなく、自分にできることで他人の役に立ち、いつも法を思い起こし、法に従って生きている人もいます。このような人たちは、疑うことなく幸福な未来のために励んでいる人たちす。 'Dhammo have rakkhati dhamma carim'  「法に従って生きる者は、確実に法に守られます」
 また、死を観察することは、法に従うことを助けてくれます。法に守られている人々は死を恐れることがありません。また死が訪れたときも、落ち着いてその現象に直面することができるでしょう。

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 次に、「形成(sankhara・サンカーラ)の法則」という観点から、「死」にアプローチしてみましょう。
 『形成の法則』とは何でしょうか? 
 これは、『あらゆるものはいくつかの要素の集合によって形成されている。独立して存在する実体はない』という意味です。

 まず、パーリ語のsankharaという言葉を分析してみましょう。sanは、「互いに、同時に、まとめて」という意味、khaは「構成する、組み立てる」という意味で、この2つの語を合わせて、「同時に組み合わさって形成された」や「互いに集まって構成された」という意味になります。
 「この世のすべてのものは、組み合わさって成り立っている」と、お釈迦さまはおっしゃいました。大きなものも、小さなものも、巨大な山も、小さなからしの種も、太陽も、月も、砂の粒子も、あらゆるものは、多くの異なる要素が結びついて形成されているのです。他に依存することなく、それ自体で完全なもの、常住不変なものは何ひとつありません。

 しかし、ものごとには、実体があるように見えます。
 なぜでしょうか。
 それは、私たちの「感覚」が原因なのです。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考えるという6つの感覚が、「ものごとには実体がある」という誤った見方を生み出しているのです。最近では科学者たちも、「感覚」は信頼できない暖味なものであることを認めました。永遠不滅な存在というものは単なる概念や言葉にすぎません。実際には存在しないのです。

ここに、「形成の法則」について、ナーガセーナ尊者 (Thera Nagasena) とミリンダ王 (King Milinda) との有名な対話があります。ナーガセーナ尊者は、ミリンダ王が、討論する場所までどのように来たのか、歩いてか、それとも乗り物でか、と問いかけます。ミリンダ王は車でやって来たと応えました。

 尊者 「大王よ、あなたは車でやって来たと言いましたが、何が車であるかを私に告げてください。長柄が車なのですか?」
 大王 「そうではありません」
 尊者 「車軸が車なのですか?」
 大王 「そうではありません」
 尊者 「車体が車なのですか?」
 大王 「いいえ、そうではありません」
 尊者 「くびきが車なのですか?」
 大王 「いいえ、ちがいます」
 尊者 「車輪が車なのですか?」
 大王 「いいえ、そうではありません」
 尊者 「車棒が車なのですか?」
 大王 「いいえ、そうではありません」
 尊者 「大王よ、いったい車はどこにあるのですか? ここにあるのはあなたがこの場所までやって来た車ではないですか? あなたは全インドの大王にもかかわらず『車は存在しない』と嘘を語ったのではないでしょうか」

大王はこのように答えました。「ナーガセーナ尊者、私は嘘など語っておりません。長柄、車軸、車輪、車棒などの部品によって「車」という言葉や名前が起こるのです」。

車とは、部分の集合に貼られたラベルにすぎません。このようにバラバラに解体したり、分析することで、「車はいくつかの部分が集まって形成されたものであり、実体として存在するものではない」ということを、尊者は大王に納得させたのでした。

同様に、『人』や『私』というのも、実際に固定して存在するものではなく、単なる名前や言葉、ラベルにすぎません。究極的には、ただ単に変化し続けるエネルギーしかないのです。サンカーラ(Sankhara)は、物体・身体(rupa)だけではなく、心(nama)にもあてはまるのであり、心もまた身体と同じく、形成されたものなのです。
 
