16章 「気づき」から得られるもの

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 16章 「気づき」から得られるもの




 どの瞬間も、その瞬間として、はっきり際立って見えますし、もはや「気づかない」ということはありません。ごまかすものもありませんし、当たり前だと軽く見るものもありません。また、単に平凡といわれるような経験もありません。すべてのものが輝き、特別のものとして見えるのです。


 このとき、私たちは経験していることを固定観念に入れることをやめます。説明することも解釈することもなく、瞬間瞬間、現象に語らせ、それに耳を澄ませます。言っていることをよく聞き、初めて聞くかのように聞くのです。瞑想が非常に力強くなってくると、これは継続してできるようになります。また、呼吸や心のあらゆる現象をあるがままに観察することができるようになります。そうすると、心はますます落ち着いてきて、瞬間瞬間あるがままのシンプルな経験のなかで心はますます「今に留まる」ようになるでしょう。


 思考や妄想がなくなると、気づきは鋭くなり、純粋になります。この純粋な気づきのなかで、心は明晰に目覚め、落ち着いてくるのです。この状態を言葉で適確に言い表すことはできません。言葉は十分なものではないからです。自ら実践して体験することでのみ、真に理解することができるのです。


 呼吸はただの呼吸ではなくなります。これまでは、呼吸を静的で平凡なものとして見ていましたが、今は単調でつまらない「吸う・吐く、吸う・吐く……」の繰り返しとして見ません。呼吸は「生きること」そのものになり、絶えず変化し続け、生き生きと活動している、非常に面白いものになるのです。呼吸を、時間のプロセスのなかで起こるものとして見るのではなく、「今の瞬間」のみの現象としてして一瞬一瞬気づきます。時間というものは、実は単なる概念であって、経験に基づいた事実ではないのです。


 このときの気づきは、余計なことをすべて取り去った純粋で基本的な気づきです。生き生きとした「今」の流れに基づいており、はっきりとした現実感があります。私たちは「常に変化すること(無常)が真理である」ことを確信し、また、これまでのどんな経験よりも「無常が真理である」と分かるでしょう。一度、絶対的な確信をもってこのことを認識したなら、今後経験するすべてのことを、新しい視点や新しい判断基準をもって認識できるようになるのです。


 無常の真理を明確に理解し、その後、もろもろの現象をあるがままに観察しているとき、「煩悩が気づきを妨げている」ということを、はっきり見ることができるでしょう。自分の妄想や古いイメージ、主観、意見などで、事実をねじ曲げて見ていることが分かるのです。また、自分が何をやっているか、いつそれをやっているか、ということを見ることができます。気づきはますます鋭くなり、事実に気づいていないときには、その「気づいていない」ことにも気づくようになるのです。


 私たちは、あるがままの現象に何かを付け加えることも何かを差し引くこともない、単純で客観的な見方に、おのずと引き付けられていきます。そして、観察力が非常に鋭くなるのです。この客観的な新しい視点からは、あらゆるものが明晰に見えます。心と身体の無数の行為が、具体的に、はっきりと際立って見えるのです。呼吸が絶え間なく生じ、滅していること、身体の感覚や行為が絶えず流れていること、思考や感情が急速に流れ続けていることを、次々にキャッチして観察し続けます。そして一定のリズムに乗って流れている時間の律動的な動きを感じるのです。


 この終わりのない流れのなかに「観察する人」はいません。ただ「観察する行為」のみがあるだけなのです。











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 生きとし生けるものが幸せでありますように
  Translated by Yoshiko Demura