「意識を組み合わせたものが心である」と言うとき、車のさまざまな部品と同じように、いくつかの意識が同時に存在するという意味ではありません。意識の連続性―止まることなく連続し続けている意識とはどういう意味でしょうか。今の瞬間、憎しみが生まれ、次の瞬間には悲しみが生まれ、また次の瞬間には義務感が生まれ、それから次の瞬間にはまた憎しみが生まれ――そうやって隙間なく次から次へと続いていくのです。どの心も生じ、瞬間的に留まり、消えてゆきます。存在には、3つの段階があるのです。パーリ語でuppada, thiti, bhanga と言い、「生じ、留まり、滅する」という意味です。今の心が生まれて滅するとすぐ、次の瞬間には別の心が生まれて滅します。この、目まぐるしい勢いで絶えることなく生滅する連続性を見て、私たちは、あたかも「心」とよばれる実体が存在するかのような錯覚を抱くのです。でも実際には連続的な流れがあるだけで、固定した永続的な心など、どこにもありません。

この急速な心の連鎖は、よく川の流れ(nadi soto viya)にたとえられます。刻々と流れている川の水は、まるで「川」という実体があるかのように見えます。しかしこれは錯覚にすぎないのです。同様に「心」として固定的に永遠に存在しているものはありません。心とは単なる意識の流れであり、生まれて滅する意識の流れなのです。


ひとつ例をあげますと、ある朝、川を渡り、その日の夕方、再び同じ川を渡ったとしましょう。夕方渡った川は、朝渡った川と同じでしょうか? 朝の川の流れと、夕方の川の流れは同じものですか、違うものですか。2つのうちどちらかだけが「川」なのですか、あるいは「朝の川」と「夕方の川」という2つの川が別々に存在するのでしょうか。もし昼にもその川を渡ったとすれば、「昼の川」という別のものが存在するのでしょうか。

このことをご自身でよく考えてみてください。時間ごと、瞬間ごとに、川の水はまったく違うものに変化しているのではないでしょうか。 「川」という変化しない実体はあるのでしょうか? 川岸や川底のことでしょうか? 結局は、「これが川です」と言うことのできる実体はないのです。「川」は、名前として存在するにすぎません。絶え間ない水の流れにつけられた、便宜的に世間で決まっている単なる名前なのです。(vohara vacana). 心も、まさに川の流れと同じで、一瞬たりとも止まることなく変化し続ける流れのことです。すぐに過ぎ去っていく心の流れの、ある瞬間をとって「これが私の心です。永遠の心です」と指し示すことができるでしょうか? たとえばある人に対して「怒り」の心が生まれました。この怒りは永遠に変化しないのでしょうか? しばらくすると同じ人に対して「慈しみ」が生じることもあります。もしこの慈しみも永遠なものだというならば、互いに対立する2つの心が、同時に実在するということでしょうか。

この事実を探究していくと、「心という実体はない」という結論が、自ずと導きだされるでしょう。心とは、猛烈なスピードで次から次へと生滅し多様に変化する流れに対して、便宜的につけられた名前にすぎないのです。「心」は実体として存在しません。連続して流れ続ける意識につけられた名前のことです。車も、川も、身体も、心も、すべてのものは組み合わさって成り立っています。それ自身の力で独立して存在するもの、永遠なるもの、変化しないもの、魂はどこにもないのです。
このように「身体」とは、変化しつづける諸要素の集合に貼られたラベルであり、同様に「心」も、その生滅変化の連続性につけられたラベルのことなのです。ですから、心と身体の集合体である「人間」というのも、実体として存在はしないのです。これもまた、単なる名前だけの存在なのです。また「車が動く」とか「人が歩く」という場合も、ただ適当な言葉を用いているにすぎず、究極的には「動く」とか「歩く」という行為だけがあるのです。
 
「業の行為者は存在しない。行為だけがある。
結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。
構成要素のみが生起し続ける。
これが真理であり、正見である」
(清浄道論 Visuddhi Magga)

さて、この冷酷で過酷な心と身体の分析は、「死」とどのような関連があるのでしょうか? それは「業の主体者は存在しない。ただプロセスだけがある。行為者は存在しない。行為だけがある」ということが真理であるがゆえに、「死ぬ主体者は存在しない。ただ死というプロセスだけがある」という結論に至るのです。動くことはプロセスであり、歩くことはプロセスであり、死ぬこともプロセスなのです。動くことや歩くこと操っている実体(主体者)が存在しないように、死を操っている実体(主体者)は存在しないのです。

この超越した見方を少しずつ育てることによって、ものごとに対する執着や、「行為の主体者として‘私’が存在する」という無知が、除々に減ってゆきます。このことを理解するのは難しいかもしれません。しかし少しずつ、「すべての存在はプロセスのみで成り立っている」ということが理解できるようになるでしょう。この見解は、邪見を破り、目覚めるための重要な「理解・智慧」のひとつであり、光り輝くものであり、悟りであり、真理なのです。真理が現れると同時に、死に対する恐れや不安が消滅します。これは論理的なシークエンスであり、光が現れると暗闇は自ずと消えます。このように、智慧の光が恐れや不安など無明の闇を根本から取り除くのです。このことを理解し、悟ることによって、あらゆる恐怖や悩みが消えてなくなるのです。

言葉で言うことは非常に簡単です。困難なのは、これを理解することです。なぜ困難なのでしょうか。それは、私たちの心が型にはまった考え方に慣れ親しみ、自分の考えが間違っていることに気づかず、真理の探究においても間違った目標を定め、間違った道をたどることが習慣になっているからです。それゆえ、新しい道を切り開こうとしないのです。正見(正しい見解) sammaditthi を得ることを拒否しているのは、自分自身なのです。

「‘私’と‘行為’は同一のものである」と考える頑固な習慣は、あらゆる思考や行動の背後に、かすかに「我が存在する」という誤解を生みだす温床となっています。この邪見は、私たちを間違った方向へ導く第一の迷惑者なのです。「‘私’という感覚は単純明瞭な意識の流れにほかならず、それは常に変化し、一度生滅した意識が再び現れることは決してない」ということを私たちは理解していません。ジェームス教授(Professor James)はこのように述べています。「思考そのものが、思考者である」

私たちは無明で覆われているため、我(自我意識)というものが、微妙で捕らえがたい「魂」だと思い込み、それに固くしがみついています。しかしそれは対象に対する心の反応にすぎません。歩いているとき、歩くというプロセスだけがあり、それ以外は何もないということに気づかずに、歩くことを指示している何か(実体)が私の中にあると間違って考えています。また、考えるとき、考えさせている何か(実体)があると間違って考えています。それは単なる思考の流れであり、それ以外の何ものでもないということに気づいていないのです。



大念住経(Satipatthana sutta)には、邪見(miccha ditthi)を正すための深遠な瞑想実践法が記されています。お釈迦さまは幾度も忠告されました。「この方法に従い、実践するなら、それぞれがしがみついている邪見を取り除き、ものごとの本来の在り方を明らかに知る智慧を育てることができます」。智慧によってのみ、「死ぬ者という実体はない。生きることがプロセスであるのと同様に、死もプロセスにすぎない」ということに目覚めることができるのです。

これらのことを繰り返し考察し、訓練するなら、「身体と心は‘私’である」という根深く頑固な習慣を少しずつ手放していくことができるでしょう。そしてしだいに 「これは私ではない」「私のものではない」 という無我 (anatta, this does not belong to me) の考察をするようになるのです。この「私」という錯覚を抱くのをやめるとき、これまで固く握りしめてきた「愛しいエゴ、 つまり'私'」 というものに対する執着がだんだん減っていき、悟りに達するのです。それで明るく、恐れなく、勇気と落ちつきをもって死に直面できるのです。



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これまで私たちは、「業の法則」(the great law of Kamma)と「形成の法則」(the great law of Aggregates, Sankhara)を考察すれば、死に対する正しい見方を得、正しい態度で死に直面できるようになる、ということを見てきました。

さて、3つ目の偉大なる法則は、「無常」anicca です。無常の法則は、四聖諦の第1番目の真理「苦の真理」dukkha の背後にあります。この世界のすべてのものは変化し、永続しないがゆえ、この世の中に苦しみや不満があるのです。

無常の法則は「すべての形成されたものは無常である」(Anicca vata sankhara)という有名な言葉で示されています。この世の中に、変化しないものはありません。時間は、私たちの好き嫌いにかかわらず、途切れることなく常に流れています。世界は絶えず変化し、私たちの心と身体も、一瞬一瞬変わり続けているのです。私たちは常に変化し続けているのです。

この世のいかなるものも、絶え間ない時間の流れを止めることはできませんし、時間を乗り越えることはできません。どこにも安定しているものはないのです。無常が世界を支配しています。それゆえ心も身体もすべてのものは一時的であり、変化するものなのです。変化は素早いものです。知覚できるものもありますし、知覚できないものもあります。私たちは絶えず変化している世界で生きているのです。

すでに見てきましたが、サンカーラ(sankhara)とは、いくつかの機能が組み合わさって成り立っているものです。これらの機能も、無常の法則に支配されています。サンカーラ(sankhara)は、単にいくつかの機能が組み合わさったものというだけではありません。変化しているのです。合成されたものが変化しているのです。

無常だから成長し、無常だから衰えます。無常だから成長したものは衰えるのです。なぜ咲いた花は萎むのでしょうか? 無常の性質が働いているからです。元気な若者が弱く年老いていくのも無常の法則が働いているからです。

このように「壊れていくプロセス」が、無常の法則の側面なのです。空に向かってそびえたつ大きなビルも、やがてがたがたと崩壊するのも無常の法則が働いているからです。崩壊のプロセスにあること、これが無常の法則なのです。鉄は錆びますし、色は褪せてゆきます。

「無常の法則」は、いつでもはっきり現れているとは限りません。岩山のような揺ぎなくどっしりしているようなものは、一見、変化していないように見えますが、けっして一定の状態に留まっていないのです。徐々に消耗し、何千年か後には消えると、科学者たちは言っています。今、湖のあるところには、かつて山がありました。

お釈迦さまは「生じたものは滅びる」 Uppajjitva nirujjhanti と説かれています。

何十億年もむかし、地球と月は1つでした。今日、地球は温かくて活気がありますが、月は冷たく、活気がありません。しかし科学者によると、地球も非常にゆっくりですが、確実に熱と水を失いつつあると言っています。徐々にゆっくり破壊しつつあるのです。ですから、数十億年後には、地球は生命を養うことができなくなるでしょう。冷たく、生命が存在しない惑星になり、第2の月のようになるでしょう。この例は一例ですが、たとえ私たちの目には知覚できなくても「無常の法則」は働いているのです。地球は消滅するということを、お釈迦さまも予測されています。

無常の法則は、衰退と崩壊をもたらしますが、同様に、成長と進歩ももたらします。種は草木、樹木へと成長し、つぼみがふくらみ、花が咲きます。しかし「成長」はけっして持続するものではありません。結局、破壊するのです。育った植物は必ず朽ち果てますし、開いた花は必ず萎れます。これが生と死、形成と分解、生起と消滅の終わりなき循環なのです。

シェリー(Shelley)はこのことを適切に言い表しています。
「世界は創造から崩壊へと巡っている。川の泡のように、輝き、そして破裂する」

無常の性質である進行(成長)や退行(衰退)をコントロールしている「支配者」という権威者は存在しません。無常の性質は、すべてのものに本質的に備わっているのです。無常の法則とは、単に「ものごとは変化する」というだけではなく、「ものごとの本質である」とも言っています。何を見ても無常が見られるのです。

お釈迦さまは、生命は心と身体から成り立っているということを示され、生命を五蘊(Pancakkhandha)に分解しました。さらに踏み込んで、五蘊がなぜ一時的なものなのか、なぜいずればらばらに分解するのか、なぜ分解することによってまた新しい合成体が生じるのか、ということを説明しました。

すべてのものは、生、住、滅(Uppasa, thiti, bhanga)という3つの性質で働いています。同様に、思考も生、住、滅の3段階があるのです。
また、物質世界を四大要素(地水火風)に分析し、その各要素も無常の法則に支配されていることを示されました。さらには、同じ四大要素でつくられている人間の肉体も、当然、無常の法則に支配されていることを示されました。

お釈迦さまはこのように仰いました。「この一尋(約1.8m)の身体は何でしょうか。ここに‘私’とか‘私のもの’と指摘できるものはあるでしょうか。そんなものは微塵もありません」

無常の法則を理解すればするほど、自分の生き方 (考え方、話し方、行動の仕方) を、無常の法則に基づいて調整することができるようになり、無常の法則から益を得ることができるでしょう。また、無常の法則の微妙な働きを理解する人は、目的をもって行動することにより、心(nama)を改善することができるということも理解するでしょう。いかに悪に深くかかわっていても、悪い心も変化(改善)するということが分かりますから、悪は永遠に固定されたものではないと理解できるのです。

そして「何が善か」ということを絶えず考察することによって、心に善が生まれるということも理解します。常に善いことを考えることによって、善い性質が心に生じます。この善い性質は、悪い性質を取り除くのです。

思考や心が善い方向に変わってゆくとき、また心が善で満たされるとき、言葉と行動は、自動的に善い方向に変わってゆきます。道徳(sila)が清浄なるにつれ、集中力(samadhi)もだんだん深くなっていきます。

集中力が深まれば、最も高いレベルである智慧(panna)に到達するペースが早まります。このようにして、悪は善に変わってゆくのです。悪人が善人に変わるのです。目的を持って行動することにより、「無常の法則」は最高の利益をもたらし、真の意味で善良な人間になるのです。善良な人はいつでも幸福です。死後の世界のことを恐れることがありませんから、死に対する恐怖もないのです。

 善行為をする人は
 今生で喜び
 来世で喜び
 両方で喜ぶ 〔Dh16〕

今生で心を善い方向へ改善した人は、死の瞬間に幸福の次元に生まれ変わることを希望すれば、確実に「幸福な生命」に生まれ変わることができます。

さらに、瞬間瞬間、自分の体と心の無常を確認し、また他人の体と心の無常を確認することによって、無常を真に理解し始めるのです。「死」をよく考察する人に、恐れは生じません。死が訪れても、穏やかに落ちついて、死に直面することができるのです。



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「死」について学ぶことのできる別のアプローチがあります。それは「因縁の法則」(縁起の法則)であり、これは無常の法則とよく似ています。因縁の法則は、いくつかの機能が組み合わさって条件づけられ、成り立っています。そして、これらの機能が生起しないとき、条件づけられて現れるものの生起も起こらないのです。これが「因縁の法則」であり、次のようにあらわされています。

 これがあるとき、かれがある
 これが生じるとき、かれが生じる
 これがないとき、かれがない
 これが滅するとき、かれが滅する

 Imasmim sati idam hoti:
 Imasuppada idam upajjati:,
 Imasmim asati idam na hoti:
 Imassa nirodha idam nirujjhati.

この原則は普遍的なものであり、生死のプロセスも、この原理のなかで働いています。存在は、因縁の法則 (paticca samuppada ) といわれる12の連鎖 (nidanas) から成り立っています。因縁の法則を理解することは、非常に重要なことです。お釈迦さまはアーナンダ尊者にこのように告げました。 「因縁の法を理解しないから、因縁の法に対する智慧がないから、生命は絡まった糸のように輪廻のなかでもがきつづけている」 (長部経典・マハーニッダーナスッタ Maha-nidana Sutta)


因縁の法則とは、次のとおりです。

 無明に縁って、行が生じる
 行に縁って、 識が生じる
 識に縁って、 名色が生じる
 名色に縁って、六処が生じる
 六処に縁って、触が生じる
 触に縁って、 受が生じる
 受に縁って、 渇愛が生じる
 渇愛によって、固執が生じる
 固執によって、有が生じる
 有に縁って、 生が生じる
 生に縁って、 老、死、憂愁、悲泣、苦しみ、悩み、落ち込みが現れる

この回転が無限に続いていくのです。

「愚か者は幾度も再生を求める。生まれるたびに、死もまた訪れる。このように人は死の苦しみを何度も経験する」

因縁の法則は、一見、簡単に見えますが、その真の意味を理解するためには、よく熟考する必要があります。ここでは「死」に関する誤った見解を取り除くために、12支の最初の項目である「無明」と、死と再生に関わる「行」と「識」について考えてみましょう。 

まず、12因縁は、単なる時間に従った因果の系列ではないということを理解する必要があります。諸要素は同時に生じるので、原因というよりも縁(条件)になるのです。24種の縁起の仕方があります。どれも、縁(paccaya dhamma)と、縁によって生じているもの(paccaya uppanna dhamma)の両方があり、その多くは相互に依存して同時に生じます。

まず「無明」(Avijja) を見てみましょう。無明は12縁起の最初の支ですが、存在の始源という意味ではありません。お釈迦さまはこのように説かれました。「比丘たちよ、存在の始源は知りえない。それは無始である」と。

また 、バートナー・ラッセル(Bertrand Russell) は、「この世界に始まりがあると考えるべきではない。そのように考えるのは思考が貧しいからである」と述べました。無明は、ものごとの起源ではなく、苦しみの起源なのです。12の支はどれも絶え間なく動き続けています。よく吟味するなら、この「無始(始まりが無い)」という真理を理解することができるでしょう。結局、「無明」とは、苦集滅道の真理、すなわち四聖諦について知らないことを指しています。無明は大変危険なものです。私たちは無明によって、世間の事象にただ振り回されているのです。無明が、生死の苦しみの回転を無限に引き起こしているのです。

2番目の支は「行」(Sankhara)です。これは意志を意味します。
「無明に縁って、行が生まれる」
お釈迦さまは、「四聖諦を理解すれば、ものごとをありのままに見ることができるようになる」とおっしゃいました。私たちは無明に妨げられているために、ものごとを正しく見ることができません。無明によって、さまざまな行為を引き起こしています。輪廻転生をする限りは、無明が、意志を引き起こす条件となるのです。因縁の注釈書には、「行」は業を意味するとされています。

12支のうち、最初の「無明」と「行」は過去に、続く8支は現在に、最後の2支は未来に属します。

3番目の支は、「識」(Vinnana) です。ここでは、結生識(patisandhi vinnana)を意味します。
「行に縁って、識が生まれる」

今の意識は、過去の善悪の業に条件づけられています。つまり、依存しているのです。今の生は過去と連結して成り立っている(再生)という意味で、ここは非常に重要なところです。どのようにして過去の行為が、現在の誕生の条件になるのでしょうか。物質科学の分野では、その原因を今生だけに限って探求していますし、生物学者は、父と母の結合が誕生の因縁であると言います。お釈迦さまは、そのどちらも不適切であると言われました。人間は「心と身体の集合体」であり、心の働きを無視して、身体の機能(精子と卵子)だけから生命が誕生することは非論理的であるとおっしゃいました。ですから身体の機能のほかに、「識」という要素が必要なのです。たとえば、ろうそくの芯と油だけでは炎は生じません。たとえ多量の油に芯を浸しても、燃えやすい芯を使っても、炎は出ません。芯と油のほかに、外から炎をつける必要があるのです。

過去の業(行為)は、行為の質に基づいた適切な場所に再生するためのエネルギーを生成し、そのエネルギーが「識」を生み出します。このエネルギーが身体の法則と協同して、母子宮で胎児を形成します。ちょうど睡眠が身体機能の流れを妨げることがないように、死が生存作用の流れを妨げることはありません。死とは、「生きたい」という意志の力によって、別の領域に生まれ変わることです。死の瞬間に、業のエネルギーが終息することはありません。業が、新たな領域で生存するために形を生み出し、それに特性を与え、空間と名称を確保するのです。種は地面に蒔かれて植物になりますが、そうなるためには、種と土以外にも、光や空気、湿度など、目に見えないさまざまな要素が必要です。生命は、「生きていきたい」という意志の力が、次の世に生を結ぶ要素になるのです。


過去の業に縁って現在の「生」が生じていること、ある生存での「行」に縁って、次の生存の「識」が生じることについて何か疑問があるでしょうか?

もしあるなら、人間の行為と、その特質を静かに観察してください。行為とは、種々様々で、絶えることがないものです。では、いったい誰が、何が、行為させているのでしょうか?

生存欲から生じる無数の欲望が、行為を駆り立てているのです。「生きたい」という願望が、あらゆる行動の原動力になっているのです。食べる、稼ぐ、学ぶ、戦う、昇進する、憎む、愛する、企む、計画する、騙すなど、すべての行為は生き続けるためにおこなっているのです。矛盾しているようですが、自殺することでさえ、混乱や失望から解放されて「生きていきたい」という希望から生じているのです。私たちは、無始なる過去から、毎日、毎時、毎瞬と渇愛に駆られて行動しています。こうして蓄積された業が、次の世に生を結ぶための強烈な創造力になるのです。

「渇愛が生存をつくる」ということは理解しがたいかもしれません。どの瞬間にも、気づかぬ間に業を積み、潜在力が蓄積されているのです。この潜在力は、今生の身体が滅びた後、次に結生するための強力な縁になります。結局「生きたい」という渇愛が、新しい「生」を生起させているのです。

死ぬ瞬間の業は、その直後に、結生識を生み出します。それが新しい物質(精子と卵子)と結合して、次の「生」を生み出すのです。つまり結生識を主として、新しい名色(心と身体)nama-rupa が生起するのです。臨終直後には、このように過去の意業の果が現れるのです。科学者たちは「エネルギーは不滅であり、形を変えながら保持し続ける」と言っています。それでは何が生存から生存へと移転するのでしょうか? 業ですか、業の果ですか、識ですか?

いずれも答えは否です。どれも移転しません。業には計り知れない力があります。それが次の生存に影響を与え、新しい「生」を生み出すのです。このとき、距離は妨げになりません。

「識は生存から生存へと移転する」という誤った見解を持つサーティ比丘に、お釈迦さまはこのように説かれました。「愚か者よ、私は多くの根拠をもって、縁によって生じる識について説いてきたではありませんか。縁がなければ、識の生起はないと」(中部経典・大愛尽経)。 ウィリアム・クルックス卿(William Crooke)は、エディンバラ(Edinburgh) の精神科学の講義で、「意業に基づいて心は物質を作り出す。このことがすでに実験で証明されている」と言いました。心のエネルギーが別の次元に「生」をもたらします。このことを表現するために、便宜上「業が輪廻する」などの言葉を使用しているのです。お釈迦さまは「生存から生存へと移転(輪廻)するものは何もない」ことを示すため、多くの比喩を用いて説明されました。何かが輪廻するのではなく、前の縁が、次の縁に影響を与えるのです。膨大な業のエネルギーが、別の世界で形態を作り、識を生み出しているのです。

見落としてはならない重要な点があります。結生識は、誕生前の胎児だけに生じます。この時期、胎児は母体の一部であり、まだ外の世界と接触していません。そのため、意識は有分(bhavanga)の状態にあると考えられます。誕生後には、母体から分離して個別の存在となり、外の世界と接触します。この時はじめて、誕生前の有分心が、完全な意識作用(路心)vithi-cittaとして働くのです。

距離が因果の連続性を妨げることはありません。前にも述べましたが、お釈迦さまは、「識は生から生へと移転する」と言うサーティ比丘を厳しく戒めました。移転するのではなく、前の識が、結生識を生み出すのです。生まれてくる子供は、新しい両親の遺伝を継承します。しかしそれだけではありません。死ぬ前に自ら作った行為の印象を相続して生まれてくるのです。たとえば双生児は、同じ両親から生まれ、同じ環境で育ったにもかかわらず、それぞれ異なる性格を持っています。このことは遺伝だけで解明できるでしょうか?

これまで、いくつかの観点から「死」を考察してきましたが、そのどれもが「生」における重要な要素になります。死は壊れた電球のようなものです。電球が壊れると光は消えますが、電圧はかかったたままです。新しい電球を取り付ければ、また光が現れます。同様に、絶え間ない生の流れがあり、今の身体が壊れても、業の流れは止まりません。業は新しい物体の中で流れ続けていくのです。「類は類を呼ぶ」という法則に基づいて、過去の生き方、考え方、行為は、それに似た性質をもつ結生識を、即座に生み出します。死の直後には、自分がおこなった身口意の善業・不善業に相応する環境へ引き寄せられます。そして次の「生」が決まるのです。

瞬間瞬間、私たちは、自分の未来を形成しています。ですからどの瞬間も気をつけなければなりません。無数の過去と未来のことを考えれば、今の目先の現象に執着すべきではありません。将来、我が身に訪れる、無数の生と死のことを想像してみてください。限りない輪廻における「生と死」「生起と消滅」の繰り返しの中の、たった一度の死だけを恐れるべきではないでしょう。 


出村佳子 訳








   
生きとし生けるものが幸せでありますように
© yoshiko.demura